届かない声









ロスロリアンはガンダルフの墜死を知り、悲しみに満ちていた。
そこかしこから灰色の賢者を悼む歌が聞こえてくる。

ケレボルンとガラドリエルとの謁見が終わり、一行はガラズリムが用意したテントに移動した。
落ち着きを取り戻すと、悲しみは却って増すものだ。
美しいが愴然としたエルフたちの声は、まだ生々しい記憶を否応なく呼び覚ます。
悄然とするホビットたち、むっつりと黙り込むドワーフ、不安の色を隠せない人間、のしかかる責任に押しつぶされまいとする男。
それぞれがそれぞれなりに哀悼を表すも、しかし彼らは悲しみに浸りきることはできなかった。
なぜなら先ほどから、複雑に苛立った表情の闇の森のエルフが、ずっと同じところをうろうろとしているからだ。



モリアでの出来事の話が終わると、ガラドリエルは探るような、あるいは試すような眼差しで全員の顔を眺めていった。
それらが終わってようやく、ずっと目隠しをしたままだった少女から白い布が外された。
目を開けたは、ガラドリエルの注視を穏やかに微笑んで受けた。
しばらく人間の娘を眺めていたガラドリエルは、視線を外し、眼を伏せると、その美しい面を痛ましげに歪めて呟いた。
「哀れな…」
常にない反応だったのだろう、ケレボルンが訝しげにガラドリエルを見やる。
「そなたにはイルーヴァタアルの恩寵が見えぬ。ロスロリアンの囲いの中に入ってもなお、わらわの目に見えなかったというのも道理というもの。そなたは何者です。人間の娘とルーミルは言いました。わらわにもそう見えます。だが、人間の娘に恩寵がないなどということが起こるとは、わらわには思えないのです」
ガラドリエル言葉に、ケレボルンや広間にいるエルフたちだけではなく、と共にここまで来た男たちも驚愕の表情を浮かべた。
はそんな彼らを困ったように見渡したが、臆することなくガラドリエルを見つめて答えた。
「"ない"のではありません。"届かない"のです。わたしはこちらの世界の人間ではありませんから」
はこれまでの自分の身に降りかかった出来事を話した。
いつのまにか見知らぬ土地にいたこと。
まるで人気がないので、周囲を探っていてクリバインに襲われたこと。
かろうじて逃げ出したが、怪我を負ったこと。
レゴラスに助けられ、旅の仲間に加えてもらったこと。
「ですから、わたしにイルーヴァタアルという方の恩寵がないのは当然なのです。わたしに授けられている恩寵は、この世界にはいない方からのものなのですもの。消えたわけではないけれど、その方はここにはいないから、届かないのです」
「そのようなことがあるとは…。それでは、そなたは」
はガラドリエルの言葉を遮った。
心なしか温かな茶色の瞳が動揺するように、揺れる。
「奥方様、そんなに悲しそうな顔をなさらないでください。たしかに今のわたしは、きっとこの世界で一番弱い個体なのでしょうけど。―届かないというのは、結局、ないと同じことですし。ですが、わたしはわたしの世界の母なる方を知っています。その方も、吾が神も、けしてわたしを見捨てたりしない。必ず迎えが来ます。わたしはその時まで生き延びなくては…」
そこまで言うと、は耐え切れないように眼を伏せる。
続く言葉は囁くほどの小ささで、話して聞かせるというよりも自分に言い聞かせているようだった。
「…生き延びなくては。これは、わたしの義務だもの。でも、それも難しくなりました。こちらの世界の現状を知ってしまった今となっては」

