ひとりになったのは初めてだな。
メリアドク・ブランディバックは心の中でそっと呟いた。










彼が願ったこと










(まったく、ピップときたら!)
メリーは気持ちに余裕が出来た途端、不安も心配も恐怖もどこかへ飛んで行ってしまった。かわりに軽はずみな親友に対する憤慨が溢れてくる。
もっともそうなったのも魔法使いたちを見送って、朝食も食べた後だったが。
(ガンダルフが寝てる間にこっそり水晶を盗るなんて。面倒なことになるってことはこれまでの経験からだってわかってただろうに)
それでもそうせずにはいられないのがペレグリン・トゥックだということを、付き合いの長いメリーには嫌というほどわかるのだが。
しかしおかげでどうやら敵に見つかってしまったみたいだし、ガンダルフにはしこたま怒られるし、その上どこかに行ってしまった!
それは、サウロンに見つかったピピンを守るためだということは理解できるし、ガンダルフが付いている以上、最悪の事態は防げるだろうという思いはあった。
それに危険の度合いでいえば、やはりピピンよりもフロドとサムの方が上だ。
あの二人は敵の懐に飛び込もうとしているのだから。
それでも、こんな風にみんなばらばらになったことなんて今までなかった。
ホビット庄では、たとえどんなにお天気が悪くて外に出ることができなくっても、喧嘩をしてしまって顔を合わせたくないと思っても、長続きなんてしなかった。
部屋の中で一人でくさくさしていても、ちょっと待っていれば皆と会えたのだ。
なのに、もう、誰もいない。
ここは大きい人たちの館で、ホビットは自分ひとり…。
いいや、とメリーは頭を振った。
確かにホビットは僕一人だけど、エルフだってレゴラスしかいない。ドワーフも、ギムリだけだ。馳夫さんは大きい人だけど、ここでは余所の人だと見られているし…。
そう言い聞かせたが、メリーは拭いきれない孤独感に泣きたい気持ちになった。
草原の彼方にピピンを乗せた飛蔭が見えなくなるまでずっと物見櫓の上で見送った。
それからテーブルと囲んでのせっかくの朝ごはんも―それも糧食でもなく、あの忌々しいオークの飲み物でもない、ちゃんとした食事だ―ろくに喉を通らない始末。
食事を楽しめないホビットなんて、ホビットじゃあない。
そう思ったものの、あのにぎやかで陽気で、ちょっと考えが足りない相棒がいないことが寂しくて仕方がないのだ。
それに、ピピンがいないと、この大きい人たちの館で、何をしていいかちっともわからない。
広間の中央では、アラゴルンがこの国の王と要人たちと共に難しい顔でなにやら真剣に話をしている。
彼らから少し離れたところでは、レゴラスとギムリが話し合いを眺めていた。
会議を聞いてはいるようだが、話し合いに加わる気はないらしい。
そしてメリーは彼らからも離れたところにある椅子に腰掛けていた。
こうしておけば、あまり上を見上げずに彼らの様子を眺めることができるからだ。
だが、メリーは視線を彼らから反らせると、しょんぼりとうな垂れた。
遅かれ早かれ、アラゴルンとレゴラスとギムリは戦いに行くのだろう。
ローハンの騎士たちと行動を共にするかはわからないが。
だが、きっと自分は置いていかれる。
ここは大きい人たちの国で、安全だから。
小さくて戦えない自分は、足手まといだから。
(だけど、そんなのは嫌だ!)
メリーはぎゅっと両手を握りしめた。
(僕だって旅の仲間の一員なんだ。仲間が皆、危険に向かっている時に、僕だけ安全なところで一人で待っているだけだなんて…)
同時に思い出したのは、もう一人の大きい人――。
(ボロミアさん…)
指輪の力に飲み込まれ、命果ててしまった人。
アラゴルンとは意見が合わないこともあったが、だが優しい人だった。
お荷物だった自分やピピンの面倒を見てくれて、剣も教えてくれた。
そして自分とメリーを守りながらオークの軍勢と戦い…死んでしまった。
その最後を、自分は見ることができなかったけれど。
こんな風に、知らないところで仲間が死んでしまったらどうしよう。
浅瀬にあった塚のように、すべてが終わって、もうどうあっても超えることの出来ない世界に別たれてしまったと、思い知らされるのが怖い。
それくらいなら、自分も皆と共に危険を共にしたい。
たとえ、一緒に死ぬくらいしかできないとしても…。
「暗い顔をしておいでだな。ホビット殿」
「王様…?」
ふっと目の前に影がよぎったので顔を上げると、そこにはセオデンが気遣わしげな表情を浮べて立っていた。
いつの間にか、会議は終わっていたようだ。
「無理もない。そなたたちが仲のいい友人たちだということは、余にもすぐわかったほどだからな。見知らぬ土地で一人残されるは、心細かろう」
「あ、いえ、馳夫さんたちもいますから…。でも、ええ、そうですね。僕とピピンは親戚だということもあるますが、小さい頃から一緒にいたんです。あいつがいないなんて、変な感じです。なんだか、本当のことではないようで」
セオデンは近くに空いている席に座る。
「ペレグリン殿にも我が館に滞在していただくはずだったのだがな…。余の傍らで心ゆくまで話を聞かせてもらいたかったが…。しかしそなたと余とで、話をしようではないか。時間の許す限りだが」
「…よろしいのですか?」
メリーはいささか呆気に取られて、思わず聞き返してしまった。
初めてアイゼンガルドで会った時に、そんなことも言っていたような記憶があるが―なにしろあの時は酔っ払っていたので、記憶が定かではないのだが―まだ問題は山積みで、忙しい人であるはずの王が自分を気にかけてくれている。
それだけでもメリーにとっては思いがけなかったのだが、「無論だとも」と答えた王その人が威高くも優しげな笑みを浮かべていたため、胸が一杯になった。
「僕…、僕は、ただ皆さんのお邪魔になっているだけなのだと思っていましたが…」
「何を言う。アラゴルン殿は多くを語らなかったが、そなたは勇敢なホビットなのであろう。わが国は合戦に勝利したが、いつまた禍に巻き込まれるとも限らん。いや、もうすぐそこまで来ているのであろう。それまでの間だけでも、美しき我が館でゆっくりしていただきたい」
「お、王様!」
メリーは感極まって立ち上がり、潤んだ目でセオデンを見上げた。
気休めではなく、セオデンが本当に自分のことを気にかけているのだと感じたメリーは、彼のために何かしないではいられなくなったのだ。
「僕も剣を持っているんです」
メリーは黒鞘から剣を引き抜くと、それを両手で捧げ持った。
その剣は裂け谷に行く途中の塚山丘陵で手に入れた剣だった。
本当は人間用の短剣なのだが、ホビットにはちょうどいいサイズだったのだ。
塚人に襲われた事も、トム・ボンバディルに助けられた事も、ずいぶん遠い過去のことのように思える。
しかしあれから長い旅をして、メリーはこうして人間の国にいるのだ。
「どうか、僕を陛下の騎士の一人にお加えください」
跪いて見上げるホビットを、セオデンは驚いたようにわずかに目を見開いたが、少年にしか見えない小さい人の目に切実なものを見つけ、ふっと笑んだ。
「喜んで受けよう。そなたをこれよりローハンの騎士見習いといたそう」
セオデンは両手をメリーの小さな頭に乗せ、祝福を授けた。
「ありがとうございます」
屈託のない笑みを浮かべてメリーは立ち上がった。
「そなたの身の丈に合いそうな鎧や冑を探させよう。さあ、余と共に来なさい」
セオデンも立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
メリーは慌ててその後を追い、そして忘れないうちに声を張り上げた。
「殿。殿を父ともお慕い申し上げます!」










