「わたくしの子どもの頃のドレスだけど、サイズが合ってよかったわ。あなたの着ていたものは洗濯させています。これからどうなるかはわたくしにはわかりませんけど、ここに滞在する間はご自分の家だと思ってくつろいでくださいね」
「ありがとうございます。エオウィン姫」
セオデンがガンダルフによって癒され、アイゼンガルドのスパイであるグリマを追放したメドゥセルドは、久方ぶりの活気に溢れていた。
日はすでに落ち、長旅をしてきた異種族混合の旅の一行は賓客としてもてなされることとなった。
男たちは休むのもそこそこに今後の相談をするために王の広間に集っていた。
水穂は女の子が埃まみれでいるものではないわと、エオウィンに別室に連れて行かれて久しぶりに湯で身体を洗った。洗いざらしの髪はまだ乾いていない。
食事をするために食堂へ向かう。人が行きかう廊下を、水穂は物珍しそうに眺めながら歩いていた。
「女の人が多いですね」
「ええ。エオメル、わたくしの兄が追放された折に、志あるものは皆、兄についていってしまいましたから。ここに残ったものも、本当には兄についていきたかったようなのですけど、それでは王をお守りする者がいなくなってしまいます。ですから最低必要な数だけは置いていったのです」
「エオウィン姫はエオメル様の妹君だったんですか!わたしたち、エオメル様と行き会いましたよ。ハスフェルとアロドは彼からお借りしたんです」
エオウィンは驚いて息を飲んだ。
「なんて間が悪いのでしょう。ごめんなさい。あなた方が来てくださったのはとても感謝していますわ。でも、後一日早く来てくださったらよかったのに。王が正気にかえられたというのに、わたくしたち、動きようがないのです。戦える者の数が少なすぎるのですもの」
エオウィンは胸の前で指の先が白くなるほど強く手を握り締めた。
空を翔るもの
日はすでに落ち、長旅をしてきた異種族混合の旅の一行は賓客としてもてなされることとなった。
男たちは休むのもそこそこに今後の相談をするために王の広間に集っていた。
アイゼンガルドの軍が攻めてくるのだ。ローハンの西区域である西エムネトではすでに戦闘が行われている。
セオデンはメドゥセルドにいる騎士と武器を帯びることができる少年と馬を持つものすべてに、翌朝早く城門前に集まるよう命をだした。
しかしその数は百人集まるかどうかというところだった。
「陛下には北へ向かう兵が二千います。エオメルは忠義の人。戻って陛下のために戦うでしょう」
「できるものならばとうにそうしておる。あれが出発してからまる一日以上過ぎており、戻るには同じだけの時間がかかる。アイゼンガルドのオークの数は膨大だと聞く。とても間に合わぬ。
西の谷のエルケンブランドが今は戦っているが、形勢は我らに不利であろう。エドラスに残った者をかき集めているが、援軍とはとても呼べぬ数だ」
アラゴルンもセオデンも互いに渋い顔で口をつぐんだ。
打つ手がない。その場の沈黙がそう言っていた。
「…エオメルに関して言えば、手がなくもないですぞ、セオデン王」
じっと目をつぶっていたガンダルフが重々しく口を開いた。
「まことか、ガンダルフ」
「うむ。エオメルがエドラスに戻るを待つとなれば確かに戦には間に合わぬ。だがそれぞれが合戦の地へ赴けば…。つまり夜のうちにエオメルを見つけ出しアイゼンガルドへ向かうよう伝えるのです。そして王がお決めになられたように翌朝早くに我らが出立すれば、おそらくアイゼン川に達する頃に合流できましょう」
セオデンは唖然となり、ついで諦めを含んだ笑みを浮かべた。
「つまりは打つ手なしということか。飛蔭は優れた馬だが、それでも夜のうちに追いつくことは無理だ」
「飛蔭ではありません」
「それは危険です、ミスランディア!私は反対ですからね!」
反射的にレゴラスが音を立てて立ち上がる。
「お忘れですか!?彼女は以前クリバインに襲われているんですよ。ここはアイゼンガルドに近すぎる。それに夜なのです。危険はよりいっそう増すでしょう。賛成など出来ません!」
エルフの剣幕にセオデンはいぶかしげに眉を寄せた。
見れば、野伏とドワーフも難しい表情をしている。誰を行かせるのかがわかり、そしてそれに賛同できないといった感じだった。
「他に手はない。それにのう、レゴラスよ。たとえわしが言わなかったとしても、状況を知ったらあの娘は勝手に飛んでいくじゃろうよ」