ガラドリエルの声に少女ははっと顔を上げた。
「そなたはまだわらわに言わねばならないことがあるようですね。世界の母とは、わらわたちがイルーヴァタアルと呼ぶ方に当たる方のことでしょうか」
は表情を引き締めて、頷いた。
「ええ。おそらく、そうとって間違いはないでしょう」
「アガカミ、とは?」
「わたしの半身です。こちらでは、えと、ああ、そう、ヴァラアルと呼ばれる方々に相当するのだと思います。わたしの世界では、神々あるいは精霊と呼ばれるのですけど。彼らは地上の者の眼に見えることはまずないのですが、たまにわたしのようにその姿が見え、声が聞こえ、呼ぶことができる者が現れるのです。巫(みこ)あるいは巫覡(ふげき)といいます。巫はたいてい神と誓約を交わすのです。そうすることで巫は神の護りを得、神はその力をさらに増すことができるので」
広間は静寂に包まれた。
この場にいるすべての者の視線が、小柄な娘に集中する。
「誓約」
ガラドリエルの声が静まり返った空間に響く。
「違っているのならそう言ってほしい。わらわにはそなたがそなたの世界のヴァラと婚姻をしているように聞こえます」
「まあ、性の違う神と巫との誓約は、たしかに婚姻しているも同じなのですけど…。そうでなくても巫は圧倒的に女が多いですから、別名「神の花嫁」とも呼ばれたりしますけど…。わたしに限って言えば違います」
どう説明したものかとは眉間にしわを寄せた。
「なにが違うのです?」
「巫を欲しがる神は案外多いのですけど、圧倒的に巫の数が足りません。2,3代前までは神が巫を選んでいたのですが、今は巫が神を選べます。時としてただ神の道具として扱われるわたしたち巫を「母」が哀れんでくださったから。それでもそのことは命令として出されたわけではなく、神は必ずしもその事を守る必要はなかった。だから、わたしは運が良かったのです。社の家に生まれた上に、社に御坐す方は人間に対してとても好意的なのですもの。長じて独り立ちする時も、わたしはこれと決められなかったけれど、その方が、わたしが神を定めるまでの間だけの誓約してくれたのですから。すべての巫を知っているわけではないけれど、こういったことはめったにないのです」
ガラドリエルその後、またいくつかの質問をすると、ロリアンへの滞在を快く許した。
の治療もガラドリエルが引き受け、今はタランの一室で休んでいる。



レゴラスは己の感情を持て余して苛立っていた。
灰色の魔法使いを失った痛手は大きく、ガラズリムたちの歌がさらに悲しみを掻き立てた。
それと同じくらいに心を占めるのは、正体不明の不快感だった。
恐怖とも不安とも憎悪とも違う、初めて味わう重苦しい感情。
それが何に起因するのかははっきりわかっていた。
だ。
人間の少女がガラドリエルに語ったことの半分は聞いたことがないことだった。
特に「巫」がどういうものであるかについては、ただ、「魔女のようなものだ」の一点張りで、それ以上詳しくは話してくれなかった。
それが、ガラドリエルにはあれほど簡単に答えるとは…。
結局自分は信用されていなかったのか、と思うと気落ちした。
結局、それだけの存在でしかなかったのだと。
(――それだけ?)
レゴラスはぴたりと歩くのをやめた。
思い至った言葉の不自然さに疑問を覚えたのだ。
それだけもなにも、と自分は保護者と被保護者の関係だ。
彼女は止むに止まれず自分たちに助けを求めたに過ぎない。
からしてみれば、知らない世界の知らない者たちをすぐに信用しろというのは酷な話であって、責めるのは筋違いだ。
そう考えるが、心は少しも落ち着いてくれなかった。
一体どうすれば良いのか。
レゴラスは頭を掻き毟った。
さっきから仲間たちが自分を見ていることなど気づきもせずに。


