今は聞こえない懐かしい声。

どれだけ貴方に会いたいか。

ごまかして、目を背けて、考えないようにして。

とうとう不安に飲み込まれてしまった。

泣いて、泣いて、泣き続け。

変わらない現実をただ嘆く。



そんな弱いわたしは嫌い。

嘆くしかしないわたしは嫌い。

ねえ、決めたんでしょう?

さあ、立ち上がらなくちゃ。

起きるのよ。

胸の奥に閉じ込めていた不安を、涙と一緒に流してしまって。










Calling










は寝台に横たわり、まんじりともせずに天蓋を眺めていた。
なにか楽しい模様があるというわけではない。
ただ眠れないだけだ。


思っていたよりも衰弱していたようで、眠りと浅い覚醒を繰り返し、気がついたら3日が過ぎていた。
その後も体力が回復していないからと、部屋を1歩も出ないまま、すでに1週間が過ぎようとしている。
ロスロリアンに着いてからすっかり時間の感覚が狂ってしまったが、外が暗いので夜であることはわかる。
の世話をしてくれているガラズリムの女性はすでに引き上げたようで、今この部屋には彼女しかいない。
(だめだ、眠れない)
は諦めて起き上がった。
寝間着の上にガウンを羽織り、窓辺に配置されている肘掛け椅子に座る。
木の枝の間に作られたタランは、窓も出入り口も広く造られているが、反面ガラスや扉はないので夜ともなるとかなり冷える。
とはいっても、通路に面したところは壁で、窓は他のタランから見えない方に向かって開き、さらに窓の上のマルローンの枝が天然の帳になっているので外から見られることはない。
風に乗って聞こえてくるのは、ガンダルフを悼む歌だ。
昼となく夜となく続く、悲しみに満ちた声。
どれほど彼が慕われていたか、わかろうというものだ。

出会ってから10日も経っていなかった。
こんなに早く、あれほど最悪な形で別れることになるとは思わなかった。
己の非力さが悔しかった。
悔しいと思ってしまう自分に嫌悪した。
そう思うこと自体が傲慢なのだ。
自分に何かができる程度のことだったら、あの老賢者が命を落とすはずはないのだから。



は意を決して立ち上がると、寝台の陰に転がっている鞄を取り上げた。
適当に中を探って、着替えを取り出す。
この部屋にはクローゼットのようなものはない。起きられるようになってからは毎朝世話をしてくれる女性が部屋着を持ってくるので、この時間に外に出て行ける服というのは手持ちのものしかないのだ。
しかしほとんどのものは血まみれか泥だらけで、着られそうなものは白い綿シャツとジーンズくらいしかなかった。
後で洗わなくてはと考えて、他は一度中へ戻す。
これだけでは寒いのだが、ここに運び込まれた日に着ていたものは全部脱がされて持っていかれてしまったので、上着はない。
サイドテーブルに畳んであるショールを羽織ると幾分マシになった。


