馬の司の国の人びとに困惑した視線を向けられた魔法使いは、苦笑交じりに杖を振り上げた。
「まったく、お前さんたちときたら、こんなところでも食べる事だけは忘れないのじゃな。それよりも、お前さんたちの注意が皿や瓶以外にも向けられるのじゃったら、まずはこちらにいる客人方に名乗ってくれないかね?」
「ええ、もちろんですとも、ガンダルフ」
二人の小さい人のうち、金髪の巻き毛の方が陽気に立ち上がった。
「ようこそアイゼンガルドヘ。わたくしはブランディバック家のサラドクの息子メリアドクと申します。それからここでわたくし以上に酔っ払っているのはトゥック家のパラディンの息子ペレグリンでございます」
茶色の巻き毛の少年は自分のことが言われるや、にこにこ笑って手を振った。
それをメリアドクがこっそりわき腹を蹴っ飛ばしたので、彼はぷうっと膨れた。










三人の世継










呆気に取られたセオデン王が何かを言う前に爆発したのは、ドワーフだった。
「それで、私たちには何にも言わないつもりかね!あんたたちを探して二百リーグも走ったんだぞ!それなのにあんたたちときたらのん気に座ってご馳走を食べているのだから!ああ、まったく…!喜んでいいやら怒っていいやら、身体が二つになってしまいそうだ!」
おそらく地面に立っていたら足踏みをしていただろうが、生憎ギムリは馬に乗っていたため、大地に向かって八つ当たりをすることができなかった。
しかし彼とて本気で怒っているわけではない。
ピピンもけろっとした表情で「塩漬けの豚は最高だったよ!」と混ぜ返していた。
(本当に子供みたい…)
はようやく目の当たりにした「小さい人」たちを、失礼かもしれないと思いながらもしっかりと眺めた。
鷲の目で見たときは、彼らは人間よりずっと大きい種族の者に抱えられていたので、実際の大きさがいま一つわからなかったのだ。
外見は人間との違いはさほどないと言える。
背は低いがバランスは変わらない。せいぜい、身長に対して足が大きくて毛深いくらいだ。
彼らがそうなのか、種族としてそうなのかまでは判断できないが、陽気で人好きのする顔立ちでもある。
もっとも、いまは酔っ払っているのでさらに笑顔を振りまいているという点は忘れてはなるまい。
だがの彼らに対する印象は二重丸で、ぜひとも話をしてみたいと思わせたほどだった。
彼女にとって一番の目的はすでに果たしていたので、いくぶん気が楽になっていたせいもあるだろう。
特に、ここアイゼンガルドが―彼女にとって憎んでも飽き足らない相手のいる場所が―壊滅状態であるという事実が、さらに彼女の気持ちを高ぶらせていたのだった。
「余が目覚めて以来、不思議なことが続々と起こっているようだが、これもまたとびきりの不思議だな。エルフにドワーフ、エント。それに今また伝説上の種族が余の前に立っておるようだ。このお二人は『小さい人』ではないか?我らの言葉ではホルビトランと呼ばれておるが」
メリーとピピンはぱっと表情を変えた。
驚きから、喜びへと。
「どうぞホビットとお呼びください、殿。僕たちは自分たちのことをそう呼んでいるんです」
とピピン。
「ホビットとな?」
「そうです。わたくしどもは故郷を出て色々な国を旅してまいりましたが、今までホビットに関する話を少しでも知っている大きい人には出会ったことがなかったのです。殿はホビットを知っていらっしゃる。こんなに嬉しい事はございません」
と、メリー。
「我ら一族は北の国からこの地へ参ったのだ」
セオデンは破顔する。
「しかし、そなたたちの喜びに水を指してしまうが、われらはホビットについてはどのような話も知らぬのだ。ここよりはるか遠き地に、小さい人族がいるということだけが伝えられておる。我らがどれだけそなたたち種族を知らぬかという一例を挙げるとすれば…」
セオデンは瞳にいたずらっぽい光を浮かべ、唇に笑みを刻む。
「ホビットが口から煙を吐き出すということも、余は初めて見知ったほどだ」