「ですが…!」
「アラゴルン、ミズホを呼んできてくれぬかね」
アラゴルンは少しの間迷っていたが、静かに立ち上がると王の広間を後にした。
「ミズホとは、そなたたちと共に来た娘だったな。ずいぶん年若い。あの娘に行かせるというのか?」
納得がいかないというようにセオデンはガンダルフを見やった。
室内はしんとして、暖炉ではぜる火の音だけが耳につく。
「あの娘は遠い遠いガイアと呼ばれる地より来た娘。彼の地でミコと呼ばれる立場にあった者です。これは魔女のようなもの。その力の最たるは、空を行くことができることです」
「空を…!?しかし、魔女とは…」
セオデンの声には不信があった。ローハンはロスロリアンからそれほど離れてはいないのだが、エルフの姿を見ることはほとんどない。王妃ガラドリエルは惑わしの網を張る魔女として知られていたがそこに好意的な感情はなかった。
得体の知れないもの、というのが正直なところだろう。
セオデンの中で、水穂もガラドリエルと同列に配されたことを感じ取って、ギムリがむっつりと弁解した。
「ご心配なさる必要はありませんぞ、セオデン王。ミズホは魔術的な力を持つ娘ですが、黄金の森の奥方同様、情けを持つ者です。王の窮地を黙って見ているようなことはありませぬ。しかし我らとしては、あの娘をむやみに危険の中に向かわせたくはないのです。であるからして王よ、どうか命令はなさらないでいただきたい。ミズホの自由意志に任せてほしいのです」
「ギムリ…」
止めてはくれないのかとレゴラスは悲しげに青い瞳を曇らせる。
ギムリはそんなエルフの友人を痛ましげに見上げた。
「もしエルフも飛べるんだったら、あんたも一緒に行けただろうに。そうすれば夜の空を飛ばせるのだって、少しは安心できるのになあ」
しばらくしてアラゴルンと水穂、エオウィンが王の広間にやってきた。
エオウィンはアラゴルンの表情があまりに暗かったので心配になり、一緒に来たのだ。
水穂はガンダルフからエオメル捜索の依頼をされると、にっこり笑って承諾した。
「わかりました。今から行けばいいんですね」
「すまんのう。これほど状況が切迫しておらんかったら、わしが行ったのじゃが」
「気にしないでくださいガンダルフ。それよりも地図はありませんか?エオメル様たちがどのあたりにいそうか見当がつくのなら、まずそこへ行ってみます」
セオデンは地図をもってこさせるとテーブルの上に広げた。
ローハン国土の北西はファンゴルンの森が大きく占めている。森の北は北境である白光川を越え、西は霧ふり山脈最後の峰メセドラスの斜面まで広がっている。南はサルマンの谷にほど近いところまで伸びていた。
つまり、とセオデンは地図を指し示しながら説明を続ける。
「エオメルが北に向かったというのは、おそらくエント森を回ってアイゼンガルドに行こうとしているからなのであろう。グリマはエオメルに追放を言い渡したが、ただ黙っていなくなるような男ではないからな。それに今西の谷ではエルケンブランドが戦っておるのだ。グリマはあれのことを独断で兵を動かしたとして処分したがっておったが、エドラスから離れていたので実際には手出しできなかった。我らがこれから行こうとする西の道を行くよりだいぶ時間はかかるが、北から回ってゆけばアイゼンガルドの背後を突ける。エオメルはそれを狙っているのだろう」
「そうなのですか?では戻らずにこのまま進ませたほうが良いのでは?」
水穂の疑問にセオデンは首を振る。
「いや、エオメルがここを発ったのは昨日の午後だった。となればどれほど速く進んでいようとまだ白光川まで至っておらぬはず。そこからアイゼンガルドへは2日以上かかる。いまならば引き返した方が早いのだ。それに、2日先までエルケンブランドが持つ確証は、残念なことだがないのでな」
そうですかとじっと地図を眺める姪の子どもの頃のドレスを着ている娘を、セオデンはなんともいえない表情でみつめた。
「…そなた、本当に空を飛べるのか?して飛蔭よりも速く翔ることができると?」
「ええ、セオデン王。わたしは渡り鳥の翼を持っているんです。鷲や鷹よりは速度は劣りますけど、その代わり、長い時間飛び続けることができます。わたしにお任せください。夜のうちにエオメル様を見つけてみせますとも」
