「わしはこれからサルマンに別れの挨拶に行く。危険でもあるし、恐らく無駄でもあるじゃろう。じゃが、ぜひそうせねばならん。お前さんたちのうちで来たい者は一緒に来るがよい―だが、用心するんじゃぞ!それからふざけちゃいかん!ふざけてる場合じゃない」
新しき白 旧き白
最後の言葉を特に言い聞かせるようにガンダルフが言うと、ピピンがさっそく質問をしてきた。
「危険というのは何ですか?ぼくたちに矢を射かけたり、窓から火を浴びせたりするのかな?それとも遠くからぼくたちに魔法をかけることができるんですか?」
「お前さんが最後に言ったことが一番ありそうなことじゃ。お前さんがふわふわした気持ちで戸口によって行けばな」
ガンダルフはぐるりと全員の顔を見渡した。
「じゃが、彼に何ができるか、あるいは何をしでかそうとするか、それは知りようがない。追い詰められた獣に近づくのは安全ではないぞ。それにサルマンには、お前さんたちが予想していないさまざまな能力がある。彼の声に気をつけるがいいぞ!」
オルサンクのまわりはところどころ泥となっている他はまだ引ききっていない水が溜まり、ひどく足元が悪かった。
アラゴルンたちとローハンの一行は再び合流し、塔の階段下まで馬を進める。
塔の入り口は地面よりずっと高いところあり、そこへ行くには広い石段を登る必要があった。
ガンダルフはアラゴルンに、セオデンはエオメルに一緒に来るようにいい、他のものには階段の下で待っているように命じた。しかしギムリとレゴラスは、自分たちはそれぞれ種族を代表しているからと主張したので、魔法使いたちに同行することが許された。
は少し迷ってホビットとローハンの騎士たちと共に階段下で待つことにした。
ガンダルフはオルサンクの戸口に立つと、杖で扉を叩き、大声でサルマンを呼んだ。
「サルマン、出て来い!」
ややあって、蛇の舌グリマが現れて用を窺おうとした。
セオデンは苦々しい思いでグリマを睨みつけ、ガンダルフはさっさとサルマンを呼ぶようにと怒鳴った。
しばらく待つと、耳に快く流れる低い声が上から降ってきた。
「何かな?」
穏やかに問うその声は、響き自体に心をとろかす魔力があった。
聞いているものにとって、その声の話すのを聞くのは喜びであり、その声の言うことは何もかも賢明で理にかなっているように思え、また自分も速やかにそれに同意することによっていかにも賢明であるように見せたいという強い思いが湧くのだった。
「お前さんがたはどういうわけでわしの休息を妨げねばならぬのかな?夜も昼もわしをそっとしておいてはくれぬのか?」
その声音は不当な仕打ちを受けて悲しんでいる優しい心の持ち主のもののように聞こえた。
バルコニーにはいつの間にかサルマンが現れ、一行を見下ろしていた。
彼の顔は面長で、秀でた額を持ち、深い暗い目は測りがたく底知れなかったが、今は真面目で優しげな、そしていくらか疲れた様子を帯びていた。
「ところで、お前さんがたのうち、少なくとも二人は名前がわかっておる。ガンダルフのことは知りすぎるほど知っておるゆえ、彼が援助と助言を求めてここにやって来たという望みは抱いてはおらぬが。しかし、ローハンなるマークの国王、誉れ高きセンゲル王のご子息よ、殿はなぜもっと早く、それも友人としておいでになられませんでしたか?いかほどわたしは願ったことでしょうか。殿を取り巻く賢明ならざる悪しき助言からお救い申し上げたかったのですぞ!されどもはや遅すぎましょうかな?わしのこうむった数々の損害には悲しいかな、ローハンの方々も幾分かの役割を果たされましたが、それでもわしは殿をお救い致しましょうぞ。殿がすでにお取りになった道を進まれる限り、避けようもなく近づく破滅より救い出して進ぜましょう。まことに今となっては殿をお救いできるのはわしをおいてはありませぬぞ」
セオデンは話をするかのように口を開いたが、何も言わなかった。王はサルマンを見上げ、そして傍らに立つガンダルフを見た。
ガンダルフは石のように黙って立っているだけだった。
ローハンの騎士たちも呪縛にかかったように黙り込む。