広間を去ってゆく王と新たな騎士見習いとなったホビットを見送りながら、エオウィンは微笑ましい気持ちになった。
(わたくしたちがこの館に来たときも、あのようだったのかしら…?)
メリーは小さいが金髪で、くるくるした巻き毛がロヒアリムのようでもあったのだ。
黄金館に来た当時のエオメルは、あのくらいの背丈だっただろうか。もう少し大きかっただろうか。
どちらにしても、セオデンの後を追いかけてゆくメリーは、幼い頃の自分たちを思い出させる。
軽やかな気分で人の姿がまばらになった広間を出た。
彼女の仕事は午前中であらかた片付いたため、しばらくぶりに自分の時間が持てそうなのだ。
すでには自分の部屋に戻っている。
もっとも、彼女は寝不足で倒れそうだということであるが。
扉を開けると、暖かな光とともにまだ冷たい風が吹き付けてくる。
本格的な春が訪れるにはもう少しかかるだろう。
そんな中、エオウィンの視線は石段に座っている黒髪の男に吸い寄せられた。
(アラゴルン殿…)
彼は口に細長いものを咥え、時折煙を吐き出している。
それが何なのかエオウィンにはわからないが、男の顔つきが物憂げで、厳しいものだったため、エオウィンには近づくことができなかった。
(お考え事の邪魔をしてはいけないわね…)
そう思いつつアラゴルンの眼差しを追うと、そこはエドラスの外に広がる草原で、既に到着している軍団がテントを広げていた。
すでに四分の一は集まっただろうか。
これほど大勢の軍団がエドラスに集まったことは、自分の覚えている限りではないことだった。
不謹慎だが、大きな祭りの前のようでわくわくする。
テントの間を縫って、馬が繋がれ騎士が行き来し、煮炊きの炎の煙が青空に吸い込まれてゆく。
彼方にはこちらに向かってきている軍勢が黒い点のように見えた。
これからもっと集まるのだ。
今回の召集はどこへ向かう事になるのか、現在ではまだはっきりしていないという。
西は落ち着いたが、北から攻められるかもしれず、またゴンドールに向かうかもしれないというのだ。
(わたくしも、彼らと共に行ければいいのに…)
エオウィンの目は再びアラゴルンに戻る。
彼らと共に、ではなく、アラゴルンと共に行きたい。
そう自分が考えていることに思い当たり、エオウィンはほんのりと頬を染めた。





