限界
食事が済み、暇を告げ部屋に戻るアラゴルンたちにエオウィンは付き添っていった。
「足りないものはございませんか?アラゴルン殿」
務めて冷静な声で訊ねる。
だが内心は焦りと不安とが混ざり合っていた。
行ってしまうのだ、彼は。予見によって、定められた道へ。
死者の道へと。
「充分です。姫君」
アラゴルンは灰色の目でエオウィンを見つめる。
きゅっと胸が締め付けられた。
行かせたくない。
失いたくない。
だが、これほど一徹に己が使命を遂行しようとしている者を、どうやって止める事ができるというのだ。
「お願いがございます」
エオウィンの口は自然と言葉を紡いでいた。
「殿が危険な道をあえて取ろうとなさっていることはすでに充分聞きましたし、それを止めるつもりはございませぬ。ですが、どうかわたくしもお連れくださいませ。わたくしは剣を扱う事ができます。馬に乗ることもできます。陛下のお身体がご回復なさった以上、わたくしは思うさま自分の人生を送りたいのです。危険と戦闘の中に。…名誉のために」
アラゴルンの目が見開かれる。
「自らの思うように人生を送って名誉を損なわぬ者はまれです。ですが、姫君。国王は早ければ明日にでも軍勢を率いてゴンドールに向かわれます。王と、エオル王家最後の男子であるエオメル殿がいなくなられたあと、誰が民をまとめるのですか?選ばれるのはあなたではないかもしれない。だが王家の姫君が民を見捨てて戦場に向かわれたならば、彼らはどれほど失望するか…。王も王に連なる血筋の者も、すべていなくなってしまった国というのはもろいものです。あなたは民の希望とならねば」
彼は聞き分けのない幼子に言い聞かせるようにした。
王のいなくなった国とは、ゴンドールに他ならない。
そしてアラゴルンは、失われた王家の末裔なのだ。
「そうしてわたくしは騎士たちが出陣して行く時、残されなければならないのですか?殿方が巧妙手柄を成し遂げていつ間に、家を守り、みなが戻ってくると食べ物と寝場所の心配をするのがわたくしの勤めだと?わたくしの役割は家の中にあり、そこから出るなと?そして男たちが戻ってこなかった時には家とともに焼かれてしまえばいい。なぜなら、男たちはもはや家を必要としないのだから…!」
エオウィンは話している間にどんどん興奮しだした。
「落ち着かれよ、姫君」
アラゴルンは彼女の両肩を掴んで軽く揺さぶった。
「わたくしはエオル王家の一員です。召使い女ではございませぬ。わたくしは、死も苦痛も恐ろしくはないのです!」
つうっと涙が一筋、エオウィンの頬を伝った。
アラゴルンは戸惑ったような表情を浮べる。
「姫よ、あなたは何が恐ろしいのです?」
「檻です」
エオウィンは即答した。
「柵の後ろに留まることです。慣れと老年がそれを容認し、すぐれた功を立てる機会が去って、呼び戻すことも望む事もできなくなるまで、柵の後ろに留まることです」
アラゴルンは片手を外して嘆息した。
「そうおっしゃるあなたは、私の選んだ道は危険だからという理由で、あえて冒険しないように忠告されたのですね」
エオウィンは生真面目に答える。
「誰でも、他人にはそう忠告するものかもしれません」
そして、どこか開き直ったように眦を決してアラゴルンを見つめた。
「ですが、わたくしは殿に危険から逃れよと申しあげているのではなく、殿の剣が功名と勝利を勝ち取られるが必定の戦いに向かわますようにと申し上げているのです。気高く優れた方の命がむざむざ捨て去られるのを、見たくはございません」
エオウィンは話している間にも自分の考えがさらに固まっていくのを感じた。
アラゴルンを愛している。
そしてその男は戦いに赴くためにここから去るのだ。
ローハンの軍とも決別して。
ならば、自分も一緒に行こう。
その先に死が待っているのだとしても、愛するもののためならば、惜しくはない。
「私とてそうです」
しかしアラゴルンはぴしゃりと撥ね付けた。
「だからこそここにお留まりなさい。あなたは南へおいでになる用をお持ちではないのですから」
エオウィンはそれでも食い下がった。
「殿についておいでになる他の方々とて同じではありませんか。あの方々は殿から離れたくないばかりについておいでになるのです。――殿を愛していらっしゃるからこそです」
