サルマンとの会見が終わった一行は、角笛城に一旦戻る事になった。
随員のうち二人が先にそのことを告げに去ってゆく。
エントたちに見送られ、アイゼンガルドの壊れた城門を進んだ頃には、太陽はすでに沈みかけていた。
言葉を交わすものはない。
ガンダルフは物思いに耽っているだけのようだが、それ以外のものは、ある二名が発す重たい雰囲気に飲まれてしまったのだ。
渋い顔で黙り込むセオデンと、能面のように表情をなくしてしまった少女に。
好奇心旺盛なホビットも、天真爛漫を絵に描いたようなエルフも、これにはちょっかいを出すことができないようで、ちらちらと心配そうに様子を窺うに留まっている。
エオメルはそんな二人をどう慰めてよいのか検討もつかず、無骨な己をひたすら責めていた。










忘れない











よ、こちらへ来てくれぬか」
数時間ほど馬を走らせ、もう二時間ほどで真夜中、という頃合になってようやく一行は馬を止めた。
去年の羊歯が生い茂った丘の斜面には新しい若芽が芽吹き始めており、真夜中であっても春の温かさが感じられる気持ちのいい場所だった。
窪地のさんざしの木の根元に火を起こし、夕食を食べることになったのだが、その時、セオデンが少女を呼んだのだ。
彼の両脇はエオメルとガンダルフが固めていたが、立ち上がりかけたエオメルを制してガンダルフが場所を譲った。
少女は王の隣に座ったが、相変わらず表情はなく、携帯した食料も出す様子がなかった。
「すまなかったな」
はゆっくりと顔をセオデンに向けた。
何を謝られたのかわからないという表情で。
「サルマンとの会見には、そなたを同席させるべきではなかった」
「わたしは…」
セオデンは何も言うなと手で制した。
「我らと共に来たのが、そなたにとって悪かったわけではあるまい。息子の塚でのそなたのふるまいは、とても立派なものだった。悲しみは悲しみとして受け入れるしかないにしても、どこかで区切りをつけねばならぬ。そなたはそこでそれができたと、余は思っている」
「わたしも、そう思っていました。…でも」
思い出して気が高ぶったのか、は顔を手で覆った。
指の間から垣間見える目じりには涙が滲んでいる。
「申しわけありません。心弱い振る舞いでした。わたしが口を出していい事ではなかったんです。あれは、ただの復讐に過ぎません」
「そうだ。弱きものを嬲る行為だ。相手がサルマンとはいえ、褒められたことではない。だが…余とて、サルマンを眼にして憎しみを覚えなかったわけではなかった。この手で八つ裂きにしてやりたいと思うたわ。しかし奴は塔の上におった。余の力ではサルマンに手が届かず、そなたにはできた。それだけに違いよ」
は慰めは必要ではないと首を振った。
鷲をサルマンにけしかけたのは、魔法使いの力の低下を見切ってのことだった。
確かに未だに誘惑の声の力は衰えず、ガンダルフにしたように攻撃を仕掛けることはできるだろうが、一年前のあの時のような圧倒的な彼我の差を感じなかったのだ。
倒せはしないまでも、負けることはない。
少なくとも、自身が正面切って向き合わなければ。
そう踏んだは鷲の大きさをいつもの三倍にした。
そうすれば簡単にかわされることもなく、また嘴や爪が強力な武器になるからだ。
このようなことをするのは始めてだったが、一羽だけなのでどうにか使いこなすことができたといえよう。
鷲の身体を大きくした分、いつもよりも風圧が大きくなったので、バランスを調整するのが難しいのだ。
しかしそうまで考えてサルマンを挑発し、あまつさえ吹っ飛ばしたものの、気は少しも晴れなかった。
何より自分が浅ましく、卑小に思えた。
自分の中にあった醜い感情に気付いた少女は戸惑い、自らの内に篭ってしまったがそのような仮面は薄氷のようなもの。
簡単にひびが入り、砕け散ってしまう。
は自分が泣いているのは、悲しいからでも、憎しみが消えないからでもないこと自覚していた。
この涙は自分を哀れんでいるものだ。
(なんて情けない…)
どうせ泣くのならば、失った人の無念を思って泣きたかった。
それが出来ない自分が悔しかった。
「サルマンが、憎いな」
「…はい」
「グリマもな」
「…はい」
はぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。
グリマにも同情すべき点があるとはいえ、セオドレドとグリマ、どちらが生きていて嬉しいかと問われたら、それはセオドレドに違いなかった。
「だが、そなたはどちらも殺さなかった。それに、グリマがサルマンを殺そうとしたのも止めた。ようやってくれた。そなたが止めねば、グリマはサルマンに殺されていたことだろう。堕ちたりとはいえ、あれの思惑に気付かぬほど、サルマンも愚かではなかろうからな。…たとえグリマであろうと、余はこれ以上民が死ぬのを見たくはない」
は唇をかみ締めて首を振る。
そうしないと嗚咽が止まらないのだ。
セオデンは自嘲しながら呟いた。
「そなたが来るのが十年早ければな。…言ったところで詮方のないことだが」