「メリー」
「んー?」
ピピンはこんなに悲しいことなんて今までなかったと思うのに、いまいち浸りきれない原因であるエルフを観察しながら、やはり隣で同じように眺めている親友に話しかけた。
「奥方様とが話してたことって、わかった?」
「…実は、あんまり」
そっかー、やっぱりなーと呟きながら、彼は残り2人の同郷の友人たちに視線を向けた。
「おらもよくわかりませんでしただ。とりあえず、おらが今まで思っていたよりも、その、すごい人だったんだなあ、と。それだけしか」
が自己紹介をしたときに「元々そこにいた者たち」のことを話してたけど、それがの世界のヴァラールやマイアールのことなのかな…?でも、人間のがどうにかできるような存在とも思えないのだけど。でも別の世界のことだから、の世界ではそれで普通なのかな…って、ああ、違うんだった。の世界ではのような力を持っているのは珍しいんだっけ。となると、の力が特別強いっていうこと?でも、の力ってまだ見たことがないから、どんなものなのかさっぱりわからないなあ」
フロドは眉間にしわを寄せながらぶつぶつと呟いた。
ピピンの質問に答えたというよりも、単に考えていることが勝手に口からこぼれているようだった。
は鳥に変身できたよね」
「でもそれってローブの力だって言ってたじゃないか。それにあれ、壊れたんだろ?」
挙動不審なエルフを見続けるのに飽きてきたピピンとメリーはフロドとサムのそばへ行き、まるくなって座った。
「んじゃ鞄は?どう考えても実際の大きさより物が入るじゃないか」
「ピピン、お前話ちゃんと聞いてなかっただろ。貰い物だって、言ってたぞ」
あれ?と首をかしげるピピンに、メリーはやれやれと肩をすくめた。
「だが、ああいったものが作れるような存在と親しいのは確かだろうな」
アラゴルンの言葉にホビットたちは一斉に振り返った。
の世界の人間が、我々には魔法にしか見えないものを作れる技術を持っているというなら、話は別だろうが」
そう言って王の末裔は苦笑した。
はやはり我々を信用していなかったのだな」
ボロミアは落胆を隠し切れなかった。
レゴラスははっとして顔を上げる。同じように感じるものがいたということに、腹立たしくも安堵を覚えながら。
「私は伝承の類には詳しくないが、が言ったことは正しく理解したつもりだ。実情はともかくとして、表向きは異界のヴァラの妻だというのだろう?なぜそんな大事なことを言わない?迎えが来るとも言っていたが、それならば納得できるところだ」
「え?ボロミアさん、に迎えが来るって思ってなかったの?」
ピピンはボロミアを見上げる。
が異界の人間だということは信じざるを得なかったが、彼女の身に起こったことは純粋に事故なのだと思っていた。だから同じことがそう何度も起こるとは思えなかった。どんな世界で暮らしていたかはわからんが、迎えが来ると思うことが心の支えになるのなら、何も否定する必要はないと思っていたんだが…。何のことはない。には確証があったんだな。恩寵を与えうる者に直接護られていたのだから」
異なる世界を超えてまで続く恩寵。
それほどのものが己の上にもあれば、ゴンドールは救われるだろうか?
益体もないことを思いついた自分がおかしくて、ボロミアは自嘲した。
「わたしはが苦手なのだが…」
黙り込んでいたギムリが口を開くと、皆が意外そうに彼を見た。
「かわいそうになあ、と思ったよ。いや、今までだってそう思わなかったわけではないのだがね。あの子は本当に、この世界でたった一人なんだと、ようやく理解できた。生きていれば大事な相手と会えなくなることはままあることだ。そのまま、2度と会えないこともね。天涯孤独の者も世の中にはいる。恵まれない一生を送る者も。だけど、それでも私たちには等しくイルーヴァタアルの、ヴァラアルの、恩寵がある。ないものなどいないのだよ。それなのに、はこちらの世界に来てしまったばかりに本来持っていた恩寵をなくし、こちらの世界の生まれではないばかりにイルーヴァタアルの恩寵を受けられない」
指輪の仲間たちは神妙な面持ちでドワーフの熱弁に耳を傾ける。
「…恩寵がない、か。それがわかってしまうのはどれほど恐ろしいものなのだろうね。どれだけ心細くて不安なことだろう。わたしはがこのことを話さなかったからといって、責める気にはなれんよ。口に出したら絶望のあまりに倒れてしまいそうなことだ。迎えが来ると確信できているのだけが幸いだ。この上帰れないなんてことになったら、哀れすぎてかける言葉も見つからないよ。だけどどうせなら、こんな切羽詰った状況の時じゃなくて、もう少し前の時代に来ればよかったのになあ」
ギムリはほうと息を吐くと、向けられている視線にわずかに顔を赤くした。
柄にもないことを…と照れ隠しにあさっての方向を見やる。
アラゴルンはドワーフの肩を親しげに叩き、彼の意に賛同を示した。
「そうだよねえ。こっちに来てからは運悪いよね、。そうでなくたってさ、どっかの国とか町とかが近くにあるとこに出てたら、こんなに何度も死にかけなくて済んだだろうにねえ」
ピピンは大げさに頷いてみせる。
「だが、こうしてロスロリアンに着くことができた。ここならば傷を癒し、迎えを待つことができるだろう」
「彼女を置いて行くのか!?」
いつしかギムリの言葉に聞き入っていたレゴラスは、アラゴルンの聞き捨てならない言葉に声を尖らせた。
「そのつもりだ。殿と奥方にはまだ頼んではいないが、引き受けてくださるだろう」
「そんな!だって、は…!」
過剰な反応だと頭の隅で冷静に考えている自分がいる。
少女のことを思えばそれが最良の選択であると理解していることも。
だがレゴラスには諾とすることが出来なかった。
心臓が激しく動き、頭の中が真っ白になっているのがわかる。
喉は干上がり、なのに握り締めた手の平は汗ばんでいる。
口を開きかけ、しかし何を言えばよいのかがわからなくて閉じるということを何度か繰り返し、やっと危惧していることが何であるかを悟ると、半ば呆然としながらそれを口にした。
「ここで別れたら、二度と、会えない…」
「レゴラス…」
アラゴルンは額に手を当て、天を仰いだ。
今までのレゴラスの様子から、彼がに恋しているのは間違いのないところだった。しかし当の本人は今までその事を自覚していなかったようだ。
兆候はと出会った日からあったのだが、口出しをしていいものかを迷い、結局今まで何も言わないできてしまった。
そのツケがこれだ。
自分もエルフの姫と婚約している身であれば、彼の気持ちは痛いほどわかる。
住む世界が違うと知っていても、一度心に溢れた想いはたやすく消えるものではない。
諦めるには甘すぎ、忘れるには苦しすぎる、その想い。
それでもどこかで、レゴラスは彼女がいつか帰ることがわかっていて尚、心を傾けたのだと思っていた。
いや、そうであってほしいと願っていたのだ。
タランの一室で休んでいるだろう異界の少女を、ほんの少しだけ恨んだ。
彼の地のヴァラに愛されているというその事実を、もっと早く言ってくれたのなら、レゴラスは恋の深みに嵌らなかったかもしれないのに。



