胸の奥がざわざわする。



痛いような、くすぐったいような。
不安なような、嬉しいような。

恐いような。

この感情はまだ形になっていないけれど。

だけど。



これ以上、育ててはいけない気がする。











芽生え









角笛城を出発した一行は、不意に出現した森を通り抜けてアイゼンガルドへ向かっていた。
すでに日は落ち、空には満月に近い月が銀色の光を振りまいている。
馬には当分乗りたくなかっただったが、誰一人として彼女が飛ぶのを承知しなかったため、再びガンダルフと共に飛蔭に乗せてもらっていた。もちろん、未だ少女との相乗りを果たしていないエルフと、当初の出会いから180度態度が変わったローハン一の騎士が己の馬に誘ったが、選べるものではなかった。――特に後者は。
は迫る2人から逃れ、あらゆる意味で安全地帯なガンダルフのもとへ走ったのだった。
森の中を進んでいたうちは緊張と好奇心から頻繁にきょろきょろしていたが、それを過ぎると積み重なった疲労とここ数日の睡眠不足からあっというまに目蓋が落ちていった。
「――!」
「起きたかの?」
森を抜けて4時間ほど経った頃、ぐっすり眠り込んでいたが弾かれたように顔を上げた。
「ガンダルフ、この先は―」
「そうか、お主には見えるのじゃったな」
身体を強張らせ、じっと前を見詰めるを引き寄せてガンダルフは囁いた。
「あなたには見えないんですか?」
「見えぬ。人間の行く先はわしにも、他の誰からも隠されておるのでな。もしも見えることがあるとしたら、それはその者がこの世に切れぬ縁があるからじゃろう」
「切れない縁…」
「何かあったんですか?」
夜の薄暗がりを裂いてエルフの澄んだ声が響く。
レゴラスはアロドの足を速め、飛蔭に並ぶ。
「多くを見る者はまた多くの悲しみも背負うものじゃ。それがただ遠くを見るだけであろうと、未来であろうと、余人には見ることの叶わぬものであろうとな」
「一体…?ああ…」
謎めいた魔法使いの言葉に首をかしげたレゴラスだったが、目を前に転じると、すぐに納得し、悲しみの声をあげた。
「見られよ!味方の力戦奮闘したあとを」
ガンダルフの声に全員の視線が前に集まる。
水が尽き、乾きかけているアイゼンの浅瀬。その小島の真ん中に周りを石で囲み、たくさんの槍が植えられている塚があった。
「この場所の近くで討ち死にしたマークの人間たち全員がここに眠っておる」
「我が友ガンダルフよ。これもまたあんたがやってくださったことか?一晩と一夜のうちにあんたはよくもたくさんのことをなしとげたものだ!」
セオデンはガンダルフに目礼をすると感慨深げに息をついた。
「彼らをここに眠らしめよ!彼らの槍は錆朽ちようとも、彼らの塚は永遠に崩れることなくアイゼンの浅瀬を守り給え!」
エオメルは言うとに視線を移した。彼女は辛そうに目を閉じ、手を組んでうなだれていた。