だからこそ、自分もと、エオウィンの遠まわしの告白に、アラゴルンは悲しげな顔になる。
そして小さく首を振ると、
「なりません、姫君」
と言って部屋の中へ消えていった。
翌朝、アラゴルンを見送るために早起きをしたメリーは、眠い目をこすりながらも暗鬱とした気分に襲われていた。
この旅を始めてから散々な目にあってきたが、それでも仲間がいたこともあって辛い事もこらえる事ができた。
しかし、ボロミアがいなくなり、フロドとサムは別行動をし、再会できたガンダルフはピピンを連れて去り、アラゴルンとレゴラスとギムリもこれからゴンドールへ。
ただ、ローハン軍はアラゴルンたちとは別行動になるものの、やはりゴンドールに向かうらしいというから、また彼らと再会することはできるのではないかと思う。
互いに無事であればの話だが。
アラゴルンたちと共に行くというのは、メリーの選択にはなかった。
それはとても並みの者が取れる道ではないということもあるが、メリーはセオデンに忠誠を誓った騎士見習いだからだ。
しかし、自ら望んで忠誠を誓うも、大きい人たちの国に一人だけ残ることに不安がないわけではない。
騎士見習いになり、あれほど膨れていた高揚感も、いまはすっかり萎れてしまっている。
「馳夫さん…」
広間から外へ出ると、すでに馬を引き連れたアラゴルンが、野伏たちと共に集まっていた。
セオデンやエオメル、それにエオウィンもいる。
それから、この国の人間とは雰囲気の違う濃い茶色の髪の少女も。
見送りに出ていたそれらの人の間を縫って、メリーはアラゴルンに近づいた。
アラゴルンはメリーの目線に合わせる様に膝を折る。
「さらばだ、メリー君。私はあんたが良き人の下に留まると知って嬉しく思うよ。レゴラスとギムリはこれからもまだ私と一緒に追跡をしてくれるだろう。だが、私はあんたのことを忘れないからね」
『忘れないからね』
その言葉がメリーの内側に刺さってズキンと痛んだ。
これでは、アラゴルンはもう自分と二度と会えないと思っているようではないか。
「さようなら、馳夫さん」
しかし、メリーは口には出さなかった。
無事でいられるかわからないのは自分も同じなのだ。
「さよなら、レゴラス。さよなら、ギムリ」
メリーは見上げるように背の高いレゴラスと、それよりは楽に顔を見ることのできるギムリにそれぞれ挨拶をした。
二人とも、いつもより神妙な顔でメリーにさよならと告げた。
「別れの挨拶は済んだようだの」
セオデンの言葉を受けて、エオウィンが歩み出る。
彼女は白いドレスに帯を巻き、剣を吊るしていた。
片手には葡萄酒を満たしている杯を持っている。
ゆっくりとアラゴルンに向かう彼女の頬は、早朝の冷ややかな空気に触れた以上に白く、唇はかみ締めたように色を失っていた。
凛と背を伸ばし、アラゴルンを見つめているが、その眼差しには張り詰めたものがあった。
エオウィンは杯から少し飲むと、アラゴルンに渡す。
彼女は一瞬、何かを言いかける様に口を開いたが、わずかな逡巡の後に唇を結んだ。
「お健やかに、ローハンの姫君。そして王家ならびに国民にご幸運のあらんことを」
そういうとアラゴルンは杯を乾した。
杯を返されたエオウィンは、一瞬泣き出しそうな顔になる。
しかし、そのことは後ろにいる身内たちにそのことは知られることはなかった。
太陽が雲の間を縫って高くなるにつれ、エドラスの門の前に集う騎士の数は増えていった。
平原はまだ枯れ茶色だが、ローハン軍であることを表す緑のマントがあちらこちらに翻り、時ならぬ夏の季節のように見える。
セオデンたちも今日のうちにゴンドールへ向けて出発するのだ。
しかし眼下を見下ろすエオウィンの目には、その光景はすでになんの感慨もなく映っていた。
彼女は疲れきっていた。
増え続ける騎士たちの世話を焼く事にではない。
どれほど心を砕こうとも、本当に欲しいものを得られないことにだ。
アラゴルンは行ってしまった。
そしてもう、彼がエオウィンを省みる事はないだろう。
彼女はふいに目頭が熱くなったのに気付いて、ぐっと堪えた。
自分が不安定になっていることには気付いていたが、それでも皆の前で泣き出すわけにはいくまい。
王家の姫としての矜持が、彼女を押し止めた。
そして彼女は踵を返して館の中へ戻っていった。
やらなければならないことはいくらでもあるからだ。