メリーとピピンはにかっと笑うと、置いていたパイプを取って吸い、改めて丸く煙を出して見せた。
「まあまあ、交友を深めるのはもっと後にしておくれ。メリー、木の鬚はどこにおるかね?」
話があらぬ方向へ行きそうだと察したガンダルフは、年長のホビットに訪ねる。
「向こうの北側にいると思います。僕たち、そちらに上等の食べ物を用意しておきました。ここで見つけたものですけど、水には浸かっていませんから大丈夫です」
「そうしてくれたか。もう正午をまわったからの」
ガンダルフは頷いて、セオデンを振り返った。
「それではセオデン王よ、わしとご一緒に木の鬚に会いに行かれますかな?」
「そうしよう」
セオデンも頷き返す。
「では御機嫌よう、ホビット君。我が館で再び相会わんことを。その時は我が傍らに座して心ゆくまで話を聞かせてくれ」
ホビット二人は深々と王に頭を下げる。
だがアラゴルンたちもメリーたちと話をするというので、ここで一旦別れることになった。
小さい人たちと昼食を食べながら話ができると思っていたはがっかりしたが、少なくとも、サルマンと話し合った後、どこかで別れるまでは一緒に行動するのだからと言い聞かせ、先に進みだしたエオメルの後についていった。
後ろ髪が引かれて振り返ると、まだこちらを見送っていた旅人たちが笑顔で手を振ってきた。
は反射的に手を振り返す。
顔を前に戻すと丁度エオメルが振り返ったので、
「楽しい方たちですよね。そう思いません?エオメル様」
と笑顔で訊ねたが、
「ああ…まあな」
同意を示す答えが返ってきたものの、その声音が少しも楽しげでなかったため、はいぶかしげに眉を寄せた。
「どうかなさいました?」
「…いや」
エオメルはぷいと前を向いてしまったので、はそれ以上訊ねる事ができなかった。
(…やっぱり、無理やりついて来たことを怒っているのね)
この旅の間、エオメルの態度は頑なだった。
来るなと彼が言ったのを無理やり拒んだせいだろう。
(だけど…行きたかったのだもの、浅瀬に…)
仲直りをするには時間がかかるだろうと思いながら、は重いため息をついた。










(いま、ため息をついたな…)
エオメルは少女の変化を敏感に感じ取り、自己嫌悪を覚えた。
振り返らなくてもわかる、は自分がそっけない態度を取ったのを気に病んでいるのだ。
(どうしてこうなるのだろう)
エオメルもため息をつきたい気分だった。
だが、の前を進んでいるため、ちょっとした動作でも彼女は気付いてしまうだろう。
それだけは避けたかった。
セオドレド亡き後、彼の婚約者であった女性を守るのは、残された自分の義務だとエオメルは思っていた。
もしもがエルケンブランドとヒュイドの本当の娘であったのならば、ここまで気にかけはしなかっただろう。そうであれば、その娘には帰る場所があるのだから。
しかしは違う。
本当の身よりも、帰る場所も、何もない。
少なくともこの世界には。
そのような身の上で、婚約者をなくしたとなれば、どれほど心細いだろうか。
彼女を慰め、守り、悲しみの淵から救わなくてはならない。
セオドレドの代わりに。
しかし、どうも自分のやっていることは空回っているように思える。
万が一にも後追いなどさせないようにと角笛城に向かわせたら、そこが戦場になってしまった。
それについては不可抗力であるし、その可能性も考えていなかったわけでもなかったのだから、まだ構わない。
が、喪失の傷が未だ生々しく、そのような状態でセオドレドの死んだ場所など見たくなかろうと、アイゼンガルド行きを止めても、逆に「覚えておきたい」と言い出す始末だ。
実際に塚に到着した時には、一瞬呆然としたものの、エオメルが危惧したほど取り乱しはしなかった。
それどころか…何か吹っ切れたような清清しささえ漂わせていた。
泣き暮らしてほしいと思っているわけではないが、あまりにも立ち直りが早いのではないだろうか?
のセオドレドに対する想いは、十日もたたずに消えてしまう程度のものだったのか?
