日が落ちてだいぶ経ってからようやく、王の部隊はヘルム峡谷が要害の角笛城にたどり着いた。
かの地に残ってた兵はエオメルの予想よりは多く、徒歩兵が千人は残っていたのだ。
エオメルは火の足から水穂を下ろすと、さっそく配備にかかった。
だが兵の数は予想よりは多いとはいえ、エドラスから連れてきた者たちを合わせても、完全にここを守るには足りなかった。











剛毅なロマンチスト











角笛城の高い塀に囲まれた中庭は人と馬とでごったがえしていた。
馬たちは角笛場内の厩舎か、中庭をずっと奥に進んだ先にある避難所に連れて行かれる。
ここへ到着したものの、どうしたらいいのかわからずにエオメルの後をついて回っていた水穂は、ようやく一段落のついたエオメルによってそこへ行けと言われたのだ。
その折に水穂はエオメルからの手紙を預かった。
それは畳んだ羊皮紙を蝋で封をしただけで、封筒には入っていない。
エオメルらしいざっくばらんさだと妙な感心をして、水穂はそれを受け取った。
ヒュイドを見つけてこれを渡せというのだ。
中には水穂がここに来るに至った経緯が書き記されているという。本当ならば角笛城へは水穂が一人で行くはずだったので、エオメルはヒュイドが不審に思わぬよう、事前に用意してあったのだ。
水穂は人の流れに沿って奥へと向かう。
今夜は雲が厚く、月も星も見えず、頼りになるのはまばらに置かれた篝火だけだった。

歩く間、水穂はこの短時間で聞き知ったことを反芻した。
角笛城にいた兵たちは、千人いるとはいっても大部分は兵としては年寄りすぎるか、若すぎる者たちだということ。
アイゼンガルドの軍勢は、マーク軍の何倍もあること。
西の谷は焼かれ、略奪にあい壊滅状態であること。
幸いにも、といえるとしたら、民も家畜も避難させてあったので、失ったのは家や畑、家財道具くらいだということか。
そして、水穂の義父エルケンブランドの消息はわからない。

避難所になっているのは峡谷のずっと奥まで続くという洞窟だった。
西の谷から避難したらしい女が、兵から馬を預かっている。
家族と別れを告げている者もいた。
水穂はそこへ近づくと、途端に女たちは静まり返った。

「あんた!どうしてこんなところに来たんだい!ああ、もうあんたなんて呼んじゃいけないんだったね。姫さま!」
「ここはもうじき戦場になるんですよ。わかってるんですか?どうしてエドラスに残らなかったんです」
「まったく、陛下もエオメル様も、どうしてお許しになったんだろう…!」
女たちは驚きが通り過ぎるや、一斉に騒ぎ出した。
「あ、あの、わたしをここに連れてきたのは、エオメル様なんです。最初は陛下たちは浅瀬に直接向かうはずだったので、わたしだけ角笛城に避難するようにって。どうしてだか、よくわからないんですけど。だけど途中で状況が変わって…。エオメル様から手紙を預かっているんです。ヒュイド様はどちらですか?ここにいっらしゃるんですよね?」
入り口にいたのは、角笛城に詰めていた女性たちだった。
この世界に来た頃の水穂を知っている女たちだ。
その彼女たちの迫力に気圧され思わず背を仰け反らしそうになったが、何とか踏みとどまって用件を伝える。
女たちは水穂の来意を知ると中に入れと少女の背中を押した。
中でも一番発言力のありそうな、気の強そうな顔立ちの女が先導を買って出て、奥へと入って行く。
その女の後をついてゆくと、いくらか開けた場所に出た。
「わ…ぁ」
思わずため息がもれ出る。
女はちらっと水穂を振り返ったが、すぐに興味を失くしたようでそのまま歩いた。
彼女にとっては見慣れている光景なのだろう。
洞窟の中にはそこここに松明が置かれていた。
通常、こういうものは火の周りだけが明るくなるものなのだが、ここでは違っていた。
どうやらこの洞窟の岩にはガラス質かなにかの光を反射する成分が含まれているようで、松明の明かりを反射して、洞窟全体がほのかに明るくなっているのだ。
また、天井からは長い年月を経て成長した鍾乳石らしいものが玄妙な彫刻となって洞窟を飾っている。
天井と床を繋いでいる円柱は、太さはあるのに光を透かし、内から発光する木のように立っていた。
「すごい…」
洞窟の床は砂利がほとんどのようで、歩くたびにざくざくと音がした。
しかしその砂利すらもきらきらしている。
角笛城から流れ出る川はこの奥から来ているようで、人々のざわめきの中にも水音が途切れる事はない。
そして、鍾乳石からはぴたんぽたんと滴が滴り落ちる。
すべてが夢物語のようで、水穂は自分がどこにいるのかを一瞬忘れたほどだった。