朗らかに笑ってのけて、水穂はエオウィンに鞄とローブを持ってきてくれるように頼んだ。
セオデンがエオメルへの帰還を命ずる書簡をしたためている間、アラゴルンとギムリ、レゴラス、エオウィンは王の広間で水穂の旅支度を手伝っていた。
ガラドリエルから贈られたエルフの旅装束はまだ乾いておらず、また水穂自身夜明けまでに戻ってくる自信があったためにエオウィンから借りたドレスの上にローブを羽織っただけだった。
鞄の中には明かりや食料を詰めた。エオウィンからは間違っても兄が水穂に攻撃しないようにと愛用の額飾りが贈られた。
「だけど、ちょっと意外だったわね」
「なにがですの?」
椅子に座っているのだが足が床につかないためふらふらと揺らす小柄な娘に額飾りをつけながら、エオウィンは小首をかしげた。
「今回はレゴラスが反対しないから」
「したよ。でもミズホが来る前に却下されたんだよ」
レゴラスの顔には不本意だとしっかり書いてあった。
水穂は乾いた笑いをあげる。
「したんだ…やっぱり。レゴラスっていつもそうよねえ」
「そうなんですの?」
少女がしみじみと言うので、エオウィンは美しいエルフの青年に目をやった。
「そうなんですよ。今までわたしがこうしたいって言っても、レゴラスはいつも反対するんだもの。他の皆もそうすることがあるけど、でもレゴラスが一番多いんですよね」
「それはミズホが無茶ばかり言うからだよ。今回だって私は行かせたくないんだから。でも兵の数が足りないのは確かだし、ミズホが一番速いのも、止めても無駄なのも確かだから、仕方なく反対しないだけ。ハルディアじゃないけど、閉じ込めて済むものなら、とっくにそうしているんだからね」
「それは無理だと思うんだけど…」
「だから、そうしなかったでしょう?」
レゴラスは少女の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑いかけた。水穂はいつものように軽く受け流したが、間近でレゴラスの顔を見ることになったエオウィンはあやうく声をあげるところだった。
美しい者たちと称されるエルフは人間の標準も及ばないほどの美しさを持つ。レゴラスも例に漏れず美しいエルフの若者だったのだ。
髪は金糸のようで、顔や手など、目に見える肌は月のような輝きを帯び、青い目は晴れた空のように、または星のように明るかった。
整った容貌。すらりとした姿は砕けた雰囲気であっても優雅で、人間とはまるで違うのだということがよくわかる。
別に恋をしたわけではなくとも陶然となってしまう魅力がエルフにはあった。
しかしこの少女はエルフに至近距離で見詰められても平然としていた。
これほど美しいものにも慣れることができるのか、それとも感性があまりに子どもだからなんとも思わないのか、どちらなのだろうかとエオウィンは思った。
「準備はいいかね、ミズホ」
ガンダルフとセオデンが戻ってきた。
「はい。いつでも出かけられます」
水穂はとんと立ち上がってセオデンの前に進んでいった。
「ではこれを、エオメルまで届けてもらいたい」
「必ずや」
王の印章が刻まれた封蝋でしっかりと口をとじられた書簡を受け取ると、水穂は深々と頭を下げた。
ローブの隠しに書簡をしまうと、裾を翻して門へ向かった。
広間にいた全員が見送るためにその後に続く。
満ち始めた月が浮かぶ空にはところどころ雲が浮かんでいる。
眼下のエドラスは明日の準備のためにまだ大勢の人々が行き交い、焚き火や松明などの明かりがちらちらと揺れていた。
「わたしが戻ってきた時に、誤って射落とさないでくださいね」
振り返る水穂にセオデンが生真面目にうなずいた。
飛び立とうとローブを巻きつける直前、レゴラスは水穂の肩をつかむ。
「レゴラス?」
動きを止めた少女の頬に、彼は小さく音を立てて口付けた。
「気を付けて」
過度な接触にはもともと拒絶反応を示していた娘なだけに、平手の一発くらいは覚悟していたレゴラスだったが、予想に反して彼女はくすぐったそうに目を細めただけだった。
「うん。じゃあ行ってくるね」
「ミスランディア」
メドゥセルドの上空を一度旋回し、瞬く間に星明りの輝く闇に溶け込んでいった白鳥を、レゴラスは晴れやかな眼差しで追い続ける。
「なんじゃ」
端麗なエルフの横顔に魔法使いはいつになく真剣なものを読み取って、視線を向けた。
