セオデンが率いる王の軍は、持てる限りの力で草原の道をひた走った。
も初めは王と旅人たちからなる先頭集団の間にいたが、徐々に速度を落として後方に流れてしまった。
見かねたエオメルが自分と一緒に乗るように言ったが、は断った。
しんがりになろうと、必ずついて行くからこのままブレードに乗せてほしい、と。
なぜなら今は馬たちですら、必要以上に疲れさせる訳にはいかないのだから。
自分とブレードは避難しに行くだけだから、全力を出しても大丈夫。
だけど、他の皆は馬一頭といえど、そうではない、と。
そこまで言われてはエオメルも引き下がらざるを得なかった。
そこで彼は後方に駆けて行き、が遅れすぎた時にはすぐに自分に知らせるよう伝えると、そのまま先頭に戻って行った。










絶望の先へと










日が暮れて数時間たった頃、ようやく彼らは止まった。
今日はここで野営をし、朝日が昇るころにまた進軍を開始することになったのだ。
斥候が送られ、騎馬の見張りは野営場所を丸く取り囲んでいる取り巻いている。
それぞれが配置についた頃、ようやく王たちの元へが到着した。
「大丈夫か、…」
少女の疲労困憊ぶりに、火の足の世話をしていたエオメルは作業を中止して駆け寄った。
はぐったりとブレードの首に身をもたせ、ようやく跨っているような状態なのだ。
何しろ、もブレードも、このような行軍をするにはどちらも体力が足りないのである。
よくここまで持ったとエオメルは思った。
「なんだか…頭が痛いです」
搾り出すようには口を動かす。
エオメルは少女の身体を抱き取って地面に下ろした。
だが、の足には力が入らず、ずるずると崩れ落ちてしまう。
「ああ…。多分、長時間走り続けていたから頭に血が回らなくなってきたんだろう。ブレードの世話は私がやるから、お前は休んでるんだ」
そう言ってエオメルは手近にいた兵士にの荷物を下ろさせると、セオデンと旅人たちがいる辺りに彼女を運んだ。
ゆっくりと草地の上に少女の身体を横たえる。
は身体を起こしておくだけの気力もなかったのだ。
エオメルは屈めていた身を起こす前に、少女の頬にかかっていた髪を払った。
癖の無い細い髪は、しっかり編まれてはいたものの、風圧でほつれ、あちこち乱れていたのだ。
エオメルの指が少女の頬に触れる。
それは汗が体温を奪いつつあったので、ひんやりとしていた。
しかしエオメルの知るどんな生き物よりも滑々としており、その心地よさに一瞬目を見張った。
「動くのも辛いようだが、水を飲んでおいた方がいい。荷物はここに置いておく」
しかしすぐに我に返ると、エオメルは自分の行動を誹った。
こんな時に、女に現を抜かしている場合ではない。
だいたい彼女は、自分の義姉ではないか。
たとえ、セオドレドがすでに失われていても、だ。
エオメルは頭を冷やすべくその場を足早に去った。
がようやく肘を使って身体を起こした時にはエオメルはすでに闇夜に紛れ、見えなくなっていた。





