もう伯父や兄に再会することも、エドラスに戻る事もできないかもしれないという悲観的な避難から三日後、角笛城よりもたらされたのは、信じられないほどの朗報だった。
合戦には勝利し、数日後には王たちも戻れるという。
少しも落ち着かなかったが、それでも不自由な避難生活よりは良いと、エオウィンは女や子供、老人たちを率いてエドラスに戻った。
そして彼女たちが戻った日の午後には、西へ詰めていた騎士たちも帰還してきた。
そのためエドラスはこれまでにないほどの雑然さに陥ったが、しばらくは東への警戒のため、騎士たちはここに逗留するというのだから仕方あるまい。
そして、セオデンたちが戻った暁には、この度の戦争で死んだ者たちを弔うためのそして勝利を祝っての宴会が行われるのだという。
戻ってそうそう、エオウィンは忙しさにてんてこ舞いになった。
しかし、胸の中はかすかな期待に震えている。
(あの方も、宴に出てくださるのかしら…?)
酒や料理の指示を出していたエオウィンは、心に思い描いた相手が彼女の愛する男たち―セオデンとエオメルだ―ではなく、数日前に短時間だけ会った相手だということに気付くと、白い頬をさっと赤らめた。
周りにはまだ侍女たちがいることを思い出し、彼女は表情を引き締める。
しかし思いはすぐに彼の相手に向けられた。
セオデンを救ったガンダルフと共にやってきた旅人。
黒い髪に日に焼けた肌の背の高い男だった。
旅塵に塗れてはいたが、どこか人を惹きつける不思議な雰囲気がある。
(アラゴルン殿…)
彼はどのような人なのだろう。
エオウィンは気になってしかたがなかった。
宴の夜
「ようこそお帰り遊ばせ、マークの王よ。陛下のご帰還を心からお喜び申し上げます」
とうとう近くまでセオデンたちが来た時、エオウィンは胸が一杯で言葉が支えてしまいそうになった。
皆、無事だ。
伯父も、兄も、義姉たる少女も。そしてエドラスを救ってくれた旅人たちも。
「エオウィンよ、そなたの方は変わりがないか?」
やはり無事に戻れたことに喜びの表情を浮かべていたセオデンは訊ねる。
エオウィンは頷くと、
「かわりはございません。ですが、短い間に避難と帰宅を行いましたために、民は少しばかり疲れているようです。しかしそれも、もうしばらくすれば収まりましょう。なによりも、陛下がお帰りになられ、あまねく秩序を取り戻しますれば」
と微笑む。
セオデンも親しみをこめて、姪の肩を抱いた。
「皆様、お疲れでございましょう。宴の仕度ができるまで、ごゆるりとお休みください」
エオウィンはそこでスカートをつまんで優雅に礼をした。
セオデンは鷹揚に頷き、魔法使いを促して館に入る。
エオメルとも抱擁を交わし、人間とエルフとドワーフはエオウィンに歓待の礼を行って中に入った。
さらに、旅人たちと同じマントを身に纏った子供が二人、続けて挨拶をして去っていたが、彼らが子供ではなく『小さい人』たちであることに、エオウィンはしばらく気付けなかった。
そして、
「、お帰りなさい」
「ただいま戻りました、エオウィン」
エオル王家の姫と異世界の少女は、感慨深げに互いを眺めると、どちらからともなく両手を挙げると指を絡めて額をこつんと合わせた。
「良かったわ。元気そうで。合戦の行われているすぐ近くにいたなんて、とても恐ろしかったのではなくて?」
「ええ。避難した先は洞窟で、外の様子がぜんぜんわからなかったのですもの。それに、途中で撤退してきた騎士の方々が大勢入ってきて…。とても怖かったわ。今でもあの戦いを無事に乗り越えたなんて、信じられないくらい」
指を絡ませたまま少女たちは深刻な顔になった。
エオウィンは深くため息をついた。
「馬鍬砦に避難したと思ったらすぐ戻るように言われてしまって…。もちろん戦いに勝利したのは嬉しいけれど、やらなければならないことが多くて、西で何が起こったか、全然知らないのです。色々と教えてくださる、?」
「ええ、もちろんです。話すことはたくさんありますもの」
「それから…。疲れているのはわかっているのですけど、宴の仕度が間に合うかわからないの。手伝ってもらえないかしら」
「わかりました。何をすればいいですか?」
気持ちの良い少女の返答に、エオウィンは思わず安堵の息を漏らした。