浅瀬を後にした一行は真夜中まで馬を進めると、その日は川床の側に野営をすることにした。
見張りは立てているが眠る者はあまりいなかった。数少ない眠っている者のひとりであるはガンダルフの衣をしっかり握り締めている。
時折眉を軽くしかめ、息が乱れる少女に、エオメルは不安そうに魔法使いに尋ねた。
の眠りは少しも穏やかなものではないようですね。彼女の心痛を和らげることはできないのでしょうか」
「誰にもどうすることもできぬ。この娘を蝕んでいるのは、なにもローハンを襲った災厄を案じてのことだけではない。本来ならばけして分かつことなどできなかった重荷を自ら分かち、背負うておるからじゃ。その重荷が消滅せぬ限り、に安らぎは戻ってこんじゃろう」
「重荷、ですか?それはどのようなものなのですか」
「それはまだ言うわけにはいかぬ。まずはサルマンに会わねばな」
きっぱりと断るガンダルフにエオメルはおとなしく引き下がった。
に関することならば一つでも多く知りたかったが、魔法使いは言わないといったらけして言わないだろうことはわかっていたからだ。
「ガンダルフよ」
セオデンが口を開く。
「では、あんたが教えることができる限りのことでよい、勝利を運んだ翼の乙女について教えてくれぬか?この乙女の謎めいたところといったら、あんたに匹敵するぞ、ガンダルフよ」
ガンダルフは思わず声をあげて笑った。
「わしとてそう多く知っているわけではない。むしろ、緑葉のレゴラスのほうが詳しかろう。の故郷におる守り手とも言葉を交わしたのは、この中では彼だけじゃからな」
ガンダルフにふられてレゴラスが顔を上げた。魔法使いのひとつ隣に座っていた彼は少し驚いて、そしてあきらかに気が進まないという表情になった。
「ミスランディア」
咎めるように言うが、気にするようなガンダルフではない。
興味を引かれたようにエオメルも再び話に加わった。
「レゴラス殿はガイアに行かれたことがあるのですか?して、彼の地はどちらにあるのだろうか。ずいぶんと遠いのでしょうな」
「そうですね、遠いです。とても遠くて、私にはどうあっても行くことはできないでしょうね」
「行っておられない?では、どこでの故郷の方にお会いしたのですか」
「ロスロリアンですよ」
ぶっきらぼうに答えるレゴラスに、エオメルは困惑した。
「聞けば聞くほどわからなくなる。ロスロリアンなるエルフの都はの故郷ではないでしょう。そうでなくとも外からの来訪者を拒むところです。その方は森の奥方の魔法に妨げられることはなかったのでしょうか」
「奥方であっても、彼を拒むことなどできません。彼の方がよほど力があるから。いいえ、奥方だけじゃない。きっと彼はわれらの導き手たる白の魔法使いよりも、暗黒の国の王よりも強い力を持っている」
レゴラスの言葉にエオメルは息を飲んだ。
「それは…つまり、ガイアとは西方にあるということですか。彼の地におわす諸王が彼女の守り手であると?」
「いいえ」
レゴラスはゆっくり首を振った。
「西方ならば、エルフの船で行くことができる。だけどガイアはそれすらできない。ガイアというのはアルダとは別の世界。アルダとは異なる力によって作られ、そこに住まうのもアルダとは異なるもの。彼女は人間で、やはり定命の存在ではあるけどアルダの人間とはやはり違うのだと思う。そしてを守るのはガイアの諸王の一人だろうね。詳しく話してくれたわけじゃないけど言葉の端々からそう推察できたから」
流れるようなエルフの声は潜めていても容易に聞き取ることができる。
エオメルだけでなくローハンの騎士全てに重苦しい沈黙が流れた。
「…そのような方が、よくが重荷なるものを背負うことを許されましたな」
「許してはいないよ。が頑として引き受けるといってきかなかったんだ。そして彼の君にはそれを止めることができなかった。それだけのことだよ」
ようやく立ち直ったエオメルだったがレゴラスの答えに再び沈黙した。
レゴラスは畳み掛けるようにさらに続ける。
「これは私が彼の君から直接聞いたことだから確実なことなのだけど、彼はそう遠くないうちにを迎えに来るよ。遠くないというのは季節が一巡りする前にはと彼の君が言っていたからだ。もっとも自身がこの戦いの終わりを見届けるという誓いを立てたから、すぐに帰ってしまうのかはわからないけれど。状況によってはあなたも彼の君に会うことになると思うから覚悟しておいた方がいい。彼はに近づくものは許さないだろう」
「それは、貴方が許されなかったからですか?」
エオメルの問いにレゴラスはむっとしたように眉を寄せた。
「彼の君に曰く、にとって男は毒なのだそうだよ」
「それはあまりな言い様ですな」
エオメルが呻くように呟くと、
「まったくだよ」
レゴラスは深々と溜息をついた。









