「なんて無茶なこと…。ご自身の立場をお忘れになったか!?」
エルケンブランドは激情を押し止めるようにぎりりと唇を噛んだ。
は無言のまま、エオウィンのドレスを抱きしめる。
「姫様…」
ユルゼは蒼白になり、呆然と呟いた。
守りの力
衝撃から立ち直り、行動を起こしたのはエルケンブランドだった。
「いつまでもこうしているわけにもゆかぬ。館の者たちを集めよう。そして本当に姫様がいないのか、急ぎ確かめるのだ」
「ですが、セオデン王初め多くの方々が留守にしているこの時に、エオウィン様の不在が知れ渡れば、民は恐慌状態に陥ってもおかしくはありません。もう少し、様子を見たほうが・・・」
ユルゼは男の案に難色を示したが、エルケンブランドは断固と頭を振る。
「そのようなことは言ってはおれぬ。このことが我らの早とちりならばまだ良い。しかし、真実エオウィン姫が出て行かれたのだとしたら…。いつまでも隠しおおせるものではない。遅いか早いかの違いだけだ」
「………」
ユルゼは目を伏せ、両手を胸の前で組み合わせた。
悲痛なほどの嘆息が部屋の空気をますます重いものとする。
「とにかく、確認しないといけないのですね?」
立ち上がったは静かな口調で養父を見上げた。
「ああ。一刻も早く」
養父は養娘(むすめ)を見下ろし、頷く。
「では、館の方はお二人にお任せします。わたしは、鳥を飛ばしてみます。軍勢の中にエオウィンが上手く紛れ込めたとしても、いつまでも続くはずはないですもの。そこにいるのなら、必ず見つかるでしょう」
最初の衝撃が去ると、はてきぱきと物事を考え始めた。
ゴンドールへ向かう軍勢の中にエオウィンが紛れて付いていった可能性が高い以上、そちらも確認をしなければならないだろう。
彼らが出発してもう三時間は経っている。こうなると早馬を出すよりも、自分が術で鳥を飛ばした方が早い。
だが、の提案にエルケンブランドは渋い表情になる。
「まあ、確かにどれほど上手く紛れ込もうとも、休憩を一度か二度取ればさすがに見破られよう。どれほど上手く男に化けようとも、姫様は女性だ。知られぬはずはない。だからこそ、その必要はないと私は思う」
「…どういう意味です?」
エルケンブランドは苦笑いを浮べた。
「エオウィン姫が剣も乗馬も、たしなむという言葉では済まされぬほどの腕前の持ち主だということは誰でも知っていることだ。加えて現在の状況を考えれば、自暴自棄を起こして戦いに赴きたくなる気持ちも、わからんではない。だが、それだけのことだ。知られたところで姫様に無礼を働こうとする者はおらんだろう。そして見顕されたのならば、陛下やエオメル様にすぐに伝えられるだろう。ならば我らがここで気を揉んでいても仕方がない。お二人が良いように取り計らってくださるだろうからな。姫様の安全を思えば、エドラスにお戻りくださるのが一番良いとはわかっておるが、しかし隠れてついていった以上、説得も聞いてはくださるかどうかもわからぬ。さりとて、姫様一人のために軍勢が足を止めるはおろか、戻るわけにもゆかん。ならばこのまま行かせて差し上げた方がよろしい」
「そんな…!わたしが角笛城に向かったのとは訳が違うんですよ。危険過ぎます」
は養父を非難がましい目つきで見上げた。
「わかっている。しかし陛下といえども、エオウィン様を戦場に立たせるようなことはすまい。それに、もしも戦いが始まる前にミナス・ティリスに辿りつけたとしたら、かの石の都にお残しになるだろう。ならば危険の大きさは、マークに残るのと同じ程度でしかなかろうと、私には思えるのだよ」
「まあ、確かに、そうかもしれませんけど…」
はようやく頷いた。
「では、まず館に残った女たちを集めましょう。ここでこうしてわたくしたちだけで話していても、確実なことは何もわからないのですもの」
ユルゼが話を締めくくり、そして三人は場所を移動することにした。
館に残った人々が集合するのを待っていたは、段々とうす寒いものを感じてきた。