翌日。
食事を済ませたレゴラスはケレボルンとガラドリエルの住む、一際高いマルローンに設えてあるの部屋を訪れた。
本当はもっと早く行きたかったのだが、さすがに起きているとも思えなかったので逸る心をなだめながら夜が明けるのを待った。
タランに近づくと、入り口の側で見張りをしているガラズリムの女性の姿があった。
彼女からの容態を聞きだす。
奥方の魔法でほぼ完治したこと。しかし身体はまだ弱っているので静養が必要なこと。治療の際にかけた眠りの魔法がまだ解けていないこと。
断られるのは承知で中に入りたい旨を告げた。
案の定「眠っている女性の部屋に、殿方を入れるわけには参りません!」と言われてしまった。
しかしここで引き下がるつもりはなく、説得の末少しの間ならとの条件付で入室を許可された。
室内に入ると、優雅な意匠の施された寝台が眼に飛び込んできた。
は彼女には大きすぎるその上に横たわり、穏やかな表情で眠っている。
そっと椅子を寝台の脇に運んだ。
ゆっくりと上下する胸。
枕に広がった飴色の髪。
白い寝巻きは胸元が広く開いていて、細い首筋とくっきり浮かんだ華奢な鎖骨が露になっていた。
いつの間にかそこに見入っていたことに気がついて、あわてて眼を逸らす。
起きる気配の見られない少女の寝顔を眺めながら、まだ混乱の収まらない思考をどうにかまとめようと試みた。
結局は同じ答えに辿りつくのだろうということはわかっていたが。