大広間を清めてたくさんのテーブルと椅子を用意する。
皿と杯、それにそこに入れるための料理とビールも運ばなければならない。
台所では火が盛んに焚かれ、次々に肉料理が作られていた。
壁につける篝火用の薪は、香りの良いリンゴの木だ。
それに、宴が終わった後には真夜中になるので今のうちに寝床を用意しなければなるまい。
昨日到着した西と東の谷の騎士たちだけですでに館は満杯だ。
新たに到着した魔法使いの一行たちの分をどうしようかとあちこちの部屋をまわってエオウィンは悩んだ。
さすがに大切な客人である彼らを床に雑魚寝させるわけにはいかない。
そんなことをしたら、それこそローハンの礼儀は地に落ちたと思われてしまう。
エオウィンはとユルゼとで手分けして、細々とした仕事をこなしていった。
そしてようやく一息つけると思った頃には、正装に着替えなければならない時間になっていたので彼女たちは大いに慌てた。
光沢のあるドレスに身を包んだエオウィンが静々と王の前に杯を持って進み出る。
それを受け取ったセオデンは杯を掲げた。
館に集まったものたちは、誰からともなく立ち上がり、王に向かって杯を掲げる。
エオウィンは左後方へと滑るように移動し、民たちと向かい合わせになるように向きを変えた。
このように、王の左右に立てるのは、王家に連なるものだけだ。
それが一人足りない事に、いいようのない寂しさが募る。
は正式にエオル王家の一員になったわけではないので、一番前のテーブルに席が用意されていた。
彼女の隣には戦の功労者であるエルケンブランドがおり、さらにその隣にはエオウィンが気になってしかたがない男が立っていた。
「この国を守るために命を捧げた者たちへの追悼を―。死せる勇士に栄光あれ」
セオデンの言葉に一斉に雄叫びがあがる。
それから先は――無礼講だ。
男も女も入り混じって酒を酌み交わす。
酒樽からは次々にビールが注がれ、瞬く間に何樽も空になった。
広間の真ん中のテーブルでは小さい人たちがジョッキを片手に歌いながら踊っている。
一曲歌い終わると一気にビールを飲み干すので、その場は大いに盛り上がった。
彼らの曲の節を覚えたバイオリン弾きが伴奏し、手拍子が送られ、メリーとピピンは上機嫌で歌う。
陽気な小さい衆に初めは遠巻きにしていたロヒアリムたちもすぐに彼らと馴染んだ。
そのような喧騒を背景に、勇士への祝福をするために広間を回っていたエオウィンは、アラゴルンを見つけると嬉しさを隠し切れずに艶やかな微笑みを浮かべた。
男もエオウィンに気付いて歩みを止める。
「アラゴルン殿、祝福の杯をお受け取りください」
杯を差し出すと、彼は受け取り、エオウィンの目を真っ直ぐ見つめながら一口飲んだ。
わずかな沈黙の後、彼は目礼をし、その場を立ち去った。
それだけのことだが、心の中がひどく暖かく、満たされるのをエオウィンは感じた。
から聞いた話では、彼らはしばらくの間、エドラスに滞在するという。
王家の姫であるエオウィンにとって軽々しく殿方と親しくすることは許されないが、しかし合戦の功労者であり、セオデンも気に入っている彼であれば…。
何かがかわる予感がする。
明るい未来が開けているように感じて、エオウィンは目を細めた。
(もしや、エオウィンはアラゴルン殿のことを…?)
たまたまその現場を目撃したエオメルは、驚きを禁じえなかった。
広間の一方では小さい人たちが踊りまわっているかと思えば、こちらではエルフとドワーフが飲み比べを始めようと火花を散らしていた。
審判を買って出たエオメルは、樽から次々とビールを注いでいる。
しかし胸中は複雑だった。
(エオウィンも、もうそんな年になったのだなぁ)
嬉しいような、寂しいような。
しかも相手はアラゴルンだ。
どのような出自の人物かわからないが、王家の姫を娶るだけの器の持ち主であろうとエオメルは踏んでいた。
先の合戦の功労者であり、なにより彼自身がアラゴルンには好感を抱いている。
特に反対する理由はない。
(しかし、アラゴルン殿の方は妹をどう思っているのか…)
アラゴルンはエオウィンに礼儀正しく接しており、その心の内を知ることはできない。
いっそ、姫の婿としてこの国に留まるよう申し出てみようか?
