結局、文書庫にはが早急に目を通す必要があると判断したものは何もなかった。
彼女が欲しているのは、このような非常時に当たっての采配の仕方や、用意しなければならない物のことだ。
だが、ない。
正確にいえば、あるのかもしれないのだが、それがどこにあるのかわからないのだ。
数が多いということもあるが、はマークの言葉を話すことはできても、読み書きは得てではないということに原因がある。
一般に、ロヒアリムは読み書きをすることはない。
それは平民のみならず、郷士や有力貴族においても同様だった。
必要なことはすべて口頭で伝えられる。
さすがに王家ともなれば重要な出来事を記す勤めもあるのだが、書き文字の使用者が著しく少ないマークでは、独自の書き言葉を持っていない。
ゴンドールで使用される文字が、長い年月を経てマーク風に変わってしまったものなのだ。
つまりは変形しまくったエルフ語であって、その修得は一朝一夕にはゆかない。
が文字を習いだしたのはセオドレドと婚約した後のことで、つまり、彼女にはまだまだ難しいことなのだ。










未来の紡ぎ手










朝になると、心機一転とばかりに彼女は広間に人びとを集めた。
館に残った者だけではなく、エドラスに住んでいる者たちもだ。
特に年寄りの女と、以前は騎士を務めていたという老人が多い。
「皆さんに集まってもらったのは、他でもありません」
昨夜の自分の取り散らかりぶりを戒めるように、は実に重々しく告げた。
「あなた方を導くにはどうしたら良いか、あなた方がわたしにどうしてほしいのか、お聞きしたいの。知っていると思うけど、わたしはもともとこの国の人間ではないし、この国とは似ていない国で育ったものだから、舵取りを任せると言われてもどうしたらいいか、わからないのです」
は人びとを見渡した。
彼らの反応は様々だ。
こんな娘に任せて大丈夫なのかという不満げな色。率直すぎる彼女の発言に思わず笑みを浮かべている者。幼げな容貌のせいで知らずに保護欲を掻き立てられている者など…。
総じて『頼りない』という烙印を押されたと感じたが、格好つけて何でもわかっているフリをしたところで解決策が出てくるわけでもないのだ。
甘んじてその評価は受け入れようと、は言葉を続けた。
「こんな風に殿方のほとんどがいなくなったことが、以前にもあったのでしょう?その時にはどうしていたのかしら」
前のほうに陣取っていた白髪頭の男が杖で床を叩いた。
「確かにあったが、それはわしらのじい様のさらにじい様が若いの頃の話だからなぁ。詳しいことはわしらにもわからんよ」
もう一人が続く。
「それに、その時は今ほど状況が悪かったわけではあるまい。なんせ、王様は残っておられたのだしな」
「それでは話が終わってしまうじゃない」
は眉を潜める。滑らかな肌に影が生まれた。
「これから、どういうところで不便になるかしら。…わからない?」
一瞬間をおいて、濃い黄色の髪をひっつめにした女が口を開いた。
「まあ、人手は足りなくなるだろうねぇ」
「人手?何をするための人手?」
は首をかしげる。
その途端、大勢が一斉にため息をついた。
「これから春になりますからね。忙しくなるんですよ」
先ほどの女は一言一言、『ものしらずのお姫様』に諭すようにゆっくり話し出す。
「もう始まってるんですけど、これからどんどん子供が生まれるんですよ。馬、牛、羊、ヤギ、それにアヒルやガチョウ。ま、人でも獣でも、女なら子供の産み方くらい心得ているものだけど、具合の悪いことになるかもしれない。だから誰かが見ていたやらないといけないんです。それに、子供が生まれた後の牛とヤギからは乳を搾らないと。チーズやバターを作るためです。それから出産の時期が終わって、もっと温かくなったら今度は羊の毛を刈る。刈ったら今度はそれを紡いで…。放っておいていいのは鳥くらいなものかね」
女たちは暗い顔で一様に頷いた。
あちこちから、やっぱり足りないよねぇ、などと囁き交わす声も聞こえる。
「これがねえ、馬鍬砦に避難したままなら諦めもつくけど、エドラスに残るとなればそうもいかないものさ。こうして男たちが帰ってくるのを待っている間にも、ちゃんといつもどおりお腹はすくのだもの。家畜を育てて畑を耕して、そうして生活をしていかないと」