下働きから上級官まで、様々な立場の者たちが集ってきているものの、それはすべて女ばかり。
男は、剣が持てるものならば一度引退した老騎士から下男までが、全員がいなくなってしまった。
エドラス自体には子供や年を取りすぎて引退した元騎士などはいるが、館に住んでいるわけではないのだ。
頭では理解していたはずなのだが、実際に目にすると今がどれだけ異様な状況におかれているか、わかろうというものだ。
マークの男たちは文字通り、この国の盾であり剣となってマークを守ってきた。
そして今、その守りの力は同盟国を救うためにこの地を離れた。
エルケンブランドの隊が残っているとはいえ、防備は全盛時に比べればずいぶんと薄い。
不安を覚えないではいられなかった。
俯きがちになっていた目の端でエルケンブランドが動いたことに気がついて、は顔をあげた。
玉座の下に立ち、エオウィンを見たものはいないかと西の谷の領主は声高に訊ねる。
だが、ざわつくばかりで見たと言う者はいない。
「なぜそのようなことをお尋ねになるのですか。エルケンブランド殿。まさか、姫様がわたくしどもを置いてどこぞへ行ってしまったとでも?」
年かさの女官が声を上げる。
その言葉に、さらにざわめきは大きくなった。
だが、エルケンブランドは言葉を濁らせるようなことはしなかった。
「その可能性がとても大きいのだ。姫様の部屋にいつもあるという、ご愛用の剣と盾がなくなっていたのだ。そして、今日お召しになっていたドレスが長持の中に残されていた。このことが示す意味は、明らかだろう。だが、思いとどまられた可能性を捨てるのは早計だ。だからこそ訊ねているのだ。エオウィン姫を見たものはいないか、と」
広間は水を打ったように静まりかえった。
「…あの」
しばらくしてまだ若い女官が片手をあげた。
そばかすが目立つその娘はエオウィン付きの侍女の一人だ。
「なにか、知っているのか?」
エルケンブランドの厳しい口調に、彼女は恐縮する。
「いいえ、姫様の件ではないのですが、一つ、気になることがございまして…」
「なんだね?」
僅かに落胆したように肩を落としたが、それでもエルケンブランドは話を促した。
「実は、わたくし、姫様にホビット殿のお食事について任されておりまして。何でも、ホビットという種族は日に六回食事を取るのだとか。出来うる限りお国の習慣どおりにして差し上げなさいとのことでした」
「それで?」
話が見えないというように、エルケンブランドは眉を寄せ、首を傾げた。
「ですが、そのホビット殿の姿が見つからないのです。もうとっくに、昼食と夕食の間の食事の時間は過ぎていますのに」
「なんだって!?」
エルケンブランドはあんぐりと口を開けた。
「メリーまでいないの!?」
は少し背伸びをして人影の間にホビットの姿が隠れていないか、確かめようとした。
彼女の行動に、皆が一斉に前後左右を振り返る。
と同様にメリーがどこかに紛れているのではないかと思ったらしい。
だがやはりどこにも、あの金色巻き毛の小さい人の姿はないとわかっただけだった。
「メリアドク殿の荷物はどうなっていた?」
エルケンブランドはこめかみを押さえている。
立て続けの失踪劇にさしもの老将も頭痛がしてきたようだ。
は記憶を辿るように顎に手を当てる。
「メリーには荷物らしい荷物はないんです。仲間とはぐれた際に置いてきてしまったそうですし、その荷物もアラゴルンさんたちは持ってこなかったのですって。持ってゆく物が多いと、追跡するのに支障が出るからと言って。だから、メリーが持っているものは身につけていたものだけなんです」
「ううむ」
エルケンブランドは盛大に唸った。
「やはり、彼も隠れてついていったと考えるしかないのだろうか」
「ええ。メリーは一陛下と共に行きたがっていましたから…」
は今朝の出来事を思い出す。
自分を残すというのなら、なぜ騎士見習いにしたのかと問うメリーに、セオデンは保護をするためだと答えた。
