ローハンの騎士たち











「人間とエルフ、それにドワーフまでがこの地で何をしている?」
アラゴルンの呼びかけに騎士たちは取って返し、一行を取り囲んだ。
指揮官らしき男が馬上から叫ぶ。
「早く答えるのだ!」
「そっちから先に名乗られよ。そうすればわたしも答えましょうぞ」
男の居丈高な物言いにむっとしたギムリが斧を握り締めてふんぞり返った。
男は馬から降りるとギムリに詰め寄る。
「ドワーフよ。もしそなたの首が地面よりもう少し高ければ、はねてくれようものを」
「その前にお前の命はないぞ!」
男の言葉に気色ばんだレゴラスは矢をつがえて男を狙った。
「ちょっ…レゴラス!」
弓を構えるレゴラスに、馬上の騎士たちは槍先を突きつけた。
一触即発の雰囲気に、はレゴラスを止めようと腕にしがみつき、アラゴルンは両手を挙げて騎士たちに害意がないことを示した。
「私はアラソルンの息子アラゴルン。グローインの息子ギムリに、スランドゥイルの息子レゴラス。それから彼女は・アルフィエル。ローハンの主、セオデン王の友だ」
「親子なのか?」
「…いや」
「違います」
首を振る二人に男は訝しげな表情が浮かんだ。おそらく彼らがどういった一行なのかまるでわからないのだろう。馬でもなければ移動もままならないローハンにおいて、エルフとドワーフと親子ではない人間が2人―それも片方は年端もいかない娘でー何をしているのだという疑問は、もっともであろう。
「まあよい。私はエオムンドの息子エオメル。リダーマークの第三軍団軍団長に任ぜられていた」
「…いた?」
は小さな声で呟いたのだが、エオメルには聞こえてしまったようだった。
「王にはもはや敵味方の区別はつかない。ご自分の身内さえも。サルマンが王の心に毒を吹き込みローハンを奪おうとしている。我らはマークに忠誠を誓った者。それゆえ追放されたのだ」
エオメルの顔に口惜しげな表情が浮かぶ。
「白の魔法使いは狡猾だ。彼はフード付きのマントを着ていたるところに出没しているそうだ。
手先もまた網の目をくぐって潜りこんでいる」
心当たりがあるのか、彼は苦々しそうに吐き捨てた。そして猜疑に満ちた眼差しで一行を見やる。
「我らはサルマンの間者ではない。ウルク=ハイを追ってこの地に入った。友人2人が奴らにさらわれたのだ」
「見ませんでしたか?あなた方が来た方向に向かって進んでいたんです」
アラゴルンとの必死な様子に、エオメルは少し表情を和らげた。
「ウルク=ハイならば、昨夜我らが皆殺しにした」
告げられた言葉に、一行は一瞬動きを止めた。
「ホビットがいただろう!ホビットを2人見なかったか!?」
「彼らは身体は小さい。あなた方の目には子どもにしか見えないだろう」
ギムリとアラゴルンは望みをつなげようとエオメルを問いただす。
だがエオメルは小さく首を振った。
「生き残りはいない。死体は皆積み重ねて焼いた。
場所はエント森の外れ近くだ。今も燃えているだろう」
「…死んだ…?」
呆然とギムリは呟いた。
「メリー…ピピン…」
「気の毒だが」
見る間に血の気の失せてゆく小さな娘を、エオメルは痛ましく思った。
彼女はふらついた身体をエルフの青年に抱きとめられていたが、あくまで視線はエオメルに向けられていた。
言葉よりも雄弁に彼を責める眼差しで。
「ハスフェル、アロド!」
ほんの少し胸が痛んだが、オークは敵。殺さないわけにはいかなかった。
しかし知らなかったこととはいえ、罪なき旅人の命を奪ったかもしれないのであれば、このまま彼らに何もせずに別れるわけにもいかない。
「主人は昨夜の戦いで死んだ。代わりに可愛がってやってくれ」
空の鞍を載せた馬が二頭、前に進み出てきた。手綱を渡して自身は馬上に戻る。
「探すのは勝手だが、希望は持たないことだ。ここは望みに見捨てられた土地だ」
エオメルは再びローハンの騎士たちを率いて北に向かって馬を進ませた。
しばらくして後ろを振り返ると、どこからきたのか大きな白い鳥が雲のように翼を広げて、エオメルたちが来た方へと飛んでいくところだった。










