「……」
「………」
「…………」
「ちょっと…!」
「見つかりましたか!?」
「…まだよ」
女は心底疲れたように、ため息をついた。
「あのねえ、そうやってうろうろされると、気が散ってしょうがないのよ。あの子が見つかったらすぐに知らせると言ったでしょう!家に戻って仕事でもしてなさい!」
「仕事?そんなことしていられますか!あの子がいなくなってもう一週間以上たっているんですよ!?それもどこだかわからない世界に!わたしはもう心配で心配で心配で心配で…!」
「やかましい」
男はややつりあがり気味の目で恨めしそうに女を見た。
「わたくしがあの子の事を心配していないよう言うのはよしてちょうだい。あの子はこのわたくしにとっても妹のようなものなのだからね。自分ばかりが不安だなどと思わないで。
大体、あんた、あの子が生きているってわかるのでしょう?」
「ええ、生きていますよ」
男は苦しげに眉根を寄せる。
「『生きて』はいます。でも、わかるのはそれだけなんです」
Battle Battle!
オークの集団をレゴラスとアラゴルンが矢で牽制できたのも始めのうちのみで、マザルブルの間はすぐに戦闘の場と化した。
戦いに慣れているものは、その得意の得物を閃かせ、叩き切り、あるいは撃ち、次々と敵を屠ってゆく。
戦い慣れないものたちも決死の形相で掛かってゆく。
自分で宣言したとおり、はある程度戦い方を知っているらしく、かなり器用にオークを沈めていった。
金色の圏を勢いよく叩きつけ、打ち付ける。あるいは円の内側で剣を受け止め、流す。
踊るような足取りで狭い空間を軽々と移動し、とっさに対応できないときには躊躇なく逃げた。その後、それらは尽くレゴラスが倒していった。
(…数が多い。)
予想はしていたことだが、この場で戦うのはどうしたってこちらが不利だった。
は護身程度の身の守り方を知っているのだが、実際に乱戦状況でそれをするのはかなり抵抗があった。
なぜならそのためには一撃で相手を動けないようにしなければならなくて。
そのためには相手の急所を狙わなければいけなくて。
の身長から無理なく狙える場所といったら、だいたい頭か、利き腕だ。
(なんてことかしら。手加減なんか出来るような状況じゃないし、そもそもそこまでの技量があるわけじゃないけど。殺さなきゃ、こっちが殺されるのだけど…。でも、躊躇したのが最初の一人だけだなんて…)
オークが剣を振りかぶってきたところを蹴り飛ばして距離を取り、すかさず圏を顔面に叩きつけた。
圏を通して伝わってくる肉の潰れる感触に、は顔をしかめた。
扉を破壊しながらトロルが現れた。
入り口近くにいたは、とっさにそれから遠ざかり、レゴラスはトロルに向けて矢を放った。
トロルは不愉快そうなうめき声を発し、足元近くにいたサムにこん棒を振り下ろした。
間一髪のところでサムはトロルの股の下をくぐってさけたが、振り返ったトロルが、今度はサムを踏み潰そうと足を持ち上げた。
それに気付いたボロミアとアラゴルンは、トロルの首輪の鎖を引っ張り、阻止しようとする。
トロルは倒れそうになるところを踏みとどまり、引っ張られている鎖を逆に引っ張った。
その弾みで鎖を握っていたボロミアは弾き飛ばされる。
「ぐあっ!」
叩きつけられたボロミアはその衝撃で意識が朦朧としてしまった。そんなボロミアをオークが狙う。
「ボロミアさん!!」
が駆け寄ってきたがそれよりも先にアラゴルンが投げつけた剣がオークの首に突き刺さっていた。
倒れたオークを踏みつけて、ボロミアが立つのを手伝った。
「すまん」
「いいえ。気をつけて」
ボロミアが無事なことを確認すると、はまた駆けていった。
トロルは今度はギムリに狙いをつけていた。
ギムリを追いかけ、振り下ろしたこん棒がバーリンの墓を打ち砕いた。
何人かのオークをぶっ飛ばしながら執拗にドワーフを付け狙う。