ミズホ?」
いつの間にか、ヒュイドの前まで来ていたのだ。
彼女に呼ばれて水穂はようやく我に返る。
「あ、お久しぶりでございます。ヒュイド様」
ヒュイドに会うのは一年ぶりであった。
そのため一応義母ではあるのだが、あまり馴染みがないというのが正直なところだった。
エルケンブランドの方は何度かエドラスに来た事があるので、まだ近しい気持ちはあるのだが。
ミズホ、エオメル様があなたをここへ連れてきたのですって?」
未だ美貌の残る初老の女性はそう言って眉根を寄せた。
王の世継となった青年の行動に対して不安を覚えているようだった。
「はい。それで、これを預かって参りました」
水穂は手紙を差し出す。
ヒュイドはそれを受け取ると中を読み始めた。すると驚いたように顔を上げ、水穂を見つめる。
「ヒュイド様?」
彼女の眼差しには懸念の色があった。
問うと彼女は気の毒そうな表情で水穂を見つめ、
「事情はわかりました。ミズホ、あなたはわたくしのそばにいらっしゃい。一人になっては駄目よ」
「は…?はい。わかりました」
水穂は彼女の変化の理由がわからず、首をかしげる。
ヒュイドは手紙を畳むと水穂の手を取って悲しげな表情になった。
「今度のことは、わたくしも残念でした」
「………」
水穂は引きつったような表情でヒュイドを見返す。
少女の顔は泣きそうに見えたが、そうではなかった。
触れてほしくないのだ。
ヒュイドもエオメルも、それにセオデンも、彼らなりにセオドレドの死を悲しんでいる。
しかしどうして彼らより水穂の方が悲しんでいるように言うのだ。
婚約者だからか?
それはあるだろう。
しかし他の者の愛情が、水穂のものに比べて軽いというわけではあるまい。
『セオドレドを失って、自分は悲しいがあなたはもっと悲しいのだろう』
誰かにセオドレドの死について話しかけられるたびに、そう言われているように感じる。
それが、苛立たしい。
比べないでほしいのだ。
ただそっとしておいてほしい。
そう何度も何度も繰り返さなくても、嫌というほどわかっている。
セオドレドは戻らないということを…。
慰めの言葉を言われるたびに、思い知ってしまう。
そしてその度に喉を突くような激情があふれそうになるのだ。
だから水穂は感情のままに叫ばないために沈黙した。
しかしそれはずいぶんと大変な作業でもあった。
沈黙すればするほど回りは水穂を構おうとする。
それは彼らにとって悲しみの発露であるのだとわかるために、責めることもできない。
だが彼らの同情を受け入れることは、彼らの分の悲しみも背負うことにも似ていた。
しかし、まだ自分のことだけで精一杯な水穂には、重過ぎる。
そういう意味ではレゴラスとのつきあいは気が楽だった。
彼はセオドレドのこともマークに起きたいざこざも知らない。
話としては知っているのだろうが、彼の美しい顔の中には、そのことがいささかなりとも陰を落としてはいなかった。
彼の口から出る話も、彼の故郷の森のことや、旅の間のできごとなどで、それが透明な、とでも形容できそうな綺麗な声で紡がれるのだ。
口数が少々多いのが欠点だが。