そっと辺りをうかがう。
人影はなかった。
わずかに後ろめたい思いがあるのだが、外出禁止令を言い渡されているわけではないのだからと言い聞かせて部屋の外に出た。
巨大な幹に巻きつくように設えている階段を下りながら、感嘆の思いでロスロリアンを眺めた。
随分長いことここに住んでいるような気がするが、実際には歩くのも始めてなのだ。
ケレボルンとガラドリエルに謁見するまでは目隠ししたままレゴラスに抱えられてきたのだし、その後は治療中にウッカリ意識がとんでしまい、今いる部屋まで運ばれたのだから。
夜とはいっても、足元が覚束なくなるようなことはなかった。
月は、出ていないのか枝に隠れているのかわからないが見当たらないが、そのかわり星の一つ一つが白い火のように輝き、黄金色の葉がそれを受けて朧に光っているようだった。
もしかしたら、木そのものも光を放っているのかもしれない。
そうであっても不思議ではないとは思った。
久しぶりに土を踏んだは思わず顔をほころばせた。
高いところは平気なのでタランでの生活は特に苦痛だと感じたことはないのだが、地面の上に立っていると、それだけで安心感がある。
塞いでいた気分が少し良くなった。
その勢いで次はどうしようかと考えを巡らせた。
行きたいところがあるのだが、いかんせん土地勘がなく、どっちに進めばよいのかがわからなかった。
旅の仲間たちはタランではなくテントを張ってそこで寝起きしているとレゴラスに聞いていた。
彼らを探して、起きているようだったら案内を頼もうと決めた。が。
(み、見つからない……っ)
小一時間ほど歩き回ったが、テントらしいものはまったく見当たらなかった。
探すと言っても特に当てがあるわけではなく、気の向くままに進んだだけなのだが相当に遅い時刻なのか行き会うエルフもおらず、彼らの居場所を聞くことはできなかった。
かといって部屋に戻る気にはならなかった。
意地を張っているのでも、頑なになっているのでもなく、そうする必要があると思ったからだ。
仲間たちを探すのは諦め、適した場所を見つけようと考え直し、踵を返した。
「姫君?」
「……は?」
急に声がしたのでは驚いて足を止めた。
「あ……ハルディア、さん?」
振り返るとハルディアが近づいてきていた。
今の呼び掛けが自分に向けられたものだとわかると、面映くなった。
「こんな遅くにどうしました?何かあったのですか?」
「……何かといいますか、ちょっと道に迷いまして。あの、今って何時くらいですか?」
言って、は自分のセリフの間抜けさ加減に顔から火が出る思いだった。
「真夜中はとうに過ぎています。それにしても迷ったとは。散歩ですか?人間は夜には眠るものだと思っていたのですが」
「ずっと中途半端に寝て起きてを繰り返したものだから、目が冴えてしまったの。ハルディアさんこそどうしたんですか?」
「国境警備の強化についての報告と相談を終えてきたところです。モリアのオークどもがこのままおとなしく引き下がるとは思えないので」
「モリア……」
忌まわしい記憶がよみがえり、は顔を曇らせた。
「ともかく、今は姫君を部屋まで送りましょう。こちらです」
ハルディアは余計なことを言ってしまったと思ったが、それは面には出さなかった。
「あ、違うんです。帰り道がわからないんじゃなくて、あの……」
「ああ、行きたいところがあるのですね。どちらです?」
「モリアのある方向に」





の希望でカラス・ガラゾンの北側に向かって案内していたハルディアは困惑を隠せないでいた。
ガンダルフを悼むため、彼が亡くなった地にできる限り近づきたいのだという少女の要望には頷けるものがあったが、それだけではないような気がしてならない。
ハルディアは隣を歩く少女の横顔をそっと眺めた。
温かな色合いの濃い茶色の髪は、今は下ろしており、柔らかそうな頬を縁取っている。
髪より少し薄い色の瞳には悲しみが宿っているが、しかし何かを決意しているように凛と前を見据えていた。
簡素な衣服は彼女の世界のものなのだろう。
素材や色合いがハルディアには見慣れないものだった。