「メリー、ピピン」
一足先に森近くまで飛んできたはくすぶるオークの死体の山の前で呼びかけた。
「メリー、ピピン。いないの?」
あちらこちらと動きながら小さな友人たちの名前を呼ぶ。
彼岸へ行ってしまったものを見える目をもってしても、彼らを見つけることはできなかった。
それはまだ彼らが生きているから見えないのか、それとも落ち着きのない彼らだったからすでに遠くへ行ってしまったから見えないのか、にはわからなかった。
遅れてたどり着いたアラゴルンたちが馬から降りる。
徹底的に壊滅させられているオークの一隊に、苦渋の色が浮かんだ。
「ちっぽけなベルトが…」
まだ煙をあげている死体の山をかきわけていたギムリが焦げたベルトの切れ端をみつけだした。
「Hiro hyn hidh ab`wanath.」
「遅かったか…」
レゴラスは胸に手を当ててエルフの言葉で呟いた。アラゴルンは絶望の叫びを上げ、膝をつく。
地面に手をついたアラゴルンはふと気付いたように土の表面をなでた。
「ホビットの跡だ。ここに横たわっていた」
そのすぐ側を探る。
「もう1人」
希望を取り戻した野伏は立ち上がると、他の者には読み取ることができないわずかな痕跡を追って足を速めた。エルフとドワーフと少女が後に続く。
アラゴルンは半ば土に埋もれたオークの剣の側から切られた縄を見つけだした。
「切られている」
「これは、我らがぶつかった不思議の中でもずいぶんな不思議だね。縛られた囚人がオークからも騎士からも逃げ出した。彼らはまだ身を隠すものもないあらわな場所にいるというのに、オークの短剣で自分を縛っている縄を切っている。だけど、どうやってだろう。だって足を縛られていたら歩けるはずがないし、腕を縛られていたのなら短剣が使えるはずがないもの」
レゴラスが首をひねった。
「すぐ手近に他にも手がかりがいくつかある。ここにくるまでにメリーかピピンのどちらかの手が自由になっていたようだ。それに彼らは身を隠すもののないあらわな場所にいたわけではない。
夜だったし、エルフのマントを着ていたのだから。そして彼らは戦いの場から逃れ、ファンゴルンの森へ入った」
鬱蒼とそびえる木々を見上げてアラゴルンは断言した。
「ファンゴルン…。ケレボルン様が奥深くには行かないよう、忠告なさっていたのに」
昼なお暗い森の奥に目を凝らし、は不安そうに胸の前で指を組んだ。