「セオデン王よ。殿はなんと仰せられますか?わしと和解をし、長い年月をかけて打ち立てられたわが知識をもたらしえるすべての援助をお受けになられますか?災害の日に備え、共に知恵を出し合い、友情をもって相互いに損害を修復し、もってわれら双方の領土を以前にも勝る美しき花と開かせようではありませんか」
依然としてセオデンは答えなかった。
階段下ではじっとサルマンが話すのを聞いていた。
彼女はガラドリエルがヴァロマ―力の声―と呼んだ、自分の相棒との付き合いもあって、意識さえすればある程度は声の魔力に対抗できることができた。
には彼らのやりとりは、半分遠いところでの出来事のように聞こえている。
そして聞きながら、サルマンとガンダルフは似ている、と思った。そして似ていない、とも思った。
の目にはサルマンは高く力ある存在であったことが見て取れた。しかしそれは過去にそうであったということを示しているのみ。今や力は失われ、取り繕うとしても繕いきれない堕ちたものが、最後に精一杯の虚勢を張っているようにしか見えなかった。
反対にガンダルフは灰色の時よりも力を増している。
両雄並び立たずと言うが、白であることが魔法使いの最も力あることを表すのだとしたら、ガンダルフが白となって戻って来た時から今度の勝負はついていたとも言える。
(だけど、どうしてガンダルフは何も言わないのかしら)
別れを言うために来たはずなのだが、白の魔法使いは相変わらず黙って立ったままだ。
こういったことに耐性のある自分ならともかく、ローハンの人々にはきついことだろう。
目だけ動かして周囲を見渡しても、一様に困惑し、恐れと疑念につかれかけているのがわかるくらいだった。
口を挟むべきかとは悩んだ。
幼い頃からの習いとして、人より高い存在たちが対峙している時には横から遮ってはならないのだとわかってはいたのだが。
ふとローブが引っ張られていることに気付いて下を見る。
すると、きっとサルマンを睨みつけているメリーと、不安げにガンダルフの後姿を見あげているピピンが、それぞれのローブを握り締めているのだった。
は息を吸い込むと両手を開き、思い切りよく手のひらを打ち合わせた。
乾いた音が響き、ガンダルフ以外の驚いた視線がに集まる。
「失礼。続きをどうぞ?」
目を伏せてわざとサルマンと視線を合わせないようにしては言い放つ。
見えないまでも、サルマンが苛立った気配が伝わってきた。
そしてガンダルフが少し笑った気がした。
はたと己を取り戻したエオメルが、セオデンに向き直って口を開く。
「殿よ、お聞きください!今こそわれらはつとに警告されておりました危険を感じます。われらが勝利に向かって馬を進めて参ったのも、最後にこの二枚舌に蜜を含ませた嘘つきの老人に感嘆して立ち尽くすためでございましたか?まことにいかなる援助を彼は殿に申し出ることができるのでしょうか?サルマンの欲していることは今の窮地から抜け出すことしかありませぬ。だが殿は、裏切りと殺人を商うこの商人と談合をなさいますか?浅瀬にて果てられたセオドレド殿のことをお忘れなさいますな!」
これにはサルマンははっきりと怒りあらわした。
「毒ある舌のことを話すのであれば、若い蛇め、お前の舌はどうなのだ?」
しかしサルマンは再び物柔らかな声に戻る。
「エオムンドの息子エオメルよ、人にはそれぞれ役割がある。武器を取って勇猛心をふるうことがそなたの役だ。そなたの主君が敵と名指す者を殺すだけで満足しておるがよい。そなたにはわからぬ政治に口を出すでない。だが、もしそなたが王になったときは、そなたも恐らく王たるものは友人を選ぶに細心でなければならぬことに気付かれるだろうがの。サルマンとの友好関係、そしてオルサンクの持つ力は軽々しく捨て去ることはできぬぞ。そなたは合戦に勝っただけのことだ。戦争とは違う。
だがローハンの殿、セオデン王よ。わしは勇敢なる騎士が合戦で果てたというだけで人殺しの汚名を着ねばなりませぬのかな?そうであればエオル王家の方々には全員人殺しの汚名が着せられましょうぞ。何故と言えば当家の方々は数々の戦いを戦ってこられ、挑むものに向かって攻撃されました。しかしながら後になって和睦を結ばれたこともしばしばありました。それが政治的判断によるとしてもけっして悪いことではありません。のう、セオデン王よ、殿とわしと、ともに平和と友好関係をうち立てようではありませんか?指揮をとるのはわれらの役目ですぞ」