それではあまりに従兄が哀れではないか。
(違う…!はセオドレドを愛している。我らと共に来たのも、その心根の表れだ)
エオメルは心の中で強く頭を振った。
彼には自分の苛立ちがどこから出てきているのかわかっていたのだ。
が立ち直ったのは、彼女自身の強さからだ。
エオメルの尽力でそうなったわけではない。
(それに、レゴラス殿の存在がを支えている…)
あのエルフの青年は、まさに絶好の機会に彼女の前に現れてしまった。
明るく、陽気で、少々単純とも思える行動を取る事もあるが、持ち前のおおらかさであっさりとに近づいてしまった。
それだけでも忌々しいのに、なにかというと彼は少女の側近くにいる。
だが、初めはただ馴れ馴れしいだけだと思っていたそれは、彼なりの気遣いも含まれているのだとわかってしまった。
和ませ、励まし、そっと寄り添っている。
どういう意図でもってレゴラスがそうしているのかわからないことがエオメルを一層焦らせた。
ただの同情ならばいい。
しかし彼がを愛していたら?
マークから立ち去る時、レゴラスがを連れて行こうとしたら、それを止める権利は自分にあるのだろうか。
はこの国の人間ではなく、またマークは彼女にとって悲しみの記憶が強い。
彼女はマークから離れたいと思うかもしれない。
セオドレドの代わりに彼女を守るとは言っても、それはがこの国にいてこそだ。
傷が癒え、別の男を、それもマークの男以外の者を愛したとして、それに反対するどんな権利がエオメルにあるというのだろう。
彼女が立ち直り、幸せになろうとするのなら、それを阻むことだけはしてはならない。
だが…。
(気に入らんものは、気に入らん!)
エオメルは胸中で開き直ったように吼えた。
がセオドレド以外の男を愛するなど、あってはならない。
彼女は彼だけの花嫁なのだという思いが、どうしても拭い去れないのだ。
死者に嫁せるはずもないことはよくわかっている。
自分のこの想いは、感傷でしかないのだろう。
腹立たしいのは、レゴラスがセオドレドにも負けないほど優れた性質を持っていることだ。
性格は言うに及ばず。
戦いになればマークの兵が十人いるよりも頼りになるほどの腕の持ち主で。
それに加えてあの繊細で美しい外見。
また、エルフ王の息子であるという身分。
世継であるかどうかは定かではないが、そうであってもおかしくはない気質は持っている。
が再婚するならば―初婚もまだなのに再婚などできるはずもないのだが、エオメルにとってはすでには『兄嫁』なのだ―絶好の相手ではないか。
ただし、レゴラスはエルフなのだが。
(しかしもこの世界の人間ではない上に不思議な力を持っているのだから、たいした問題ではない)
エオメルは心の中で呟く。
もうは自分の手を離れてしまったような錯覚を覚えてしまうほどた。
(いや、もともと私と彼女の間に繋がりなどなかったのだ)
エオメルは自嘲した。

彼女はセオドレドのものだった。
優れた世継であった、エオメルの従兄の。
それに比べて自分はどうだ。
彼の足元にも及ばない。

そしてそんな自分だから、レゴラスほど彼女に頼られる事もないのだ。
レゴラスもまた、優れた王家の者だから…。

(こんな私がマークの世継だなどと…。何かが間違っているとしか思えない)










木の鬚に会ったガンダルフたちは、そこで昼食をとりつつ、これまでのこととこれからことを話した。
もっぱら口を開いたのはガンダルフで、木の鬚は魔法使いの問いに答えるだけだったが、長く時間がかかったその話し合いの場で、木の鬚が「せっかちだ」という言葉を口にしなかったことをメリーとピピンが知ったら驚いたことだろう。
ともかくも、ガンダルフらとアラゴルンたちは再び合流し、完全に水の引いていないオルサンクの塔の前に向かった。
馬のないメリーとピピンは、それぞれエオメルとアラゴルンの後ろに乗せられている。
長い馬の足がざぶざぶと水を掻き分けている間も、彼らは警戒を緩めることなく進んでいった。