しかし水穂の葛藤はそれほど長く続かなかった。
今夜を乗り切れるかどうかの方がよほど大きな問題だったのだから。





水穂が洞窟の中に入ってしばらくすると、外に出ていた女たちも中に戻ってきた。
入り口も堅い鉄の扉で閉ざされてしまった。
もういつ戦闘が始まってもおかしくはない。
敵の数は膨大であるという情報は、皆が知っている事だった。
殺されてしまうかもしれないという恐怖に、陰鬱な雰囲気が漂う。
洞窟内にいる者は、座り込んで事の次第を待っていた。
誰もが不安げな表情を浮かべ、少しの刺激で泣き出しそうであった。
ヒュイドは彼らの緊張を和らげようと、そんな彼らに声をかけてゆく。
水穂もヒュイドの後に付き従っていった。
彼女が角笛城にいた期間はほんの短い間だったので、ここにいた時の水穂を知っている者はほとんどいない。
しかしロヒアリムとは違う肌の色や顔立ちが、彼らに少女が誰なのかを教えるようで、水穂が近づくと、誰もが頭を下げた。
それもまた彼女を困惑させることになったが。



それからどれだけ時間が経っただろう。
扉を超えて雄叫びが洞窟内に響き渡った。
戦闘が始まったのだ。
怯えた赤ん坊が泣き出し、それがさらに中にいるものの不安を煽った。
ヒュイドは決然とした表情を浮かべると、扉のすぐ近くまで戻っていった。
傍を離れるなと言われていた水穂もついて行く。
ヒュイドの侍女らしき者も数名、主に付き従ってきた。
「待ちましょう」
ヒュイドは水穂を振り向いて静かに口を開いた。
「時が来るまで、わたくしたちは待たねばなりません。訪れるものは希望に満ちた明日か、破滅に続く終わりか、それはわかりませんけれど、時がわたくしたちの運命を決するまで…」
ヒュイドの面は穏やかだった。
死の不安も恐怖も見えない。
しかし身体の前で祈るように組み合わされた両手はかすかに震えていた。
水穂はヒュイドを見つめると、「はい」と頷いた。

外は雨が降っているらしい。
扉を間断なく叩く音が、耳についた。










時間が経つのが恐ろしく遅く感じる。
途切れることなく悲鳴が、叫びが、何かを打ち付けているような鈍い音が聞こえた。
どちらが勝っているのか、音だけでは判断できない。
それゆえ、否が応にも不安は増した。
洞窟の内側は、息をするのも苦しいほど緊張した状態が続いた。
赤ん坊の泣き声もしない。
すでに疲れ切っているのだ。
話をするの者もほとんどおらず、たまにいるとしてもそれは単語を一言二言、そっと交わすのみだ。
騒げば敵が押し寄せてくる。そう思っているかのように。
水穂もまた身じろぎもせず、扉の内側に立ったままだった。
身体はひどい緊張で強張っている。
強く握った手の平に爪が食い込んでいるが、そのことにも気付いていなかった。
どれだけ待てばいいのだろうか。
誰もがそう思った時、一際大きな衝撃音が洞窟内に轟いた。
同時に不安を呼び起こすような揺れが起こる。
あちこちから悲鳴があがり、ぐったりしていた子供たちも再び泣き出した。
外からの喧騒も大きくなったように感じる。
敵のものか、味方のものか…。