なあ、セオドレド?
そうすれば、自分は長い間呆けることもなく、孫をこの腕に抱くこともできたかもしれないだろうに。
セオデンは父祖の御許へ一足先に行ってしまった息子にそう語りかけた。










夜は滞りなく過ぎ去り、空が白み始めた頃には一行は再び馬上の人となった。
夜の間に冷えた空気が地上の熱と交わり、薄いミルクのような靄の中を少し早めに走らせる。
その靄が見えなくなった頃に浅瀬にたどり着いた。
塚は、大きいものも小さいものも二日前に見たのと変わらなくそこに存在している。
まだ消えていない朝露に、槍の穂先が濡れていた。
一行は馬から下りなかったものの、速度を緩め、記憶に焼き付けるように眺めていった。
何人かは敬意を込めて頭を下げてゆく。
もその一人だった。




「人の数が、ずいぶん少なくなっていませんか?」
は門をくぐった直後に感じた疑問を口に出す。
彼らは浅瀬を抜けると草原を素早く踏破し、正午を過ぎることには角笛城に到着する事ができたのだった。
「ああ、ここはもう安全だと判断したので、兵にはエドラスに戻るよう伝えている。我々もしばらく休んだら出発する。おそらく明日の朝になるだろう」
答えたのはエオメルだった。
「そうですか」
はそっとため息をついた。
それなら自分はここで皆と別れるのだ。
そもそもエオメルはここへ自分を連れて行くためにわざわざエドラスから移動させたのだから。
寂しくないといえば嘘になる。
今までずっとエドラスに住んでいたのだ。
だがまだはっきりと心の整理がつかず、ふいにセオドレドを思い出してはたまらないほど会いたくなってしまう自分を思うと、ここで義母を助けて暮らすのも悪くはないのではないかとも思った。
なにしろ、エドラスはセオドレドとの思い出が多すぎるのだ。
「わかりました。お見送りには必ず参りますね」
しかし、エオメルは鼻に皺を寄せた。
「何を言っているのだ。お前も戻るんだぞ」
は一瞬言われた意味がわからず、ぱちくりと瞬きをした。
「どうしてです?」
そういうのがやっとだった。
「どうしてとは…。そもそもお前がエドラスから離れたのはお前の安全を守るためで…。脅威は去ったのだからもう必要なかろう。それに、すでに使者を出しているので、馬鍬砦に避難した民も戻ってきているはずだ。ならば馴染みの深いエドラスに戻った方が、お前にとっても安心するだろう?」
エオメルは当然のように返した。
は唖然として目の前の男を見つめた。
「そんな、勝手すぎます!」
「勝手だって?」
今度こそにとって良いことをしていると思っていたエオメルは、少女の反発に面食らった。
「勝手です。ここが安全だと思ったのなら、わたしがここに残っても構わないじゃないですか。それを、わたしの意見なんて何も聞かないでエオメル様一人で勝手に決めて…!」
「私はお前に良かれと思って…!」
「だったら、少しはわたしの意見だって聞いてくれてもいいんじゃありません!?」
「ならば聞くが、お前はここに残りたいのか!?」
「少なくとも、今はエドラスには戻りたくありません」
きっぱりと言われてエオメルは倒れこみたくなった。
どうしてこう、なにもかも上手く行かないのだろう。
と、そのときセオデンが横から助け舟を出してきた。
「エオメル。娘御を説得するのに怒鳴りつけるというのは、一番まずい方法だぞ。よ、そなたの辛い気持ちはわかるが、今一度我らと共にきてくれぬか。それというのもだな、先触れの使者には我らが戻るまでに宴の仕度をするように言いつけておったのだ。此度の戦いに命をかけてくれた者たちへの弔いと、労いをするためにな。そなたにも出席してもらえると、余も嬉しい。宴が終わってもここへ戻りたければそうするといい。護衛をつけさせよう。どうだろうか?」
王は威厳ある、しかし穏やかな声で少女をいい諭した。
「宴…ですか」
は言いよどんだ。
本当ならば父となっていたはずの相手にこれほど下手に出られては、としても強く拒むことはできなかった。
何より弔いも兼ねていうのだから、出席するのはの義務とも思える。
「…わかりました。陛下がそこまでおっしゃるのでしたら」
「明日の朝に出発する。それまで身体を休めておくとよかろう」
セオデンは鷹揚に頷き、少女の華奢な背中を軽くなぜた。