「われらは平和をうち立てよう」
ようやくセオデンは口を利いた。その声はいかにもやっと声を出したというようなくぐもり声だった。
「そうだ、われらは平和をうち立てよう。そなたとそなたの働きが一切滅びる時に、そしてそなたがわれらを引き渡すつもりであった暗黒の主人の働きがすべて滅びる時にな。サルマンよ、そなたは嘘つきであり、人間の心を堕落させる者だ。たとえそなたの戦いが正当であったにせよ、そなたには予および予の国をそなたの利益のために思うがままに支配する権利はない。そなたは西の谷を埋めたあの軍勢の松明、そしてかしこに死んで横たわるエオルの家の子のことを何と説明するつもりか?そなたが仲間の鴉どもの慰みにその窓を首吊り台にして首を吊れば、その時こそ予はそなたとの間に平和をうち立てようぞ。エオル王家としてはこれでたくさんだ。予は偉大な父祖たちの不肖の息子に過ぎぬがそなたにへつらう必要はない。どこか他を向くがよい。それにしてもそなたの声には往年の魅力が失せたようだな」
言葉を発するたびにセオデンの声には力が取り戻されていった。最後にはサルマンを睨みすえ、皮肉も言える余裕を取り戻した。
「首吊り台だと!」
サルマンは怒りのあまり手すりから身を乗り出して罵り声をあげた。
「もうろくした老いぼれめが!エオルの家というが、草葺きの厩に過ぎず、その悪臭の中で山賊どもは酒盛りをし、餓鬼どもは犬にまじって床をころげおる。きさまら自身ずいぶん長いこと首吊り台を逃れてきたではないか。首を吊りたきゃ首を吊れ!なんでこのわしが貴様ごときに話をする忍耐力がもてたのか、わしにはわからぬ。もとよりわしには貴様にも、そこに連れて来たけちな馬乗りどもにも用はないわ!とっととあの馬小屋へ戻れ!
だが、おぬしは違う、ガンダルフ!少なくともぬしの気恥ずかしさに同情して、わしは心を痛める。一体どうしてぬしはこんな連中と一緒にいるのだね。高潔な心と遠くを見る目を持つ者が―今でもぬしはわしの助言に耳を傾けるつもりはないのかね?」
ガンダルフはわずかに顔を上げた。
「おぬしはこの前わしらが出会ったときに言わなかった何を言おうというのか?それとも、取り消すことでもあるのか?」
「取り消すとは?」
サルマンは一瞬躊躇った。ガンダルフの言葉をどう取ったらよいのか、わからないというように。
「言葉の通りじゃよ。どうやらおぬしにはちょっとわしが理解できないようじゃな。が、サルマンよ、わしにはもうおぬしのことはわかりすぎるくらいわかっておる。おぬしが言ったこと、為したことをおぬしが想像しているよりもずっとはっきり憶えておるぞ。聞け、サルマン。これが最後じゃ。アイゼンガルドはおぬしの望みと幻想が作り上げたほど強固ではなかった。しばらくここを離れ、新しいものに向かってはどうか。自由に、それこそ束縛から、鎖から解き放たれ、命令、指図におかまいなしになっては?じゃがその前に、おぬしの行為の担保として、おぬしの杖とオルサンクの鍵をわしに渡すのじゃ」
サルマンの顔は激怒のあまり青黒く歪み、目には赤い焔が燃えた。
「たわけたことを言うな!オルサンクの鍵とともにバラド=ドゥアの鍵も手に入れ、七人の王の冠と五人の魔法使いの杖を手に入れるつもりか?つつましい計画よな。わしと交渉しようと思うのなら、まだ機会のあるうちにとっとと立ち去って、素面になったら戻ってこい!が、その時はきさまの尻尾についてまわるその首斬りどもやちびどもは置いてくるのだぞ!さらばだ!」
「戻ってこい、サルマン!」
背を向けたサルマンに向かって、力のこもった声でガンダルフは叫んだ。
するとサルマンは引きずられるようにのろのろとバルコニーの柵まで戻り、荒い息をしながらそこにもたれかかった。
「わしはまだ戻ってよしとは言わなかったぞ。わしの話はまだ済んでおらぬ。とんだうつけ者になったものよ。が哀れじゃ。今ならまだ愚かさと悪に背を向けて、世の役に立つこともできたかもしれぬのに。では、留まるがいい!