今度は別の女が発言した。
「そうですよ、畑はどうしたらいいんです?あたしら、門の外に出るなといわれているけど、そうなると世話ができなくなるじゃないですか」
は口元に拳を当てて考え込んだ。
だが、それも僅かで、すぐに顔を上げる。
「畑の世話も、もう始めなければいけない時期なの?」
「いえ、もうちょい、土がぬくまってからですけど」
女は肩をすくめる。
「なら、少し待ってちょうだい。さすがに、門外に出る許可は簡単に出せないわ。事はあなた方の安全にも関わることだもの。館に備蓄された食糧を調べて、どうしても足りないようなら、仕方がないけれど。そのときも、なんとかして安全に外で作業ができるように、考えてみるわ」
「そうですか」
そっけない答えを返しながらも、女は少し感心したような顔になった。
「あとは?他になにかない?」
はぐるりと見渡す。
今のところは他にないらしい。
はちょっと上目づかいになり、すぐに背後を振り返った。
そこには控えていたユルゼがおり、主となった少女の視線を受け止めて微笑んだ。
上々、ということらしい。
「人手の件だけど、館に残った人を手伝いに行かせてもいいわよね?こっちは余っているんだもの」
「それがよろしゅうございましょう」
「わたしも、時間が空いた時には手伝いにいくわ」
が嬉しげに顔をほころばせたが、
「姫さまは、まずブレードの世話に専念なさってくださいませ。本日も、その前の日も、会いに行くことすらしていなかったでしょう?」
ユルゼは釘を刺すことを忘れない。
「はい…。ごめんなさい」
は情けなさそうに肩を落とすと、一堂はどっと笑いさざめいた。





二日後、北からの急使が来た。
エルケンブランドの軍勢が国境近くに着いて早々、敵の襲撃を受けたという知らせだった。
「それで、こちらの損害は?エルケンブランド卿はご無事なの?」
心配げに胸の下で両手を組む少女に、使者は軽く頭を下げる。
「北に向かう勢いのまま、我らが突撃しましたゆえ、敵の方が慌てふためいておりましたよ。エルケンブランド卿もご無事です。ですが、昨日の今日でこうでは、敵はまたすぐにでも襲ってくるでしょう。北だけならば持ちこたえられますが、東から攻め込まれては間に合わぬのではないかと、卿は懸念しておられます」
「…そうね。アンドゥインの流れは広く、エミン・ムイルの山々が、さらにマークを守る壁となってはいるけれど…、そのせいでかえって人の手による防備が薄くなっているのだものね。河も山も、敵を遮ってくれるけれど、それ以上のことはしてくれない。…いいわ、それなら鷲を飛ばしましょう。だけど、わたしも忙しいからいつでも監視できるわけではないの。そちらからも少し見張りを出してください」
使者は驚いたように目を見張った。
「よろしいのですか?」
「やれるだけのことはやりましょう。他にも何かあったら遠慮なく申してくださいと、エルケンブランド卿に伝えてください」
すっかり落ち着きを取り戻したは穏やかな笑みを浮かべた。
その様子は二日前の頼りないという印象を振り払うものだった。
使者はその日、ここにはいなかったので、黄金館で起こったことなど知る由もないのだが。
「…わたくし、思いついたのですが」
若く愛らしい国王代理に、一瞬見惚れていた使者は思い切ったように奏上した。
「言ってみて?」
「そのお力でもって、我らの援軍を作りあげるわけには参りませぬか?」
「できないことはないわよ?ずっと剣を上下に振り続けるとか、その辺走り回るだけでいいのならね」
「…うむう」
使者はからかわれているのだろうか、という表情になった。
は苦笑する。
「あなた方の助けになるほどの技量を持った人形を作るのなら、わたし自身が戦い方に精通しないといけないのよ。知らないものは作れないし、ましてや動かすことはできないの」
「はあ、そうそう、うまい話はない、ということですな」
「その通りよ。たまにはあってもいいのにね」
生真面目に返す少女に、使者もまったくだ、と同意した。










その日の夕方。食料貯蔵室の中で、は女たちと難しい顔で唸っていた。