「おかしな足跡があるな」
森の地面は落ち葉が厚く積もっていて、アラゴルンにもホビットの足跡はほとんど見つけられなかった。その代わりにずいぶん大きな、重たいものの足跡があった。
「息苦しい感じがする」
落ち着きなげにギムリがあたりを見渡した。
「ここは古い森だからね。とても古くて多くの記憶を秘めている。木たちは油断なく見張っているし怒りも感じられるけど、敵意はないよ。もし平和な時代に来たのだったら、楽しくやれるだろうに」
「こんな時にずいぶんのんきね」
あきれたように肩をすくめた。不謹慎だったかとレゴラスが口をつぐむと、彼女は追い越しざまに手をひらつかせて苦笑した。
「レゴラスだから仕方ないけどね」
今の言葉はどういう意味だろうかと考えながら野伏と少女の後を追うエルフの背を、ドワーフが軽く叩いて追い抜いていった。
「nad no ennas!」
最後を歩いていたレゴラスはさほど遠くないところに人影を見つけて身体を固くした。
思わずエルフ語で注意を促してしまったが、とギムリはレゴラスがなんと言ったのかわからず、眉を寄せた。
「Man cenich?」
つられたのかアラゴルンもエルフ語で返してきた。
「白の魔法使いが近づいてくる」
レゴラスが共通語に戻すと、ようやく事態を把握したギムリが叫んだ。
「口を開かせるな。さもないと皆まじないをかけられてしまうぞ」
アラゴルンは剣を抜いた。
「先手を打つぞ」
弓を構えたレゴラスと手斧を握り締めたギムリが一気に動いた。
爆発的な光と共に現れた老人は手斧も矢も弾き飛ばし、アラゴルンの剣を赤く熱した。
「2人の若いホビットを探しているのかね?」
逆光で老人の顔はよく見えない。しかし声は聞き覚えのあるものだった。
朗々と響く力のある声は、カラズラスで山を崩したそれと同じものだったからだ。
「2人はどこだ!」
剣を取り落としたアラゴルンは眩しさに目をすがめて叫ぶ。
「ここを通った。一昨日のことだ。思いがけない再会をしてのう。安心したか?」
「お前は誰だ…?」
ものやわらかい老人の声にアラゴルンは訝しげな表情になる。
サルマンがこちらを気遣うようなことをするものだろうか?
「姿を見せろ!」
光がおさまり、老人の姿がはっきりした。
真っ直ぐな長い白髪に白い衣。手にしている杖も白く、瞳には明るい輝きと力があった。
老人はサルマンではなかった。
「お許しを!サルマンと間違えました」
レゴラスはひざまずいた。
「そうとも、サルマンじゃ。サルマンのあるべき姿じゃ」
老魔法使いは微笑を浮かべた。
「信じられない…地の底に…」
アラゴルンは驚きに声を震わせる。
「落ちた。闇の底に」
鷹揚とした微笑を浮かべて立つその老人はガンダルフだった。
「地底の土牢から高い峰の頂まで、わしはモルゴスのバルログと戦った。長い長い戦いの末、奴にとどめの一撃を与え、山腹に叩き落して滅ぼした。そののち闇に捕らわれ、時と空間を越えてさ迷った。星々が頭上を巡り、一日一日が地上の一生に匹敵する長さじゃった。だが、終わりではなかった。身内に再び生気が蘇った。わしは送り返された。使命を果たすために」
「ガンダルフ」
感極まったアラゴルンは魔法使いの名を呼んだ。
「そう呼ばれておった。『灰色のガンダルフ』。わしの名前じゃった。今は『白のガンダルフ』じゃ。おぬしらの元に戻ってきた。潮の変わり目にな」
「ガンダルフ!」
喜びに顔を輝かせた娘は白の魔法使いに飛びついた。彼はしっかりと小柄な少女を抱えて頭をなでた。
「お主が旅を続けたと聞いた時にはさすがに肝が冷えたぞ。指輪は異世界の加護を持つ者すらも巻き込むのかとな。辛い選択をさせてしもうたな」
「いいえ、いいえ。あなたが戻ってきてくださったのですもの、こんなに嬉しいことはありません。でもガンダルフ。聞いたって、どなたに?」
「ガラドリエルじゃ。かのエルフの奥方が鷲の王グワイヒアにわしを探すよう命じておったのじゃ。カラス・ガラゾンに運ばれたわしはお主らと行き違いになったことを知った。その他にも多くのことを」
ガンダルフは言葉を切ると愉快そうに喉をならした。
「風変わりな客人がロリアンの森を騒がせたこともな。その場におれんかったことが残念じゃ」
は頬を赤らめるとガンダルフの肩に顔を埋めた。
「そのときは間違いなく、ナセに文句を言われていたのはあなただったと思いますよ。笑い事じゃないんだから」
ガンダルフはからからと笑うとアラゴルンに向き直った。
「お主らに伝言がある。アラゴルンにはこう伝えよと。

エレスサールよ、エレスサールよ、ドゥネダインはいまいづくにありや?
そなたの身内は、なぜ遠くさまようや?
失われし者の現るる時は近し。
また灰色の一行は北方より馬にて来たる。
されどそなたに定められし道は暗し。
大海に至る道を死者たちが見張る。

レゴラスにはこれじゃ。

緑葉なるレゴラスよ、そなたは長く木の下に喜び持て暮らしたりき。海に心せよ!
岸辺にて鴎の啼くをきかば、そなたの心はその時より森に休らうことなかるべし

ギムリにはこうじゃ。
かれの敬愛を受ける妃からの挨拶をおくる。わが捲毛を持つものよ、そなたの行く所いずこへもわが思いはともにあり。されどそなたの斧を当てる木を誤たざらんよう心せよ!

最後はにじゃ。

白鳥の乙女よ、遠きより来たるそなたの言の葉は通ずるも、その意はたがうこともあり。
易く応うことなかれ。しからずは帰りたる術途絶えん。」

「…言ってることはわかるけど、意味がわかりません」
の言いにアラゴルンとレゴラスが同時にうなずいた。
「ギムリのが一番わかりやすいね」
「うらやましいかね」
心底嬉しそうなギムリはレゴラスの軽口を受け流してドワーフ語で何やら叫んだ。