「声が…」
「ヒュイド様?」
戦闘が始まって以来、一言も声を発しなかったヒュイドが白い顔を蒼白にして呟く。
「近くなっている…」
水穂も耳を澄ます。
確かに、叫び声は大きくなっているだけではなく、近づいているようだった。
ヒュイドの侍女たちも、不安そうに顔を見合す。
と、外から扉を叩く者があった。
力任せに、「開けろ!」と言っている。
ヒュイドは顔を上げ、声を聞き分けようと耳を済ませた。
「撤退だ!開けてくれ!」
外の声は叫ぶ。
「撤退ですって!…ああ」
ヒュイドの声は嘆きに満ちていた。
撤退。それは形成の不利を意味する。
「手を貸して、すぐに開けないと」
それでもヒュイドは指示を出し、自身も閂を外しにかかった。
水穂ももう一方の閂に手を掛ける。
すると待ちかねたように鉄の扉は内側に開いた。
雪崩を打って兵士が入ってくる。
勢いが大きくて、水穂は扉と壁の隙間から抜け出せないほどだった。
しかし外から入る湿った風とともにする、汗と泥と鉄錆の臭いが水穂の鼻をついた。
(鉄錆…?いいえ)
兵の武器は槍でも剣でも、大概は鉄製である。
しかし、この臭いの源はそれではないだろうと水穂は密かに思った。
血の臭い。
それ以外にあるだろうか?
意識すまいと水穂は己に言い聞かせた。
ここは戦場なのだ。
怪我人も死者も、珍しくないほど出る場なのだ。
しかし、一旦意識してしまうと気にしないようにするのは難しい。
特にこの臭いは、生命力が流れ出ているという証なのだから。

外からの人の流れはほどなくして終わった。
最後に入ってきたものたちが追ってきた敵を打ち負かした後、第二派が来る前にと急いで扉は閉ざされた。
水穂はようやく扉の間から出ることができたが、身動きができずにそのまま壁にもたれかかった。
そして糸が切れた人形のように、ずるずると崩れ落ちる。
ミズホ…!?」
上から腕をつかまれ、水穂は無理やり立たされた。
ここにはまだ新たな敵に扉を破られないようにと構えている兵たちが大勢いたが、水穂を掴んだ男は彼女の知っている者だったのだ。
その男は水穂に答える間も与えず怒鳴りつけてくる。
「どうしてこんなところでしゃがみこんでいるんだ!奥へ戻れ!!」
防具が泥で、剣が血で汚れているが見間違えるはずもない。
マークの世継、エオメルである。
エオメルは水穂が何か言うのをしばし待ったが、少女が口をぱくぱくさせるだけだとわかると、悪態をつきたそうな表情になって上を見上げた。
彼としては動揺している少女に発破をかけたい思いもあったが、しかしここに連れてきたのは自分で、結局はさらに彼女を危険に巻き込んだだけである。己が考えの足りなさに頭を掻き毟りたかったのだ。
だが片手は剣で、もう片方の手は水穂を掴んでいるのでそうすることができなかった。
エオメルは口を引き結ぶと、憤然とした足取りで少女の腕を掴んだまま奥へ歩いた。
人の多い場を抜けると、やはり苦労してそこから抜け出したヒュイドに合流する。
「エオメル様…。我が方の形勢は…?」
ヒュイドは堅い表情でエオメルを見上げる。
彼女のまとめていた髪は、人波に揉まれたせいで少し崩れていた。
エオメルは答えるべきか否か、迷う。
「あの音は何だったのですか?」
ヒュイドは続けて問いただした。
エオメルは小さく息をはくと、憂鬱そうな表情で答えた。
「サルマンの妖術が防壁の一部を破壊した。そこから敵が侵入を…。数が多すぎ、防ぎきることができなかった」
「陛下は…」
「わからない。ここにいないのであれば、城内へ行ったのだと思うが…」
エオメルの口は濁る。
ただでさえ戦場は混沌とするものだ。
その上夜で、天気も悪い。
誰が生きていて、誰が死んだのか、はっきりしたことは何も言えなかった。
「これから、どうなるのです?」
今度は水穂が問うた。
その目は「わたしたちは死ぬのか」と言っているようだった。
エオメルは臍を噛む。
そうさせないために連れてきたのに、と。
彼は暗い気持ちで答えた。
「いずれ打って出なければ、遅かれ早かれ、あの扉は破られるだろう…。はっきしりたことは何も言えない。だが、何をするにしても、行動するのは夜明けになってからだ」
「夜明けはいつです?」
「もう二時間もない」
そこで会話は途絶えた。