風が吹いた。

ロスロリアンの中は外に比べれば格段に暖かい。
それでも夜風は冷気を含み、体温を奪ってゆく。
が身体を震わせたのに気付き、ハルディアは自分のマントを脱いで少女に被せた。
「貴女が人間であることを忘れていました。そんな薄着では寒いでしょう」
「でもこれ、裾引きずっちゃうんですけど」
はマントの裾が地面に付かないように持ち上げながら困惑してハルディアを見上げた。
そんな仕草がひどくあどけなくて、ハルディアは笑みを浮かべた。
「お気になさらず。せっかく怪我が良くなったというのに病気にさせるわけには参りません」
失礼、と断りをいれて屈みこみ、マントの下に挟まれた髪を外へ出した。肩幅を調節し、喉の位置でピンを止める。
はおとなしくされるがままになっていた。
着せ終えるとは嬉しそうに笑ってハルディアに礼を言った。
だがハルディアははっと息を呑むと苦しげに眉根を寄せてわずかに逡巡し、ひざまずいて胸に手を当て、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「ハ、ハルディアさん。どうしたんですか、急に!?」
顔を上げてくれと慌てるに、ハルディアは面を伏せたまま口を開く。
「国境での貴女に対する振る舞いは許されるものではないと承知しております。ですが、私はロスロリアンを守る警備隊長としての義務がありました。貴女があの場で身の証を立てられたとしてもー実際にはそうなりませんでしたがー私は貴女を自由にはしなかったでしょう。そしてそのことに関して貴女に許しを請おうとは思わない」
は驚き目を瞬かせた。
「今は暗闇が迫り、この黄金の森も危険に取り囲まれています。ロスロリアン以外の世界に信義と信頼を見出すことが非常に稀になりました。それゆえ我々は自分たちの信頼によってこの土地を危険に陥れるようなことはしたくないのです。ですから、私は貴女に謝りません。ですがそれが心苦しくてならない。虫の良い話であることは重々承知。その上で非礼を詫びぬことをお許し願いたいのです」
「そんなこと気にしていたんですか?」
はしゃがみこみ、苦笑しながらハルディアの顔を覗き込んだ。
「ロスロリアンの掟に従うって、言ったはずですよ?失礼なことをされたなんて、わたしは思っていないです。だから許すも許さないもありません」
「しかし…」
はハルディアの頬を両手で挟むように触れ、視線が合うように起こした。
夜風のせいか体温が低いのかわからないが、ハルディアの頬は冷たかった。
「国を守ろうとするのはそこに住まう方の当然の権利です。もっと手荒に扱われたっておかしくないのに。ハルディアさんの態度は立派でした。だから、あなたはわたしに謝ったりしてはいけません」
ね?と小首をかしげていたずらっぽく笑いかけた。
の柔らかい茶色の双眸にハルディアが映っている。
ハルディアはその眼差しに絡めとられそうになっている己を自覚した。
容姿は幼く、身体は強い風にでも吹かれれば折れてしまいそうに細い。
それなのにこの目の強さはどうだ。
(神の花嫁…)
輝かしき浄福の地を知っているエルフは現在ごくわずかしか残っていない。
そのうちの一人がガラドリエルだった。
彼女の身の内に、瞳に、西方の輝きが宿っているように、異界のヴァラールを知る少女はやはり特別な輝きを宿しているのだ――!
「…アさん。ハルディアさん!」
はっとわれに返ると、が心配そうに覗き込んでいた。
「っ失礼!」
視線を振り切るように顔を背けたハルディアからは悲しそうに手を離した。
「御前にて失礼致しました、姫君」
「…そういう言い方はやめてください」
の表情がさらに曇る。
「ですが、貴女は…」
「ええ、わたしは巫女です。それは変えようのないことだけど、貴方が今わたしに頭を下げたのはわたしにではなくてわたしの後ろにいる方にでしょう?わたしはちょっと毛色が違っているだけのただの人間よ。頭を下げたり下げられたりするような存在ではないの!…って、言うのこれで何人目かしら」
はあ、と疲れたように嘆息した。
「無理を仰らないでください。異界のとはいえヴァラの后君であられる方にそのような無礼な振る舞いはできません」
「だーかーらー。偉いのはわたしじゃないんですってば。これだから言いたくなかったのよ。向こうのことを思い出しちゃうし、それに何より…」
ぐいとはハルディアに近づいた。
勢いに押されてハルディアは後退る。
「こうして、距離ができる」
強張った悲しげな笑みにハルディアは胸を突かれた。
さっきまでの瞳の輝きは失せ、弱々しく儚げな娘がそこにいた。
「姫君…」
「…莫迦なことを言いました。忘れてください」
は力なく立ち上がり、ハルディアから顔を背けて先へと歩き出した。
「行きましょう。だいぶ時間を食ってしまったわ」
!」
ハルディアの呼びかけに、は歩みを止めた。
「すまない。君を悲しませるつもりはなかった」