内訳はユルゼに長年台所女中頭をしていたという初老の女、それに働き盛りの農婦たちがエドラスの民を代表して数人、というものだった。
貯蔵室には袋に入った大麦や小麦、燕麦が積まれ、野菜類は日持ちのする根菜類と、酢漬けにしたものがある。
木の実に干した果実、チーズなどの乳製品。
肉は秋の終わりに塩漬けにしたものと燻製にしたものとがある。
「やっぱり、足りなくなるわよね」
の呟きに全員が頷く。
館の貯蔵室に収められている食物は、館に住んでいる人びとの分だけではなく、いざという時のための備蓄も含まれていた。
ゴンドールへ向けて出発した男たちにも食べ物を持たせたとはいえ、人口が激減した現在、エドラスに残った者たちだけを養うだけならば、今年一杯くらいは持つだろう。
しかし、その次の収穫期までには必ず不足する。
農婦たちが次々に口を開いた。
「どんだけ大きな戦が南で起こってるかしらないけど、あたしらとしてはやっぱり畑に行かないわけにはいかないって、思うんですよ。このまんまじゃ飢え死にしてしまうのが目に見えてる」
「そうだとも。どうしても逃げ回らなければならなくなるまでは、あたしたちは働きますよ。足りなくなるのは麦や野菜ばかりじゃない。外に出して草を食べさせないと、馬も牛もみんな痩せてしまうんですから」
「そうね…。だけど畑までは遠いわ。敵に襲われたら走って戻れる距離ではないもの」
は嘆息した。
そこが大きな問題なのだ。
エドラスは丘の上に作られた都であるが故に、門の内側には畑がほとんどない。
また、門のすぐ外は道が伸び、近くの平原はマークの重要な宝である馬を訓練するために使われている。
畑はそこを避けてさらにエドラスから離れたところに作られていた。
しかもマークは放牧の方に重きを成しているためか、畑もまとまっては作られず、あちらこちらに点在しているのだった。水を確保しやすくするために、川に近いところ固まっている傾向はあるのだが。
そのため、畑まで片道一時間というのも珍しくない。
しかしそれでも平時は問題がないのだ。
暖かい季節ならば外に仮小屋を作り、秋までそこで寝起きをする。
放牧をする者たちも同様である。
堅牢な砦も、輝く館も、草原の民には本来不要のものなのだ。
「日が暮れる前には必ず戻ってもらうことにして、行き来には馬を使えばよろしいのでは?」
ユルゼの提案に別の農婦が首を振った。
「馬が残ってる家ならいいですけど、うちは旦那と息子二人が出征したものだから、もういないんですよ。うちだけじゃない。今回の召集は、戦える者ならば年齢を問わないという最大規模のものですからね。去年生まれた仔馬に乗って行った者もずいぶんいるって話です」
「つまり、マークに残っている馬は母馬と今年生まれる仔馬と年寄りだけってことなのね。人間よりひどい状況じゃない」
は目を見張った。
彼女が知っている厩は館で管理している大きなものしかなかったのだ。
そこでは半分以下になったとはいえ、まだ多くの馬が残っていたのだ。
思い返せば、残っているのは確かにお腹が大きい馬たちばかりなのだが。
「ええ、ひどい状況なんです。だからこそ、これ以上ひどくならないように残ったものたちで頑張らないと」
初めに口を開いた農婦がを見つめる。
日に焼けて赤らんだ肌には深い皺を刻まれているので、お世辞にも美しいとは言えないが、頑強で実直なものを秘めている。
災難だ大変だと言いつつも、嘆き続けることはしない。
(草原の民は、男も女もたくましい…)
は心の中に溜まっていた重苦しいものが和らいだように感じた。
深呼吸をして息を吐くと、肩もずいぶん軽くなる。
今まで自分は、セオドレドやエオメルのように、残った民を守ろうと思っていた。
騎士がか弱い者を守るようにだ。
だがそうではない。
は騎士ではないし、騎士にはなれない。
そして彼女たち。
残された民たち。
戦う力がないゆえに、弱いとされた者たちも、決して脆弱なわけではない。
戦場を駆ける力がないということは、一つの側面でしかないのだ。
彼女たちは命を育む事ができる。
これも一つの大きな力であり、未来を紡ぐ手そのものなのだ。
「馬が足りないと言っていたわね。それって、母馬では駄目かしら?さすがに仔馬を生んだばかりとなると無理だろうけど、少し待って体調が戻った辺りからなら」