それを彼女は放り投げることはできない。
エオウィンは以前に指示してあった用意ができたことを聞かされると、メリアドク・ブランディバックを呼んだ。
騎士見習いとなった彼のために、必要な武具を用意するようセオデンに言いつかっていたのである。
小さな冑と丸い楯、それにベルトと皮の上着。
どれもこれも見習いが使うには細工が細かく美しい品だった。
実用品というよりも飾りもののように見える。
しかしそれも当然だった。
いくら勇猛果敢なロヒアリムとはいえ、戦に出るのは成年した男か、せいぜい成年間近の少年なのだ。
メリーの身長は、彼らの感覚では十歳程度でしかない。
そんな子供のための武具は普通は用意されていないのだ。
だから、これらは普通の防具ではない。
世継や軍団長となるのが約束をされている幼子のためのもの。
その昔、セオデンやセオドレド、それにエオウィンたちの祖父が幼かりし頃に儀式の時に身に帯びるために作られたものだったのだ。
とはいえ、式典用だからといって実際に使えないものを作るようなロヒアリムではない。
しっかりと実用に耐えられるものだった。
部屋に入ってきたメリーは、自分のために用意されたそれらを見て目を輝かせた。
そしてようやく、自分が騎士見習いであることを実感したのである。
「メリアドク。これはそなたのための装備です。長い剣はお持ちですから、短剣だけは用意しました。ただ、ここにはそなたに合う鎖帷子はないのです」
エオウィンは彼の喜びに水をさしそうだと思いながらも告げたが、メリーは気にしなかった。
エオウィンに手伝ってもらったメリーが武具を身につけると、なかなかの少年騎士が出来上がった。
しかし彼女でも片腕で抱えられそうなホビットは、やはり戦いなどまったく向いていないように見えるのだった。
着付けてくれた礼を言ってメリーは部屋を出てゆく。
これからセオデンに見せに行くのだそうだ。
「それならば、わたくしもご一緒します。陛下にはわたくしも用がありますし」
今後のことを、エオウィンはまだ多く聞かされていなかった。
おそらく今まで同様、館を取り仕切ることになるのだろうが、しかし今回は今までとは事情が違っていた。
王も軍も、戻らない可能性があるのである。
これほどまでに切羽詰った状況に陥ったことはない。
それを思うと、エオウィンはまた暗い気分に襲われるのだった。
広間は大勢の人でごった返していた。
出発に間に合うようにと駆け込んできた部隊がいくつもあったせいだった。
エオメルもセオデンも、報告を受け取っては指示を出している。
二人と話すにはしばし待たねばなるまいと、エオウィンは思った。
待っている間も、広間は多数の人間が行きかっている。
鞘が鎧と触れ合う音がひっきりなしに響き、忙しない足音が横切る。
ふと、エオウィンは思った。
これほど大勢の騎士たちの中で、自分以上の技量を持つものがどれだけいるのか、と。
うぬぼれているわけでも、彼らを見下しているわけでもない。
だが自分に並以上の技量があることを事実としてエオウィンは知っていた。
なぜなら、彼女の手合わせ相手はもっぱらセオドレドかエオメルであり、彼らは文句をいいつつも訓練には決して手加減をしなかったのだ。
二人の軍団長に鍛えられた騎士など、ここに集まっている騎士の中にだってそういるものではない。
「どうしてですか!?」
メリーの悲痛な叫び声にエオウィンは我に返った。
見ると、メリーは打ちひしがれた様子でセオデンを見上げている。
「僕は殿にこの剣をお捧げしました。僕はこんな風にお別れしたくありません。それに友人たちもみな戦場に赴きましたのに、なんでおめおめと後に残れましょう」
エオウィンはそれで合点がいった。
おそらく、セオデンはメリーにここに残るように言ったのだ。
「だが、我らの乗る馬は丈高く、足は速い。たとえどんなに勇気があろうと、このような獣に乗ることはそなたには無理だ」
セオデンは言い諭す。
しかしメリーは頭を振った。
「セオデン王。もしお側に留まれないのでしたら、殿はどうして僕を騎士に取り立てたりなさったのです」
メリーの必死な眼差しに、エオウィンは声に出さずに応援していた。
同行を拒否され、それでも言い募る彼の姿は自分のそれとよく似ているのだ。