「ちょっと希望がわいてきました…。どこまでだったら手を出してもいいと思います?」
「わしに聞くな」
エドラスを出発した水穂は北へ向かってひたすら翼を羽ばたかせた。
白鳥の時の水穂の目は人の時よりも数倍はよく見えるのだが、夜の闇の中ではあまり役に立つとはいえなかった。
星明りがあっても眼下の景色は草も丘も黒く溶けこみ、漠然としている。
しかし水穂はこの捜索は簡単なものだと考えていた。
探し人は二千の人間とそれと同じだけの馬を連れているのだ。見落とすとは思えない。
たとえ見えなくても目よりもさらに良い耳が居場所を教えてくれるだろう。
まずはエオメルを見つけるのが先決と、出せる限界の速さで飛び続けた。
切りつけるような冷たい夜の空気が痛かったが、気にしている余裕はなかった。
数時間後、遠くに草木がざわめく音とは別のものが聞こえてきた。
そのすぐ後には焚き火らしい明かりが見えた。耳を澄ませば馬のいななきも聞こえる。
人の声はほとんど聞こえなかった。おそらく見張りを立てて他のものは眠っているのだろう。
エオメルが起きているかどうかはわからないが、騒ぎを起こせばどの道すぐにでも現れるだろう。
疲れも忘れて、一路水穂は騎士たちを目指した。
騎士たちの野営地上空までたどり着いた水穂は声高く3回鳴いた。
少し高度を落とした水穂の目には、何事かと起き上がるものや、空を指差して叫ぶものなどが見て取れた。
エオメルがどこにいるのかはわからなかったのでもう一度大きく声をあげると野営地の脇に降り立った。
見張りらしい騎士が槍を構えて水穂に近づいてくる。
だが変身を解いていない水穂は大きな見慣れない白い鳥で、害意があるようには見えないだろう。そう見越してエオメルが現れるまでじっと待った。
「何事だ?」
水穂の読みどおり、エオメルはすぐに現れた。
兜を外しただけの鎧姿で、大股で歩いてくる。
「エオメル様、大事ございません。ただの鳥でございます」
「鳥だと?」
エオメルは見張りの男たちを下がらせて水穂の側まで来ると不思議そうに首をかしげた。
もういいだろうと水穂は元の姿に戻る。
一瞬の閃光のあと、エオメルの前には小柄な娘が立っていた。
娘の首筋にはエオメルの剣が押し当ててあった。
「お前は…」
突然光を放った白鳥に反射的に剣を振ったエオメルは、覚えのある顔立ちに言葉を失った。
「今朝方、お会いしましたね。エオメル様」
「そなたは…ミズホ・アルフィエル?」
はいと水穂が答えると、エオメルは剣を下ろすべきかどうか迷った。
オークにさらわれた仲間を追っていると言っていた、野伏とエルフとドワーフと共にいた娘。
エント森に行ったはずの娘がなぜこんなところにいるのか。
ただの人間でないことは間違いない。
「剣を下ろしてください、エオメル様。わたしはマークの王セオデンの使いで参ったのです」
「…王の?」
臆することなく凛とエオメルを見上げる少女の額に、妹の額飾りがあるのに気づいて、エオメルは剣を鞘に戻した。
いつでも戦えるようエオメルの後ろに控えていた騎士たちもそれに倣って構えを解いた。
「王から書簡を預かっております。まずはお読みください」
隠しから書簡を取り出し、エオメルに渡した。
エオメルは明かりを取ってこさせると、蝋で封をしている部分を睨むように眺めた後、中から書簡を取り出して読んだ。
「エオメル様?」
書簡から顔を上げたのを見計らって副官らしき騎士が声をかけた。
「王からの書簡には、アイゼンガルドと決着をつけるため、帰還するようにと書かれてある」
エオメルの言葉に周囲の騎士たちから口々に喜びの声があがった。
しかしエオメル自身の表情は凍ったように固まり、目には不信すら窺えた。
「この書簡の封には王の印章が、そして書簡には王の署名が入っているな」
「もちろんです。王が書かれたものですもの」
「そう。そして私を追放するという命令書にも王の署名があった。グリマが書かせたものであるのは間違いないがな」
冷たい響きに、あたりは一気に静まり返った。
「…なるほど。そこまでは聞いていませんでしたけど、グリマのような手合いならやりそうなことですね」
水穂は困ったというようにあごに手を当てた。
余裕のあるその仕草に、エオメルは一気に頭に血が上った。
「魔女まで傍に置くようになるとは…王はそこまで正気をなくされたか!」