「仔馬がついてきたがりますよ。それに、仔馬と引き剥がそうとすると、母馬が暴れてしまいます」
ユルゼが反論する。
「ついてきては駄目なの?足手まといになっちゃう?」
の素朴な疑問に、ユルゼが困ったように農婦に視線を泳がせた。
「子供でも馬は馬ですからねぇ。別に足手まといってことはないですけど。でも姫様。母馬を使うにしても、さっきも言ったように馬の数自体が足りなくなってるんです。解決にはなりませんよ」
「館の馬なら結構残ってるわ。それを使えばいいわよ」
の発言に、女たちは目を剥いた。
「何を言い出すんですか!お館の馬を使うなんてとんでもない!」
「マークでも選りすぐりの名馬ばかりなんですよ。あたしたち如きが触っていいもんじゃあないですって!」
「いくら姫様でも言って良い事と悪い事がありますよ!」
避難轟々と叫ばれて、は思わず耳に指を突っ込んだ。
静かになるのを待ってから、少女は腰に手を当てて彼女たちを見据える。
もうすでに腹は括っているのだ。
「それで大事に大事に柵の中に囲っていろっていうの?さっきあなたたちも言ったじゃない。外に出して草を食べさせないと痩せるばかりだって」
「それはそうですけど…」
「だからって、ねぇ」
女たちは気まずそうに顔を見合わせる。
だがは引き下がらない。
「館の厩も人手が足りないわ。伯楽たちは戦場へ行ってしまったもの。畑へ行き来するなら、あそこの馬たちにもいい運動になるから、こちらとしては助かるんだけど」
「そうかもしれませんが…いくらなんでも叱られますよ、姫様」
さすがのユルゼもの暴挙に眉をしかめる。
は寂しげな笑みを浮かべた。
「誰が?」
「姫様?」
「誰がわたしを叱るっていうの?国王代理のわたしより偉い人が、今のこの国のどこにいるのよ」
「姫様…」
ユルゼは絶句した。
「陛下やエオメル様が戻ってきてわたしを叱ってくれるというなら、いくらでも叱られるわ。それならつまり、戦いが終わったということだもの…。その方がずっと良い…」
俯いた少女の目じりには涙が浮かんだ。
湿っぽい沈黙があたりに漂う。
は袖口で目元を拭うと、背を伸ばして顔を上げた。
「国王代理として皆に命じます。畑へは行ってもいいわ。だけど行くのならば必ず馬に乗る事。そして日が暮れる前に戻ってくる事。一人ではでかけないこと。馬は、足りないのならば館の馬を使って構いません。それから、武器も携帯すること。もしも抜き差しならない用事があってエドラスを出るようなことがある時も同様です。これが守れないのであれば、何人たりとも門を超えることを許しません。いいですね」
の口調は強いものではなかった。
眼差しは真摯だがこすった拍子に周囲が赤くなっている。
マークの女に比べれば体つきは一回りも小さく、威厳をまとうということには程遠い容貌だ。
しかしここに名実共に新たなマークの主人が現れたことを誰もが感じた。
「承知いたしました、姫様」
ユルゼが胸に手を当てて敬礼をする。
他の女たちもそれに倣った。










いくつかの小さな問題も起こったが、十日も経つとエドラスの住民もすっかり今の生活に慣れたようだった。
人手不足は日を追って深刻になっていったが、比例して都は賑やかになっていった。
毎日のようにどこかで子供が生まれているのだ。
そして草原にも変化の兆しが見えつつある。
枯れ草ばかりの茶の間から、緑が覗くようになったのだ。

その日の朝も、日課となっている馬の世話をしには厩へ向かった。
これまではブレードの世話をするだけだったが、朝はどこの家でも忙しいため、他にも数頭を受け持つようになったのだ。
その途中で、道の真ん中で何人かの女たちが固まって深刻そうな顔で話し込んでいるを見かけた。
「どうかしたの?」
足を止めて声をかけると一人の女が押し出される。
女はまだ若いが、少しやつれた頬にほつれた髪がかかり、ずいぶん疲れた様子に見えた。
「姫様、あの…館の方を一人、呼べないでしょうか…」
「何かあったの?」
は首を傾げる。
「実は、うちの子が熱を出して…。まだ二歳なんです。一人でうちに残すなんて、とってもできない。死んでしまいます」
