旅の仲間たちはロスロリアンを出発した。

船でアンドゥインを下り、一行の離散の地、パルス・ガレンに至るまでの間に、こんな晩があった――。









こんな晩










「みんな、一緒に漕ぐんだ!」
焦りを含んだボロミアの声が闇の中に響いた。
船はサルン・ゲビアの湍り瀬に入りかけ、東岸へと流されていた。
進む先には岩が隠れた浅瀬があり、このまま行けば座礁してしまうのだ。
船は全部で三艘。それぞれの船には三人ずつ乗っていた。
アラゴルン、フロド、サムで一つの船。ボロミアとメリー、ピピンで一つ、そしてレゴラス、ギムリ、で一つだった。
全員が懸命に船を漕いでいると、弓弦の音とともに数本の矢が頭上を飛んでいった。
「オークだ!」
いつの間に現れたのか、岸には彼らを待ち構えているように、黒い姿があった。
船が壊れるのも戦闘になるのも避けようと、必死になって櫂を動かしていたのだが、
、お前さんは伏せているんだ」
言うなり、ギムリはぐいっと少女の背中を押した。
「なんで!?向こう岸にはオークがいるのよ!早く遠ざからなきゃならないんでしょう!?」
「ギムリ、にこれを」
船の一番後ろに座っていたレゴラスは、荷物の中からさっと毛布を取り出すと、前に座っているギムリに渡した。ギムリはすぐにそれをに渡す。
「それを被って、しばらく伏せていて」
「だから、どうして!?」
「お前さんのそのローブは、夜目にも少し目立ちすぎる。やつらの格好の標的になってしまうぞ」
以外の皆は敵から見えにくくなる灰色のマントを着ているが、彼女だけは夜のわずかな星明りにもきらめくような清冽な白さのローブを着ているのだった。
ようやく事の次第を飲み込み、しかし彼らの言うことに従うべきか逡巡していると、の考えを読んだかのようにギムリが先回りをして止めた。
「囮になる、というのは駄目だからな」
「う〜」
「大丈夫だよ。私たちはエルフとドワーフなんだから。力仕事は任せてよ」
図星をつかれて恨めしそうに振り返る少女に、レゴラスは殊更気楽な調子でそう言った。


なんとか西岸にたどり着くと、レゴラスはさっと船を下り、弓を構えて対岸を凝視した。
夜の闇は深く、ざわめく物音はするものの敵の姿は見えなかった。
何度か場所を変えながらしばらくそうやっていると、ふと暗さが増したように感じてレゴラスは空を見上げた。
見ると、南の方から雲の塊のようなものが、明らかにそれよりも速く動きながら進んできた。
「エルベレス、ギルソニエル」
レゴラスは星々の女王の名を呼び、ぎりりと弦を引き絞る。
他の皆は息を潜めて後方から様子をうかがっていたのだが、その雲のようなものが近づくにつれ、フロドとは心臓に氷を押し当てられたように感じてうずくまった。
異常は他にも起こった。
左肩が突然目に見えない刃物で刺し貫かれたかのように痛みだしたのだった。
恐怖と痛みに叫びださないよう反射的に唇を噛むと、はフロドの側へ半ば這うようにして近づき、彼の手を握ると力尽きたように横たわった。

雲のようなものの輪郭が徐々にはっきりとしてきた。
それは巨大な翼のある生き物だった。
黒いそれが彼らの頭上まで迫ってきた時、レゴラスは弓弦の音を鳴らして矢を放った。
勢いよく空を切り進む矢はあっという間に見えなくなり、代わりに天をつんざく悲鳴が響き渡った。黒い生き物は翼を翻して方向を転じ、対岸のあたりで落下していった。
遠い暗闇の中から大きな喚き声が起こり、それがだんだん静まる頃にはとフロドの恐怖と痛みも少しずつ治まっていったのだった。