「エオメル、少しよいか?」
しばらくぶりにゆっくり夕食をとり、寝室にと宛がわれた部屋へ引き取ろうとしていたエオメルは、伯父に呼び止められて振り返った。
「もちろんです。伯父上」
「余の部屋へ来てくれ。話がしたい」
「わかりました」
エオメルはセオデンの後ろについて歩き出す。
ふと、エオメルは伯父の後頭部を見て眉間に皺を寄せた。
記憶の中でのセオデンは大きな男だった。
ここ数年、まっすぐ立つ事もできなかったが、今ではすっかり元通りになっている。
しかしそれでも、エオメルに比べて彼は小さかった。
自分が大きくなっただけなのだということはわかっているが、それでも不思議な感じがする。
部屋に入ると、すでに指示を受けていたらしい女が、慎ましやかにテーブルにビールの入った杯と水差しを用意していた。皿の上には干し肉とチーズがある。
「飲みながらやろう。ああ、そなたは下がってよろしい」
セオデンが言うと、女は一礼をして去って行った。
二人は着席すると、無言のまま杯を合わせた。
飲みながらもセオデンは、自分が呆けていた期間に起こったことを話してほしいとエオメルに言った。
覚えている部分もあるが、記憶が朧になっている部分もある。
しかし思い出せないからといってそのままにしておくなどセオデンにはできなかったのだ。
エオメルは朴訥に、淡々とあったことだけを話してきかせた。
グリマが徐々に宮廷を圧迫していった手口や濡れ衣を着せられて殺された騎士たちのこと。
敵に攻められた場所。あるいは事前に守りきれたこと。
期間にして約五年分の出来事が話し終わるまでにはずいぶんと時間がかかった。
しかしやりきれない思いが残っても、すでに終わった事だ。
これ以上国も宮廷も荒らされることがないのであれば、長の年月、苦労した甲斐もある。
もっとも、セオデンが元に戻ったことだけは、自分たちの手柄ではないのだ。
功労者の一人は他国人のであるし、もう一人は魔法使いのガンダルフなのだから。
エオメルの長い報告が終わると、セオデンはきつく目を閉じてしばらく押し黙った。
自分の知らない間にマークはあちこち綻びている。
立て直すには時間がかかると痛感した。
現在滞在しているこの角笛城の堤防も大きく破壊されてしまった。
焼かれた家や畑も多い。
それなのにまだはっきりと戦が終わったとは言えない状態だ。
確かにマーク対アイゼンガルドの戦は終わったが、東の戦況は刻一刻と悪化しているらしい。
ゴンドールからの要請が来るやもしれないのだ。
そのためにもしばらくは騎士たちをエドラスに常駐させる必要がある。
それにこの度の戦では間に合わなかった辺境地の部隊も集めなければならないだろう。
マークの民は広い草原に点在しており、召集をかけるとなると時間がかかってしまうのだ。
やらねばならないことの多さに、セオデンは疲れを感じた。
しかしその疲れは今まで感じていた偽りの老いによるものよりも心地よく感じたのだ。
まだまだ老け込んではいられないとセオデンは胸のうちでひとりごちた。