夕食の時間になってもは起きてこなかった。
呼びに行こうかとも思ったが、セオデンが「疲れておるのだろう。ゆっくりと休ませてやりなさい。食事は後で部屋へ持って行けばよかろう」と言ったため、彼女を抜かして食事を始めた。
途中、デオルヴィネが一礼をしてセオデンに耳打ちをする。
彼はハマの後任として近衛隊長になった男だった。
と、王の顔が厳しいものに変わった。
「どうかなさいましたか?」
伯父の変化にすかさずエオメルが訊ねた。
「わが国の軍団ではないものが近づいているそうだ」
セオデンの発言に、和やかな雰囲気は一遍に緊張を孕んだものに変わった。
エオメルやアラゴルンは気色ばみ、メリーはごっきゅんと喉を鳴らして食べ物を飲み込んだ。
ギムリは鬚についたビールの泡を拭う。今にも斧を掴みそうな勢いだ。
「敵でございましょうか?」
「それにしては人数が少なすぎるようではあるがな。三十人程度だそうだ」
エドラスで戦いになるのかと、エオウィンが危ぶんでいたが、セオデンは力強く言葉を続ける。
「エドラスにはすでに三千を超える騎士たちが集うておる。そればかりの人数では戦いにはなるまい。しかしもし彼らが旅人であるのなら、城下に集った騎士たちと競り合っては気の毒というもの。デオルヴィネよ、近衛隊を率いて、彼らの様子を見張って参れ」
デオルヴィネが一礼をして去ると、セオデンは一同を睥睨する。
「戦いにはならぬと思うが、このような時代だ、最悪の事態も考えねばならぬ。皆、できるだけ早く食事を済ませてくれ」



食事はそれから十分もしないうちに終わった。
終えたものから次々と立ち上がり、館の入り口へ向かう。
エオウィンも遅れじと兄の後をついていった。
城下に広がる草原に軍勢が大勢集っているせいか、エオメルには特に止め立てられなかった。
すっかり日の暮れたエドラスの城下には、家々の明かりが灯っている。
それだけではなく、エドラスを囲むように野営の炎が大きな星のように揺れていた。
これが戦の前であれば消してしまうのだろうが、そうしてしまわないのは威嚇の意味もあるからだろう。
目を凝らすと、少数に一団が確かにこちらに向かってきていた。
もうすぐ近衛隊を引き連れたデオルヴィネたちと出会ってしまうだろう。
敵か味方か見極めようと、皆が一点を眺めていた。
「レゴラスの旦那。あんたにはあれが何かわかるかね」
ギムリが隣に立つエルフの青年に訊ねる。
レゴラスは真っ青な目を瞬かせた。
「少なくともオークではないよ。人の子だ。だけどフードを目深にかぶっているからなあ…。あ、デオルヴィネ殿が彼らに声をかけたよ」
「…聞こえるのですか?」
エオメルは怪訝そうに問い返す。
彼はエオメルたちから見れば後ろを向いており、声をかけたかどうかまではここからはわかるものではない。
しかしレゴラスの言うとおり、一団はすぐに馬のスピードを下ろしたのだ。
「…聞こえたのですね」
納得したようにエオメルは呟いた。
「ええ。私たちエルフはとても耳がいいんです」
レゴラスはにっこり笑ってエオメルの方を向く。
「あれー?」
そして再び草原に視線を戻したレゴラスはすっとんきょうな声をあげた。
「どうした、レゴラス」
聞いたのはアラゴルンだった。
レゴラスはふっと微笑む。
「君へのお客だよ。アラゴルン」