「讃むべきはガラドリエル様の弓と、レゴラスの腕と目よ!あの暗闇で大した狙い射ちだったぞ」
船を入り江に移動させ、この日はそこで夜が明けるのを待つことにした。
とはいっても火をたくようなことはできなかったが。
「だけど、あの矢の当たったものは何だったのだろう?」
ギムリの称賛を素直に受けながらも、レゴラスは不思議そうに首をかしげた。
「それはわからんが、あの黒いものがあれ以上側に来なくてほっとしたよ。あれは本当に嫌な感じがした。あれはモリアの影を思い出させた。バルログの影のことを」
「あれはバルログじゃないわ」
どこか遠くを見るように瞳を揺らめかせ、は抱えた膝に頭を乗せた。
まだ少し具合が悪そうだったのだが、触るなという無言の圧力を全身から発していたため、誰もが見守ることしかできなかった。
「そうだね。もっと…冷たいものだ。あれは――」
フロドが続いて口を開いたが、そこまで話してはっと口をつぐんだ。
「あれは?何だというのだ?」
ボロミアが熱心に尋ねる。
「あれは多分…いえ、やっぱり、言わないほうがいい」
心配そうなサムと、物問いたげなボロミアの視線を感じながら、フロドは自分と同じ反応を示した少女にそっと目をやった。
(話を聞いてわかっていたつもりになっていたけど…やっぱり無理にでもロスロリアンに残してきたほうが良かったのかもしれない。あんな…、あんなにはっきりと僕と同じようになってしまうだなんて…。は一体、どれくらい僕の重荷を肩代わりしてくれているんだろう。
半分?あるいは、もっとたくさんかもしれない。このまま彼女の優しさに甘えていていいんだろうか。僕はどうするべきなんだろう。
ああ、ガンダルフがいてくれたら良かったのに!)





「フロドの旦那、食事ですだ」
「いや、いい」
オークと黒い生き物の襲撃から一晩たって、一行はその日の野営地で休息をとっていた。
この日は火を起こしてもよいことになり、サムは一日中塞いでいたフロドを少しでも元気づけようと腕を振るった。
しかしサムの差し出した皿の方を見ようともしないで、フロドは暗い表情のまま水面を眺め続けていた。
ちらと後ろを見やると、気丈そうにしてはいるものの、気の進まない様子で食事をとっているの姿があった。
こんなことを考えているなんて知れたら、それこそガンダルフにも馳夫にも、そして少女に恋するところのエルフにも怒られてしまうだろうけど、とサムは自分自身に前置きをして、フロドの肩代わりには自分がなりたかった、と考えた。
「一日食べていないじゃないですか。眠ってもいないでしょう。ちゃんとわかっていますだ」
「大丈夫だ」
「嘘ですだ。力になりますだ、フロドの旦那。ガンダルフとの約束なんです」
「それは無理なんだ、サム。今回は」
フロドは視線をに移した。
「彼女の存在は奇跡なんだ。他の誰にもできない事なんだ。だけどね、サム。やっぱり僕はが共に来るとこを許してはいけなかったんだと思う。たとえが望んだことでも、承知してはいけなかったんだ。彼女の平安を奪う権利なんて、僕にはない」
いまさらだけどね、と寂しく笑うフロドに、サムは何も言えなくなった。
「お休み」
そういい残してフロドは立ち上がり、疲れたようにのろのろとその場から離れると、毛布に包まって横になった。
きっと眠りは訪れないだろうと思いながらも。



「ミナス・ティリスのほうが安全だ。あそこなら態勢を立て直せる。兵を募ってモルドールへ攻撃しよう」
同じ頃焚き火から少しはなれたところでは、アラゴルンとボロミアがこの先の進むべき道をめぐって言い争っていた。
「ゴンドールにそんな兵力を期待することはできない」
きっぱりと切り捨てるアラゴルンを、ボロミアは口惜しげに睨みつけた。
「エルフはすぐ信用するのに、同じ人間をなぜ信用できない?
確かに人間は脆い。間違いだってある。だが勇気もあるんだ。信義を重んじる心も。
なぜ見ようとしない!?」
ボロミアは無言で背を向けようとしたアラゴルンの腕をつかむ。
「怖いんだな!陰に隠れて生きてきたからだ。自分の血を恐れながら…!」
その言葉にアラゴルンは一切弁解しなかった。
ただ一言、
「お前の故郷には絶対指輪を近づけさせはしない」
それだけ言い放ち、立ち去っていった。



刻々と夜はふけていった。
この日は普段にもまして眠らないものが多かった。
もともとあまり睡眠を必要としないレゴラスは別として、沈黙したままの人間が二人、そしてギムリは見張りの時間だった。
ホビットたちと少女は一箇所に固まって横になっていた。
レゴラスはいつもなら夜番でない時には遠くに行かない程度に歩き回ったり、歌ったりしているのだが、また夜番がやギムリの時間にはおしゃべりに興じているのだがーこれは少女とドワーフには見張りの意味がないとあまり感心されていないことなのだが。といいつつレゴラスのペースに乗せられてしまっているのだがーさすがに今日はそうすることができない雰囲気だった。
武具の手入れを済ませてしまうと途端に手持ち無沙汰になってしまい、焚き火越しに愛しい少女の眠る姿を見つめていた。
ロスロリアンを出発してからというもの、指輪がレゴラスを誘惑するようになってきた。
時には遠まわしに、時にはあからさまに、甘美な夢を語りかける。
己を使えば彼女を我が物にできると。
しかしが以前言っていたように、絶対に無理なことだとわかっていることに対しては案外冷静でいられるらしく、レゴラスも指輪の声は聞き流して放っておくことにした。
(確かに指輪の力があれば、の心を私に向けることは出来るのだろうけど。でもそんなのは一時に過ぎない。彼の君が来てしまうのだと、私は知ってしまったのだから…)
癪ではあるが、ヴァロマが来てくれたことは指輪対策になったようだった。
(欲しいのは、愛らしいだけの人形じゃない。指輪に操られて私を愛するのではなく、彼女の本心からの愛情が欲しい。私がを愛するように、に愛されたい。だけど、そんなこと起こりえるのだろうか)
彼が来るのは遅くて一年先。早ければ、きっと今すぐにでも。
それを思うと絶望に駆られてしまう。
時間が足りなさ過ぎるのだ。
はあ、と切なげに溜息をつくレゴラスの横顔に今では友人となったドワーフが気遣うような視線を向けた。


「う…」
小さなうめき声に起きていた者たちは、はっとして顔を上げた。
毛布に隠れてしまって表情は見えないが,フロドがうなされているのだと皆察していた。
ロスロリアンを発ってからずっとそうなのだ。
今晩は特に酷いようだった。昨夜の異常が尾を引いているのかもしれない。
フロドにつられたようにも身じろぎをした。
ふらふらと身体を起こすし、眠そうに目をこする。
気だるげに立ち上がり、毛布を引きずりながらフロドの側まで歩いてゆくと、彼の両隣にいたサムとメリーをえいやとどかし、空いたところに再び横になると毛布ごとフロドを抱きしめた。
(寝ぼけてる…?)
(寝ぼけているんだろうな…)
(寝ぼけているのか?)
(いいなあ、フロド)
ドワーフと人間たちが少女の唐突な行動に目を丸くしていた時、エルフだけはまるで違うことを考えていたのだった。
しかしそうしている間にも、フロドの寝息は穏やかなものになり、なんだかよくわからないが、これもの力なのだろうと男たちは納得した。
その様子を目の当たりにしたレゴラスは、思わず
「私が指輪所持者になったら、、私にもフロドと同じ事をしてくれるかなあ」
と、口に出して呟いていた。
アラゴルンとボロミアはぎょっとしてレゴラスを見、一方ギムリは冷静に突っ込んだ。
「レゴラス、怒られるとわかっていることをするのは賢いこととはいえないよ」

翌朝、はフロドの絶叫で目を覚ますこととなった。












昼間のうちにアルゴナスの門を通り抜け、一行はパルス・ガレンにたどり着いた。
すでに日は落ちている。
この日は岸の側に野営の支度をし、見張りを立てて休むことにした。
見張りは念のために二人一組で交代することとなった。
時間がきて起こされたは眠い目をこすりつつ意識をはっきりさせようとぺちぺちと頬を叩いた。
と共に見張りの役につくのはボロミアで、彼はすでにしっかりと覚醒し仲間たちから遠く離れない程度に辺りの様子を探りに行った。
ボロミアが戻ってきた時には、は河の向こう岸に目を凝らすようにじっと立ち尽くしていた。
2人の前の見張り役たちはすでに眠っているようでぴくりとも動かない。
「ずいぶんと静かだな」
「本当に。でも、この闇のどこかにいるんでしょうね。…ゴラムも、オークも」
ボロミアがそっと後ろから声をかけると、最後の言葉を潜めながらは振り返った。
2人は岸から離れると、どちらからともなく並んで座りこんだ。