としてもあんなに小さい者が戦場に出るなど無謀であると思えたため、セオデンの選択に異を唱える気はない。
それでも、仲間と同じように自分も危険と向き合いたいというメリーの必死な姿を思い出すと、胸が痛んだ。
「二人がいなくなったのは、示し合わせてのことなのか?それとも偶然なのか?」
エルケンブランドは呟く。
しかし答えを返せるものはいなかった。
彼は憂いを押し殺すようにきつく瞼を閉じていたが、ややあって目を開け、広間に集う全員を見渡した。
「こと、ここに至っては、覚悟を決めるしかなかろうな。エオウィン姫はゴンドールへ向かわれた。何らかの決着が付くまで、我らが戴きしエオル王家の者は戻ってはこないだろう。陛下方がお戻りになられるまでの間、あるいはお戻りになれなかった場合には、その先も続けてマークに残る国民を治める者を選ばねばならぬ…」
広間の空気が揺れた。
誰の顔にも動揺が現れている。
不安が眉をしかめさせ、恐れが身体を縮込ませていた。
一様に、すがるようにエルケンブランドを見つめている。
は彼らと自身との隔たりを痛感せずにはいられなかった。
エオウィンの不在はにとっては親しい友人が急にいなくなったというような感覚でしかない。
それであっても心配で仕方がないが、おそらく、ここにいる者にとってはそれどころではないのだろう。
ロヒアリムが長年主君と仰いできた血筋の者が誰もいなくなったのだ。
マークの、いや、ロヒアリムの歴史が始まって以来、ありえなかった出来事だろう。
世界がひっくり返ったと感じていてもおかしくはない。
その事実が堪えているのだろう。エルケンブランドも小さく息を吐いたが、決然とした表情になった声を朗と響かせた。
「セオデン王に代わって問おう。当面の我らの指導者に誰を立てるべきか。その者は新たなマークの王にもなりうる。心して答えてほしい」
広間は恐ろしいほどの静寂に包まれた。
その圧倒的な沈黙に、は威圧された。
思い起こせば、戦場へ赴くセオデン、エオメルの代わりにとエオウィンが選ばれた時にはまったく混乱した様子はなかった。
誰もがそれを当然と受け取っていたからだ。
しかし、王家の最後の一人である彼女がいなくなったということが、これほどまでに彼らに衝撃を与えている。
その恐ろしさには背筋が寒くなった。
ここで下手な統治者を決めてしまっては、たとえセオデンたちが無事に戻ってきたとしても、その前にマーク自体が瓦解しかねない。
しかし、誰からも異論のない者というものがいないというのが、問題をより深刻にしていた。
なにしろ、目ぼしい者は皆、戦場に行ってしまったので、この国に残っているのは女か子供か老人しかいないのだ。
「エルケンブランド卿。卿では駄目なのですか?」
根本的な解決にならないのは承知で、は問うてみた。
「それが無理なことはそなたも解っていよう」
エルケンブランドは静かに頭を振った。
「私はこれより、北と東の国境を守りに行かねばならぬ。当面、戻ってくることはできないだろう。もしも皆が望むのであれば、全てが終わった後に指名は受けよう。だが、今はできぬ」
「そう…ですよね。やっぱり」
は落胆した。
適任者がいない。
ならば最適ではないにしても、それなりに皆をまとめられるものを選ぶしかあるまい。
決まるまでは相当揉めることになるだろう。
は段々と憂鬱な気分に陥ってきた。
「誰も口にする勇気がないのかしら?みな、わたくしと同じ気持ちだと思っているのだけど」
はっと顔を上げると隣に立つユルゼが館の女たちを見据えていた。
女たちは女官長の威厳にたじろいで、気まずげに視線をそらす。
ユルゼはエルケンブランドを見上げる。
西の谷の領主も女官長を見下ろした。
視線が絡んだのは一瞬。エルケンブランドが小さく頷いた。
「私も、それしかないと思う」
「同意、感謝いたします」
ユルゼは軽く頭を下げた。
(???)