寝乱れて頬にかかっている髪を一房取り、指に絡ませた。
絹糸の如く滑らかなそれは、10日あまりの旅の間にわずかに痛んでしまっているが、それでも少し指を離しただけで何の未練もないようにするりと逃げてゆく。
そんな様は彼女を思わせた。

「……っ!」
レゴラスは堪えきれずに突っ伏した。
重なり合った枕がレゴラスの重さで揺れ、真ん中に収まっている少女がつられたように身じろぎした。
寝返りをうったの顔がレゴラスの方に向けられる。
わずかに開いた唇からは規則正しい寝息が聞こえた。
彼の懊悩など知る由もなく。

「Melin le」

レゴラスは自分の鈍さ加減を呪っていた。
初めて出会ったときから眼が離せなかったこと。
たとえ仲間でも彼女に親しげに近寄る者に苛立っていたこと。
気がつくと彼女のことを考えていること。
……ほんの少しでも、手放したくないこと。
それは一つの言葉に帰結した。
レゴラスにとってはあまりにも意外すぎて、自分がこんなに簡単に捕らわれる事になるとは思ってもみなかった。
しかし、気付いてしまえば、それを打ち消すことなどできはしない。

「Melin le」

のろりと身体を起こし、そっと頬に触れる。
初めて触れたわけでもないのに、血液がすべて指先に集まるような錯覚を覚えた。
がうっとりと微笑んだ。
いい夢を見ているのだろうか。



しばらくそうしていたのだが、の様子が徐々におかしくなってきた。
穏やかだった表情は苦しげになり、呼吸も荒くなってきている。
上掛けからはみ出した手がシーツをきつく握った。
「あ……」
嗚咽のような声が漏れる。
?」
うなされる少女を起こそうと肩を揺さぶるが、眠りの魔法はよほど強力なのか少しも効果がなかった。
閉じた両目には見る間に涙が溢れ、静かに流れ落ちてゆく。
、起きて。!」
呼べど答えのない少女に業を煮やしたレゴラスは、寝台に上がりこみ、脇の下に腕を入れて半ば引きずるように抱え起こした。
こんなことが前にもあったなと頭の片隅でぼんやりと思いながら呼び続ける。
途切れ途切れにうわごとを言っていたが、レゴラスには何を言っているのかはわからなかった。
「ナセ!」
悲鳴のような叫び声と共にはぱっと飛び起きた。
息を弾ませ、呆然と眼を見開いた少女の瞳には恐怖がありありと張り付いていた。
「大丈夫かい?」
レゴラスが顔を覗き込むと、はびくりと身体を硬くした。
大きく開いた瞳孔にレゴラスの姿が映っているが、自分を見ているわけではない。
知らない者を見るようなその眼差しが、レゴラスの心を切り裂いた。
「怖い夢でも見たの?」
それでもそんなことを悟られないよう、いつも通りに笑ってみせる。
は涙を拭うレゴラスの指を不思議そうに追いかけた。
「レゴラス…?」
「落ち着いた?」
なんでもない風を装って安心させるように微笑んだ。
「急にうなされるからびっくりしたよ。呼んでも起きないし」
は無言でゆっくりと周囲に眼を這わせる。
「…放して」
言われて、レゴラスはようやく今の状況に気がついた。
ブーツを履いたまま寝台に座り込み、後ろから羽交い絞めにするように抱きかかえている。
右手はさっきまで少女の頬に。左手は絹布一枚でしか隔てられていない腰に絡んでいた。
上掛けは腿の位置まではだけていて、知らぬ者に目撃されれば言い訳のきかない体勢であることは間違いなかった。
「…っごめん!!」
反射的に寝台から飛び降りると、反動では後ろに倒れこんだ。
柔らかな枕がいくつも積み重なっているおかげで、頭を打つようなことはなかったが。
「いや、あの…。別に変なことしようとしていたわけじゃなくて、だから、その…」
真っ赤になりながら弁解をするレゴラスだったが、これが多分に勢いだけであることは否定しようがなかった。
相手への好意を自覚してしまえば、下心がまったくなかったなどと断言することはできやしない。
両手両腕にいつもよりはっきりと残る体温と柔らかな感触を思い出して、レゴラスはさらに顔を赤くした。
「ええ〜〜っと、だから…」
「ごめんね」
「え?」
「また、気を使わせちゃったのでしょう?」
は特に気分を害した様子もなく身体を起こすと、上掛けを引っ張り上げて抱え込んだ。
「ありがとう」
顔を伏せると髪がカーテンのように覆い、横顔を隠してしまう。