彼らが眺めている間にも、デオルヴィネが先頭となり、近衛隊と謎の一団を率いて館に戻ってきた。
門の中に入ると、馬から降りて手綱を引く。
近衛隊であることを示す深い緑のマントは、夜闇には溶け込みやすい色合いだが、一団のマントはそれ以上だった。
誰もが黒に近い灰色のマントを身にまとっている。
ふいに一団の中の一人が目深にかぶっていたフードを下ろした。
「ハルバラド!」
アラゴルンが叫ぶ。
セオデンが片方の眉を上げた。
「やはり、ご存知の者なのかな?」
アラゴルンはセオデンに向き直って答えた。
「彼らは私の身内なのです。遠い北の国から馳せ参じてくれたとは…。だが、なぜ彼らが来てくれたのかは私にはわかりません。来て欲しいとは思っていましたが」
セオデンは頷く。
近衛隊長はセオデンたちの前に来ると、一礼をして王の様子を窺った。
「ご苦労であったデオルヴィネよ。そして新たなる客人方よ。そなたらはこれなるアラゴルン殿の輩であると聞き知った。相違はないか?」
ハルバラドと呼ばれた男は胸に手を当てて礼をした。
彼はアラゴルンよりも少し年上のように見え、厳つい風貌に濃い色の鬚が生えていた。
「わたくしはハルバラド、北の国の野伏です。我らが族長であるアラソルンの息子アラゴルンを探して参りました。ここにいるのは一族の中でも急遽呼び集める事ができた三十人です。そして裂け谷のエルラダン、エルロヒアのご兄弟が戦いに赴くことを望まれて、我らと共においでになりました」
一拍置くと、ハルバラドはアラゴルンに顔を向けた。
「裂け谷の主より、あなたへの言伝を預かっております。そして我らはこれよりあなたと行動を共にします」











エオウィンは立て続けに起こった衝撃で、すっかり混乱してしまった。
セオデンの厚意で野伏の一団は広間へ通され、族長たるアラゴルンと情報を交換しあう。
その後、食事がまだという彼らのために遅い夕食が用意された。
その頃にはも起きてきたので、彼女も共に食卓を囲む。
その折にアラゴルンは、自分は死者の道を取ると言い出したのだ。
エオウィンは愕然とした。
死者の道に入ったら二度と生きて出られない。
館に来たばかりの幼い頃から、彼女はずっとそう聞かされてきたのだ。
無論、実際はそんなことはないのかもしれない。
しかしエオウィンはつい最近、死者の道に近い馬鍬砦へ行ったのだ。
大勢を率いての旅でもあったし、たとえ時間があっても自分がそこに近づこうとしたかはわからないが、荷運び用に連れて行った馬たちが、山の谷間から吹いてくる風にひどく怯えていたことだけが印象的だった。
そこへアラゴルンが行く。
エオウィンやエオメルの制止は、彼の決心を翻させることができなかった。
しかしそれも理由がわかってしまえば止める事などできないことが理解できてしまう。
彼はゴンドールの失われた王家の末裔だったのだ。
その事実はエオウィンに喜びとともに苦痛をもたらした。
エオウィンはエオル王家の姫だ。いくら英雄であろうとも、素性の知れない外国人であるアラゴルンとの恋をすんなり認めてもらえるものではないかもしれない。
だがアラゴルンも王家の血筋であれば、そのようなことは問題にもならないのだ。
しかし彼の国は、ゴンドールはもうじき敵に攻められてしまうという。
それを阻止するために彼は故国へ向かうのだ。
ならば、最悪、彼は二度と戻っては来れまい。
それに、セオデンが。マークの軍勢もゴンドールを助けるために明日にも出発をするというのだ。
アラゴルンだけではなく、セオデンもエオメルも、親しく顔を合わせていた騎士たち全てがいなくなってしまうのだ。
(そんな…。そんなのって…)
あまりにも急な出来事に、エオウィンの目の前は真っ暗になった。






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