裂け谷を出発して2週間は過ぎただろうか。
あまり、細かく日を数えるのは得意じゃないんだけど、多分それくらいは経っているはず。
エレギオンに着いた私たちは、久々にゆっくりと休むことにした。
傍目にも疲れきっていた小さい人たちは、それを聞いてはしゃいでいる。
アラゴルンとミスランディアは一服しているし、ボロミアとギムリも一息ついているようだ。
…さて、私はどうしようかな。実は、ここに来る前に気になるものを見てしまったんだよね。
天使は舞い降りた
それは白い鳥だった。
初めて見る種類のもので、優雅に長く、ほっそりとした首。混じりけが無かったであろう真っ白な翼は、遠めにもはっきり判るほどの血に濡れていた。
羽ばたいてはいるものの、傷はかなり深いのだろう、何度も上下し、それにつれて抜け落ちた羽が散っていくのが見えた。
鳥は力尽きたように降りるというよりも落ちるといったような感じで高度を下げてゆき、そのうち見えなくなった。
でも位置からして、ここからそう遠くないはず。エレギオンのどこかに居るのは間違いないだろう。
探してみようか……
ミスランディアに断りをいれ、私は辺りを散策した。
風の囁きに耳を傾けながら、私はゆっくりと歩く。
ふと、風の音に混じって小さな鳴き声が聞こえた。
そちらに目をやると、柊の枝が重なり合って深い影を落とし、窪みになっているところに白い塊があった。
「…いた…」
そっと近づき、首を曲げて丸くなっている白鳥の様子を確かめる。
血は、まだ完全には止まっておらず、その体を赤く染め、そして、翼が。
左の翼が歪んでいた。
折れているのだ。
(かわいそうに…)
できうる限りの手当てをしようと、抱き上げる。
傷に障らないように、そうっと。
だけど手負いの白鳥は、私が触れたことに気づくや、両の翼をばたつかせて逃れようともがいた。
『おびえないで。君を傷つけたりはしない』
エルフの言葉で囁く。性の良い生き物は、私たちの言葉を理解するものだから。
『傷の手当てをするだけだよ』
白鳥は羽ばたくのを止め、私の目を覗き込むように顔を上げた。
温かい茶色の、きれいな眼をしていた。
傷は左の翼が一番ひどく、先のほうは毟られてボロボロで、首筋に近いところが抉れている。
『ああ、駄目だよ』
白鳥は血を吸ってくっついてしまっている羽毛を、気になるのかしきりにつつこうとする。
それを押しとどめようとすると、嫌がるように首を振り、くぅ、と小さく鳴いた。
『だから駄目だって』
なおも同じ場所をつこうとするので、私は思わずくちばしを握ってしまった。
「う、わっ!」
気分を害したらしい白鳥が思い切り右の翼を広げた。
不意をつかれてバサリと顔面に当たる。
そのまま私と白鳥は憮然として見詰め合った。
(どうすればいいんだろう)
かなり強情な性質らしい。このままでは手当てもままならない。
ふいに白鳥は視線を下げ、さっきから気にしている箇所をじっと見、また視線を上げ私を見た。
か細い鳴き声が漏れる。
困ったように首を傾げる。
(…かわいい)
そんな場合ではないと分かってはいるが、口の端が緩んでしまうのを止めることは出来なかった。
白鳥は抗議するように鋭く鳴く。
『ごめん、笑うつもりじゃなかったんだけど』
どうだか、と言うように胸を膨らますと、白鳥はさっきと同じ行動をとった。
つまり、下を見て、私を見て。また下を見て、私を見る。
『何がそんなに気になるんだい?』
私が聞くと、やっと気付いたかと言うように一声鳴き、嘴をカチカチと鳴らしながら下を見る。
どうも、そこに何かあるらしい。
不思議に思って探ってみると、血濡れの羽毛の下に何か固いものがあった。
傷に触らないように羽毛を掻き分け、見えるようにする。
石、だった。
ひび割れてしまっていて中が曇ってしまっているが、水晶か何かだろう。
どんぐり大の丸い石が、なぜか白鳥の体にピタリとくっついているのだ。
『これ…取ればいいの?』
聞くと、肯定を示して頷いた。
(それにしても…)
見慣れない種類の白鳥。その体にくっついている宝石。
(まさか、あの方じゃないよね)
こんなところにいるわけはないって、分かってはいるんだけど。
どうしたものか迷っていると、急かすように白鳥が羽ばたいた。
『ち、ちょっと待って、えっと、向こうに私の仲間たちがいるんだ。どのみちここで出来ることはあまりないし、とりあえず連れて行くよ』
「うわぁ、大きな鳥!!」
「用意がいいね、レゴラスさん」
白鳥を抱えて皆のところに戻ると、小さい人たちが喜び勇んで駆けてきた。
今日は久々に火を使ってもよいということになったので、サムが早速食事の支度をしている。