「そなたを保護するためだ、メリアドク。そして余のいいつけどおりにしてもらうつもりでな。連れてゆく騎士たちは誰もそなたを荷物として抱えてゆくことはできぬ。もし合戦がわが門の前で行われるのであれば、おそらくそなたの功は吟遊詩人たちに記憶されるところとなろう。しかしデネソール候が治めるムンドブルグまでは百と二リーグもあるのだ。もうこれ以上は言わぬぞ」
メリーはまだ言いたそうにしていたが、セオデンの何物も撥ね付けてしまう眼差しに気圧され、しょんぼりとその場を後にした。
落胆したのは、彼女も同じだった。
それからようやくエオウィンがセオデンと話をすることができ、予想通り後のことを頼まれると憂鬱はこれまでにないほど彼女の内側を圧迫した。
二度と戻れぬかもしれないと、王その人の口から言われたのだ。
(それならば、遅かれ早かれマークは終わりではないの…)
叫びたい気持ちを堪えて、エオウィンは王命を拝した。
民を頼むと言われても、世界が終わるというならば、自分にどれだけのことができよう。
ふっと彼女の中の何かがぷつりと切れた。
エオウィンは王の前を辞すると、その足で自室に向かっていた。
刻一刻と近づいてくる別れに、は落ち着きをなくしていった。
セオデンは正午過ぎには出発すると告げている。
もうわずかしか時間は残されていなかった。
は不安に彩られた心を押さえるように、ショールの端をぎゅっと握って城門に向かう。
セオデンともエオメルともすでに別れの挨拶は済ませているが、できるだけ彼らの姿を目にしていたかったのだ。
門の外に出ると、見上げるほど大きな馬と、丈高い騎士たちが忙しなく動いていた。
朝にはまだ平原に広がっていたテントはもうほとんどなく、焚き火も消され、黒い燃えカスがそこここに残されていた。
騎士たちはに気付くと敬礼をするように軽く頭を下げる。
は目礼で返した。
エドラスや西の谷以外の兵士にとって彼女は馴染みのない存在だった。
だがあまりにもロヒアリムと違う容姿が、かえって彼女が誰であるかを教えてしまうのだ。
は重苦しい胸の内を吐き出そうとするように、深深とため息をついた。
これが式典や勝利の決まっている戦の前であるのなら、どれだけよいだろう。
出発前の勇猛果敢を絵に描いたような騎士たちの姿は、きっと心躍るようなものになったに違いない。
だが、はそんな場面を見たことがなかった。
少女がこの地へ来て一年になるが、いつだって彼らは死と隣り合わせていた。
そして彼女が知る者も知らない者も多くが失われていったのだ。
その中には、絶対に失いたくなかった者もいた。
角笛城の時ような奇跡が起こっていても、そうなのだ。
一体この中の何人が再び戻ってこれるのだろうか。
「こんなところまで出てきたのか?」
頭上から声をかけられて、は天を仰いだ。
いつのまにか隣には火の足にまたがったエオメルが、気遣わしげな表情で見下ろしている。
「ごめんなさい。じっとしていられなくて…」
がしおらしく答えると、エオメルは冑の下に手を突っ込み、頭を掻いた。
ただでさえきゃしゃな少女が心細げにしていると、風にかき消されてしまいそうなほど儚げに見える。
女の扱いに精通しているとはいえないエオメルにとって、どう言葉をかけてやればいいのか、見当もつかなかった。
「出発の刻限はもうじきだ。そうなったら一斉に軍が動き出す。危険だからもう戻った方がいい」
ようやっとでてきたのは、あまりにも無粋な忠告だった。
エオメルは己の無骨ぶりに歯噛みをする。
だがが小さく頷いて再びエオメルを見上げた時、少女の茶色の目が泣きそうに潤んでいるのを発見して、恐慌に陥りそうになった。
これが妹なら抱きしめ元気付けることだってできたが、彼女は違う。
はセオドレドの婚約者だ。
その途端、エオメルは内側から突き刺されたような悲哀を覚える。
彼女を残して逝かねばならなかったセオドレドは、どれほど無念であったかと。
たとえ、戦いで死ぬことにためらいはなかろうと、それとこれとは別だ。
名誉ある死は愛するものの幸福を奪う。
かつて父に死なれた自分がそうであったように。セオドレドを失った彼女がそうであるように。
「もう、戻りますわ。最後にお目にかかれてよかった…」
はわななく唇は、最後まで声を発することができなかった。
だがエオメルは彼女の唇が『どうかご無事で』と紡いだことを見逃さなかった。