そうなればアラゴルンはエドラスに住むことになるだろうし、エオウィンが遠くへ嫁に行く事もなくなる…。
「すごい事になってますね」
脇から声をかけられてエオメルは我に返った。
だ。
今夜の彼女は灰色のドレスを身に纏い、黒いショールを肩にかけていた。
地味な色合いだと思ったが、黒は彼女の故国で喪に服す色であるのだとエオウィンからこっそり聞かされていた。
黒いドレスがないので、その代用ということらしい。
となれば、エオメルとてもっと華やかな色にしろなどとは口が裂けても言えなかった。
しかし、灰色と黒という落ち着いた色合いは、かえって彼女の若さと瑞々しさを強調して艶めかしく見える。
「ああ、そうだな」
答えたものの、エオメルは己が不埒なことを考えていると感じて、ことさら無愛想に応えた。
しかも彼は彼女に声をかけられるまで、飲み比べのことをすっかり忘れていた。
それでも機械的にビールを注いでいたようで、どこにもこぼした形跡はない。
周囲は次々とジョッキを空にするエルフとドワーフに対する歓声で耳が痛いほどだった。
ギムリがまた飲み干したので、エオメルは新しいジョッキを渡した。
いつの間にやら野次馬たちはどちらが勝つか賭けをしていたようで、ギムリの近くにいた連中から盛大な雄叫びがあがった。
「レゴラス殿はゆっくりだが、少しも顔色が変わっていない。ギムリ殿はレゴラス殿の二倍は飲んでいるが、しかしもう顔が真っ赤だな」
エオメルの解説に、は呆れ半分驚き半分といった表情になった。
「まあ、このテーブルを見ればわかりますけど…」
そこはすでにジョッキで覆われ、いくつも積み重なっている。
「これは酒量を競っているのですか?それとも早飲み競争?途中から来たから、よくわからないの」
「飲む比べというからには、酒量だと思うが…」
しかしペースにこれだけ差がついてはどちらとも微妙に違うように思える。
だが、どちらも勢いが衰えないので、勝敗が決するのも時間がかかりそうだった。
「わたしが代わりますから、この場を離れられても結構ですよ。ビールを注いでばかりで、ご自分では飲まれていないのじゃありません?それに、エオメル様とお話をしたいという方もたくさんいらっしゃいますもの」
そういうとは新しいジョッキを持ち、エオメルと場所を交換できるように準備をした。
「しかし、それではお前が楽しめないではないか」
「いいえ、もう充分楽しみました。わたしはそれほどお酒には強くありませんから、これ以上飲むこともありませんし」
「しかし…」
彼女の頬はほんのり赤く染まっているが、しかしその目に宿る眼差しには寂しさが拭い去れていないように思えた。
こういうときは潰れるまで飲むに限るというのが信条のエオメルとしては、もう二、三杯は飲ませずにこの場を任せる気にはなれない。
酒の力で訪れる忘却は一時のもの。わかってはいるが一時でも辛い事を忘れられるならその方がいいだろうと彼は思っていた。
(素面でいたら、どうしたって思い出さずにはいられないのだからな)
エオメルは自分が持っていたジョッキをのそれと交換した。
「飲め!」
「え?」
「お前はもっと飲んだほうがいい。飲め!」
「いえ、あの、本当に、わたし、お酒は強くなくて…。もうジョッキで二杯もいただいてしまいましたし…」
「二杯程度で酔えるか!さあ行け!」
「…エオメル様、酔ってらっしゃいます?」
「三杯飲んだ程度で酔えるわけがないだろう?」
「ろう?と言われましても…」
は視線を泳がせていたが、レゴラスのジョッキが空になったのを見定めるや、彼に押し付けて逃走を図った。
「では、わたしはこれで!」
「あ、おい!」
スカートの裾を翻して、後も見ずに小走りで駆け去る。
「ジョッキが空いたぞ、もう一杯くれ!」
追いかけようとしたが、ギムリにせっつかれてエオメルは機を失した。
新たなビールを注ぎ、勝負がつくまで離れられそうになくなったことを悟ると、場にふさわしくないほど重いため息をついた。
(ああ、まったく…っ。何をしているのだ、私は)
そもそもエオメルが飲み比べの審判を買って出たのは、すました顔のエルフの醜態の一つでも見られれば、少しは親近感が湧くかもしれないと思ったからなのだ。
レゴラスのことは、最初の頃ほど嫌ってはいない。