あっという間に追いつき、隣に並ぶ。
「私にとってヴァラールは敬愛の対象であるとともに畏怖の対象でもある。君は君の世界のヴァラールのそば近くにある光栄に浴した存在だ。それが私にはひどく眩しい。君がどう言おうとそれを覆すことはできない」
ハルディアはに目線を合わせるように屈み、小さな手を取った。
「だが、それだけが君の価値だと思っていたことは許してほしい」
硬い殻に覆われているように感情を表すことのなかったハルディアの色素の薄い瞳に、真摯なものを読み取り、は小さく笑んだ。
それも次のセリフを聞くまでだったが。
「君自身が魅力に溢れていることに気付けなかった。先入観とはこれほど目を曇らせてしまうものなのだな。…どうした?」
は顔を真っ赤にして硬直していた。
?」
「ど…」
「?」
「どーしてそーゆー恥ずかしいことをさらっと言うんですかあ!エルフだから?エルフってそういう種族なの!?ああっ、そういえばレゴラスもやたらこっちが照れるような行動を取りまくっていたわ!」
「何をそんなに照れるんだ?君ほどの女性ならこれくらい言われ慣れているだろうに」
あわあわと取り乱す少女を、ハルディアは心底不思議に思った。
「言われ慣れてなんか、ない!!」
「冗談だろう!?私にも君の美質ははっきりとわかるのに、誰もそのことを称えないのか?レゴラス殿も?」
「なんでここにレゴラスがでるんですか。言われたことなんてありません。神々だって言わないわよ。可愛がられてはいたけど、でもそれって小動物を可愛がるのと同じものだもの」
「そんな事は…」
「あるわ。少なくともガイアの神々についてはわたしの方が詳しいんだから。呼び名がすべてを物語っているしね。わたし、向こうでは"ひいな"って呼ばれていたのよ」
「ひいな?」
「ひよこって意味。ま、あの方々にとっては生きとし生けるものすべてが子どもに見えるんでしょうね。エルフにもそういうところ、あるんじゃないですか?」
「否定はしないが、すべてではないな。特別と認識すれば、それは子どもではない。…子どもだとは思わない」
わずかに細められたハルディアの瞳に熱が宿る。
「ふうん、そういうものなんだ」
感心したような少女の答えに、ハルディアは軽い眩暈を覚えた。
…」
「はい」
「鈍いと言われたことはないか?」
「何か無神経なこと言っちゃいました!?」
勢い込んで尋ねる少女の様子に、ハルディアは天を仰ぎたくなった。
なるほど、鈍い。
「いや、そうではないが」
「父にも母にも吾が神にも何度も注意されているんです。もう少し人情の機微を解さないといずれめんどうなことになるって。気分を害したのならごめんなさい。ハルディアさん,わたし…?」
喉の奥で笑いを堪え、まくし立てる少女を制する。
「ハルディア、だ。それに敬語はいらない」
「え、と。でも」
「頭を下げたり下げられたりする存在ではないのだろう?君が自分で言ったことだ。だから私は君を友人と思うことにした。ならば敬称も敬語も必要ないだろう」
違うか?
ハルディアが目で問いかけると、の表情は戸惑いから一気に笑顔に変わった。
「ううん、違わない。…ありがとう。すごく嬉しい」
満面の、花のような笑顔だった。
「言い忘れていた。今更だが聞いてくれ」
これから苦労することになるだろう。
自分も、そしてあの闇の森の王子も。
こんなに鈍い少女が相手では、慎重にならざるを得ない。
「ロスロリアンへようこそ、友よ。遠き地よりの訪問、歓迎する」
それでも最大の障害はこの世界にいない。それを安堵すべきかどうか。
「ありがとう、ハルディア」
そんな警備隊長の思惑も知らず、は笑顔を浮かべ続ける。
それがさらに彼を捕らえることになるとは思いもせずに。










ガンダルフ。

ガンダルフ、聞こえますか?

皆、無事にロスロリアンに着きました。

って、きっともう知ってるでしょうね。

フロドもアラゴルンも、他の皆も、あなたに伝えただろうから。

ロスロリアンはいい所だわ。

良くしてもらっているし、さっき友人もできたの。

皆もここでゆっくり休めば、前に進む力が再びつくでしょうね。

もちろん、わたしも。

わたしも行くわ。

きっとみんなはここに残れというと思うけど、でもわたしはもう決めたんです。

ガンダルフだけは気付いていたみたいだけどね。

あの暗いモリアで、あなたがわたしの背中を押した。

わたしの世界じゃないからって、見てみない振りをしていたわたしに。

あなたが道を示した。




目の前には緑の城壁が視界を遮り、外の様子は窺えない。
それでもはそのずっと先にあるモリアを思い浮かべた。

この思いが届くように。
決意が揺らがないように。

はそっと歌を口ずさんだ。
亡き人を想い、その魂が安らうようにと。








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