「では、その間に負傷者の手当てをいたしましょう」
沈黙を破ったのはヒュイドだった。
彼女はまだ青い顔をしていたが、領主夫人らしい威厳を漂わせている。
「怪我人に奥へ行くよう指示してくださいませ。たいした薬も道具もありませんが、何もしないよりはましでしょう」
「お願いいたします。ヒュイド殿」
エオメルは領主夫人の申し出を受け取った。
敵の数は膨大。
ここで手当てを受けても、無駄かもしれない。
洞窟にいる戦えぬ者たちともども、死ぬだけかもしれない。
しかし無駄だと諦める事だけはできなかった。
諦めれば、本当にそこで終わってしまう。
望みがあるかもしれないのに、みすみす逃してしまうことに等しい。
「怪我人は奥へ行かせろ!女たちが手当てをしてくれる。戦えるものは前へ!絶対に扉を破られるな!」
エオメルの声に洞窟内にいるものが一斉に動き出した。
「手伝える?」
ヒュイドは水穂に心配げに声をかける。
少女の顔からは血の気が下がっており、今にも倒れそうだ。
このような状況に慣れていないことがすぐわかる。
「やります。何をすればいいのですか?」
水穂は強く頭を振ると、決意に満ちた様子で頷いた。
貧血など起こしている場合ではないと、自身を叱咤する。
ヒュイドは一瞬気遣わしげに眉を寄せたが、少女の意を汲み取って何も言わなかった。
侍女たちにも聞かせるように、夫人は声を張り上げる。
「手当てはここから一番近い広間でしましょう。人手がいるから、経験のある者には集まってもらわなくては。それから、包帯がたくさんいるから、布を集めて細く裂くの。これは、ある程度大きい子供たちにも手伝ってもらいましょう。あとは桶を集めて水を汲んで。たくさん必要になるはずです」
始めて、という夫人の指示に、水穂たちは動き出した。
しかし彼女たちが叫ぶまでもなく、洞窟の奥ではすでに避難民たちが布やら桶やらを掻き集め始めていた。
年配の婦人たちを中心に、見事な連携を取っているのだ。
小さな子供たちは一箇所にまとめられ、若い母親と年寄りが数人で面倒を見ている。
付きっ切りならなくてもよい年齢の子供たちは、手渡された布をナイフやハサミで切り裂いていた。
水を汲みに行く者、怪我人を運ぶ者、実際に手当てをする者と各自が自分にできることを行っているのだ。
女たちは血を見ても顔をしかめはするが、悲鳴をあげたり倒れたりすることはない。
彼女たちの意外なたくましさに感心しながらも、それだけ、このような血なまぐさい事態に慣れてしまうほど戦いがあったのだろうと思い至って、水穂の心中は複雑だった。

広間は、外からもたらされた湿気とともに、内側から起こる水蒸気でだんだん温度があがってきた。
焚き火の数を増やし、そこで湯を沸かしている。
傷口にこびりついた泥を落とすには水だけでは不十分だということもあるが、火は別の使われ方もしていた。
ヒュイドの言葉に嘘はない。
洞窟内には薬も道具も、まともなものはなかったのだ。
薬といえばハーブが数種類ほど。
それもこのような傷に使えるものは血止めの効能があるものくらいだ。
切り傷は縫い合わせるしかなく、その針と糸は全くただの裁縫道具だった。
それでも縫えるのならばまだましであって、あまりにも傷口が大きすぎる場合は文字通り、焼いた。
火で熱して使うアイロンや、ナイフを火であぶってそれを傷口に当てるのだ。
失血死しないためにはそうするしかなかった。
骨折は、複雑に折れていない限りは、元の形に戻して固定する。
複雑に折れている場合は、もう彼女たちの手には負えなかった。
中で折れた骨が内側から身体を傷つけ、そのため放っておけば出血が止まらないか、止まっても、身体が内側から腐ってくる。
四肢の一部であれば、患部を切断するしかない。
それをするのは男たちの役目だった。
水穂はできた包帯を配って回り、赤く染まった桶の水をかえ、人手のたりないところへは誰かを送り、と忙しく働いていたが、生臭い臭いと男たちの呻き声に何度か気が遠くなりかけた。
命にかかわるのほど大怪我を負ったものはここには少ない。
しかし全体の半数はなんらかの怪我を負っているようだった。
そしてこれらの治療は麻酔も消毒薬もないまま行われている。
話に聞く野戦病院とはこういう感じなのだろうか、と彼女は暗い気持ちで考えた。