水筒を傾けて水を飲んでいたは背後に気配を感じて振り向いた。
「陛下…」
そこにはセオデンがもの言いたげな様子で立っていた。
「隣に座っても良いだろうか?」
「は、はい」
は思わず緊張したような声になった。
セオデンは気にした様子もなく腰をおろし、傍らの少女をじっと眺めた。
、と言ったな」
は居住まいを正してセオデンに向き直る。
「はい、陛下」
「そう緊張せずともよろしい」
セオデンは微笑を浮かべる。
「すまなんだな。そなたのことは霞がかかっているようで、あまり覚えておらんのだ。ここへ来て、どれほど経ったのだろうか」
「ようやく一年になりました…」
「そうか…。エオメルに聞いた。そなたは余のために尽くしてくれたと。久方ぶりにすっきりした気持ちで部屋に戻ってみたら驚いたぞ。壁が新しくなっていたのだからな」
「あれは…」
セオデンは口を開きかけたを手で制する。
「あれは、グリマが関与したことではない。が、他の者に責任があるわけでもない。だがあれが余をさらに弱らせたのは事実であろう。そなたがあれを処分させなければ、たとえガンダルフが余の目を覚まさせた後でもこのように動けなかったのではないかと思う」
セオデンは皮手袋に包まれた両手での手をとった。
「感謝する」
そのまま頭を下げる。
「そんな…陛下、頭を上げてください」
は困惑して手を引き抜こうとする。
しかしセオデンは離さない。
「それともう一つ」
「え?」
「息子がようやく結婚する気になったのも、そなたあってのことだろう。あの風来坊め、ずいぶん気を揉ませおってからに。だが、まあ、見る目だけはあったということだろうな」
「……」
の目に涙が滲む。
何かを言わなければいけないと思っているのに、何も思い浮かばない。
セオデンのの手を握る力が強くなった。
「すまなかった」
は激しく頭を振った。
「すまぬ。余が至らなかったばかりに…。余さえグリマに誑かされておらなんだら、セオドレドはまだ生きていただろうに…」
「いいえ、いいえ。敵はあの方を狙っていたのです。陛下のせいではありません」
「いいや、余がまともでありさえすれば、真っ先に浅瀬へ向かったのは余であったのだよ。あれは…余の代わりに死んだようなものだ」
セオデンは沈痛な表情で大きく息をついた。
「このような年寄りが生き延び、若き者が死んでゆくとはな…」
セオデンは小さく頭を振った。
「余はこの戦で父祖のいる地へ赴くかもしれぬ。だからその前にそなたの身の振り方を決めておきたいと思う。そなたは、そなたが望むのであればヒュイド殿の庇護下にいてよろしい。しかしエドラスに戻ることを望むのであればそうしても構わない。その時はエオメルとエオウィンにそなたを託そう。それから…今はそのようなことが考えられないにしても、いずれ傷も癒えてこよう。誰かを夫にと望んだ時は、我らに遠慮することはない。王家に捕らわれてはならぬ」
「陛下、わたしはとてもそんな気持ちにはなれません」
セオドレドを失くしたばかりで、別の誰かと結婚するなど想像するだけで厭わしかった。
他の誰かを愛するなど、とてもできないように思える。
たとえ話であっても胸をえぐるような痛みを覚えて、は俯いた。
「わかっておる。いずれは、の話ぞ。だが、忘れるな。そなたも余の娘の一人であるのだから」
セオデンは少女の肩に手をおいた。





馬たちの世話は終わったものの、エオメルは自分の荷物を置いているところへ戻れないでいた。
セオデンがと話をしていたため、終わるまで待つつもりだった。
この、義理の親子になるはずだった二人は、余人を交えずに話をする必要があるのだろうと。
しばらくしてセオデンが立ち上がり、やはり遠巻きにしていたガンダルフの方へ行ってしまった。
話は終わったのだろう。
自分も何か声をかけたほうがいいのだろうかとエオメルは考え込んだ。
だが過去の話は彼女を悲しませるだけ。未来はあやふやで、何一つ確証がない。
楽しい話は思い浮かばず、気休めは白々しいだけだった。
(………また彼だ)
結局どんな話も思いつかなかったエオメルが再びに視線を向けたとき、少女の隣にはいつのまに移動したのか、金髪のエルフが座っていた。
全力の行軍にも少しも疲労していない様子で、少しも乱れたところはなく、屈託のない笑みを浮かべていた。
彼はになにやら話しかけると、彼女の編んだ髪を手にとって解き始めた。
(………)
はどこか遠い目になっていたが、エルフの好きにさせるようにしたようで、荷物のなかから櫛を取って彼に手渡した。
エルフの方は受け取った櫛で綺麗に梳いて三つ編みにし、頭の上でまとめた。
てきぱきと一連の作業をしている間も、レゴラスは間断なく話しかけている。
それにが答えるのは、五回に一回といったところか。
疲れすぎていて、答えるのが辛いのだろう。
エオメルは面白くなかった。
もともと第一印象が悪かった相手だ。
またマークではエルフというのは得体が知れない存在であるとまことしやかに囁かれていた。
そんな相手がエオメルの大事な従兄の恋人に馴れ馴れしく接近してきている。
許してはおけなかった。
これは、何か口実をつけてレゴラスをから遠ざけ、釘を刺しておかなければならない。
エオメルが動き出そうとしたとき、横から声がかけられた。
「エオメル殿。こちらにいたのですか」
音もなく近寄ってきたのは、アラゴルンだった。
闇に紛れるような灰色のマントと黒髪のせいで顔だけがほの白く浮かんでいるように見える。
「アラゴルン殿。どうかなさいましたか」
アラゴルンは済まなそうな表情でエオメルを見つめている。
「申し訳ない。レゴラスが貴国の娘御に不躾な振る舞いを…。彼も、悪気はないのだが…」
「わかっております、アラゴルン殿」
悪気がないからかえって性質が悪いと思いながらも、エオメルは努めてにこやかに返した。
レゴラスに良い印象はなかったものの、アラゴルンはそうではない。
だが、彼の顔の筋肉は内面を忠実に反映したようで、アラゴルンはますます済まなそうな面持ちになる。
「いや、本当に申し訳ない、エオメル殿」
「………」
自分はよほどおかしな表情をしているのだと悟って、エオメルは嘆息した。
そして誤魔化しの表情をやめた。
「いえ、私では上手くを慰めることはできないので、助かります。彼女にはああやって、他に気をそらせる必要があると思いますので」
癪ではあるが、それは事実だった。
しかしアラゴルンはエオメルの言に不審を覚えたようで、眉がぴくりと動いた。
「何をそう心配しているのです?」
エオメルは寂しげな笑みを浮かべて答えた。
「大切な相手を失った者は立ち直るまでに非常に時間を要するでしょう。彼女は今、その時期なのです」
そして軽く一礼をすると、アラゴルンから離れていった。