彼は合戦で誰よりも多くの戦功を挙げたというのに、少しも偉ぶったところはなかった。
に対しては慣れなれしいものの、それ以外ではほとんど欠点らしい欠点もない。
しかし第一印象だけではなく第二印象も悪かったせいで、どうにも歩み寄れずにいた。
(もう少し、陽気になるとか泣くとか喚くとか歌うとか踊るとかすればいいのに…)
レゴラスが酒に強いのは本人の責任ではないが、相変わらず頬が白いままのエルフの姿にエオメルはやりきれない思いを感じた。
「涼しーい」
は外に出た開放感と頬を撫でる夜風の心地よさに目を細めた。
人びとの熱気とアルコールと走ったのとで、ずいぶん熱く感じていたのだ。
ショールを広げてくるくると回る。
止まった途端にスカートが足に絡みついたので、は声をあげて笑った。
どうも酔っているようだ、とわずかに残った冷静な部分が分析している。
館の入り口には篝火が置かれているものの、近衛の姿はない。
皆、宴に参加しているのだ。
「ちょっと…無用心かもね」
でもまあ、昨日の今日で早馬が来るとか敵が襲ってくるとかはないだろう、多分。
そんな理由になっていない理由を思いつくと、は入り口を守る近衛兵が座るための段差に腰を下ろした。
今夜の月はまだ半分以上の大きさがあり、影ができるほど明るい。
ほんのりとした明るさの中、草原の先までが見渡せた。
黄金館は城下に住むものがすべて入れるほどの大きさはないため、留守番をしている者も大勢いるという。
しかし館から酒やご馳走が振舞われ、各家庭で祝えるように計らってあった。
だが、さすがに大勢で騒ぐ事のできる館のように深夜まで起きているということはないのだろう。
すでに城下は静まり、明かりのついている家はないように見えた。
ひっそりとした外とは正反対に、壁を隔てていても盛り上がっている様子が館から漏れ聞こえてくる。
ぼうっとした頭で夜空を見上げていると、段々夜風が目に染みてきて、少女は袖で目元を拭った。
「セオドレド…。どうしていないのよ」
我知らず呟いたことでどうしようもないほどの寂しさが襲ってきた。
どれだけ大勢の人間が館に集おうとも、そこには最愛の人はいない。
セオドレドの死を納得したところで、その喪失感は簡単になくなってはくれないのだ。
「…会いたいよぅ〜」
膝を抱えて顔を埋める。
灰色のスカートには涙が染み込んでいった。
どれだけそうしていたのだろう。
不意に温かいものが肩にかけられて、は顔をあげた。
「こんなところにいたら病気になってしまうよ。人の子はエルフほど寒さに強くはないと聞いているもの」
「レ…ゴラス」
エルフの青年は淡い月光を受け、金色の髪が後輪のように秀麗な顔を縁取っていた。
散々飲んでいたはずなのに、少しも変化はなく、彫刻のように引き締まった口元にはただ慈愛に満ちた笑みを刻んでいた。
「あなたこそ、そんな薄着では寒いのでは?わたしは、これでも結構着込んでいるから大丈夫よ」
自分にかけられたのが彼のマントであることに気づくと、はそれを返そうと手を伸ばした。
「何言ってるの。そんなに真っ白になって。私だって、人の子の顔色くらい読めるんだからね。は自分ではわかってないかもしれないけど、寒いはずなんだよ」
レゴラスは少し眉をあげて外しかけたマントを奪い返し、しっかりの身体に巻きつける。
こうして包まれていると、じわじわと温まってくるのを自覚しないわけにもいかず、知らず、自分が冷えていたことにはようやく気付いた。
「飲む比べをしていたのではないのですか?」
沈黙が照れくさかったので、は先ほどから気になっていたことを聞いてみた。
「ギムリが倒れちゃったから、私の勝ちで終わったよ」
レゴラスはにっこりと微笑む。
「ビールとはいえ、闇の森のエルフが酒量で他の種族に負けるなんて、ありえないよ」
「…そういうものなのですか?」
訊ねるの隣に、当たり前のようにレゴラスは腰をおろし、片膝を抱える
「まあね。宴会は、私たちにとっては生活の一部だから」
「剛毅ですね。それで、ギムリさんは大丈夫なの?」
「用意してもらっていた寝床に運んだよ。だから私、少し退屈になっちゃったんだ」
「それは…失礼いたしました。お客様に不快な思いをさせてしまうなど、宮廷の名折れです。いくら無礼講で気が回りきれなくなっているからといって…」