「旅の一幕が終わり新たな旅が始まる。エドラスへ急がねばならん」
ガンダルフが先頭を歩いて一行は森を抜けた。
「エドラスへ?半端な距離ではありませんぞ」
ギムリは不満そうに言った。
「ローハンは危機にあります。王が病んでおられる」
アラゴルンは憂いた。
「そうとも。それも重症じゃ」
「では駆けつけても無駄に終わるかもしれませんな。その間ここにホビットたちを置き去りにするのですか?」
「メリーとピピンをファンゴルンに導いたのは偶然ではない。この森には太古からの偉大な力が眠っているのじゃ。メリーとピピンの到来は、山の背から転がり落ちた小石が山津波を引き起こすようなもの。ここでこうして話していても、わしの耳にはその最初の轟が聞こえてくる。堰が切って落とされるとき、サルマンは巣からひっさらわれないようにするがよいわ!」
変わりのないガンダルフの話し振りには声をあげて笑った。
「相変わらず、謎めいた話し方だ」
アラゴルンも苦笑した。


馬はハスフェルとアロドの2頭しかいない。自分とガンダルフが相乗りになるのだろうとアラゴルンは考えていたが、ガンダルフが口笛を吹き鳴らすと蹄の音を響かせて大きな銀色に見える毛並みの馬が駆け寄ってきた。
「ずいぶん大きな馬ですね。あんな馬は今まで見たことがない」
レゴラスは感嘆した。
「名を飛蔭という。彼こそすべての馬の上に立つ馬メアラスの長。多くの危機を乗り越えた同胞じゃ」
飛蔭が嬉しそうにガンダルフに鼻をこすりつけた。ガンダルフはそんな飛蔭の首筋を優しくさすってやると、馬たちに向かって話しかけた。 
「わしらはこれより直ちにお前たちの主人、セオデンの居城メドゥセルドに出発する。時は切迫しておる。それ故わが友たちよ、すまぬがわしらは乗るぞ。頼むから皆々あたう限りの速さで走ってもらいたい。ハスフェルはアラゴルンを、アロドはレゴラスとギムリを乗せておくれ。わしはを前に乗せる」
「わ、わたしも乗るんですか!?」
びっくりしたは思わず叫んでしまった。
「もちろんじゃとも。わしらがこれより行くのは大勢の人間がいるところじゃ。そんなところへ白鳥の姿で行くのかね?大騒ぎになるぞ。まずはローハンの主に会い彼の憂いを払い、この地に満ちる絶望をまずは一時なりと払わねばならん。それが終わればお前さんの翼も役に立つことがあるかもしれぬが、今はそのときではない。」
「…でも、馬は苦手なんですけど」
「ギムリもそうじゃぞ」
あっさりと切り替えされては溜息をついた。どうやらどうしたって乗らないわけにはいかないようだ。
「ミスランディア!ギムリとを交換しませんか?どっちみち飛蔭もアロドも2人乗せるんでしょう。飛蔭にギムリを乗せてください。私とがアロドに乗ります!」
嬉々として提案するエルフを魔法使いは呼び寄せた。
「わしが口出しすることではないと思うのじゃがな、異世界の客人殿が来た折のことはそれこそ細に渡ってガラズリムたちに聞かされてのう。お主、男の心をもってしてに近づくなと言われたそうではないか。今はやめておけ」
エルフのとんがり耳に口を寄せてガンダルフは他には聞こえないように囁いた。
レゴラスが思い切り不服そうな顔になったのは言うまでもない。