翌日は明け方から一時間も経たないうちに進軍を再開した。
頭上にはまだ雲はないのだが、東の空には黒っぽいものが太陽を追って上がってきていた。
嵐が近づいているのだ。
午後になるとますます雲は広がり、この時刻にしては薄暗いと感じるほどになる。
そんな中、はまたもや後方に下がり、必死になって手綱を繰っていた。
前日もそうだったが、ほとんど休憩がない。
何度か最後尾に行ってしまったが、その度にエオメルを呼ぼうかという声がかかる。
その度に己を叱咤して、何とか全体からは遅れないようにした。
日が暮れかかった頃になると、徐々に全体の馬足が落ちてきた。
先頭が立ち止まっている証拠だ。
ここで休憩か、野営かと思っていると、またゆっくりと動き出す。
まだ駆け続けるのかと思って重いため息をつくと、前方からエオメルが火の足を駆らせてきた。
!そこにいろ!」
エオメルは火の足をブレードの横に並べると、腕を伸ばして少女を引き寄せた。
次の瞬間にははエオメルに後ろから抱えられていた。
「エオメル様?」
怪訝そうにエオメルを見上げると、彼はブレードの首を叩いて、そのまま走るように言っていた。
ブレードが鞍を空にしたまま走り始めたのを見届けて、エオメルはようやく手綱を振るう。
火の足は息を荒げていたが、乗り手が二人になっても前と変わらないように駆け出した。
「昨晩、二度目の戦いが浅瀬で行われたのだそうだ」
前を向いたままエオメルに告げられて、は身体を固くした。
怯えたような表情で彼女はエオメルを見上げる。
「浅瀬は奪われた。我らは全軍でヘルム峡谷へ向かい、そこでアイゼンガルドの軍勢を迎え撃つ」
「損害は…」
の問いにエオメルの顔が苦痛に歪んだ。
それだけでマークの負った痛手がわかろうというもの。
ますます不利になってゆく状況に、は居たたまれなくなった。
戦えない自分が、ここにいてどうするのだ、と。
「だから、ここから先は二人乗りだろうと構わないのだ。峡谷へ着けば、火の足は休む事ができるのだから。お前もよくここまで頑張ったな。だが…」
の葛藤に気付かないエオメルは、苦笑するような笑みを浮かべ、軽く彼女の腕を叩く。
「ここまで再三の誘いを断って一人で馬に乗り続けるとは…お前も大概、頑固者だな」



