玉緒之 久栗縁乍 末終 去者不別 同緒将有
(玉の緒の くくり寄せつつ 末つひに 行きは別れず 同じ緒にあらむ)
《玉を連ねる長い紐を一つに束ねるように、先の先、最後まで離れ離れにならないように、わたしとあなたの魂も同じ緒で結んでしまいましょう》
魂の行方
ボロミアの亡骸を葬送の船に乗せるために岸辺に戻った人の子の王とエルフとドワーフが見たものは、静かに大河をみつめ続ける少女の白い後ろ姿だった。
彼らが告げるよりも先に、彼女はすべてを知っていた。
対岸に渡って行ったフロドとサムを見送り、そしてどこに続くのか定かではない場所へと行かねばならないボロミアのことも見送った後だったからだ。
しかし少女はボロミアとのやりとりを口にすることはなかった。
4人はボロミアをエルフの灰色の船に横たえると、アンドゥインの流れに委ねた。
メリーとピピンを助けだそう。
アラゴルンはとうとう半分以下に減ってしまった仲間たちの顔を見渡して力強く告げた。
「提案があるんだけど」
踏み荒らされたオークの足跡を頼りに走り続けていると、じきに岩の多いところに行き当たった。
高い障害物は徐々になくなっていたが、見晴らしが良いとはいえない。
は足跡を探っているアラゴルンに近寄ると、まだ荒く息を切らせたまま口早に告げた。
「わたし、上からオークがどの辺りにいるか探ってくるわ。足跡を追うのもいいけど、それだとどうしたって距離を縮めるのは難しいもの」
「待つんだ!」
アラゴルンはローブを翻してさっさと姿を変えようとする少女を慌てて止めた。
「気持ちはわかるが駄目だ。ここは前とは比べものにならないほどアイゼンガルドに近い。またクリバインに襲われるようなことがあったらどうするんだ!」
「でも…!」
「駄目だ!」
思いのほか大きな声がでてしまい、がびくりと身をすくめた。
「…すまない、。情けないが、気が弱くなっているようだ。お前の申し出が一番効率のいい方法だというのはわかっている。だが、それを許したら、二度と戻ってこないような気がしてしかたがないんだ」
ガンダルフを失い、フロドはサムと共に旅立った。メリーとピピンはさらわれ、ボロミアは逝ってしまった。
「私も賛成できないな。、私たちはこれ以上離れ離れになってはいけないんだ。もう、これ以上」
レゴラスもいつになく沈んでいた。
「それに、私もこのあたりには詳しくないんだけど、もそうでしょう?危険なことに直接あわなくても、迷子になってしまうことは十分ありえると思う」
「オークどもに追いつけたとしても、メリーとピピンを救い出せるわけではないだろう?理由はよくわからんが、ともかくあいつらは生きたホビットに用があるらしい。だったら、下手に奴らに近づいたらお前さんのほうが危険なことになる」
ギムリも続けて言った。
「それはそうだけど…でももしかしたら何か機会があるかもしれないじゃない。メリーとピピンの2人を一度に抱えて飛ぶのは、確かに無理だけど、近道を見つけられるかもしれないじゃない。それに、行き先がわかればまた手を打ちやすくなるでしょう?それをすべてふいにしてしまうの?だったらなんのためにわたしたち、あの子たちのことを追いかけているのよ」
は手を組み合わせて男たちを見渡した。
彼女の目は泣きすぎと寝不足でひどく赤く、そして腫れていたが、光は失われていなかった。
「まあ、確かに迷子になる可能性だけは否定できないけど。それは、誰かに目印をつけさせてもらおうと思っていたし」
最後に少しばつが悪そうに付け加えた。
「目印って?」
「どんなに遠く離れていても、どっちの方向にいるかとか、どのくらい離れているか、とかいうことがわかるようになる術をかけるの。もしかしたら、その術がかかっている間は違和感を覚えるかもしれないけど、身体には害はないわ。3人ともにかける必要はないから、代表して誰かにお願いしたいのだけど…」