は振り切るように背を向け、去ってゆく。
エオメルは見えなくなるまで少女の姿を見つめていた。
が館の入り口の、もっとも高い階段に到着したとき、草原から角笛の響きが鳴り渡った。
白い馬が描かれた緑の旗があちらこちらに翻り、先頭にいる隊から粛々と進み始めていた。
館の中からはばたばたと足音が近づいてくる。
振り返るまでもなく、それが館に残る女たちのものだろうとは思った。
と、目の端に革鎧が映り、は顔を上げる。
それは彼女の養父であるエルケンブランドだった。
彼はセオデン、エオメルのいなくなるマークを守るための軍の統括者としてこの国に残るのだ。
「行ってしまわれたな」
彼は誰にともなく呟いた。
「ええ…」
は頷き、袖で目元を拭った。
また涙が出てきそうになったのだ。
「エオウィンはどこへ行ってしまったのかしら」
は周囲を見渡したが、白の姫君の姿はどこにもなかった。
「お見送りに間に合わなくなってしまうわ」
「別のところにいるのかもしれないな」
エルケンブランドは暗い声で答えた。
「あるいは、見送りができないのかもしれぬ。…お辛すぎて、な」
草原の彼方に騎士たちが消えるまで見送ると、名残惜しそうにその場を立ち去った侍女たちはそれぞれの持ち場に戻ってゆく。
しかしいつまで経ってもエオウィンは現れなかった。
主だった宮廷人も騎士たちもいなくなった館は、現状を維持する以上の仕事はないと言ってもよい。
それでも最後のエオル王家の姫たるエオウィンは新たなマークの統治者として、残った民たちを纏め上げなければならなかった。
嵐の前の静けさで、今日明日中に大事件が起こるとは思えなかったが、しかし所在がわからないというのは困ると、は彼女を探し出した。
しかし行き逢った侍女たちも、厩の番人も、誰もエオウィンを見ていないと答える。
途中でユルゼに会ったは、エオウィンを探すように頼んだ。
もしかしたらどこか隠れた場所で泣いているかもしれないからあまり騒ぎ立てるなと念を押して。
だが館中を探し回ってもエオウィンはどこにもいなかった。
不吉な予感に、さすがの彼女たちも焦ってくる。
「エオウィン姫は見つかりましたかな?私もそろそろ出発のご挨拶を申し上げたいのだが」
広間の片隅で情報交換をしているとユルゼにエルケンブランドが近づく。
「エルケンブランド卿…」
ユルゼは困惑した眼差しを初老の騎士に向けた。
「どうかなさったのですか?」
「エオウィンがどこにも見当たらないんです」
が答える。
エルケンブランドはいぶかしげに片方の眉を持ち上げる。
「見当たらない?」
「ええ。どこにも。館中を見て回ったのですけど…。失礼かと存じましたが、陛下やエオメルさまのお部屋も探したのですけど…。どこにも」
エルケンブランドは義理の娘の答えに渋面を作る。
「最後に姫君を見たのはいつ頃だ?」
「わたしが見かけたのはまだ陛下が館の中にいた頃です。少し騒ぎがあったので覚えていますわ。ホビットのメリーが自分も行軍に加わりたいと嘆願していましたから」
「それ以降に見たものは?」
は首を振った。
エルケンブランドは顎に手を当てて考え込む。
「一度、姫さまの部屋へ行ってみよう。入れ違いになったかもしれぬのだから」
だがエオウィンの部屋には誰もいなかった。
火の気のない室内は寒々としている。
「やっぱりいない…」
が呟く。
ここには何度か探しに来ているのだ。
「あら…?」
「ユルゼ?」
女官長の声に振り向くと、彼女は壁を見つめて青ざめていた。
「どうかしたのですかな?」
エルケンブランドも不審を覚えて尋ねる。
「剣が、ありません」
「え?」
「姫様はいつもこの位置に剣を置いていらっしゃるのです。ですが、その剣がありません。盾も…」
はエルケンブランドと顔を見合わせた。
ふいにひらめくものがあり、少女はエオウィンの長持を開ける。
「、何を…」
止めようとしたエルケンブランドは、少女が取り出したドレスに絶句した。
それは今朝、エオウィンが着ていたものだった。
「着替えたんだわ」
「まさかと思いますけど…」
もユルゼも蒼白になる。
エルケンブランドもようやく思い至った。
「…ついて行かれたのか。ゴンドールへ」
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