夜が明けて、一行は再びアイゼンガルド目指して進んだ。
頭上には霧が立ち込め、地上には煙霧がよどむ中、十分に手入れがされている公道にゆっくり馬を進めていった。
何マイルか進むと公道は広い通りになり、正方形の大きな平たい石で舗装されており、その継ぎ目には草一本見られなかった。
正午を回ってようやく、アイゼンガルドの入り口に着いた。
しかしそこはあたり一面の瓦礫の山と化し、砕けた石の破片が散らばっていたのだった。
オルサンクは湯気を上げている水に囲まれて、さながら孤島のようになっていた。
王とその一行はただ驚き、なぜそうなったのか見当もつかずにいた。
「アイゼンガルドへようこそお越しくださいました!」
変わり果てた敵の城塞に声もなくなっている王らに、場違いなほど明るい出迎えの声がかけられる。
壊れた門のかけらがうず高く山となっているその上に、小さな人物が二人、ちょこなんと座っていた。
「われら両人、門衛を勤める者にございます。サラドクの息子メリアドクと申すのがわたくしの名前でして、これなるわたくしの友人はトゥック家のパラディンの息子ペレグリンにございます。サルマン殿は中においでですが、ただ今ちょうど蛇の舌と申すご仁と密談中でございまして、でなければかかる尊貴なお客人方をお出迎えにむろんここまで出向いてまいりましょうが」
明るい色の巻き毛の少年にみえる人物が立ち上がり、セオデンとエオメルに向き直って丁寧に頭を下げた。
「むろんそうじゃろうて」
かしこまって挨拶する少年に、ガンダルフはまなじりを下げて微笑んだ。
「で、この壊れた門を警備し、お前さんたちの注意が皿やビン以外にも向けられる余裕が生じたら客人方の到着に注意するよう命じたのはサルマンなのかな?」
「いえいえ、あの方はそのことにつきましては失念なさいましたようで。大層お取り込み中でして。命令は木の鬚からでております。アイゼンガルドの管理は彼が引き継ぎました。彼はわたくしにローハン国王をふさわしい言辞でお迎えするよう申しつけたのでございます。わたくしは及ぶ限りいたしました」
真面目くさって答えた少年―もちろんメリーである―に、ギムリはとうとうどなりだした。
「それであんたの仲間のことはどうなんだ。わたしたちのことは!?こいつ、もじゃもじゃ足のもじゃもじゃ頭め、こんなところで油を売りくさって!よくもわれわれにけっこうないたちごっこをさせたな!200リーグだぞ、沼を通り森を通り、戦いと死をくぐりぬけ、どれもこれもみなお前さんたちを救出するためだ!なのにお前さんたちはこんな所でご馳走をくらって遊んでる――おまけにパイプ草などふかして!パイプ草をなあ!やい、この悪者たち、どこで草を手に入れた?ああなんともかんとも!わたしは怒っていいやら喜んでいいやら体が二つになりそうだ。これで破裂しなかったら奇跡だね!」
「君は私に代わってうまくいってくれたよ、ギムリ。だけど私はこの連中がどうやって葡萄酒を手に入れたかってことのほうが知りたいね」
レゴラスは軽やかな笑い声を上げる。
アラゴルンは苦笑し、は飛蔭のたてがみに顔をおしつけるように身体を曲げて声を押し殺していた。
ピピンも立ち上がると片目をつぶって答える。
「ここで君たちはぼくらが敵軍の略奪品に囲まれて、勝利の戦場に坐ってるのを見つけたのに、何だってぼくらが当然受けて然るべき楽しみの二つか三つを手に入れたことを不思議がるんだい?」
「当然受けて然るべきだって?」
ギムリは信じられないという表情で言った。
「まったくもう、あなたたちときたら!」
はとうとう堪えきれずに吹きだすと、喜びに顔を輝かせながら飛蔭の背から降りた。
「メリー!ピピン!」
そのまま2人のもとへ駆け寄り、勢いのついたまま抱きついた。ホビットたちは嬉しげに歓声を上げる。
「無事でよかった!」
言うとはメリーに向き直ってぎゅうと抱きしめる。それを見たピピンが不満そうに叫ぶ。
「あー!メリーばっかりずるいや。、ぼくも、ぼくも!」
「もちろんよ」
続いてピピンをぎゅーと抱きしめる。
仔犬たちがじゃれているようなほのぼのとした光景に、セオデンは目を細めた。
「われらは今親友方の再会に立ち会っていることは疑いないようだな」