こん棒をかわした弾みにひっくり返ったギムリをレゴラスが援護した。頑丈なトロルには矢が1本ではたいしたダメージは与えられないと、一度に2本をつがえて放った。
怒りに駆られたトロルは次にはレゴラスを狙った。
一段高いところで短剣を振るうレゴラスに向けて、己の首輪に繋がっている鎖を振り回す。
レゴラスはそれをあっさり見切ってかわし、偶然柱に巻きついたそれを踏みつけて押さえると、鎖を足がかりにしてトロルの肩に立った。
至近距離から脳天目がけて矢を放ち、痛みに暴れだしたトロルから飛び降りると、がオークに囲まれかかっていることに気付いて連射した。
その間にトロルは、今度は小さい獲物―つまりはホビットたち―に向かっていった。
こん棒をふり下ろすと、獲物はぱっと散っていった。
トロルは一人壁の方に逃げた獲物を追いかける。
小さい獲物は柱の陰に隠れた。
トロルは柱の隙間から覗き込んだが、獲物の姿は見えなかった。だが臭いが獲物がそこにいると告げている。
反対から回ろうとした。
みつけた。
こんどはてがとどくぞ。
トロルは小さい獲物の足を引っぱると、獲物は抵抗してキーキーと喚いた。
「アラゴルン!アラゴルン!!」
フロドの叫び声を聞きつけて、アラゴルンが向かって行った。
大きい獲物に気をとられたトロルは、小さい獲物に手を切りつけられて放してしまった。
小さい獲物が切りつけたところに気をとられていたら、こんどは大きい獲物がトロルの脇腹を刺してきた。
焼け付くような痛みに、トロルはがむしゃらに腕を振ると、大きい獲物が当たって、飛ばされていった。
トロルは腹に刺さった槍を抜くと、小さい獲物目がけて突き刺した。
小さい獲物はそれをよけたが、トロルは逃げられないように通せんぼした。
小さい獲物を壁際に追い詰めて、トロルは槍を刺した。
それは力をいっぱいに込めなくても小さい獲物に深々と突き刺さった。
きっとしんだぞ。
トロルはうれしかった。
まだ、たくさんのこっているから、ひとつひとつやっつけなくては。
「フロド!」
フロドは苦しげに2,3度口を動かすと、前のめりに倒れた。
呆然としたのは一瞬のこと。
大事な仲間で、友人で、指輪所持者のフロドの敵を討とうと猛然とトロルに反撃しだした。
ギムリとガンダルフとボロミアが切りつけ、メリーとピピンはトロルの背に乗りあがってめったやたらに刺した。
「フロド!フロド!!」
はピクリともしないホビットの青年を抱き起こした。
見紛いようもなく、槍はフロドの胸に突き刺さっている。
ピピンが一際深く首に短刀を突き立てると、うなり声を上げてトロルは仰け反った。
そこにすかさずレゴラスが、無防備な喉を目がけて矢を放つ。
トロルは、最期の雄叫びを上げながらふらりふらりとよろめき、倒れた。
そしてそれきり動かなかった。
ガンダルフがフロドの元へ駆け寄る。
はフロドを抱きかかえたまま、助けを求めて魔法使を見上げた。
そのとき、フロドが小さく呻いた。
「フロド!?」
「大丈夫…生きているよ」
が覗き込むと、フロドは苦しげに胸を押さえながら、それでもはっきりと自らの無事を告げた。
「フ、フロド…良かっ…良かったぁ」
「てっきり死んだと…。あの槍で突かれて無事だとは…」
アラゴルンは半泣きになってフロドを抱きしめているから、そっと少女の腕を外してホビットの傷の具合を診ようとした。
「まさに奇跡じゃ。いつの間に魔法を覚えた」
安堵したガンダルフは、次の瞬間に破顔した。
フロドは服のボタンを外すと、その下に着ていたものを見せたからだ。
銀灰色の、キラキラと光る鎖帷子―――。
「ミスリルか!」
ギムリは驚いて目を丸くした。
しかしいつまでも無事を喜んでばかりもいられなかった。
またも太鼓の音が轟き、第2陣が近付いてきている気配がしてきたのだ。
「橋へ急ごう」
ガンダルフの一言で、皆一斉に動き出した。
アラゴルンはフロドとを立ち上がらせ、他のものは散乱した荷を拾い集めた。
(…あれ…?)