話についていけなくて、はかすかに眉根を寄せた。
だが焦ることはあるまい。
すぐにでも誰かが指名されるはずだとのん気に構えていたに、ユルゼは身体ごと向き直ってきた。
「わたくしは・レオフォスト姫をわたくしたちの指導者に迎えたく思います」
一瞬、は何を言われたのかがわからなかった。
というよりも、聞き間違いだと思ったのだ。
「……………え、と?」
は思わず間の抜けた声を発した。
「あなたに、わたくしたちを導いていただきたいのです。姫様」
ユルゼは一言一言、噛み締めるようにに言い聞かせた。
「………わたしが?」
の口元がひくりと強張る。
反応の鈍い少女に、ユルゼは辛抱強く答えを返す。
「ええ、あなたにです」
一瞬の間の後。
「どうして!?どうして、わたしなのよ!」
ものすごい勢いでは叫んだ。
しかしユルゼは真顔で返す。
「あなたがセオドレド殿下のご婚約者だったからです」
「そんなの…!」
驚きを通り越して呆れたは、盛大に被りを振った。
梳いただけの髪がばさりと翻る。
「もう、終わったことでしょう。どんなにやり直したいと思っても、あの人は帰ってこない。わたしが妃になることはもうありえないじゃない!」
「わかっております。ですが、わたくしたちは一度はあなたをマーク第一の女性になることを認めたのです。殿下が亡くなられたところで、その事実は変わることはありません」
「だからって無謀もいいところよ。わたしはこの国の生まれではないどころか、一年しかいないのに…」
叫び声は段々力をなくし、最後には口の中で消えていった。
自分がその任についていけないことははっきりしている。
しかしそれと同じくらいにユルゼも本気で言っていることがわかった。
は途方に暮れて肩を落とす。
だが、マークのためにもここで引き受けるわけにはいかないと思い直すときっと顔を上げ、腰に手を当て、女たちに食って掛かった。
「あなた達もあなた達よ。どうして何も言わないの?ことは全員にとって重要なことでしょう。王家だとか何とか言っている時ではないわ。非常時なのだから」
「姫様」
ユルゼはたしなめようと手を伸ばす。
だがそれより早くが振り返った。
「誰が選ばれるにしても、わたしほどその役にふさわしくない者はいないわ。わたしは、自分では自分のことに引け目を覚える必要なんてないと思っているけれど、でも、やっぱりこの国にとっては異邦人であることには変わりはないもの。わたしでは駄目よ。ユルゼ、あなたではいけないの?あなたは長年この宮廷を取り仕切ってきたのでしょう?わたしなどよりもずっと信頼されている。頼りにされている。慕われている」
懸命に言い募るに、ユルゼは目を伏せて頭を振った。
「それでも、わたくしは一介の騎士の娘、そして妻でしかなかった女です。エオル王家の代わりにはなれません」
「わたしだってそうよ」
「いいえ、違います」
二人とも、譲らない。
「少し落ち着いてくれぬか、二人とも。そしてよ。私からもお願いしたい。そなたが引き受けてくれないのであれば、誰がなっても同じなのだ。まとまらぬという意味でな」
「…わたしならまとまるとおっしゃるのですか?」
話に割り入ってきたエルケンブランドに、は疑わしそうな眼差しを向ける。
「他の者がやるよりは、な」
エルケンブランドは断言する。
「………」
だがは信じられないと言いたげに頬を膨らませた。
「我らは長きに渡ってエオル王家を仰いできたのだ。王家は国の父であり母よ。そして民とは子よ。親がいなくなってしまえば、子は迷うてしまう。このような影暗き時代には、平時よりも拠り所となるものが必要だ。でなければ、民の心はばらばらになろう。よ。そなたにとっては重荷だろうが、どうか民を見捨てないでほしい」
エルケンブランドは少女の肩に手を置き、切々と説いた。
途端、手の重みが胃の腑に直接伝わったかのような重苦しさを感じた。
は気まずくなって視線をそらす。
(無茶苦茶よ。わたしが王家の出身だとか、結婚して子供がいて、でもまだ小さくて、とかいうのならまだわかるわ。でも、全然そんなんじゃない。わたしはこの国の人間でもなければ、セオドレドの妃でもない。宙ぶらりんな存在なのに…)
そうまで彼らは切羽詰まっているのだろうか。
血も地も繋がらぬ自分を推さねばならないほどに。
『国を治めるにふさわしい人物』が必要だという思いは同じ。
なのにどうしてこれほど結論が違うのだろう。
胃の辺りにあった重苦しさが徐々に上まで上がってきた。
「卿のお考えは、よくわかりました。それに、皆が王家をどれほど慕っているのかについても。だからこそ、ここはより現実的な答えをみつけなければならないと思うのです」
ようやっとそれだけを搾り出すと、は養父をひたと見上げた。
「王家を尊重するあまりに高貴な連なりに連なり損ねただけの者にすがるのは、賢いこととは思えません。あなた方は勇敢な草原の民ではないですか。あなた方の中に、あなた方を導ける方が必ずいらっしゃいます。どうか、分別を働かせて、その方に任せてあげてください。わたしはこの国に迷い込んできただけの、ただの娘でしかないのですから」