ガンダルフと王の一行は木の鬚に会いにゆくためその場を立ち去った。
アラゴルンらは後に残り、ゆっくりと再会を喜び合うと、ピピンの提案で昼食をとりにサルマンの衛兵所だったところへ行くことにした。
そこは岩をくりぬいてできた部屋で、以前はさぞ暗かっただろうと思われるところだったが、今では屋根が壊れていて光が差し込んでいた。
アラゴルンたちは長いテーブルの一方の端に座る。ホビットたちは奥の戸口から忙しく出入りして、皿や杯、ナイフといったものとパンにベーコン、塩漬け豚にバターや蜂蜜を山と持ってきた。ビールと葡萄酒もあり、これによってギムリの機嫌は回復したのだった。
食事が済むと再び外に出て、レゴラスと以外はパイプをくゆらせながらお互いに起こったことを順々に話した。
メリーとピピンがファンゴルンの森のこと、エントのこと、そして怒った彼らのすさまじいまでの戦いぶりを語ると、アラゴルンとレゴラス、ギムリは追跡行のこと、エドラスのこと、角笛城の合戦のことを語る。
は合戦の間、どうしていたの?」
その間ほとんどものを言わないにピピンは問うた。
「わたしは合戦には参加しなかったから、特に話すようなことはないの。砦の中にはいたけどね。一晩中叫び声と大きな音が聞こえてきて、それから何度も揺れたわ。わたしが感じたのはそれだけなの。邪魔になるだろうから部屋からでられなくて、でもどうなっているのか知りたくて、あれは…怖かったわ」
思い出して、は表情を曇らせた。
「剣をとるばかりが強さではないということはわかっているつもりよ。わたしにはわたしなりの戦い方があって、そのために今までいろいろ学んで、修業をしてきたもの。だけど、ああいったときにはそんなもの、何の役にも立たないわ。皆が命がけで戦っているのに、時が過ぎるのを待っているだけだなんて…。ただただ震えて祈るしかできないだなんて」
の目のふちに涙が浮かぶ。
「そんなことはない」
アラゴルンはくわえていたパイプをおろすと真剣な表情でをみつめた。
「あの夜、アイゼンガルドから来たオークの数はとても多かった。われらの何倍もな。数に押され、オルサンクの火に押されはしたが、砦に撤退しても奥にお前がいるからという思いから、怯む者は誰一人いなかった」
「わたしは戦いの途中でアラゴルンたちとははぐれてしまってね、峡谷の中に退いたんだけど、そこでも騎士たちは皆あんたを案じていたよ。自分たちが砦にたどりつけなかったせいであんたに何かあったらどうしよう、血路を開いてでも必ず戻らないと、と大層な勢いで」
ギムリも煙を吐きながら続けた。
「確かにそうだったよ。もっとも、私はそれが少し口惜しかったんだけどね。なぜって、は私たちの仲間なのに、ローハンの人たちときたらが彼らの高貴な姫君であるかのように言うんだもの」
秀麗な容貌で子どものようにすねるレゴラスに、ピピンは噴出した。
はずいぶんとローハンの方々に好かれたんだね」
メリーがにっこりと笑うと、の表情も幾分明るくなった。
「それは、ありがたいことだと思うわ。でも、ちょっと大げさだと思うの。そりゃ、煽ったのはわたしだけど…」
わずかに頬を染めたを、おもしろくないようにレゴラスは見た。
ロヒアリムの中で最も彼女を好いたであろう人物を思い出したのだろう。
(とんだ道化だ…)
知っているがゆえに何も告げられない自分と、何も知らないがゆえにあっさり恋心を告げたエオメル。
率直に己の望むところを告げた彼を受け入れることができずとも、彼女は好意的に捉えたことだろう。
それが口惜しくて、ねたましくて、意地悪を言ってしまったけれど、望みのなさでいえばどちらも同じだろう。
はじめの頃に比べればずいぶん親しくなれたとは思う。
だがそれはレゴラスを男と意識してのものではないことくらいわかっている。
どれほど側にいようと、進展する見込みはほとんどなかった。しかしどれほど切なかろうと、離れる気にはなれない。
平行を保ったままの距離は、快活なエルフを憂いの淵に突き落とすのに十分なものだった。
、ところで…」
アラゴルンが聞きにくそうに口を開く。
「どうしたの?」
「ボロミアのことなんだが」
「あ……」
気まずげには視線を逸らす。
「聞いてもいいだろうか」
「……はい」
ボロミアの名にホビットたちも反応する。
はボロミアとの最後のやりとりを詳しく語った。彼女が話しおわるとアラゴルンは眉間にしわを寄せ、深く息をつく。
「…ごめんなさい」
「いや、お前が謝ることではない。むしろわれらの方こそお前に謝らねば。われわれの世界がお前にこれほど多くを押し付けるとは…。ボロミアに誓ったように、お前にも誓おう。白い都と民は必ず守る。そしてお前も。ガイアの娘は必ずや父母の元へ帰り着くだろう」
アラゴルンは居住まいを正して剣を抜くと、地面に突き立てた。
背後に不満一杯なエルフの視線を感じていたが、今は一切無視することにした。
「うん。ありがとう」
万感の思いを込めて、少女は未来の王に頭を下げた。






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