塔へ上がるための階段も半ば水に沈んでいるが、そこから上がろうとはせずに、手前で止まった。
一番前にガンダルフ、隣にセオデンが並び、その後ろにはつかず離れずの距離にエオメルやレゴラスたちが控えていた。
は彼らからもう少し後ろに場所をとったが、彼女の後ろにはさらに随員がそろっている。
塔の周りには木の鬚以外のエントもおり、時折オルサンクの黒い岩に攻撃を試みるものもあった。
「サルマン!サルマン!」
ガンダルフが塔の上に向かって声を張り上げる。
答えはない。
「用心は怠るな」
だがガンダルフは硬い表情を崩すことなく皆に注意を促した。
サルマンがこの場に出てこないとは少しも考えていないようだ。
しばし待つと、ガンダルフが以前に捕らわれた塔の天辺から白髪の老人が顔を見せた。
「セオデン王よ、あなた方は挑む者と戦い、だが後になって和睦をしたこともしばしばありましたな。我らもそうしようではありませんか。話し合いの席に立つ気はありますかな?」
現れたサルマンは、の記憶の中にあった彼より少しやつれたように見えた。
塔がこんなになってしまっては無理もない。
しかしサルマンの声には一年前にセオドレドを誑かそうとしたものと同じ色を保っていた。
サルマンは完全に力を失ったわけではない。
はその事実を確認すると、上着の内ポケットに携帯していたハンカチを取り出した。
セオデンはサルマンの言い出した「和睦」という言葉に激昂した。
「平和を打ち立てようではないか」
セオデンは怒りに腕を震わせながらそう答えた。
しかしその平和は、蹂躙された民が生き返り、戦って死んだ兵士の復讐が遂げられ、サルマンが自ら首を吊ってからのことだと言い返した。
事実上、いまのサルマンとは交渉の余地はないということだ。
この答えにサルマンも激した。
彼は今度はガンダルフを尊大に見下ろす。
「お前の目的はなんだ?ガンダルフよ」
はしばらく様子を見たが、サルマンがガンダルフしか見ていないと悟ると、エドラスから持ってきた短剣をそっと抜き、先端を右の親指に当てた。
その短剣はセオドレドから贈られた物だった。
避難に際し、護身も兼ねて持ってきていたのだ。
は僅かに顔をしかめたが、指先に赤い珠が出来上がると、少し皺のよった生成りのハンカチに擦り付ける。
赤い筋が薄れるたびに彼女は指先を絞った。
ガンダルフはサルマンを哀れむように見上げ、今ならばまだ裏切りの償いはできると諭したている間、そしてサルマンがガンダルフを嘲っている間も、彼女は熱心に血を流し続けていた。
「降りて来い、サルマン!」
ガンダルフが一際大きな声を出した時、ようやくそれは完成した。
見る者が見たらわかっただろう。
そこに描かれていたものは、彼女が鷲を作り出す文様だった。
「お主の哀れみなどいらぬ!」
サルマンの声にははっと頭を上げた。
振り上げた杖から現れた炎の塊が、ガンダルフ目掛けて打ち下ろされたのだ。
声をあげる間もなく、ガンダルフは炎に包まれる。
しかし、の目には両者の力の差ははっきりしていた。
少女は小さな声で呪文を唱えだす。
彼女は白の魔法使い―ガンダルフの方だ―が負けるとは少しも思わなかった。
その間にも彼の周囲からは火の勢いが弱まってゆく。
中にいた魔法使いの白いローブや白髪には、焦げ一つなかった。
ガンダルフは片手をあげ、
「サルマン、お前の杖は折れたぞ」と言った。
その声はこれまで聞いたことがないほど冷ややかだった。
途端、サルマンの手にあった杖が砕け散る。
魔法使い同士の攻防に、手出ししようとするものはおらず、辺りは静まり返った。
「何をしておるんじゃ!」
ガンダルフは己がサルマンに与えた衝撃を確認する前に振り返り、を怒鳴りつけた。
静寂が彼の耳にの呪文を届けたのだ。
怒鳴られたものの、途中で止めるわけにも行かず、はそのまま続ける。
最後に拍手を打つと、ハンカチは風もないのにふわりと舞い上がった。
「約束は守ります」
近づいてきたガンダルフにそれだけ言うと、彼女は光を孕んで形を変えつつあるハンカチを見上げた。
「殺したりはしません。文句を言うだけです」