力のない声に微妙に拒絶が混じっているように思えて、無理やりこちらを向かせる。
「やだっ!!」
はレゴラスの手を振り払うと、上掛けを頭から被った。
一瞬見えた目にはまた涙が浮かんでいた。
中にを隠している上掛けが震えている。
懸命に嗚咽をこらえているのが痛々しかった。

これ以上怯えさせないようにそっと声をかけた。
「このロスロリアンには悪しきものは存在しない。君に害なすものも。恐ろしい夢を見たのなら、私に分けてしまうといいよ」
小さな子どもをあやすように背中をさするがは頑なに頭を振った。
「…私では頼りにならない?」
上掛けの中ではピクリと動いた。
「…そうだね。私たちは知り合ってまだ10日しか経っていないのだし、エルフだって君の世界にはいないのだったね。君の事、理解してるだなんて思い上がっていたりもしたけど、そうでないことは昨日はっきりとわかったよ。ごめん。色々と無神経なことをしてしまったと思う。だけどが悲しんでいたり、怯えているのを見るのは辛いんだ。何もかも一人で抱え込まないで、私にも君の重荷を分けてほしい」

「思い出したく…なかったの」
やがて落ち着きを取り戻した少女は、未だレゴラスから顔を背けたままだったが、ぽつりぽつりと話し出した。
「口に出すと、どうしても思い出してしまうから…」
「それは、の世界のヴァラ?」
「隠していたつもりはなかったの。でも言わないですむのだったら、奥方様にだって言いたくなかった。…ナセがいないなんて、信じたくない」
ナセ。
それが彼女の心を占める者の名か。
レゴラスの顔に影が差した。
「夢を見たの。ナセがいるの。でも、ナセは癪に触るくらいにこにこ笑ってるのよ。そのうちどこかへ行っちゃうの。わたしは大声で呼んだけど、ナセには届かないの。追いかけたけど見えない壁があって、わたしは先に進めない。それでね、夢の中で気づいたことがあったの。ナセの声が聞こえなかったって」
三度溢れた涙が、落ちた。



レゴラスは音を立てて軋む心を力ずくで捩じ伏せた。
今は何よりも彼女の回復が先だから。
しゃくりあげるに何度も言い聞かせる。
「大丈夫だ」と。


君のヴァラの代わりは私にはできないけど、ここにいる間はけして君を一人にはしない。
恩寵を与えることは私にはできないけど、劣らぬ愛を君に。
今はまだ、言わないけれど。



泣き疲れて眠りの淵に落ち込みかかっている少女に、一時の安らぎを。
レゴラスは幼い頃に聞いた歌を歌った。
子守唄のような、恋歌のようなその歌を。




黄金のまどろみはあなたの瞳に口付けをして

やがて目覚めるときには微笑みながら

おやすみ 可愛いひと 泣くのは止めて

私が子守唄を歌ってあげるから


不安を知らないあなた、今は眠っていて

私は見守っているから

おやすみ 愛しいひと 泣くのは止めて

私が子守唄を歌ってあげるから……






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