希望は日が昇ると同時に、東からやってきた。








奥方の忠告









戦いの終わった角笛城の防壁の上で、は独りで立ち尽くしていた。
戦闘はローハン軍の劣勢に終始していたが、彼らはよく持ちこたえていた。
門は壊され、防壁の一部は吹き飛ばされている。
それでも彼らは果敢に戦い続け、朝日とともに戻ってきたガンダルフと彼とともに帰還した西の谷のエルケンブランドとその家中の騎士、そして奥谷を埋め尽くす森―昨日の昼間には確実になかったものだ。そしてアイゼンガルドの軍勢が速やかに角笛城にたどり着いたことを思えば、真夜中前にもなかったはずだろう―の助勢により勝利を勝ち得た。
犠牲も少なくはなかったが。
眼下に目を移すとローハンの男たちの亡骸があちらこちらに見える。それよりもおびただしい数のオークの死体とともに。
ガンダルフと再会したセオデン王は、白の魔法使いの忠言に従ってアイゼンガルドに行くことを決めた。戦闘をするわけではないので連れてゆくのはエオメルと近衛仕官20人、ガンダルフとともに行くのはアラゴルン、レゴラス、ギムリ、だった。
出発は日が暮れてからということになったので、アイゼンガルドに行くものは今の内に休息をとることになった。
仲間たちの無事を確認したも一度部屋へ戻った。
だが、眠ることはできなかった。
原因は、わかっている。
そして彼女は部屋を出て、防壁へ向かった。