はすっかり出かける気になっているようだった。
ずいぶん色々できるものだと半ば感心したアラゴルンだったが、承服できなかった。
この娘だけはこれ以上どんな危険にもあわせるべきではないのだ。
彼が首を振ると、はふてくされたように頬を膨らませた。
「でも、アラゴルン。このままだとわたし、体力的にあなたがたに追いつけなくなるのだけど。
そしたらどの道姿を変えないと足を引っ張ることになるわ。鳥のときは飛ぶのが目的だから持久力はあるけど、人間のにはすぐ限界がきてしまうのよ」
きっぱりと言い切られてアラゴルンはうめいた。もともとそれが一番いい方法だということはわかっていたのだ。こうなると反論できない。
「、絶対に危険なことはしない?オークどもに近づきすぎたり、なにか危険が迫ってきたらすぐに戻ってくる?ちゃんと誓ってくれるなら、私にその術をかけていいよ」
レゴラスは憂いを帯びた眼差しで、の目を覗き込んだ。
は力強く頷いて、嬉しそうに笑った。
「誓います」
「タマノヲノ、ククリヨセツツ、スエツイニ、ユキハワカレズ、オナジヲニアラム。
…これでいいの?」
「うん、十分よ。それよりどうかしら、違和感はある?」
レゴラスは縄を手繰るような動作の後、それをお互いに結びつけるような仕草をしながらが唱えた呪文を繰り返す。
そうしてほしいと言われたのだ。
呪文の意味はよくわからなかったが、おそらくこれで自分との間に目に見えないつながりが出来たということなのだろう。
「特には感じないけど」
レゴラスは首をひねった。
「そう。もしかしたら時間がたったら感じるようになるかもしれないから、あまり気になるようだったら言ってね。緩めるから」
じゃあ行ってきますとローブを翻すと、少女は白鳥に姿を変え、大空へ飛び立っていった。
彼らの追跡はあまりはかどらなかった。
はすぐにオークの集団を見つけたが、彼女が近づこうとするより先に、見慣れない大きな白鳥を警戒したオークたちが騒ぎ出し、かなり離れたところから遠巻きにするしかできなかったからだ。
それでもメリーとピピンには、助けが向かっているとわかるだろう。
これ以上は仕方がないのでは道案内に徹し、オークの集団が方向を変えるたびに戻っては余計な回り道をしないルートを教えてまたオークを見張るということを繰り返した。
しかし体力には限界があった。
夜が明け、日がある間は追跡を続けたが、休憩をしないことにはこれ以上走り続けるのは難しかった。
朝まで休むことになり、1人元気なレゴラス以外、皆さっさと横になった。
特に必要もないとアラゴルンは言ったが、他にすることもなかったレゴラスは見張りを兼ねてあちらこちらと歩き回ったり、夜空を見上げて考えに耽っていた。
「あの…レゴラス」
「、まだ寝ていなかったの?」
遠慮がちな声に振り返るとが片肘をついて起き上がるところだった。
「ちゃんと休まないと。一昨日からろくに休んでいないだろう?」
「うん…」
駆け寄ってひざまずくと、夜目にも思いつめた表情がはっきりと見て取れた。
「どうしたの?」
「うん…。あの…あのね…」
「…」
すがるように見詰められて、レゴラスは思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
そんなレゴラスの気持ちに気付くこともなく、は深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。
「よ、弱音吐いてもいいデスカ?」
真っ赤になってそう言うにレゴラスはぽかんとしてしまった。
「ごめん、変なこと言って。忘れてちょうだい」
エルフの沈黙を否定だと受けとった少女は慌てて両手を振ってまた横になろうとする。