わずかな休憩時間以外、3頭の馬たちは走り続け、日が暮れなずむ頃に一行はメドゥセルドにたどり着いた。
階段を登りきらないうちに中から鎧を身に着けた騎士たちがいかめしい顔つきで現れた。
「武器を帯びたまま御前へは参れぬ。灰色衣のガンダルフよ。蛇の舌様のご命令だ」
代表格らしき男に言われて、アラゴルンとレゴラスはおとなしく従った。サルマンの手が伸びているらしいマーク王その人がいる場所で、下手に抵抗するべきではないと判断したのだ。
剣、弓、矢筒、短剣、ナイフ。次々に衛士に武器を渡していく友人たちを、致し方ないと横目で見ながらギムリは斧を手渡した。
はローブの前を空けて危険なものは何も持っていないことを示した。
これでよかろうとガンダルフが満足そうに笑うと、騎士はガンダルフに杖も渡すように要求した。
「年寄りから杖まで奪うのかね?」
ガンダルフは、彼を知るものがみれば大げさなほど年寄りらしく振舞った。
騎士は魔法使いから杖を奪うのを諦め、室内に入っても良いという身振りをした。ガンダルフは彼が前を向いた隙にそうとわからない程度に素早くアラゴルンに片目をつぶってみせた。アラゴルンはガンダルフの意図を察して思わずにやりと笑った。
「当宮廷の礼儀作法は最近地に落ちたとみえますな。セオデン王陛下」
ことさら老人であることを強調するように、ガンダルフはいつものずかずかとした歩き方ではなく、ゆったりと足を運ぶ。面白がったレゴラスは彼の手を取っていたわっているような小芝居までした。
彼らが進むにつれて近衛兵らしき男たちも進む。何かあったらすぐにでも対処できるようにということだろう。
広間の奥には三段の階段のついた壇があり、壇の真ん中には玉座が設えていた。
王の椅子には老齢の男が座っていた。若い頃はたいそうな偉丈夫であっただろうが、表情には生気はなく、髪も髭も方方に伸び、目はどろりと濁っている。身じろぎもせず椅子に座る王に、階段に腰を下ろしていた小男がそっと耳打ちをした。
「陛下、灰色のガンダルフが参りました。歓迎なさらぬように」
「そなたを…歓迎する理由などどこにある。災いのガンダルフよ」
まるで意志の感じられないセオデンは、しわがれて掠れた声でそれだけ言った。
「まさしく、仰せのとおりでございます」
小男は立ち上がると悪意のある目でガンダルフをじっとりと睨みつけた。
「ガンダルフ、この魔法使いが!姿を見せるのは常にすべてが手遅れの時だ。貴殿のことはラススペルと呼ぼう。つまり凶報ということだ、疫病神殿」
「黙らんか、グリマよ!その二枚舌を歯の後ろに畳んでおけ。貴様ごとき蛇と言葉遊びをするために黄泉の国から戻ってきたわけではないわ!」
ガンダルフは冷たい声で怒鳴りつけるとさっと杖を突きつけた。
グリマははっと息を飲み、叫んだ。
「つ、杖を…!武器はすべて取り上げておけと命じたはず!」
その声に近衛兵たちが一気に動いた。アラゴルン、レゴラス、ギムリは向かってくる屈強な男たちをあっさりと殴り飛ばし、ガンダルフの歩みを邪魔するものを排除する。
は魔法使いのすぐ後ろについた。
彼女は優美な姿のレゴラスが次々と拳で男たちを沈めてゆく様子を感嘆して眺めていた。
彼の弓や短剣の技を見てきて、強いとわかっていたはずなのだが、素手で戦う図にはどうにも目に馴染まなかった。殴り合いなどといういささか粗野な行動を、エルフもとるとは少し意外であったのだ。偏見なのだろうが。
そんなレゴラスは後ろから飛び掛ってきた男に振り向きもせず、無造作に振った拳で顔面を強く打った。
「セオデン!センゲルの息子よ!長く闇に留まりすぎたな」
年寄りのふりをやめたガンダルフはずかずかとセオデンの前に進む。
慌てふためいたグリマは、逃げようとしたところをギムリに踏みつけられた。
「そのままじっとしている方が利口だぞ」
頑健なドワーフの足の下でグリマは苦しそうにうめいた。
はセオデンの前に立つガンダルフの一歩後ろに控え、これから起こる出来事を見守るべく歩みを止めた。
「魔法から…解き放つ…」
目をつぶり、手をかざす魔法使いを、セオデンはあざ笑った。
「ここではお主の力は通じぬ。灰色のガンダルフよ!」
しわがれた哄笑には狂気が入り混じっている。
彼はセオデンであり、サルマンなのだ。
ガンダルフは灰色のマントを脱ぎ捨てる。白の衣があらわになり、暗い室内に光が満ちた。
「傷から毒を吸い出すように、サルマン、お前を引きずり出してくれる!」
中の騒ぎに何事かと飛び込んできた女性が苦しむ王の元へ駆け寄ろうとした。
それをアラゴルンにさえぎられ、彼女は恐れと不安のこもった眼差しで王を案じた。
「わしが出てゆけば、セオデンは死ぬぞ!」
「わしを殺せん者にセオデンは殺せぬ!」
「ローハンはわしの…!」
「去るのじゃ!」
両者の均衡はガンダルフの一喝で崩れた。
セオデンは力尽きたように椅子にもたれた。老齢以上に積み重なっていた重石がとれるように、王の顔や身体には生気が戻っていった。肌に刻まれていた皴は薄れ、濁っていた目は明るさを取り戻していた。
白いドレスの女性が王に駆け寄る。
「そなたがわかるぞ、エオウィン」
はっきりとした口ぶりに、エオウィンは笑みを浮かべた。嬉しくて涙が出るなど、どれほど久しいことだろうか。
「友よ、自由な空気を吸われるがよい」
ガンダルフの癒しにより、セオデンは再び立ち上がる力を取り戻したのだった。






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