「あのね、この白鳥は…」
「久々にローストチキンが食べられるんだね。鶏じゃないけど」
「スープも作りましょう。フロド様」
『うわっ!落ち着いて、食べたりなんてしないから!!』
彼らの会話を聞いた白鳥が慌てて飛び去ろうと羽をバタつかせる。
「君たち、この子は食べるために連れてきたんじゃないんだよ。怪我の手当てをするんだ。食べるのは、駄目」
「「ええ~」」
ピピンとメリーが不服そうな声を上げる。
「そうなんですか?」
「残念ですだ」
口々に言いながらもあっさりと引き下がってくれた。
……助かった。
「どこから見つけてきたんだ、レゴラス」
アラゴルンが少し眉根を寄せて白鳥を覗き込む。
「ここに着く前に怪我をして落ちてゆくのが見えたんです。気になってので探してみたんだ」
「翼が折れているが、まあ死ぬほどではないだろう」
「うん。それはいいんですけど、これ、見てください」
私はアラゴルンに件の石を見せると、驚きで息を飲むのがわかった。
「まさか…、いや、こんなところにいるはずが…」
「やっぱり、そう思いますよね」
私とアラゴルンは困惑して顔を見合わせた。
「ちなみに、この鳥、私は初めて見る種類なんだけど、知っていますか?」
「いや。私も初めて見た。…本当にあの方であるのならば、それも当然なんだが」
「いったいどうしたと言うんです?それは、普通の鳥ではないのですか?」
フロドが不思議そうに私たちを見上げてきた。
残りの小さい人たちも興味津々と白鳥をよく見ようとつま先立っている。
「うーん。普通じゃない、というかね」
私は言葉を濁した。実際、私もよく分からないのだし。
「ミスランディア!」
こんな時はやっぱり年の功。
私はミスランディアのところへ行くと、かいつまんで事情を説明した。
「う――む」
ミスランディアは眉間に皺を寄せて、ゆっくりと煙を吐いた。
私が気になるのは、この鳥自身もそうだけど。それよりもこの鳥にくっついている石。
普通、こんなものが体に張り付くわけがないんだから。外したら何かが起きるような気がする。
でも、その何かって、何だろう?
「外してみるしかないじゃろうな」
「え?それでいいんですか?」
あっさりとした返答を返され、いささか面食らった。
「何かが起こるにしてもそう悪いことではあるまい」
「つまり、あなたにも何が起こるかはわからないのですね」
仕方がない。
今は大人しくしているけど、この石を外さないとこの白鳥は手当てをさせてくれなさそうだし。
少し力を入れて引っ張る。駄目だ。
もう一度。
「――――!!」
白鳥が苦しげに鳴く。
「あ、ごめん」
「――――!!」
「え?何?」
ああもう、闇の森の鳥なら、何を言っているのか分かるのに。
「廻せ、といっておるようじゃぞ」
「ミスランディア、分かるんですか!?」
「何となく、じゃがな」
とにかく、言われたことを試してみる。
かなり固い手ごたえがしたけど、石がゆっくりと回ってゆき、そして―――
「うわあっ!?」
一回転したかと思ったら、白鳥の体が膨らみ、形を変えた。
布に包まれている感触がし、全身が縦に伸び、次の瞬間。
「「エルウィング様!?」」
白いローブ姿の女性が現れたのだ。
(嘘だろう!?)
しかし宝玉そのものは失われはしなかった。なぜならウルモが波間からエルウイングを抱き取り、彼女に大きな白い鳥の姿を与えたからである。彼女は愛するエアレンディルを求めて、海上を飛翔した。胸には、星のようにシルマリルが輝いていた。
エアレンディルは白い鳥を胸に抱き上げた。しかし夜が明けると、彼は驚きの目を見張って、傍らに妻のエルウィングを見た。かの女は本来の姿に戻り、かれの面にかの女の髪を散らして眠っていた。
そんな伝承の一文が頭をよぎった。
彼女に巻きつくようになっていたローブが風を孕んで広がり、その姿が現れた。
焦点の合わない瞳は、あの白鳥と同じ色。
肩口から二の腕までに広がる鮮やかな、赤。
力尽きたようにくず折れてゆく、身体。
「い、痛ぁっ!!」
「ああっ、ごめん!!」
抱きとめた拍子に傷に触ってしまったらしい。
なんかもう、さっきから謝ってばかりいるような気がする。
彼女はエルフではなかった。
女性というよりは「女の子」で、見た目だけなら「人間」で。
だけど人間が鳥に変身するなんて聞いたことも無くて。
「君は…」
「わ、たし…」
痛みで意識がはっきりしたのだろう、青ざめてはいるものの自分の足でしっかりと立ち、困惑した、不安そうな、なによりも怯えたような表情で私を見上げてきた。
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