エオメルの声が怒りに震える。書簡をぐしゃりと握り締めると胸倉を掴みかねない勢いで彼は水穂に詰め寄った。
「今朝、そなたたちと別れた後、一度後ろを振り返った。雲のように大きく翼を広げた白い鳥が飛ぶのを私は見た。遮るもの少ないローハンの平原で、どこから飛んできたのか私にはわからなかった。…あの時気付いて引き返すべきだった」
「確かにそれはわたしですけど、でもですね、エオメル様」
「追放の命に従う振りをして、アイゼンガルドに攻め入るつもりだった。王を元に戻す方法があるとしたら、サルマンの奴めを殺すしかないと…蛇の巣くう宮廷に妹を残し、王を守る者も少なく、戦うことのできぬ女子ども、老人をそのままにエドラスを出たのは、このようにさらなる災いを招き入れるためなどではない!!」
エオメルが吼えると一斉に騎士たちは得物を構えた。
「言え!これは一体何の罠だ?グリマの差し金か?それともサルマンの企みか?王に何をしたのだ?我が妹、エオウィンは?国人をどうかしたのか?」
「王は正気ですし、エオウィン姫もお元気です。エドラスの方々は翌朝アイゼンガルドへ向けて出発するのでその準備をしています!」
「嘘を申すな!」
「本当です!ガンダルフがサルマンの影を追い払ったんですもの!グリマは追放されました!あなたはガンダルフをご存知なのでしょう?」
「…ガンダルフが?」
エオメルが一瞬怯んだ隙に、水穂は息を吸い込んでまくしたてた。
書簡が効力を発揮しなかった場合、自分がエオメルを説得しなければならないのだ。
「そうです。わたしたちの旅の先導者はガンダルフだったんです。でもモリアで彼はバルログという化物と戦い、奈落の底へ落ちました。死んだと、わたしたちは思ったんです。ガンダルフを欠いてわたしたちは旅を続けました。でも、パルス・ガレンで一行は離散してしまいました。
さらわれたメリーとピピンを追ってわたしたちは走り続け、エオメル様と会い、ファンゴルンの森へ入りました。そこで白の魔法使いとなって戻ってきたガンダルフに再会したのです。ガンダルフと共にエドラスへ行き、王を癒し、グリマを追放しました。それからまだ半日も経っていません。ですから、あなたがこの書簡を信用できないというのならそれも仕方のないことでしょう。
ですが、エオメル様?これが贋の命令書だったとして、一体何の不都合があるんです?わたしはセオデン王から、あなたがたはどれほど速く進んだとしても、このまま進むより引き返す方がアイゼンガルドに近い位置にいると言われてまいりました。その読みは間違っているのでしょうか?それとも、目指す先はアイゼンガルドではなかったのでしょうか?」
よどみなく言葉を発す少女にエオメルは少し気おされた。
「…いいや」
「でしたら、四の五の仰らずにお戻りください!時間がないんです!」
エオメルは腰に両手を当てて憤然と見上げてくる少女を睨むように観察した。
ローハンでは魔法を使うものはあまり良く思われていない。
長い間味方だと思ってきたサルマンはローハンを蹂躙しだし、ガンダルフは、多くのものには好意的に見られていたが、いつも不思議な出来事が起こる前に訪れるために「禍をもたらすもの」だという者もいた。言うまでもなくエルフの住む黄金の森に近づこうとするものはいない。
そうでなくとも、とエオメルは心の中で呟いた。
この娘はいろいろな意味で怪しすぎた。
きっちり結った茶色の髪やあどけなく愛らしい顔立ち、鳥の卵のようなわずかに黄みを帯びた肌はロヒアリムにはない異国めいたものだったが、一応人間には見える。
しかし、その幼い容貌に似合わないやけにしっかりした物の言い様と、決定的に不信感を煽ることとなった魔法―白鳥へとその身を変える術―が、エオメルの決断をためらわせた。
やはり何かの罠ではないかという疑いと、すべてが真実であれば良いのにという希望がせめぎあった。
「そなたたちは、さらわれた仲間を追っていたのではなかったか。そしてその仲間は我らが討ってしまった。我らを憎むことはあっても味方になろうとするとは思えぬ」
エオメルがそういうと、水穂はくすくすと笑った。
「そういえばまだ言っていませんでしたね。メリーとピピンは無事だったんです。あなた方はエルフのマントを着た小さい人たちを見落としたのよ。わたしたちはまだ会っていないけど、ガンダルフが2人に会っています。ですから、わたしたちがあなた方を憎む理由なんてどこにもありませんわ。追跡行は終わったんです。今度はアイゼンガルドと戦うというのがわたしたちの目的。