「お休みにならなかったのですか?」
どのくらいそうしていたのか。声をかけられて、はゆっくり顔を上げた。
「エオメル様こそ」
「もう午後になります。私は十分休みましたが、あなたはずっとここにいたと兵から聞きました。…大丈夫、ですか?」
エオメルは手袋を外すとの手をそっと握り締めた。
「冷たくなっておられる」
「…あの」
困惑するに失礼と目礼をすると、エオメルは防壁に向き合い、眼下に視線を落とす。
「エドラスを追放される前に、私はアイゼンの浅瀬に行きました。アイゼンガルド以外の西マーク一帯は我が従兄セオドレドの受け持ち地区だったのです。彼の斥候からサルマンの軍勢がアイゼン川の西岸にいるとの報告を受け、セオドレドは出発しました。しかし、それは…」
エオメルは一度言葉を切った。
握り締めた拳と、炎を秘めた眼差しが彼の静かな激情を物語る。
「罠だったのです。サルマンの望みはマークの世継ぎを殺すことだったのです。私が見つけたときにはまだセオドレドの息はありました。だが、それも長くはないことは容易に見て取れました。蛇の姦計によって、私も追放の憂き目にあい、マークは、導き手を失ったのだと思いました。ならばせめて蛇とその飼い主たる魔法使いに一太刀浴びせんと、我がエオレドと私に賛同してくれた騎士を率いて行きました。しかし勝機などまず有り得ませんでした。アイゼンガルドがどれほど強固な要塞か、我らはよく理解しています」
エオメルはに向き直ると深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「エオメル様?」
「貴女が駆けつけてきてくださったおかげで、我々はマークを守ることができました。望みなき戦いに身を投じようとした我らの多くが生き残る事ができた。王をサルマンの呪縛から解き放ち、エルケンブランド殿をお探しくださったガンダルフ殿、我らとともに剣と弓と斧を連ねてくださったアラゴルン殿、レゴラス殿、ギムリ殿。そして貴女の翼がマークを救ってくださった。これほどの恩に報いる術を私は知りません」
「そんなことは…」
は戸惑ったように両手を握り締めた。そして逡巡すると思い切ったように口を開いた。
「あの、エオメル様。お聞きしたいことが」
「何でしょうか」
「…アイゼンガルドの奇襲に勝機が有り得なかったというのは、本当ですか?」
エオメルは頷いた。
「そうです。通常、アイゼンガルドに向かう場合、西の街道を通り、アイゼンの浅瀬を渡って北上します。ですがこのアイゼンの浅瀬の中で大兵力が渡れる場所は一箇所しかありません。そのためサルマンはこの場所に軍勢を配置しているのです。…実際、セオドレドが攻撃されたのもここでした。アイゼンガルドに攻め入ろうとしても、地理的にも人数的にも我らに不利。ですから遠回りになりますし、エント森と霧ふり山脈の間というあまりよくない道を通ることになりますが北回りの道を選んだのです。そしてアイゼンガルドにたどりつけても、昨夜のような軍勢がいたとなれば、やはり我らの中でエドラスに戻れたものは一人としていなかったでしょう」
「そうですか…」
はほう、と息を吐いた。エオメルは怪訝そうに少女に目線を合わせた。
「乙女?」
「素人のたわ言と、お笑いにならないでくださいね。実はわたし、あなたがたを呼び戻したのが良かったことなのかわからなかったんです。わたしはガンダルフを信じています。彼が、呼び戻した方が良いと言うなら、きっとそうなんです。でも…選択しなければならないことがあって、そのどれかを選んだ後、選ばなかった方の未来が選んだ方よりもより良いものに思えてしまうことってあるでしょう?」
恥らうように頬を染める少女に、エオメルは破顔した。
「笑うなどとんでもありません。それほどまでに我らを気にかけてくださったとは…ありがとうございます。どれほど感謝を捧げても足りはいたしません」
「あの、もうやめてください。そんなんじゃないです。わたしは…わたしは、ただ、自分が傷つくのが嫌なだけだったんですから…!」
は泣きそうな表情で首を振る。
エオメルは無言で問うように視線を向けた。
「わたしは、ボロミアに危険が迫っていることに気付きながら、何もしませんでした。仲間にもボロミアにも忠告をすることもなく、彼の側についていることもしなかった。あの時、何か行動を起こしていたら、少なくとも彼の未来は違ったものになっていたんじゃないかと今でも悔やんで仕方がありません。何もしないでいるのは嫌です。でも…わたしが何かすることで、傷つく人がでるのも嫌です。実際、この戦いでマークの方が大勢亡くなられたんですもの。わたしが呼び戻したから…!」
「貴女が悔やまれる必要はありません」
エオメルは取り乱す少女の両肩に手を置き、静かに、しかし力強く断言した。
「貴女は我らを救ってくださった。もしも貴女がご自分で信じられなくても我らが何度でも申し上げましょう。我らは貴女に救われたのです。討ち死にするものがでるのは戦の常です。ですが、こと今回の戦に関して言えば、その犠牲は驚くほど少なかった。我らは滅びゆく国の最後の足掻きとして戦うのではなく、力取り戻したる王の下、誉れのうちに剣を振るうことができたました。貴女に愛情と感謝を捧げながら。それは生き残った者も、無念にも散っていった者も変わりはありません」
「だけど…!」
だけど、ともう一度力なく呟くとうなだれた。
「いえ、やっぱりこれは、受け入れなければいけないことなんです。見えない振りをするつもりは、はじめからなかったけど…想像以上だわ」
「乙女?」
辛そうにうなだれる少女に、エオメルは怪訝そうに眉をひそめた。
「なにが、貴女をそれほど悩ませているのでしょうか」
は柔らかい茶の瞳を曇らせて、エオメルを見上げる。
「わたしは、巫女なんです」
「ミコ?」
「魔女と呼ばれても差し障りはないですけど、正しくは、わたしは巫女というのです」
「それは失礼しました。私は何も聞かず魔女と決め付けてしまいました」
「それはいいんです。間違いではありませんから。ただ、その、巫女の資質の一つとして「視る目」というのがありまして、その名のとおり色々と視えてしまうんです」
「今、何か視えているのですか?」
エオメルとしては何気なく聞いただけのつもりだったのだが、の返答を聞いて呆然とした。
「昨夜亡くなられたロヒアリムの方々が」
「…いる、のですか。ここに?」
はい、と小さくうなずくの答えに、エオメルは思わず周りを見渡した。もちろん周囲の光景に変化はない。死んだものは、死んだままだ。
「エオメル様がいらっしゃる前から、何人もの方が呼び戻してくれたことに感謝すると、ここで戦えてよかったとわたしに仰ってゆかれました。今はエオメル様に最後のご挨拶をと、大勢集まってきていらっしゃいます」
「あ…」
エオメルの目に涙がにじんだ。
どれほど目を凝らしてもやはりエオメルの目には何も見えない。
だが、少女の言葉はすんなりと納得することができた。
いるのだ。彼らが。
何度となく共に馬を走らせ、共に剣を抜き、共に国を守ってきた、ローハンの男たち。
犠牲がでるのは戦の常。そう割り切っていても悲しみが小さくなるわけではない。
「角笛城にいた方々とエドラスから来た方々は仕方がないとしても、エオメル様が率いていらした方々の、お顔や名前もろくに知らないのだと思い知らされました。見覚えがあるような気がするばかりで、まともに声をかけることができないんです。皆さん仰るんですよ。わたしが気にすることはないって。…それができないから辛いんですけど、そうなるとは、思っていたけれど」
は防壁にもたれるように背中を預けた。
「せめてお見送りくらいは、と思ってここにいました。埋葬作業の邪魔はしたくありませんでしたし、人の多いところにもいたくなかったんです。ここは、通路としては狭いですけど、角笛城の外も内もよく見えるから…。ご挨拶に来てくださった方々には悪いですけど、彼らはもう物理的な障害物は関係なく動けますので、勘弁していただこうかと」
エオメルは両手で顔を覆って天を仰いだ。
「誰かをこれほど羨んだことはありません。私にも彼らの声が聞こえ、その姿を見ることができるといいのに!」
は優しげな眼差しでエオメルを見上げる。
「わたしにはその望みをかなえて差し上げることはできませんけど…エオメル様のお声は、彼らに届いておりますわ」



「気の早いことと、呆れないでいただきたいのだが…」
「なんでしょうか」
しばらくの間、エオメルは立ち尽くしていた。
も防壁にもたれたまま隣に立っていた。
強い風が吹いたのを機に、エオメルは表情を引き締めての前に立った。
「セオドレド亡き後、王には他に子がありません。王の妹の子である私が、世継ぎに指名されました」
「それは…おめでとうございます、と言ったほうがよろしいのでしょうか?複雑なお気持ちでしょうね」
首をかしげるに、エオメルは苦笑した。
「まったくです。私は幼い頃から父のようにセオデン王の、そしていずれはセオドレドの片腕として剣を振るうのだとずっと思っていました。その私が、未来のマーク王だとは…正直戸惑いの方が強いです」
そうでしょうねえとはうんうんと頷いた。
「11歳の時に父がオークに殺され、母もそのすぐ後に病を得て亡くなりました。不憫に思った王は私たち兄妹を王宮に引き取ってくださり、私が第三軍団軍団長に任じられるまでずっとメドