「誓いと約束の違いはなんだか、わかる?」
ヴァロマはまじめな表情でまっすぐにをみつめていた。
「約束は最低2人は必要だけど、誓いは1人でもできる…?」
は教師に指名された生徒さながら首を捻りつつ答える。
「そんなところだね。誓いは主に自分自身を縛るもの。約束はそれを交わしたもの同士が互いを縛るもの。誓いは、たとえばわたしたちに向かってなされることもあるけど、だからって別に破ったからといってわたしたちが何か罰を与えたりするわけではないんだ」
「そうだったの!?」
「そうだったんですよ」
目を丸くする少女に、ヴァロマは軽く笑い声を上げた。
「勘違いしてはいけない。言の葉の力はわたしたちにも等しく発揮されるんだ。いや、むしろわたしたちの方がより言霊に縛られているといっていいだろうね。どんな些細なことでも、必ず守らないとそれは痛みとなって自分に返ってくる。内容によっては己を滅ぼしてしまうほど強力なものなんだ。だからわたしたちは簡単には誓いを立てたりしない。約束を交わしたりはしない。しないというよりは出来ない」
ああ、それで。とはぱちんと手を打ち合わせた。
「神々が底意地悪く見えるのってそういうわけなのね。あの方々って、こっちが何か誓う時はほいほいっと聞くのに、こっちが誓ってくれっていってもまず聞いてくれないもの。ちょっとした約束にも滅茶苦茶渋ったりとかね」
にこやかに笑う少女にヴァロマはあさっての方向を向いて乾いた笑い声を立てた。
「…ひいな、怒ってる?」
はふふ、と可愛らしく小首を傾げ、
「まだ修行が終わっていないっていうのにナセがあんまりわたしのこと言いふらしたものだから巫女を欲しがる方々がこぞってやってきてあれやこれや質問攻めにされたり試されたりさらわれそうになったり訳のわからないレトリックだらけのお言葉に誓いをせよって強制されたり?気にしてないわよ、ま・っ・た・く」
と完璧に棒読みな口調で一気にしゃべりきった。
「悪かった」
の怒りの深さにヴァロマはあっさりと頭を下げて降参した。
彼としてはじきに一人前の巫女になる少女に見聞を広める意味でも多くの神々―彼にとっては同僚になるのだがーと会わせてみようと思っただけなのだが、予想外に大勢集まってしまい、一対多数の見合いのようになってしまったのだった。
「えーと、それで、気に入った奴なんかはいる…わけないか」
じろりと睨まれてヴァロマは本当にすまなかった、と再び頭を下げた。
「わたし、巫女になるのは別に構わないけど、あんな風にモノ扱いされるのは我慢ならないわ。そりゃ、そうじゃない方も少しはいたけど、あれだけの数に押しかけられたのよ。いちいち覚えているわけないじゃない」
はぷいと横を向いた。
「それじゃあ当初の予定通り、わたしの巫女になるということでよいかな?お詫びといってはなんだけど、修行が終わってもしばらく猶予期間をあげよう。ひいなが本当に心から愛する者ができたらその者のところへ行けるように、仮初めの巫女で構わないよ」
約束する。とヴァロマが言い切ったので、は少し心配そうに、そんなこと言ってしまっていいのかと聞いた。
「大事なのはひいな自身だよ。巫覡の能力がある者だから言うわけじゃない。ひいなが幸せになるのなら、どんな道を選ぼうとわたしは応援する。このことだって誓っても構わないくらい本気でそう思っているよ」
が晴れて一人前の巫女になった日、彼はこの日の言葉を実行したのだった。
MAY IT BE
(フロド!どこに行ったの!?)
は叫んだ。
しかしそれは人間の言葉ではなく、高く澄んだ鳴声にしかならなかった。
夜が明けて、フロドはしばらく1人になりたいと願い出た。
アラゴルンはこれを許し、皆はフロドが戻るまで野営地で待つこととなった。
しばらく押し黙ったまま落ちつかなげにしていたが、やがて輪になって座り、ぽつりぽつりと話しはじめた。
ただボロミアだけはきまり悪げに1人輪から外れていた。
は話に加わっていたものの、ほとんど聞いてはいなかった。
昨夜はあの後眠ることができず、また大泣きしたこともあって頭の中が綿にでもなってしまったかのようにぼんやりしていたからだ。
朝の身支度としていつもはきっちり結っている髪も下ろしたまま―なぜなら睡眠不足と泣きすぎで目は真っ赤、顔はひどくむくんでしまっていたからだ。それに気付いたレゴラスが何事があったのかと力一杯知りたがったのだが、いたずらに仲間たちの分裂を招きかねないと判断したは口をつぐんで一切答えようとしなかったのだ―時々うつらうつらと船をこいでいた。見かねたレゴラスが自分に寄りかかるように言うと、彼女はおとなしくその言葉に従った。
しばらく昏々と眠っていたは、声にならない悲鳴と共に飛び起きた。
「!?」
男たちは弾かれたように立ち上がると少女の周りに集まった。
「一体、どうしたっていうんだ?」
アラゴルンが困惑したように眉間にしわを寄せる。
(フロドが指輪をはめた!)
は答えようとしたのだが、恐怖に固まった喉からはどんな声も出てはこなかった。
落ち着け、落ち着けと彼女は自分に言い聞かせた。
(フロドに何かあったんだわ!この恐怖はわたし感じているものじゃない。彼が感じているものだ。何が、何があったっていうの!?)
その時恐怖の束縛から逃れようともがくの脳裏に、黒い塔の姿が浮かび上がった。
その塔の頂には巨大な赤い一つの目が、強烈な意志を発して存在していた。
指輪を 指輪を 指輪を―――!
(サウロン――!!)
一つの目は塔の上から求めるものを取り戻そうと手のように黒い影を伸ばした。
(外して、外して!指輪を外して!!)
届くはずもないと知りながらも、は胸の内であらん限りに叫んだ。
影の手は黒い門を超え,一面に広がる沼地を過ぎ、アモン・ラウに触れ、トル・ブランディアを一瞥した。
(いや…こっちにこないで!)
抵抗という抵抗はすべて封じられ、なす術もなく黒い手が伸ばされるのを待つしかできなかった。
逃げたところで、サウロンの意志はどこまでも追ってくるだろう。
そして逃げようにも、身体はまるで動かないのだ。恐怖に縫いとめられてしまったがゆえに。
(……!?)
ふいに心が軽くなり、忌まわしい影は姿を消した。
「あ……」
ぱちくりと瞬くと、心配そうな表情の仲間たちがわずかに安堵したようにを覗き込んでいた。
「、。大丈夫?何があったの!?」
は自分を抱きとめているレゴラスを放心したように見上げた。
そしてゆっくりと仲間たちの顔に順繰りに眺める。
アラゴルン、ギムリ、サム、メリー、ピピン。
(ああ……)
1人足りないことに気付いたは何が起きたかを悟ると、彼のために涙を流した。
最悪の事態は免れたのか、にはわからなかった。
しかし、今の彼女にできるのは、これだけしかなかった。
「フロドを探して。指輪をはめてしまったの」
(指輪なんか、僕のところに来なければ良かったのに。こんなこと、みんな、みんな、起こらなければ良かったのに…)
たちと入れ違いに岸辺に戻ったフロドは悲しみを堪えてじっと立ち尽くしていた。
こんな旅にでたばかりに、ガンダルフを失ってしまった。
そして指輪は仲間にも手を伸ばしたのだ。
ボロミアに。
これ以上皆と一緒にいることはできなかった。
指輪を皆から離さなければいけないのだ。一刻も早く。
「こんな時代に行き当たった者は誰しもそう思う。
しかしどのような時代に生まれるかは決められないことじゃ。
わしらがせねばならんのはこれだけよ。
この与えられた時代にどう対処するかを決めることじゃ」
ガンダルフの声が聞こえたような気がした。
躊躇していたフロドはここで意を決すると、船を押し出して出発した。
「旦那!フロドの旦那!待ってくだせえ!!」
岸から離れてすぐに、サムが追って来た。
泳げないのも構わずに、置いていかれまいと水に入る。
「戻れ、サム!この先は1人で行く!」
「わかってますだ。だからおらも行きます!」
サムは怯まなかった。
ザブザブと水を掻き分けフロドの元へ行こうとする。しかしもう少しというところで深みにはまり、サムは沈んでしまった。
「サム!」
慌てたフロドは船を戻し、サムを引き上げる。
ぜいぜいと息を切らすサムは、それでも決心を変えてはいなかった。
「おらは旦那のお供ですだ。ガンダルフとも約束したんです。サムワイズ・ギャムジーはけして旦那から離れないって。そうするつもりですだ。約束がなくたって、そうしますだ!」
「サム…」
フロドの胸中に暖かいものがこみ上げてきた。
再び船を漕ぎ出したとき、頭上で鋭い鳴き声がした。
見上げると、真っ白い翼の鳥がフロドめがけて急降下してきたのだった。
鳥は船にぶつかる直前に少女の姿に戻った。
「っ…!」
船は大きく揺れ、フロドとサムは落ちないように船縁にしがみついた。
少女はよほど焦っていたらしく、しばらく荒く息継ぎを繰り返していたが、落ち着きを取り戻すとその柔らかい茶色の瞳に悲しみを湛えてじっとフロドをみつめた。
「行ってしまうの?あなたたちだけで」
「うん」
フロドは悲しげに笑った。
「最後に会えて良かった。には頼みたいことがあったから」
「いやよ」
はきっぱりと頭を振った。
「まだ何も言ってないよ。あのね…」
「いや!」
「カタシロを解いてほしいんだ。そしてもしできるなら、ロスロリアンに戻って、迎えがくるまでそこにいてほしい。あそこなら、旅の結果がどうなっても、迎えの方がきてくれるまではもつだろうから。いままでありがとう。それから、ごめ…」
「謝ったりしたら怒るわよ。フロド・バギンズ!わたしはわたしの意思で一緒に行くんだって言ったじゃない。そうするべきだと思ったからそうしたのよ。あなたが悪いことなんて何もないじゃない」
「僕もそうだよ。そうするべきだと思った。だから皆とは離れるんだ」
少しの間フロドをじっとみつめると、は小さなホビットの身体を抱きしめた。
「ごめんなさい、フロド。困らせたいわけじゃないの。でも、術は解かない。ロスロリアンには戻らない。皆が戻ると言わない限りは。…だけどあなたのことも止めないわ」
「そうするべきだと?」
腕のなかでフロドが小さく呟いた。
「そうよ」
「…わかった」
西岸に戻ったはフロドたちが対岸に渡るのを見送った。
船を下りたフロドに向かって彼女はゆっくり手を振った。
幅広の袖は風をはらんで翻り、彼女の翼を思わせた。
最後にと振り返ったフロドとサムはそれに気付き、二人とも手を振りかえした。
そして荷を担ぎエミン・ムイルへの道を求めて歩き出した。
行ってしまった。
はそっと溜息をついた。
これが最良の選択だったのかはわからなかったが、そうするしかできなかったのだけは確かだった。
塞いだ気分を振り払い、フロドとサムを行かせたことを皆にも伝えなければと踵を返そうとした時、背後から透明な声がした。
〈フロドは行ったのだな〉
穏やかな、しかし哀切な響きを帯びたその声は、ボロミアのものだった。
目を見開き動きを止めた少女の背にボロミアは話しかける。
〈すまなかった、。昨夜の今日で、こんなことに…〉
「ボロミア!」
勢いよくが振り返ると、まさか聞こえると思っていなかったらしいボロミアは、驚いてたじろいだ。
〈お前…私が見えるのか!?〉
「ボロミア…どうして?わたし、わたし、間違えてしまったのね。知っていたのに。あなたが指輪に狙われているって、知っていたのに!」
ぼろぼろと涙を流す少女にボロミアは小さく頭を振った。
〈お前が悪いんじゃない。私が弱かったせいだ。指輪の誘惑に耐え切れなかった〉
「でもそれは、ゴンドールを思ってのことでしょう。あなたの愛する故国を」
〈だからといって許されることではない。私は事の重大さを理解していなかったのだから。
指輪は葬られるべきなのだと〉
強い口調に、は何も言えなくなった。
わずかに輝きを帯びた、しかし背後の景色が透けて見える、ボロミアであってボロミアではなくなった者に、彼女はかける言葉を失ってしまった。
〈よく、聞いてくれ。メリーとピピンがオークにさらわれた。アラゴルンはフロドを発たせた。
だからおそらくこの後彼は2人を助け出そうとするだろう。お前の選ぶ道は2つある。アラゴルンと、我が王とともに行くか、それともその白き翼でエルフの黄金の森へ戻るかだ〉
ホビットたちがさらわれたということに息を呑んだだったが、「我が王」というボロミアの言葉に彼女はわずかに瞳を明るくした。
〈王がゴンドールに戻られる。長きに渡って待ち望まれていた王が〉
ボロミアは薄く笑った。
〈私も共に行きたかった。共に戦い、共に守りたかった。白き都と我らの民を。もう叶わぬ望みだが。なんということだろう。今になってから大切なことがわかるとはな〉
流されるままのの涙を拭おうとボロミアは手を伸ばした。
しかしその手はするりと通り抜け、頬の温かさも涙の冷たさも感じることはできなかった。
「わたし、アラゴルンと一緒に行きます。メリーとピピンを助け出すわ。必ず。…その先がどうなるかは、わからないけれど」
〈すまない〉
毅然と顔を上げる少女に、ボロミアは苦しげに顔をゆがめた。
〈すまない。本当に〉
はそっとボロミアの背に腕を回した。完全には後ろに回らず、そしてやはり触れることはできなかった。
〈。このようなことを頼める身ではないのだが…〉
「何ですか?」
〈…いや、やはり、だめだ〉
「そこでやめないでください!気になるじゃありませんか。聞かせてください。わたし、何を言われてもちゃんと考えた上でお返事しますから」
憤然と頬を膨らます少女を、ボロミアは微笑ましく思った。
まるで迫力のない代物だったが、彼女の必死さは伝わってきた。
だからこそ言うのはためらわれた。
結果として受け入れるにしても、断るにしても、言えば、この娘は絶対に苦しむ。
それなのに、死者の願いとして告げるとはあまりに浅ましいのではないか?
〈先に言っておくが、断ってくれてかまわないからな。これは私の感傷なのだから、お前がそれに囚われる必要はないのだ〉
真剣な表情ではうなずいた。
〈心残りがある。ゴンドールのことだ。戦いの行方を、王の戻られた国を、私の代わりに見届けてほしいのだ〉
ボロミアに告げられた事の意外さに、は驚き、またなぜ言うのを躊躇ったのか納得した。
今ならゴンドールに行くということに関しては異存はなかった。
フロドの運命はからも離れた。そしてアラゴルンと共に行くとなれば自ずとそうなってしまうのだろうから。
しかし、戦いの行方を見届けるとなるとどれだけ時間がかかるかわからなかった。
ヴァロマが来るまでに終わるのならば構わないのだが、そんな保障はどこにもなかった。
彼の気持ちを思えば無碍に断ることなどできるはずがない。
だが、承諾すれば自分は一生帰ることができなくなるかもしれないのだ。
ボロミアもそれをわかっているのだ。だからこそ言うのをやめようとしたのだ。
あえて言わせたのは自分だ。
はぐらぐらと揺れ動く心を静めようと大きく息を吸い込んだ。
懐かしい故郷。大切な人々。誰よりも大好きな、大好きな、大好きな半身。
ボロミアの願いを受け入れるのならばそれらすべてと別れる覚悟をしなければならない。
それは身を切られるより辛いことだった。
そこまで自分がしなければならないのだろうかと己に問うた。
(だけど―)
目の前にいるのは、いつ終わるともしれない戦いを続けてきた国に生まれた男だった。
故国を愛して、愛して、愛するあまりに命を奪われた男だった。
は乱暴に涙を拭うとうつむいていた顔を上げた。
「わかりましたボロミア。お約束します」
彼女の長い沈黙を否定の発露だと思い始めていたボロミアは、信じられないと目を見張った。
「わたしには剣を振るう力はありません。あなたの代わりにアラゴルンと共に戦うことはできない。ここにいるのは非力な異邦人です。神々に慈悲をこいねがうことさえできなくなった無力な娘です。だけど、見届けることならできます。ありがとう。わたしにできることを、あなたはくれたんだわ」
涙の跡もそのままに、少女は鮮やかに笑ってみせた。
+++
「だけど、注意しなければならないことがある」
まだ巫女になる前、ヴァロマと仮初めの契約を結ぶと約束した折のこと。
「歴史を紐解くまでもなく、死者の願いに突き動かされる人間は非常に多い。祖先の悲願を成就させるためであったり、あるいは恨みを晴らすためであったり、理由はそれぞれだね。それによって引き起こされる事の善し悪しについては、長くなるから今は言わないでおこう。ひいなはわたしたちの姿が見えるように、現つ世に存在するための器を失ってしまった者たちの姿や声がわかるだろう?彼らの思いを知って、君はかわいそうだと思うかもしれない。力になってあげたいと思うかもしれない。だけど実行が無理だとわかっているときに、せめて安心させてあげようと、彼らの望みを受け入れると「約束」してしまう。
これは絶対にしてはいけない。
なぜなら死者が相手でも言霊は力を発するのだから。
生きている者ならば撤回はできるだろうが、死者と交わした約束はそれもできない。内容によっては、死んでもその約束に縛られることもありえる。果たされるまで、ずっと。そしてこれが一番大事なんだけど、その時にはわたしも助けてあげられない。だから、心を鬼にすることも必要なんだよ。できるかな?」
最後に彼は淡く輝きを放つ髪を揺らして首をかしげてみせた。
美しい容貌ながらその美には女性的なものはまるで見受けられず、しかしこういった仕草がよく似合っていた。
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