「あ、違う、待って!ちょっと驚いただけなんだ。聞くよ、聞く。聞くから話して」
「でも…」
「遠慮はなしだよ。たぶん君は気付いちゃいないんだろうけど、私は今すっごく嬉しいんだから。
だって、今までがそんなこと言ったことないだろう?…あの時以外はさ」
心身ともに傷を負ったが始めてゆっくり休むことができたロスロリアン。
大切な人の夢を見たと泣いた彼女の姿を見て、彼女の嘆きがどれほど深いのかを知った。
それまでも、今までも、は「平気」「大丈夫」としか言わなかった。
そんなはずはないのに。
「もっと甘えてくれたらいいのにって、ずっと思ってた。もしかしたら全部私の思い込みで、にとっては本当にたいしたことはないのかもしれないけど、前しか見ないは見てて痛々しくて。の支えになれないことが、悔しかった」
「レゴラス…」
「少しは、私のことを頼ってくれてるって思ってもいい?」
は頬を赤らめると、こくりと頷いた。
「…他の2人にはまだ言わないでほしいの。特に、アラゴルンには」
「アラゴルン?いいよ。でもどうしてアラゴルンなの?」
レゴラスはちらりとすっかり寝入っているアラゴルンに目をやった。
「…ひどいこと、言っちゃいそうだから…」
「どんな?」
レゴラスが促すが、はなかなか続きを言おうとしなかった。
話そうとはしているのだ。何度も何度も、口を開きかけるのだが、その度に感情が大きく揺らいで言葉にならないようなのだ。
どうしたものかと困惑したレゴラスは、役に立ちそうな記憶はないかと必死になって検索した。
(そうだ…)
レゴラスはあぐらをかくと、その間にを座らせて苦しくない程度に頭を抱いた。
子どもの頃のレゴラスは、不安なことや悲しいことがあると、いつも両親にそうしてもらっていたのだ。
「あの、あのね、わたし…」
ややあって、は消え入りそうな声で呟いた。
「わたし…本当に帰れなくなるかもしれない」
「…なぜ?」
驚きにあえいだレゴラスは、やっとのことでそれだけ言った。
「ボロミアと、約束したの」
「ボロミアと?どんな?」
ほんの二日前に失われた、指輪の仲間。
彼はそれほどと親しいというわけではなかった。
接点がわからず、とにかく続きを知りたくてレゴラスは焦れた。
「フロドとサムを見送った後、ボロミアが来たの。ボロミアの魂が。最後の話をして、心残りがあるって、言われて…。ボロミアは、断ってくれていいって言ったの。でも、わたし、断りたくなかった。叶えてあげたかったの…!」
「、肝心なところが抜けてる。ボロミアと、何て約束をしたの?」
レゴラスの問いに、は身体を固くした。
「戦いの行方と王の戻った国を、見届けてほしいって」
「承知…したんだ」
「…うん」
微妙な約束であると言わざるをえなかった。
どれほどの時間がかかるかはわからないが、戦いの行方を見届けるというだけならそれほど難しいわけではない。
戦いに勝っても負けても、見届けることには変わりがないのだが、問題は「王の戻った国」だ。これでは、アラゴルンはなにがなんでも王位につかなくてはならないのだ。
万が一彼が失われてしまったら、は一生、果たされることのない約束に縛られることになる。
それがつまり。
(帰れなくなるってことか)
ヴァロマが来ようと来なかろうと関係ない。
「気付いてた?わたしたちの間で一番指輪の危険にさらされていたのは、フロドでもわたしでもなく、ボロミアだったのよ。あの晩、ボロミアにゴンドールに行こうって、誘われたわ。わたしがいれば、指輪の悪い影響を抑えながら力を使えるだろうからって」
はぎゅっとレゴラスの二の腕を握り締めた。
「多分、フロドにも同じようなことを言ったんだと思う。それがあの人を破滅させてしまった…。