水穂が何度目かもわからなくなったほど包帯を取りに広間を離れようとした時、ドワーフが壁の方を向いて立ち尽くしていることに気付いた。
彼は斧を握った手を下ろしたまま、頭だけ上を向いたり横を向いたりしていた。
ふと、彼の横顔が目に入る。
顔に赤いものがあった。
「ギムリさん!」
水穂はギムリに駆け寄り、出血場所を探した。
返り血であれば、とも思ったが、それはやはりギムリの額から流れていた。
「どうして手当てを受けないんですか!冑を脱いでください、早く!」
額の切り傷から流れた血は、ドワーフの顔を赤く染め、着ている鎖帷子にも滴っていた。
水穂は傷口の状態を確かめる。
縫わなければいけないほどだろうか?
しかし傷は出血の派手さにくらべて小さかった。
これならばしっかり包帯をするだけでも大丈夫かもしれない。
少女に怒鳴りつけられたドワーフは、しかしどこかぼうっとしていて、視線が定まらない。
他にもどこかに怪我を負っているのかもしれないと水穂が不安になったとき、ドワーフの口からうっとりしたような声が漏れた。
「ここは素晴らしいところですな。そうお思いになりませんか?」
「…え?」
思わぬ問いかけに、水穂は思わずきょとんとした。
「ここはまったく宝の館です。これほど美しい場所は見たことがない。あの天井の細かなカーテンの如き網目!信じられないほど繊細だ。そして明かりを透かして燃える柱の輝きの優雅さはどうでしょう。それにそこかしこにある池はケレド=ザラムにだって負けてはいない。ああ、もう少し静かだったら滴り落ちる滴が美しい水の音楽を奏でているところを聞けただろうに…!」
夢見るような表情でギムリは語った。
「そうですね、わたしも初めて見た時には驚きました。壁中きらきらしてるんですもの。何か鉱石とかが混じっているのかもしれませんね」
ドワーフの感動に水をさすこともなかろうと、話を合わせた水穂だったが、ギムリはさらに口角泡を飛ばして説明しだした。
「ああ!それはですね、水晶が混じっているのですよ。それに、明かりを透かす柱、あれは大理石です。ほかにもまだ多くの宝石や鉱脈が眠っていることでしょう。だが宝石を得るためにここを掘るなんて、とんでもないことです。そんなことをしたら宝の損失です!ああ、我々の同胞がここのことを知ったら、一目見るためだけにどれほど遠くからだって駆けつけてきますよ。そうしたら、続きの部屋を繋げるためだけに、そっと鑿を当ててみたいものです。そうしてできた部屋部屋に明かりをつけたら…。ああ、きっとカザド=ドゥムに勝るとも劣らないところになるはずだ…!」
水穂がこの洞窟に入ったのは、戦闘の始まる前だった。
それゆえ緊張感はあったが、まだ周りを見渡す余裕もあった。
しかしギムリは…。
彼はほんの先ほどまで戦場の真っ只中にいたのだ。
しかも顔を赤く染めるほどの出血をしている。
だというのに、怪我の治療もせず洞窟が素晴らしいと見蕩れている。
これもこれで普通の反応とは思えなかった。
(…ドワーフにとっては普通かもしれないけどね)
これが種族の違いということなのだろうか。
それとも彼も、レゴラスに負けず劣らずマイペースなだけなのだろうか。
疑問は尽きなかったが、水穂はまだ語り続けるギムリの肩に手を置いて、
「お話は興味深いのですが、まずは手当てを先にしてしまいませんか?」
と言うのが精一杯だった。







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