きっぱりと言い切った少女に、ガンダルフは「まったく…」と苦虫を噛み潰したような顔になった。





ハンカチは高空で鷲へと形を変えた。
それもいままでの鷲ではない。
翼を広げた大きさが、これまでの三倍は大きかったのだ。
子供ならばその羽ばたきで吹き飛ばされてしまうだろう。
そして大人であっても、大きさと鋭さを増した嘴や爪を防ぐことは不可能だと思われた。
「お久しぶりです。わたしのこと、覚えていらして?」
空からの声が降ってくることに、エオメルとレゴラス、それにガンダルフ以外は唖然となった。
彼女の声は冷たい怒りを秘めている。
剣呑な空気がその場に漂う。
「一年前、あなたに会った時に殺しておいたら、こんなことにならなかったのに、と何度も考えました。もしも時間が戻せるのなら、故郷へ帰ることよりも、あなたへの復讐を優先させますわよ、今のわたしならばね」
地上の男たちはに注視する。
しかし、少女の唇は合わさったままで、そこから声は聞こえないのだ。
成り行きをはらはらと見守る者。
ただただ驚く者。
どういう仕組みになっているのかと興味津々と見つめる者と様々だ。
「貴様…」
サルマンは後ずさりながら空中の鷲を睨みつける。
下を見下ろしたいのだが、鷲の翼が邪魔なのだ。
それに、滑らかに人の言葉を発する嘴が、己の目を狙っているように見えてならない。
「貴様の力はすでに見切っておる。このような虚仮脅しでわしをどうにかできるとでも思ったか?」
鷲はその答えを鼻で笑うことで返した。
「杖を失った魔法使いと、力のほとんどを行使できない魔女、どちらが強いか興味がおあり?やってみましょうか」
鷲は力強く羽ばたき始める。
縦横に、時にはサルマンのすぐ側を掠めるように鷲は飛んだ。
サルマンは腕で顔を庇い、杖の破片で鷲を打ち払おうとするが、しかしそれはかすりもしなかった。
「あら?」
屋上の騒ぎが気になったのだろう。
恐々と顔を覗かせたものがいた。
「陛下、グリマがいました。話をされますか?」
はそれが誰かわかると、鷲ではなく自身の口でセオデンに伝えた。
「グリマが?」
セオデンは我に返ったように目を瞬かせた。
「そうしよう。しばらく鷲を遠ざけてくれるか?」
が頷くと、すぐに鷲は塔から離れて旋回をしだす。
「グリマ!グリマ!」
セオデンが声を張り上げると、おどおどとグリマが顔を見せた。
相変わらず青白いその面には、不安の色が浮かんでいる。
セオデンは瞬間的に湧き上がった怒りを一拍置く事でやり過ごし、グリマに呼びかけた。
「グリマよ、もうそやつに従う必要はない」
グリマはびくりと身を震わせた。
「お前もかつてはマークの男であっただろう。降りてくるのだ」
セオデンの目は決然としていた。
憎しみが消えたわけではない。裏切りを許したわけではない。
息子を殺された父でもある彼は、だが王でもあったのだ。
戦が終わり、勝利した今はグリマをマークの法で裁かねばならない。
恨む心のまま、私刑にするのはたやすい。
しかし王たる彼がそれをやっては民に示しがつかなくなる。
「降りて来い。サルマンの呪縛から自由になれ」
セオデンが再び呼ばわると、グリマは目を潤ませて頭を下げた。
「自由だと!こやつに、自由などない!」
サルマンはグリマを突き飛ばす。
「下がっておれ!」
一喝されると、グリマはじりじりと座ったまま後ずさった。
しかしその目には自分を捉えて離さない主への恐怖よりも怒りの方が勝っていた。
不穏な空気を察して、鷲は塔の天辺に降り立った。
羽ばたきによって生じた風に、立っていたサルマンは吹き飛ばされそうになる。
「残念」
そう言ったのは地上にいるのほうだったが、彼女はさらに塔の上の魔法使いを追い詰めるようなことはしなかった。
代わりに、金色の鷲の目をグリマに向けた。
「やめなさい。取り返しがつかなくなるわよ」
鷲の目は、グリマの手にこっそり握られていたナイフを見つけたのだ。
サルマンもそれに気付き、鷲が彼とグリマの間を隔てているのも構わず、グリマに近づき締め上げた。