歩き出そうとしたは、自分の視点が急に低くなったのを不思議に思った。
「どうした?」
それに気付いたアラゴルンが戻ってくる。
「どこか、怪我を?」
ひざまずいたアラゴルンを見て、ようやく自分が座り込んでしまったのだと理解した。
「ちがっ…」
ぶんぶんと頭を振るだったが、よく見るとその顔からは血の気が失せ、立ち上がろうと身体を支える腕は小刻みに震えていた。
「…立てないのか?」
「ごめ…っ。先に行っ…」
は情けなくて涙が出てきた。
こんなときに身体が言うことを利いてくれない。
時間がないのに、足が動かない。
「そんなこと出来るわけがないだろう!」
「私が抱えていくよ」
言うなりレゴラスはを横抱きにした。
それに対して彼女はいつものように抵抗した。
「ちょ…駄目!レゴラス」
「、言い争っている時間は…」
「駄目ったら駄目!まだ敵が大勢いるのに!わたしを抱えていたらレゴラスが戦えなくなる!!」
レゴラスは絶句した。
「レゴラスはフロドを守るのが役目でしょう!わたしの為に戦力を割くようなことは止めて!わたしを下ろして、早く行って!」
「、何を言…」
「行って!!」
「!!」
レゴラスの鋭い声にはたじろいだ。
「こんなところに君を一人にするためにモリアに入ったわけじゃない。エルフは人間の女の子を一人抱えるくらいなんてことないんだ。嫌だと言っても連れて行く。これ以上議論する気はないよ」
いつにない強い調子でまくし立てると、レゴラスはさっさと扉に向かい、それから怪訝な表情で振り向いた。
「何をしているんです。橋に急ぐのでしょう?」
「…あ、ああ。そうだったな」
我に返ったアラゴルンが皆を急き立てた。
「あ、。走りにくいから首に腕を回してもらえるかな」
「あ、はい」
すっかり毒気を抜かれたはこくこくと頷いて言われたとおりにし、レゴラスは小柄な少女の身体を抱えなおすと勢いよく走り出した。
マザルブルの間を後にした一行は、考えられる限りの速さで廊下を駆けていった。
後ろから甲高いオークの声が追ってくる。
目の端には床から湧き出すように現れるオークの姿が写った。
ふいにの身体がびくりと震えた。
首に回されている腕にも力が込められる。
「…嘘でしょう…何よ…あの数…」
呆然とつぶやく声が聞こえた。
レゴラスは確かめようと首をめぐらすと、どこにこれほどの数のオークが潜んでいたものか、後ろからも横からも、上からも前からも、次から次へと現れてきたのだ。
逃げられないと悟ると、全員が背中合わせに円陣を組んだ。
「立てる?」
レゴラスの問いかけには頷くと、は円陣の中に下ろされた。
男たちは手に手に得物を構えてオークどもを牽制する。
も震える手を叱咤して、圏を取り出して握り締めた。
一触即発の睨み合いになった。
ギムリが雄叫びを上げると、オークどもは一瞬静まり、波が引くように逃げていった。
どんなもんだと得意げになったドワーフをよそに、老魔法使は眉間にしわを寄せて目を閉じた。
自分たちが走ってきた方向から、赤い光と、地を揺さぶるほどの足音がしてきたのだ。
「今度はどんな化け物だ」
ボロミアが皮肉げに呟く。
声が聞こえた。
それを声と呼ぶのならば。
大いなる、しかし明らかに邪悪な力を秘めたものが。
「バルログじゃ。古代より生きてきた悪魔…」
レゴラスはつがえていた弓を下ろし、呆然と立ち尽くした。
指輪の主の他にエルフが恐れる唯一のもの―――
「ドゥリンの禍だ」
ギムリは苦しげに手で顔を覆う。
「お前たちでは相手にならん。逃げよ!」
ガンダルフの一喝で全員が走り出した。
レゴラスはまたを抱えたが、今度は何の抵抗もされなかった。
廊下の先にも赤い光が見える。
「うわあっ!」
先頭を行くボロミアが悲鳴をあげる。
「ボロミア!」
「ボロミアさん!」
廊下を抜けた先は壁に沿って曲がっており、まっすぐに走っていったボロミアがたたらを踏んだのだ。
レゴラスとがボロミアをとっさにつかみ、諸共に後ろに倒れた。
「ボ、ボロミアさん、重い〜〜!」
「すまん、」
「早くどいてくれ、ボロミア」
3人がじたばたと起き上がっている間に、ガンダルフはアラゴルンを呼び寄せて告げた。
「皆を率いて行け、アラゴルン。橋はあれだ。行くのじゃ。剣はもう役に立たん!」
ガンダルフは躊躇するアラゴルンを押しやり、他の者を先に進ませると自らがしんがりについた。
急な階段を駆け下りる。
レゴラスは階段の途中から飛び降りると先頭に立った。
「しっかりつかまって」
は言われたとおりにぎゅうとレゴラスにしがみつく。
レゴラスはを抱えたまま、途中で途切れている階段を飛び越えた。