これで引き下がってくれれば、とは天に祈った。
マーク生まれではないとしては、王家はなくとも国は続いていくものだということははっきりとわかっていることなのだが、彼らにそれを受け入れさせることも信じさせることも無理だろう。
民主制だの共和制だのといったことは、言葉を尽くして説明したところで、怪訝そうな顔をされてお仕舞いだ。
彼らにはそんなものを必要とはしていないのだ。
どんな制度でも上手く働いていれば問題がないという証でもあるだろう。
ただし、今のマークは現王家に拘ろうとするあまりに破綻しかかっているのだが。
「エルケンブランド卿。卿にしても、わたしを指導者にと望むのは、わたしにその才能があると見込んだからではないのでしょう?」
エルケンブランドは目を見開いた。
「欠けているところのない統治者になるだろうとは、さすがに思わぬが、ただ殿下の婚約者だったという理由だけで望んだわけでもないぞ。あまりにも資質がないと判断すれば、いかに私といえどもそなたを推そうとは思わぬ」
意外な返答に、はぱちくりと瞬きをした。
「たしかに、そなたには経験が足りぬ。エオウィン姫よりもさらに若いのだからな。そして、我らは愚かと言われようとも王家を捨てられぬ。なれば、双方、足りない部分を補い合えば良い。そなたは、民のためだと思って立ってくれ。皆がそんなそなたを助けてくれるだろう。それで充分なのだ」
はエルケンブランドの顔を凝視した。
そして深々とため息をつく。
抵抗しても無駄だとようやく悟ったのだ。
(そもそも、最初にユルゼが言い出した時点で、誰からも不満の声があがらなかったのだしね…)
良くも悪くもはっきりと物を言うのがロヒアリムだ。
自分が気に食わないのであればそう言っていただろう。
気付くのが遅かった。
ゆっくりと顔をあげて、広間に集まる人びとを見やる。
皆の表情は様々だ。
訝しげなものも、心細げなものも、心配そうなものもある。
信頼を受けての推挙でないことは自分自身がよくわかっていた。
しかし誰もがを見ている。
自分が結論を出すのを待っている。
はゴンドールに向かっているであろうエオウィンに思いを馳せた。
彼女も彼女なりに考えて、誰にも言わずに出て行ったのだろう。
何も相談されなかったのは悲しいが、その行動を起こしたこと自体を責める気には不思議となれなかった。
だが。
(せめて…書置きでいいから後継者の指名くらいしていってほしかった…!)
そうしたら、自分が選ばれるなどということは起らなかっただろう。
は腕が震えるほど強く拳を握った。
(帰ってきたら、いっぱい、いっぱい、文句を言ってやるんだからー!)
ここにはいない人へ心の中で盛大に叫ぶと、はようやく腹を括った。
「わかりました。引き受けましょう」
肩を抑えていたエルケンブランドの手が緩んだ。
「だけど、わたしは本当になにをどうすればいいのかすらわからないのだから、皆にも目一杯、手伝ってもらいますからね」
「ええ。もちろんです」
ユルゼは安堵の表情を浮べて微笑んだ。
それからすぐにエルケンブランドは自身の兵を引き連れて北へ向かうことになった。
は館の女たちと共に入り口で見送る。
家々の前にもやはり残された家族が出てきていた。
これから彼らも含め、マークを纏め上げてゆかねばならないと思うと、重圧で胃がひっくり返りそうになる。
館の維持ならばなんとかなろう。
だが、これからしなければならないのは政なのだ。
いくら人の数が減り、規模が縮小されているとはいえ、一国の舵取りを任されるなど、途方もないことのように思えた。
すでに引き受けたことを後悔しかかっている最中、角笛が吹き鳴らされては眼下に意識を戻した。
余韻が途切れるよりも早く、一団が動き出す。
土煙が収まると、馬や人が踏み荒らした痕が枯れ草にはっきりと残っていた。
静けさと相まって、それは一層侘しく見える。
しばらくすると、騎馬の姿は草原の彼方に消えていった。
人びとが三々五々に散ってゆくのを見計らって、も館に戻る。
広間を抜け、廊下を歩み、自室への道を歩き、その途中でふと足を止める。
このまま部屋に戻ってもどうしようもない。
今後の段取りを考えた方がよいだろうと判断した。
そこでユルゼを伴ってエオウィンの部屋に行き、鍵の束を探した。
それはすぐに見つかったので、手始めに文書庫に向かう。
これまで何をしてきたのかがわかれば、それなりに道は見えてくるだろうと思ったのだ。
足早に目的地に向かう。
文書庫に収められているのは重要な書類ばかりだ。
中に入るのは初めてだったのだ。
「………」
文書庫の扉を開けたは、あまりの光景に呆然となった。
そこには棚という棚に丸めた羊皮紙や革で装丁された書物がズラリと並んでいたのだ。
「どこから…手をつければ、いいのかしら…」
誰にともなく、は呟いたのだった。
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