話している間にも馬足は速まり、しばらくするとセオデンたちのいるあたりまで追いついた。
しかし、そこには白い衣の魔法使いの姿がない。
「ガンダルフ殿はどこへ行ったのですか?」
「わからん。ただ急ぎの用を果たさねばならないと言い残して走り去ってしまった。戻るとは言っていたが、いつ戻るかとは言わなかった」
見下ろすの顔には思案の色がある。
視線を感じて横を向くと、アロドに跨っているレゴラスが心配そうにを見つめていた。
エオメルの視線を追ったもレゴラスに気付いたようで、彼女と視線があったらしい彼は、ぱっと表情を明るくして馬上で両手を振った。
エルフの背中にしがみついていたドワーフは途端に大きな叫び声をあげるが、エルフはあまり悪びれた様子もなく謝っただけだった。
なにしろ彼はアロドに手綱もつけていない。馬体を軽く腿で挟んでいるだけなのだ。
そのため、比較的上半身は自由に動かせるのだが、しかし、馬が苦手だというドワーフにとっては、迷惑この上ない仕儀だろう。
はレゴラスに向かって、ちゃんと前を向いてくれと裏返りそうな声で叫んでいた。
しかし金髪のエルフはそれにも「へいき〜」とのん気に返すだけだ。
(それにしても…レゴラス殿はのどこがそれほど気にいったのだろうか)
エオメルは複雑な気持ちでエルフと腕の中の少女を見やった。
そもそもエルフというのはよそ者を嫌うと聞いていた。
いや、ここマークにあってはエルフの方がよそ者なのだが、しかし異種族に興味を持たないという意味ではここにいたところで変わるわけでもあるまい。
それに、ドワーフとは特に険悪な仲だとも聞いている。
しかし目の前のエルフはドワーフのギムリと仲が良いとしか思えなかった。
エオメルの目から見ればギムリはレゴラスの突拍子もない行動を驚きこそすれ、嫌悪しているようではなかった。むしろ仕方がないなあと、年上の者が幼年の者の無茶を見守っているようなところがあった。
実際はレゴラスの方がずっと年上のはずなので、まるであべこべなのだが…。
(まあ、第一印象が強烈だったということは考えられるが)
は術で動かしている鷲を通してレゴラスと話したのが最初だと言っていた。
自分はまだ会ったことはなく、これも話で聞いただけなのだが、霧ふり山脈の鷲は人間の言葉を理解するだけでなく、話すこともできるというのだ。
となれば彼らと親しいレゴラスがにも親しみを覚えるのも理解できる。
しかしあの馴れ馴れしさだけは我慢ができなかった。
(だが…)
エオメルの悩みは深まる。
妙にに近づきたがるレゴラスを容認するのは難しい。
だが、こういう人物こそ今のには必要なのではないかとも思えた。
根っから陽気でおしゃべり好き。
そして俯いている者もぐいと顔を上げさせるような魅力があった。
またエルフに対する評判は別として彼自身は決して邪悪ではない。
彼がのそばについていてくれれば、落ち込んでいる暇などあるまい。
最も彼にを預ける気はないので、ここにいる間だけの話ではあるが。
(初対面で私に矢を向けてきたのだ。それくらいしてもらってもいいだろう)
そしてエオメルは肩を落として深々とため息をついた。
「エオメル様!?どうかしたんですか…?」
エオメルの急な落胆振りに、は焦ったような声をあげた。
「ああ…いや…なんでもない」
「そうは見えませんけど…」
「…思い知っていたのだ。私など、剣を振るう事しか知らないのだとな」
自分は無力だ。
考えれば考えるほど、そのことが重石のようにエオメルを圧迫する。
敵は屠れても守りたい人を守ることができない。
どうして自分にはセオドレドのような度量がないのだろうか…?
「それは、大切な事なのではないのですか?エオメル様はマークの中でも優れた騎士でいらっしゃるのでしょう?多くの民をその剣で守ってこられたのではないですか」
エオメルは力なく首を振る。
剣では守れない者もいるのだ。
絶望に侵された者だけは、エオメルには助けられない。
(母上…)
エオメルの母のように。