「油断しないで。後ろを頼む」
「うん!」
レゴラスはを下ろすとジャンプしたガンダルフを受け止めた。
は階段を幾つか下り、向こう側から敵が現れないか見張った。
「レゴラス、あっち!」
オークの襲撃は橋に直接仕掛けられた。
高い位置から矢を射掛けてくる。
レゴラスとアラゴルンが応戦する。
タイミングを計って、ボロミアがメリーとピピンを抱えて飛んだ。
階段が少し崩れ、落ちた。
アラゴルンがサムを投げる。
次にギムリを投げようとしたが断られた。
ギムリは勢いをつけてジャンプした。
「髭をつかむなぁ!」
ギムリの足はぎりぎりまでしか届かず、落ちかけた所をレゴラスが髭を引っ張って阻止した。
奥のほうからバルログの足音が響く。
その振動でさらに階段が崩れ、天井からひび割れた石が落下してきた。
階段の亀裂はもう飛び越すことが不可能なほどの幅になっていた。
ひときわ大きな岩が、最後に残っていたアラゴルンとフロドの後ろの階段を破壊していった。
その衝撃でわずかに支柱に支えられている部分が右に左にゆらりと揺れる。
支柱の一部も崩れ落ち、孤島となった階段が自重で下方へ傾いていった。
階段と階段がぶつかる瞬間を見計らい、最後の2人も無事に飛び移れた。
「橋を渡れ!早く!」
バルログはすぐ後ろまで迫っていた。
細い橋を一列になって渡ってゆく。
ガンダルフは橋の中ほどで立ち止まり、右手にグラムドリング、左手に杖を持ち、しっかとバルログと対峙した。
「貴様はここを越えることはできぬ」
ガンダルフの杖が一際強く光を放つ。
「わしは神秘の焔に仕える者。アノールの焔の使い手じゃ。暗き火、ウドゥンの焔は貴様の助けにはならぬ」
バルログは炎の剣を振り下ろした。
ガンダルフはグラムドリングでそれを受け止めた。
「闇の中へ戻るがよい!」
バルログは炎の鞭を振り回して威嚇する。
「ここは断じて通さぬ!」
ガンダルフは杖を高く掲げて橋に突き立てた。
バルログはたじろぐことなく一歩を踏み出すが、その足元から橋が崩れ落ちた。
恐ろしい咆哮を上げながら、崩れた橋岩とともに何処まで続くとも知れない奈落のそこへ落下してゆく。
「やった…の?」
は我知らず呟いた。
しかしすぐに息を飲んだ。
崩れた橋に背を向け歩き出したガンダルフの足首に、最後の抵抗で振り回したバルログの炎の鞭が巻きついたのだ。
「ガンダルフ!!」
ガンダルフは橋にしがみつき上に上がろうと試みるが、掴むところなどないそこでは、むなしい足掻きだった。
「ガンダルフ!」
「駄目だ、行くな!」
ガンダルフの元へ駆け出そうとするフロドを、ボロミアが止める。
「ガンダルフ!ガンダルフ!!」
「、駄目だ!」
半狂乱になって叫ぶをレゴラスは無理やり押さえつけた。
ガンダルフは不思議と穏やかな目で一行を見つめ、
「逃げろ、馬鹿者ども」
そう一言言い残して、
落ちた。
「ガンダルフ!嫌あああ―――――っ!!」
+++
「あの子は人間です。わたしたちと違って人間は死にやすい。今だって怪我をしているかもしれない。病を得ているのかもしれない。でも今のわたしにはそれを知る術はなく、わたしの守りはあの子には届かない。確かに今は『生きて』います。でもその一瞬先で、わたしはあの子の命が途切れたことを知るかもしれない。それが怖いのです。たまらなく怖いのですよ。姫」
「…逆に言えば、あの子はすでに一週間以上、別の世界で生き延びているのよ。となれば、少なくとも彼の地は人間が生きていけるような環境なのだわ。それに意思の疎通が可能な生物がいる。あの子、妙に保護欲をそそるようなところがあるから、案外いい人に拾われているのではないかしら。まあ、最後のは希望なのだけど」
「意思疎通可能な生物…ああ、それも問題ですよ。姫」
「は?」
「人間の彼女と意志の疎通が可能なら、彼女の可愛らしさも当然わかるに決まっています!ろくでもない奴が下心を隠して近付いてきても断れない状況に陥っていたりしていたらどうしよう!ああ、ひいな。もしそんな奴に出くわしたら、問答無用で返り討ちにするのだよ!いや可能性としては人間型の種族がいるとは限らないのだから、珍しい生き物として見世物とかにされているのかも!それでやっぱりろくでもない輩が、あの子が今巫女術使えないことをいいことに手篭めにしようとしていたりしたら……!あああ、どうしよう。どうしよう!!」
「……あんたね…」
女は心底疲れたように、ため息をついた。
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