見よ!わしはお前が裏切った灰色のガンダルフではない。わしは黄泉より戻った白のガンダルフじゃ。おぬしは今では色を持たぬ。わしはおぬしをわが賢人団から追放し、白の会議から追放する!」
ガンダルフは片手を上げると、はっきりとした冷たい声でゆっくりと告げた。
「サルマン、おぬしの杖は折れたぞ」
と、サルマンの手の杖が音を立てて割れ、握りがガンダルフの足元に転げ落ちてきた。
「行け!」
ガンダルフが言うと、サルマンは一声叫び声を上げ、這うように逃げていった。
その時いれかわるようにずしりと重い光るものが投げ落とされてきた。
ガンダルフの頭すれすれによぎり、石段にぶつかった。それは弾みながら石段を転がり、水溜りに落ちそうになったので、ピピンが走って後を追い、拾い上げた。
「人殺しのならず者め!」
エオメルが叫ぶがガンダルフは動じない。
「いや、あれはサルマンが投げたのではない。あれはずっと上の窓から落ちてきた。蛇の下殿がお別れに投げたんじゃろう。じゃが狙い損なったな。おい、それはわしがもらっとく!お前さんにそれを取ってくれなんて頼まなかったぞ!」
急に振り返り、ピピンがゆっくり石段を登ってくるのを見て叫んだ。
そして自分からも迎えに降りて行き、大急ぎでそれ―傷一つない水晶のように透明な暗い珠―を自分のマントの襞の中に包み込んだ。
「これはわしが大事に預かっておく。サルマンならこれを選んで投げたりはしなかったじゃろうよ。たとえわしらが塔の中に入ったとしても、これより貴重な宝物は見つからないんじゃなかろうか」
ちょうどその時、ずっと上の開いた窓から甲高い悲鳴が起こり、ぷつりと消えた。
「サルマンもそう考えたと見えるな」
オルサンクを後にしたガンダルフはエントらにサルマンが逃げないよう見張るよう頼むと、日が暮れる前に出発した。
ピピンはアラゴルンとともにハスフェルに乗せてもらい、メリーはガンダルフと一緒に飛蔭に乗せてもらっていた。付け加えて言うと、飛蔭にはも乗っている。前からメリー、ガンダルフ、の順だ。飛蔭のような大きな馬だからこそできる3人乗りといえよう。
真夜中になる前に馬を止め、今日はここで野営をすることになった。
火を起こして夕食をとると、夜番のための見張りを2人ずつ置き、他のものはマントと毛布に包まって眠った。
しばらくぶりだからとメリーとピピンとは並んで横になる。
「ぼくもガンダルフと一緒がよかったな」
の隣でピピンがうらやましそうに呟いた。
「そうだったの?言ってくれればわたし、代わったのに」
が言うと反対側にいたメリーが「どうしてさ」と聞いてきた。
「ぼくも知りたいことがいっぱいあるんだもの。ねえメリー、、ガンダルフと何を話したの?教えてもらったことがある?」
「これからヘルム峡谷に戻って、そこから馬鍬砦というところへ行くんですって。そこから先はまだよくわからないわ」
「アイゼンガルドとモルドールの間には、何かのつながりがあるんだってさ。その何かってのはガンダルフもわからないんだそうだけど。バラド=ドゥアの目はサルマンやローハンの方を向いている。だから、見つからないように山中の道を行くんだって」
「ヘルム峡谷や馬鍬砦ってなに?どこにあるの?」
「ヘルム峡谷には明日中には着くわ。ここでは二日前に戦争があったの。馬鍬砦はわたしもいってないからどこにあるかはわからない。でも今そこにはエドラスの女性や子供たちが避難をしているの。ローハンに来てから、こちらの世界が危険にさらされているんだってよくわかるようになったわ。聞くと見るとでは大違いよ」
「ふうん」
ピピンは落ち着きなく身をよじって、そわそわする。
「聞きたいことはそれじゃないようだな、ピップ」
メリーは少し起き上がって年下の友人を覗き見る。言い当てられてピピンは肩をすくめた。
「えーと、あのさ、さっきのガラス玉。あれのことを何か言ってなかった?ガンダルフはあの玉のことを何か知っているはずだと思うんだけど」
「そのことか。いや、何も言ってないよ。そうでなくても魔法使いにおせっかいを焼くもんじゃないよ。怒られるだけなんだから」