エオメルの母、セオドウィンはセオデンの年の離れた妹だった。
彼女はエオウィンがそうであるように身体を動かすのが好きな人で、剣術や馬術に長けていた。
そして朗らかで気丈な性格の持ち主だった。
父エオムンドは東谷の領主だった。
すでに血は薄れたとはいえ、もともとは彼もエオル王家の流れを組んでいる。
血気盛んなエオルの家の子のなかでも特に血の気の多い人だったと、彼を知る人は皆口を揃えて言った。
彼は強い人だった。
幼いエオメルの憧れでもあった。
しかし彼は大のオーク嫌いでもあり、オークによる奇襲の知らせが入るや、ろくに手勢も引き連れないまま飛び出してしまうことも多々あった。
それが彼の身を滅ぼすこととなった。
彼はいつものようにオーク狩りに出かけ…そこで待ち伏せしていた敵に襲われたのである。
エオムンドの遺体は戻らなかった。
彼が死んだのはエミン・ムイルに程近い国境だったので、連れ帰ることができなかったのだ。
そしてその知らせを聞いた母の顔が見る間に紙のように白くなったのを、エオメルは覚えている。
夫の死後、彼女は笑顔を見せなくなり、顔色も悪くなったが、いずれ立ち直って子供たちを育てる責任があることを思い出すだろう。
東谷の民は、誰もがそう思っていた。
エオメルも、元気のない母に早く立ち直ってもらいたかった。
彼とてその当時は十一歳でしかなく、戻らない父を恋しく思うことも多々あった。
悲しくもあったし、子供心にも自分に課せられているものがあると感じていた。
だが自分は男子なのだから、母と妹を守らなければという思いの方が勝った。
そして大人になったら、東谷の民を守るのだと思っていた。
父のように。
エオメルは強くなるために剣術に打ち込んだ。
そしてぐずるエオウィンを遊びに誘い、気分が良くないと寝込みがちになった母を見舞うことをかかさなかった。
自分がしっかりすれば、強くなれば、大切な人を守れる。子供だったエオメルはそう思っていた。
だが。
エオメルの決意も空しく、セオドウィンは新しい年が来る前にこの世を去った。
病を得たわけではない。
ゆっくりと衰弱して彼女は死んだのだ。
絶望が深すぎたのだろうと医者は言った。
両親を失ったエオメルたちは伯父であるセオデンのもと、エドラスに引き取られた。
そこで出会った伯父と従兄は優しい人たちだった。
とくにセオドレドは、エオメルにとって本当の兄のように思えた。
エオウィンがなんでもエオメルの真似をしたがったように、エオメルはセオドレドの真似をした。
そうしているうちに悲しみは癒えたが、あの時に覚えたどうしようもないほどの無力感をエオメルは忘れていない。

(そうだ、剣だけでは守れないのだ)
おそらく母は、悲しみにばかり目を向けすぎたのだ。
そして心が弱まるにつれて身体も弱まっていったのだ。
だからあの時エオメルがしなければならなかったことは、無理やりにでも母の目を別のことに向けさせることだった。
それが自分たちでなかったとしても構わない。
心さえ立ち直れば、身体は自ずとついてくる。
エオメルは同じ間違いを二度と繰り返す気はなかった。
はセオドレドの妻でこそないが、その心は非常に大きく彼に傾けられていた。
セオドレドを失った反動がどれほど大きいか。
予想もつかないが、しかし彼女も母のようになってしまうのではないかという危惧がエオメルにはあった。
エオメルに疑いを持たせたのは、あの牢屋での話し合いだった。
八方塞がりな現状を打破するために彼女が提案したのが、グリマの暗殺というとんでもない策だった。
それを、こともあろうに彼女自身が実行するといったのだ。
あの時、緊張に強張ってはいたものの、彼女の冷静な面には狂気の色がなかっただろうか?
あのような策以外にも、他に方法はあったのではないだろうか?
が去った後、牢の中に一人残されたエオメルは暗い考えに苛まれた。
物事は悪い方へ、悪い方へ転がっていくように感じた。
再び夜が来る時には、エオメルは自分の浅はかさを呪っていた。
あのような提案は受け入れるべきではなかったのだ。
たとえ首尾よくグリマを始末できたとしても、今度はの心が壊れてしまうだろう。
今は悲しみに麻痺してしまっていてわからないのだ。
彼女が正気を取り戻したときのことを思うと、居ても立ってもいられなかった。
彼女が行動を起こす前にガンダルフが来てくれたのは、まさに行幸だった…。



を母のようにはすまい)
そのためならば、自分はどんなことでもしよう。
気に入らない相手に膝を屈することになろうとも。






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