でも今のままでは兵が足りないんです。そのために最も速い移動ができるわたしがあなた方を呼びに来たの」
他に聞きたいことは?と少女は目で問いかけた。
「…そなた、この後はどうするのだ。エドラスに飛んで戻るのか?」
「そのつもりです。あなた方がいつ出発するかによって合流する時間も変わりますもの。報告する必要がありますから」
「エドラスの隊が出発するのは、そなたが戻ってからなのか?」
「そういうわけではありません。わたしが戻らなくても夜明け前に出発だと聞いています」
「…では」
エオメルはおもむろに口を開いた。
「そなたが我々と共にアイゼンガルドに行くというのならば、すぐにでも出発しよう。こう言うのは、私にはそなたが信用の置ける者なのか判断ができないからだ。我らにとってアイゼンガルドは憎むべき敵であり、その頭はサルマン、魔法使いだ。魔女のそなたとつながりがないということをどうして確認することができる?そなたの言うことが嘘偽りでないことを、そなた自身で証明してみせよ」
「証明?」
ぱちくりと水穂の大きな目が不思議そうに瞬いた。
「そなたがアイゼンガルドやその他いかなるものにせよ、マークに害なそうとするものの側にいたとわかったら容赦はせぬということだ」
強い口調に水穂はわずかに身体を強張らせた。
「いいでしょう。ですが、わたしからも条件があります。あなた方と共に行くとなれば、あなた方がいつ出発したか、またはわたしがちゃんとあなた方を見つけ出すことができたのかを報告できるものがいなくなります。わたしの代わりにそれを伝えるものを送ることを許可してくださるのなら、あなた方と共に参ります」
少女は最後に不敵な笑みを浮かべた。
「わたしにはなんらやましいことなんかありませんもの。どんな条件を出されようが、構いませんわ。なんならこの首をかけてもいいくらいよ。ギムリの首よりは高い位置にあるのだから、はねるのなんて造作もないことでしょう?」
水穂の皮肉混じりの挑発に、エオメルは獰猛な笑みを浮かべた。
「よかろう。我らは女子どもに剣をむけたりはしないが、魔女であるならばその範疇に数える必要はないだろうからな」
「決まりですね」
ひたとお互い見交わして、ぱっと離れた。
エオメルは騎士たちに出発の準備をするよう命じ、自身も愛馬のところへ戻った。
すべての用意が整うまでの半刻ほどの間、水穂は騎士たちの目に付きやすいところで待機しながら自分の代わりの使者を作っていた。
鞄から取り出した上等な紙を折り曲げて形を整えると、ぶつぶつと彼らにはよくわからない言葉を呟いた。と、それが生身の鷲としか思えないものに変わった。
それを目撃した騎士たちが驚きの声をあげる。
鷲は一声高く鳴くと、エドラスに向けて飛び去っていった。
出発間際、先頭に立ったエオメルはその旨を少女に告げると、白鳥に姿を転じようとするのを止め、ハスフェルとアロドの他にもう一頭いた主を失った馬に乗るように命じた。
「ドレス着て馬にまたがるなんて嫌です」
「横乗りをすればいいだろう?」
断固拒絶する娘にエオメルは訳がわからないという表情になった。
ローハンでは女が馬に乗るなど珍しくないことだったからだ。
「とにかく鳥の姿になるのは駄目だ。飛んでいかれては我らには追いつけないからな。もっとも、姿を変えたらすぐさま打ち落とすからそのつもりでいるように」
「そんなことしないわよ。でもわたし本当に馬には数えるくらいしか乗ったことがないの。駆け足くらいならできるけど、全力疾走させるのとかは絶対無理。置いていかれちゃう」
先ほどとは打って変わって自信なさそうに戸惑いをみせる少女に、この娘は空を翔ることができるので馬に乗る必要がなかったのだと勘違いをしていた。
「仕方がない。では私の前に乗るんだ」
彼女が馬に乗ったことがほとんどないのは、そもそも水穂の生まれ育った地、日本では馬が交通手段になることがまれであるせいなのだが、そんなことは知らないエオメルは勝手に納得し、ごねるミズホを愛馬に乗せ、一路アイゼンガルドへ向けて元来た道を引き返していった。
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