わたしは、わかっていたのに何もできなかった。ボロミアは指輪に惑わされていたことに気付いていたし、万一また同じようなことがあっても皆の目があるから思い切ったことはできないだろうって、考えて。…結果的に、わたしがボロミアを死に追いやったんだわ」
「のせいなんかじゃ…!」
「うん。わたしのせいじゃないって、ボロミアにも言われた。誘惑に負けたのは、自分だからって。だけど、ボロミアは、ゴンドールを守りたいって思っただけなのよ。生まれ育った国、大切な人たちがいる場所。それを守りたいと思うのがそんなにいけないこと?そんなはずないでしょう!?」
細く息を吸い込んで、は続けた。顔は伏せられているので表情は見えない。だが声も肩も、腕を握り締める小さな手も震えていた。
「あの指輪が、ボロミアの思いを汚したのよ。追い詰められて、追い詰められて、ボロミアはゴンドールに帰れなくなった。未だに指輪を持っているフロドだって、帰れなくなるかもしれない。
それなのに、わたしだけのうのうと迎えがきたらそこでおしまい、はい、さようなら、なんてできるわけがないじゃない!」
帰れない、と言うだったが、相反する思いを抱えていることは容易に見て取れた。
全身で帰郷を望んで声もなく叫ぶ少女をかわいそうだと思う反面、このまま帰れなくなればいいとほくそ笑む利己的な自分がいた。
それらを振り払うように、レゴラスは抱きしめる腕に力を込めた。
「ガイアではどうか知らないけど、ここではね、アルダでは、人間は死ぬと私たちエルフにも与り知れないところへ行ってしまうのだと言われているんだ。この世に縛られることなく。私はエルフで、この世の終わりまで存在し続けることができるけど、それでも殺されたり、悲嘆にかきくれれば死んでしまう。それでもそれは人間の死とは違っていて、マンドスの館に行き、いずれは戻ることも可能なんだ。でもね、それでも、志半ばで倒れてしまったら、エルフにだって悔いは残るよ。ましてや人間なら、その想いはさらに大きいと思う。だけど、少なくともボロミアには後を託せる人がいた。アラゴルンがいて、がいた。彼は安心して旅立ったのだと思うよ」
「…本当に、そう思う?」
少女は涙に濡れた瞳でレゴラスを見上げた。
「思うよ」
きっぱりとレゴラスが言い切るとの身体からくたりと力が抜けた。
彼女は完全にレゴラスに身柄を預けると身も世もなく泣いた。それは少女と出会ってから初めてのことだった。
レゴラスはの気の済むまで泣かせると、そっと耳に口を寄せた。
彼は声に恩寵を戴いたシンダール。優しく歌を紡いだら、夢すら見ない眠りに落ちる。
「アラゴルン、アラゴルン!」
追跡3日目。
いつも通りオークの行く先を探りにでていたは、いつになく慌てた様子で戻ってきた。
「何があった!?」
乱暴に変身を解いた少女は息せき切ってアラゴルンに駆け寄る。
「馬に乗った人たちが大勢、こっちに向かってきているの。全員、武装しているわ。どうする?」
「ロヒアリムか」
アラゴルンは呟いた。
「、今オークどもはどう進んでいる?彼らとかち合っていそうか?」
「ごめんなさい、まだそこまで飛ばなかったの。あの人たちが敵か味方かわたしには判断できないから、知らせるのが先だと思って…。千人は間違いなくいたから、もし敵だったら避けないといけないと思って」
「それは大丈夫だ。彼らは誇り高く意地っ張りだが、心中は誠実で、思うことも高潔だ。ロヒアリムはオークを憎むことすれ、愛するようなことはない。このまま進もう。何か聞けるかもしれない」
再び走り始めた一行の耳にしばらくして馬の疾駆する響きが聞こえてきた。
アラゴルンは一度騎士たちをやり過ごすと立ち上がって彼らに向かって呼びかけた。
「ローハンの騎士たちよ!マークの地で何があった!」
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