「はい?」
しばらく押し黙っていたボロミアが意を決したようにに向き直ると、思いつめた表情で口を開いた。
「我々は会議の決定に従って、今この旅の途上にある」
「ええ、そう聞いています」
はいぶかしげに眉を寄せた。
「だが、その道をどのようにたどるか、これについては誰も明確にはしなかった。しかしこれだけははっきりと言える。私はこのままあの影の国たるモルドールへは行けぬ。私は故国へと戻り、終わりの見えない戦いに参じなければならないからだ。しかし、モルドールへ至る道の長さはここから行くにしても、我が故国ゴンドールから行くにしても、さほど変わりはないのだ。敵の動静を知るためにも、まずは皆でゴンドールへと赴いたほうが良いと私は考えている。皆が皆、行かぬというのであっても、指輪を持つ者とその重荷を分かつ者だけでも」
「ゴンドールへ?そんなこと、わたし、全然考えていませんでした。とにかく人気のない道を行くのだと思っていましたから」
驚いたは大きな目を見開いたが、すぐに小さく首を振った。
「でも、それは危険だわ。今はわたしたちしかフロドの周りにはいないからいいけれど、ゴンドールに行ってしまったら、その数はどれだけ増えるかわからないでしょう?指輪の魔力は強力よ。人数が多くなればなるほど、惑わされる人が出てきてしまうわ。指輪を、自分のものにしようとするものが」
「だが、お前は惑わされないのだろう?」
熱を帯びた口調でボロミアは、私は指輪を使いたいのだと告げた。
「…ボロミア」
唖然とする少女にボロミアは熱を帯びた口調でまくしたてた。
「お前は会議に出ていないから知らないだろうが、私は未だにあの決定に納得してはいないのだ。彼らは指輪が恐るべき敵の手に渡り、悪しき用い方をされた時のことのみを念頭に置いているように思えたのだ。たしかに、そうなれば強固な我がミナス・ティリスの城壁は破れるだろう。だが、それは敵の手に渡った場合のことだ。悪しき用いられ方をされた場合のことだ。
彼らは指輪が我々の側にあり、善き用いられ方をした時のことなど思慮の外だったのだ。お前も指輪を危険だというが、ゴンドールと我が民をその目で見れば、私がけして無茶を言っているのではないということをわかってもらえると信じている。我々ミナス・ティリスの人間は、長年の試練に耐えて節操を失わずに通してきた。誠ある人間は堕落したりはせぬ。我々はただ自らを守るための力が欲しいだけなのだ。正義のための力が」
言いながらボロミアの目に異様な光が宿りはじめ、それが徐々に増していった。
はボロミアから離れようと座ったまま後ずさろうとしたが、そうはさせじと彼は少女の腕をつかんだ。
痛みよりも驚きによっては小さく悲鳴を上げた。
「私は自分で指輪を持っていたいと思っているわけではない。しかしこの危急存亡の時に、モルドールより贈られた贈り物を使っていけないなどという理不尽なことがあってよいのか?敵の力を逆手に取るのだ!私は小さき人にそれをせよなどとは言わぬ。しかしそれを人間の偉大な指導者がなしてはいけないというどのような理由がある?私ではいけないことがあろうか?
指輪は、私に指揮の大権を与えてくれるだろう。人々はこぞって我が旗の下に馳せ参ずるだろう。そしてモルドールを打ち倒すのだ。悪しき魔力を抑えられるお前がいれば、我らの長きにわたる悲願は叶うのだ」
「自分が何を言っているかわかっているの、ボロミア!?」
はボロミアが急激に指輪に蝕まれてゆくさまを感じ取り、必死になって押し止めようと呼びかけた。しかしボロミアはさらにつかむ手に力を込めて渇望に突き動かされたまま切々と己の望むところを述べるだけだった。
「救えるべき人間の世界を見捨てるのか?エルフと魔法使いの口車にのって、ただひたすらに望みなき道を行ったほうがよいとお前も言うのか?それはお前には安全な場所があるからだ!恩寵を与える者に直に守られているからだ!」
そこまで言ってボロミアははっと息を呑んだ。
はボロミアを見上げ、ただ静かに涙を流していた。
「…っすまない。私は…なんてことを」
強烈な自己嫌悪がボロミアを襲った。
撤回できるものならせめて最後の言葉だけでも撤回したかった。
自分は知っていたではないか。この娘がどれほどの覚悟を持って我々と共に来たのか。
見知らぬ世界に飛ばされ、何度も死にそうな目にあったのに、それでも旅を続けると。
指輪の魔力をその身に引き受けることさえして。
今彼女には彼女自身を守る力は存在しないのに。

「指輪の誘惑は、とても強いものです」
小さな、しかしよく通る声では告げた。
「大切な思い、心の底からの切なる願いを、指輪は歪め、捻じ曲げてしまう」
ふっと首を傾けると、目じりに溜まった涙がするりと頬を伝って落ちた。
「こんなのって…ひどすぎる……!」
はボロミアを抱きしめると声を押し殺して泣きじゃくった。


ボロミアは肩を震わせる少女を抱きしめ返し、きつく目蓋を閉じた。
責めない彼女の強い心根をうらやましく思った。
そして、責めを問われなかったことが苦しくてならなかった。






船でアンドゥインを下り、一行の離散の地、パルス・ガレンに至るまでの間に、こんな晩があった。
運命の時まで、後わずか。






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