「ひ、ひいっ!」
「離しなさい、サルマン!」
が制止するが早いか、その大きな翼で二人もろとも叩きつけたのだ。
サルマンとグリマはごろごろと転がったが、塔の天辺に等間隔についている鉄の棒に支えられ、落下は免れた。
だがサルマンの袖口から大きな水晶玉のようなものが転がり、地上にいるから少し離れた水面に落下して盛大な水しぶきをあげた。
「暴れるならこのまま突き落とすわよ」
仁王立ちになった鷲の鋭い爪が石の床に当たって金属のような音を立てる。
呻きながら顔をあげたサルマンは憎憎しげに鷲を睨みつけた。
「グリマ、さあ」
鷲が首を捻る。嘴は、階下へ降りるための出入り口を指していた。
「…なんだ?」
意味がわからずグリマは問い返す。
「何って、降りないの?」
「…私を許すというのか?」
当然のように言う少女に、信じられないとグリマは呟く。
「まさか」
だが鷲はにべもない。
「そんな気分にはとてもなれないわ。わたしだけじゃない、マークへ戻ったらあなたに辛く当たる人もいるでしょうよ。だけど…」
鷲は言いたくなさそうに首を回す。
「だけど、それでも罪を償う勇気があるのなら…戻ってきなさい」
「…償う勇気?」
グリマは力なくうな垂れる。
鷲はその様子を逐一眺めていた。
「わたしは、とても今のあなたに優しくすることはできない。あなたの裏切りが、セオドレドを、多くの民を、兵を、殺すことになったのだもの。だけど立ち直るつもりがあるのなら、その邪魔だけはしないと約束するわ」
鷲は促すように翼を広げた。
「サルマンが妙な真似をしないように、わたしが見張っています。さあ、降りて、グリマ」
グリマは鷲とサルマンとを交互に見やる。
はグリマが決断するのを辛抱強く待った。

「駄目だ」
しばらくして、小さな呟きが聞こえた。
「グリマ?」
「無理だ、私には…」
グリマは何かから身を守るかのように頭を抱える。
「降りないの?」
「とても償いきれない。許されるわけがない…!」
グリマは身体を震わせ、嗚咽しだした。
「ならば、このままサルマンと共にいるというのですか?」
の問いに、グリマの顔が恐怖に歪んだ。
「嫌だ!もう嫌だっ!」
は鷲から意識を戻してセオデンに助けを求めた。
もう自分では説得ができないと判断したのだ。
「あの鷲でグリマを下ろす事はできるか?」
セオデンの答えは簡潔だった。
「この大きさなら可能でしょう」
は頷くと再び鷲に意識を向け、翼を広げてグリマににじり寄った。
「止めてくれ、止めてくれ!」
「降りれないならようだから下ろしてあげるだけです。暴れないで、余計な怪我をしますよ!」
「駄目だ!戻る事などできない。止めてくれ!」
「グリマ…」
ため息をついて、鷲は翼を元に戻す。
「わたしたちも、いつまでも待っていられるわけではないのですよ?」
「うう…。駄目だ…。駄目だ…」
グリマは顔を覆ってさらに激しく泣き出した。
肩を叩かれて、は地上に意識を向ける。
ガンダルフだった。
「しかたがない。グリマはそのままにしてわしらは戻るとしよう。サルマンが塔から出るのは阻止せねばならぬが、グリマはもしここから出たくなったらそうすればいい。木の鬚よ、サルマンの見張りを頼めるかね?」
「むろんだとも、エントたちが気をつけておくよ。あいつがわしらを苦しめた年月の七倍の時が流れようと、わしらはあいつを見張る事に倦みやせん」
木の鬚は不思議に響く低い声で請け負った。
は鷲の口でグリマに語りかける。
「聞こえたでしょう?そういうことになったわ。…気が向いたら降りてきなさい。元気でね…っていうのは、少しおかしいかしら?」
もう役目は終わったと、はハンカチにかけていた術を解く。
「じゃあね」
鷲の姿はあっという間に掻き消え、その場には生成りの、血の染みがついたハンカチだけが残された。
グリマは夢から覚めた人のように、ぼんやりとそれを見つめていた。






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