メリーに諭されてピピンはむくれた。
「だけどぼくたち、ここ何ヶ月かは魔法使いのことにおせっかいを焼いてきたんじゃないか。危険に預かるなら少しは何かを教えてもらいたいんだ。ぼく、あの玉を見てみたい」
「眠りなよ。そのうち教えてもらえるさ」
「はどう思う?あれ、何だと思う?思い当たることはある?」
はピピンの好奇心に苦笑した。
「ここがガイアなら、「それは遠見の水晶球よ」と言うところだけどね」
「遠見の水晶球?」
「占いの道具でよくあるの。手をかざすと過去や未来が見えるのよ。ほとんどはハッタリ用の小道具だけど」
「占いかあ。はできるよね?本物の魔女だもの」
「できるけど、水晶球はわたし、ほとんど使わないわ。像が歪んで見えるし、情報も確実じゃないことが多いんだもの」
「あれが遠見の水晶球だとしたら、サルマンはあれを使ってサウロンの様子を見ていたかもしれないね」
「そうかもね。だとしたら、ピピン。ガンダルフが良いって言わないうちはあれに近づいちゃだめよ。さあ、もう本当に眠らなきゃ。あなたたちの無事な姿を見られたから、今日は久しぶりにぐっすり休めそう」
はピピンの頭をわしわしとかき回すと、お休みと言って目を閉じた。
すぐに寝息を立てるを見ながら、ピピンも眠ろうとした。
しかし眠りは一向に訪れなかった。
あたりが静まるにつれ、ガラス玉を持ち上げた時のことを思い出す。中心に赤い炎が燃えた暗い珠。神秘的なその珠をもう一度見たいとピピンは思った。そのつど駄目だと言い聞かせてきたが、とうとう我慢ができなくなり、そっと立ち上がってあたりを見渡した。
夜番の姿はなかった。
ピピンはガンダルフの寝ているところへ歩いていった。
(ちょっとだけだ。ちょっと見るだけなんだから。とにかくあれをもう一度見ないことには、気になって眠れやしないんだもの)
ガンダルフの顔を覗き込むと慌てて後ろにさがった。目が開いていたのだ。
しかし呼吸の音は規則正しく、何より忍び足で近づいたピピンを怒ったりしなかった。
もういちどそっと魔法使いの顔を覗き込むと、彼がちゃんと眠っているのを確かめ、ガラス玉を包んでいるであろう黒い布に包まれた丸いものをガンダルフの腕の間から取り上げた。少し離れたところにあった大きな石を黒い布に包んでガンダルフの腕に戻す。
むきだしになった水晶球は今は光を失っていた。
ピピンはそれをマントにくるんでガンダルフのそばを大急ぎで離れていった。
(大丈夫。見るだけなんだから。危険なことなんてあるわけがないよ…)
早鐘のように打つ心臓を宥めながら、ピピンはマントから水晶球を取りだしてじっと目を凝らした。初めのうちは真っ暗で、月の光を反射してわずかにきらめいているだけだった。
それから中心部にかすかに赤い色が見えてくる。まもなくそれは火と輝き、その頃にはピピンは目を放せなくなっていた。
夜のしじまに悲鳴が響いた。
「そうか、こいつが泥棒か!」
ガンダルフは大急ぎで珠をマントにくるみ、ひざまずいてピピンの身体に触れた。
「ピピン!?」
「!!」
悲鳴を上げたのはピピンだけではなかった。メリーはの悲鳴で目を覚ましたのだ。
すぐに見張りが戻り、野営地中の者が起きだして一帯は大騒ぎとなった。
仰向けに倒れて目を剥いたままのピピンに、ガンダルフは顔を引きつらせる。
「たちの悪い悪さじゃ。何かとんでもないことをしでかしたんじゃなかろうか。――レゴラスよ、をこちらにつれてきてくれ」
ガンダルフはピピンの手を取り、顔の上に屈みこんで息をしているかを確かめると、両手をピピンの額の上に置いた。
「ペレグリン・トゥック!戻るんじゃ!」
ぶるっと身震いをしてピピンは目を瞬かせた。
「ガンダルフ!」
緊張が解けたピピンは魔法使いに気がつくと、すがるようにしがみついた。
「ガンダルフ、許してください!」
「許してくれじゃと?まずはお前のしたことを話せ。だが今すぐではない」
ガンダルフはを抱えて控えていたレゴラスに下におろすように言うと、同じように額に手を当てた。はすでに意識を取り戻していたが、ひどく消耗したようにぐったりとしている。話す気力もないようで、ガンダルフを気だるげに見上げていた。