宮廷人の顔に戻ったが非礼を詫びるために腰を上げようとしたところを、レゴラスが制す。
「別に不快というわけではないよ。私は充分楽しんだもの。だから今度はエルフ的な楽しみをしようと思ってここへ来たのだよ」
「エルフ的な楽しみ?」
レゴラスは目元を和ませて微笑む。
「そう。星を眺めながら歌うこと。あるいは逍遥すること。気が向いたら夢の小道に心を憩わせるのもいいね」
も思わず微笑んだ。
「あなたを見ていると、悩んでいる自分がとても滑稽に思えるわね」
レゴラスは戦っている時も寛いでいるときも、とても自然だった。
気負いはなく、かといって淡々としているのとも違う。
全てを楽しみ、全てを受け入れているというところか。
それは、なんと魅力的なことか。
同時に、どれほどの強さを必要とすることか。
エルフというのは皆このように強いのだろうか。
「悩んでいることが滑稽だなんてことはないよ。自分にとって大切でないことに心を悩ませることなんてしないでしょう?だったら、それはあなたにとって大切なことなのだから心ゆくまで悩めばいいと思うよ」
「心ゆくまで?」
音を立てて噴出した少女に、レゴラスは生真面目な顔で頷いた。
「そう、心ゆくまで」
「そう。そうね…。ふふ…」
は泣き笑いのような表情になったかと思うと、ぽろぽろと涙が零れた。
堪えようと思ってが、どうしても止まらない。
「ご、ごめんなさい。わたし、今ちょっとおかしくなってるの」
両手で顔を覆っては弁解した。
こんな風に泣き出してはレゴラスも困ってしまうだろう。
「わかってる。大事な方を失くしたばかりなのでしょう?…悲しいのは当然なのだから、無理はしなくてもいいよ。泣きたいのなら泣いてしまったほうがいい。押さえ込んでしまえば、かえって辛くなるだけだ」
「あ…あんまり優しいこと言わないでよ…」
嗚咽がしゃっくりに変わって息をするのが辛くなる。
レゴラスはそんな少女の背をよしよしと擦った。
遅くまで騒いでいた人々も寝静まった夜明け前、目が冴えたままのアラゴルンは一服しようと外へ出た。
「寒くはないのか?」
「別に?」
「お前に聞いたんじゃない」
振り向いたレゴラスに、アラゴルンはげんなりとした顔になった。
アラゴルンより先にそこにいたのは、ちんまりと人形のように座った男女だ。
そのうち一人は自分の仲間で、もう一人は王家の人間の婚約者だったという少女だ。
あまり感心できる構図ではない、とアラゴルンはこっそり考えた。
「ええと、殿、でしたか」
表情を改めてアラゴルンは少女に視線を注ぐ。
「大丈夫です。こうしているほうが気が休まるので…」
そうか、とだけ呟くと、アラゴルンはパイプに火をつけて加えた。
自分も婚約者のいる身であり、無事に結婚することができるとは断言できないことを考えると、少女の様子は嫌でも自分の婚約者のそれと重ね合わせてしまう。
この数日、行動をともにしたが、彼女の様子は傍目にもわかるほど不安定だった。
元気そうにしているかと思えば、ひどく気が塞いでいる風にもなった。
婚約者が死んだというのだから、無理はない。
だからといって、そうそう別の男が隣にいてもいいということにはならないように思えるのは、自分の心が狭いせいだろうか。
レゴラスが彼女に恋愛感情を抱いているということではないのはよくわかっているが。
(あれだな、巣から落っこちた雛を見つけたようなものだ)
森エルフである彼は、弱った生き物を見捨てられないのだ。
ふう、と煙を吐いた途端、レゴラスは戦いに備える時の顔になって勢いよく立ち上がった。
「ど、どうした?」
見ると、も目を見開いて驚愕の表情を浮かべている。
「あいつがいる!」
叫ぶレゴラスに、
「知ってるの!?」
が返した。
何か自分にはわからないことを感じ取っているのだとアラゴルンは理解した。
しかし、レゴラスがいる「あいつ」とは、やはり奴のことだろうか。
冥王、サウロン――。
「こっちだ!」
駆け出すレゴラスに、は間髪をいれずについてゆく。
アラゴルンも遅れまじと続いた。
レゴラスは広間を通り、回廊を駆け抜け、見覚えのある部屋に扉を壊すような勢いで飛び込んだ。
そこで見たのは、悲鳴をあげて転げまわる小さい人の姿だった。
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