「それからそうと。エオメル」
「何でしょう」
ゆっくりとではあるが、既に何杯もの杯を干しているはずなのに、二人は少しも酔ったように見えない。
いつもと同じ顔色のセオデンは難しい話は終わったとばかりに少し体勢を崩し、テーブルに片肘をついて甥を眺めた。
のことなのだがな…」
「はい…」
エオメルの顔が強張る。
それにセオデンは思わず苦笑を漏らした。
「それほどあの娘を気にかけているのなら、さっさと口説いて嫁にしてしまえ」
「……!?お、伯父上、何を…」
とんでもない事を言い出した伯父に、エオメルは思わず酒を噴出してしまった。
「それが出来ぬのなら、必要以上に構うな。お前が構えば構うほど、あの娘の立場が悪くなるぞ」
ごほごほと咽る甥に、セオデンは追い討ちをかける。
「悪く…。なぜです?」
まったく理解できなくて、エオメルは困惑した。
「簡単なことよ。今のお前は世継だからだ」
「……」
セオデンは軽く嘆息して肘を突いた手に額を預ける。
「あの娘はセオドレドの婚約者だった。しかし結婚はしておらぬ。なれば、が別の男と結婚して何が悪かろう。彼女はまだ若いのだし、咎められるいわれはない。しかしお前が纏わりついていると、あの娘を憎からず思う男が現れたとしても、近付けないではないか」
「……それはその、伯父上のご経験でしょうか」
恐る恐るといったエオメルの問いに、セオデンはふっと微笑む。
「そうだな。エルフヒルドには何人もの求婚者がいたが、余が名乗りを上げて以降、ぱったりと途絶えてしまったそうだ。余としては特に世継であることで選んでほしいとは思わなかったが、周りはそうとってはくれぬ。余よりも彼女を愛していた男がいたかもしれぬし、彼女にも他に好きな男がいたかもしれぬ。まあ、求婚を受けてくれた彼女が余を愛してくれたことは微塵も疑ってはおらぬが、な…」
どこか懐かしげに語るセオデンに、エオメルは自分の方が照れてしまいそうになった。
その無骨なりに初々しい反応にセオデンは笑みを浮かべた。
「しかし、私にはセオドレドが愛した方に言い寄るなどできません」
これまたきっぱりとエオメルは断言する。
「ではお前はあの娘をどうするつもりなのだ」
「…守りたいと思ってはいます。セオドレドのようにはいかないでしょうが、従兄上に代わって大切にしたいと…」
「その挙句に結婚もしていないのに未亡人扱いか?」
切り替えされてエオメルは言葉に詰まった。
そんなつもりはないのだが、結果的にはそうなることはエオメルも認めざるをえなかった。
が誰か別の男と結婚するなど、それが彼女にとって当然の権利であっても、エオメルは認めることができないように思えたし、自分がを娶るなど断じてしてはいけないとも思っている。
これではどうしようもない。
綺麗に決着がつく可能性としては、の世界の者が迎えに来る事だが、それがいつになるのかはまったくわからないのだ。
「…伯父上、私にどうしろとおっしゃるのです」
追いつめられたエオメルは、降参したというように両手を挙げた。
できることならテーブルに突っ伏してしまいたかった。
「すでに言ったはずだ。気になるのならばくどけ。それができないのならば構いすぎるでないとな。元々彼女は世継の后になるはずだったのだから、お前が娶ったところで文句はでるまい」
「………」
エオメルの眉はこれ以上ないほど八の字になった。
確かに文句はでないだろう。
しかしエオメルにそれができるかと問われれば、やはり『できない』としか答えようがない。
彼女はある意味で不可侵の存在なのだ。
エオメルが手を出していい人ではない。
「あれが死んだことで、そなたも混乱しているのだろう。だがな、自らの悲しみをに負わせてはならぬ」
伯父の言葉に、エオメルはふと葛藤の根本を指摘されたような気がした。
幼い頃から大好きだった従兄が死んだのだ。
悲しいし、悔しいし、敵の所業には腸が煮えくり返る思いがする。
しかし悲しむより先にエオメルは戦わなければならなかった。
泣いていては兵を指揮することはできない。
だから、自分の代わりに悲しんでくれる人を探していたのかもしれない。
それにははうってつけの人材だった。
セオドレドの婚約者で、戦に出ることはない女だったから…。
そこまで考えが至ったエオメルは今度こそテーブルに突っ伏して唸る。セオデンは甥のくしゃくしゃの金髪をぽんぽんと叩いて慰めた。
「伯父上。私はにセオドレドのことを忘れてほしくはないのです」
突っ伏しているため、くぐもった声でエオメルは呟いた。
「彼を忘れて、他の男の元へは行ってほしくないのです。…過ぎた願いでしょうか」
「いいや。無用の心配ではあるだろうがな」
エオメルはむっくりと起き上がる。
伯父の台詞に引っかかりを覚えたのだ。
セオデンは微笑む。
「忘れられないのだよ。こういうことは。たとえどれほど幸せになろうともな。悲しみが薄れようと、遠い過去になろうと、忘れることだけはできないのだ」
それは、伯父上がそうだからですか?
エオメルはそう聞こうとしてやめた。
聞かずとも答えはわかる。
忘れられないのだ。きっと。
エオメルも自身の過去を振り返ってようやく納得できた。
両親がなくなり、親しかった友が帰らぬ人となったこともあった。
だが、彼もまた忘れてはいない。
ふちした拍子に思い出し、もう会うことができない寂しさと、楽しかった思い出が甘く胸を締め付ける。
それが続くのだ。
ずっと。
「そうか…」
エオメルはどこか遠くを見ているような目で呟いた。

忘れられはしないのか。
セオドレドは忘れられないのか。
ならば、もう、それでいい。

「ありがとうございます、伯父上」
葛藤が治まったエオメルは居住まいを正して頭を下げた。
伯父が自分を正気づけるためにこの席を設けたのだと気付いて。
セオデンは微笑を浮かべると立ち上がった。
「今夜はもう遅い。そろそろお開きにしようか」






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