ガンダルフはに二言三言質問し、彼女は首を動かすだけで答える。
一つうなずいてガンダルフはピピンに向き直った。
「さあ、話せ。ペレグリン・トゥック!」
ピピンはどもりながら話しはじめた。
「ぼくは、ぼくは、あの珠を取って、それから覗いたんです。こわいものを色々見ました。それで、離れたいと思いました。でも離れられないんです。そのときあいつが来てぼくを尋問しました。そしてあいつはぼくをみたんです。それからぼくの前に立った人がいた。覚えているのはこれで全部です」
「それじゃわからん。お前は何を見た。そして何を言ったんじゃ?」
依然として厳しい表情のままガンダルフはピピンを問い詰める。
「ぼくは暗い空と高い胸壁を見ました。それから小さい星々を。星々が現れては消えました。翼を持ったもののために遮られたんです。実物はとっても大きいんだと思うけど、ガラスの珠の中では塔をこうもりが旋回しているように見えました。やつらは九羽いたと思います。一羽がぼくの方に向かって真っ直ぐ飛んできました。だんだんだんだん大きくなってくるんです。そいつはぞっとするような――駄目です、ぼくには言えません。
それからあいつがきたんです。あいつがただこっちに顔を向けるだけで、ぼくにはあいつの言うことがわかったんです。「お前は誰だ」って。ぼくは答えませんでした。それであいつがやいやいぼくを責めるので、言ってしまったんです「ホビットです」と。するとあいつには不意にぼくが見えるようになったようなんです。あいつはぼくを嘲って笑いました。短剣をいくつも突き刺されるような感じがして、ぼくはもがきました。あいつはぼくに他にも何か言おうとしていました。でも言えませんでした。ぼくの前に風変わりな男の人が立ちはだかって、あいつの注意は彼に向いたから。ぼくは彼を知らないけど、でも知っているような感じがしました。あいつは彼にも言いました「お前は誰だ」って。でも彼は答えませんでした。「サルマンはどうした」とも言いました。やっぱり彼は答えなかった。「お前が持っているのか」とも言った。その時は、彼はぼくの前に立っていたから見えるわけがないんだけど、彼が笑ったように見えました。それであいつは怒って、ぼくたちの方に手を伸ばしてきました。彼はじっと黙って立っていました。ぼくが覚えていることは、あいつの手が彼をかすめたことまでです」
魔法使いはしばらく無言のままじっとピピンを見据えた。
「よし、もう何も言うな。お前は何も害は受けとらん。お前の目にはわしがおそれていたような嘘は見られん。ペレグリン・トゥックよ、お前は莫迦じゃが、正直な莫迦のままでいることができた。もしやつがお前をその場ですぐに尋問したとしたら、お前はほとんど確実に知っていることを洗いざらいしゃべってしまい、わしらを全員破滅させることになったじゃろう。しかしそうはならなかった。の助力もあってな」
「!?」
ピピンは驚きのあまり起き上がって少女を見た。は横になったまま、ゆっくり口を動かす。
「引きずられたのよ。ピピンが見たものは、わたしにも見えたわ。あいつはわたしには全然気がついていなかったけど。
でもあいつの声はわたしにとっても到底無視できるようなものじゃなかった。答えたら、わたしも見られていたと思う。それは絶対避けなきゃと思って似姿を作ったのよ」
「似姿?」
の横にひざまずいてレゴラスが尋ねる。顔色の悪い少女の様子を案じるあまり、彼もまた顔色が優れなかった。
「そこにいるように見えるだけの、いわばハリボテ。でも、仮にも神の一人だもの、威嚇くらいにはなったと思う」
「ヴァロマ殿か!」
はうなずいた。
その後、ガンダルフはセオデン、アラゴルンと何がしかの話し合いをすると、飛蔭にピピンを乗せて瞬く間に走り去っていった。
アイゼンガルド周辺にはもう留まっていられなくなったのだ。
残された王らとアラゴルンたちは夜闇にまぎれて角笛城に戻ることにした。
慌しく出発準備をする騎士らを見ながら、は一人、真剣に悩んでいた。
誰の馬に乗せてもらったら良いんだろうか、と。
次へ あとがき 戻る 目次