祈るように両手を組んで、女は詰め寄ってきた。
「この人の家は、もう舅も姑もいないんだよ。子供もその子一人だけだしね。手伝いたくとも、あたしたちも手が回らなくて」
この集団の中では一番年長らしい恰幅の良い女が口添えをしてきた。
(…母子家庭、か。ずいぶん増えたんだろうなあ)
新たな問題の発覚に、は自然と表情を引き締めた。
どの家でも男手がなくなったことで、女性たちの仕事量は増えた。
この若い母親もつきっきりで子供の面倒をみている余裕がないのだろう。
彼女たちだけではなく、隠居した老人たちも、まだ働けるものは昔取った杵柄とばかりに家を出るようになった。
また、マークでは子供でも七歳にもなれば様々な手伝いをするようになる。
上の子が下の兄弟の面倒を見るというのはもちろん、乳搾りや水汲み、炉にくべる薪を拾うことなどだ。
畑仕事を手伝わせる事もあるのだが、さすがに誰も連れて行こうとはしなかった。
ただでさえ忙しいのだから、危険な外に連れてゆくより、エドラスでやれることをやらせた方が良いということだ。
「熱って、ひどいの?」
「かなり熱いんです。どうしよう、あの子はたった一人の子なのに。主人がいないときにこんなことになるなんて…」
泣き出しそうな女に同情を覚えつつも、は天を仰ぎたくなった。
館の人手はもうぎりぎり一杯まで割いているのだ。
そして自身もずいぶんと多忙になった。
館の管理をし、東の見張りもしなければならないし、問題が起こったら仲裁しなければならない。
その間にも人手が足りないからとあちらこちらに借り出されることもあった。
また、少しずつでも文書庫の書類を読むようにしていた。国政に関してどんな大事なことが書いているかわからないのだ。疎かにはできない。一枚の羊皮紙を読み終わるのに三日かかるとしてもだ。
そんなこんなで、目覚めてから寝台に倒れこむまで、休む暇はほとんどない状態だった。
自分はもちろん他の者であっても、看護人を派遣することなどできそうにない。
(第一、病気の子供がその子一人のはずが…)
はたと思いついては女たちに訊ねた。
「その子の他にも病人はいるでしょう?どうしてるの、一人で寝かせてるの?」
「ある程度大きければそうしてますし、兄弟がいるとか、年寄りが面倒みてくれるとかすればそんなに大変なことには…。でもどこも手一杯ですし」
恰幅の良い女が答えた。
「やっぱり…。それなら、その子、館に連れてきて」
「…は?」
若い母親は言われた意味がわからずに聞き返した。
は安心させるような笑みを浮かべる。
「看護人を向ける余裕ははっきり言ってこちらにもないのよ。でも館でなら交代で面倒を見ることはできると思うの。部屋も余ってるし。だから、連れてきて」
「本当ですか!?ああ、ありがとうございます、姫様!」
母親の目は悲しみとは別の涙で潤み、頬には血の気が戻ってきた。
彼女は一礼すると、が止める間もなく家にの中へ走ってゆく。
「…まだ全部言い終わってないのに。…まあいいか」
少女は集まっていた女たちに向き直る。
「病気であるないを問わず、仕事が終わるまで館で預かるようにするから、小さな子を家に一人で残すようなことはしないでって、皆に伝えて頂戴」
「病気でなくてもよろしいのですか?」
恰幅の良い女が仰天した。
なにしろ王の住まう館で子供を預かろうというのだ。
近所で預かってもらうということとは次元が違う。
しかしは頓着しない。
「ええ。ついでに、子守のできそうなくらいの年の子も来てくれたら、助かるなあ。一緒に遊んでもらえるものね」


話は瞬く間に広まり、その日の朝だけで赤ん坊が八人、幼児が六人集まった。
さらにその子たちの兄弟も集まり、黄金館は一気にかまびすしくなった。
なにしろ普段は近寄る事もできないところなのだ。
病気の子供は別室に移し、遊ぶのは広間だけにすることとなったが、そこはそれ、腕白盛りの子供らのことである。
男の子も女の子も、初めて入る館の大きさにすっかり興奮し、『探検』と称してあちこちを覗いて回ることが大流行したのだった。






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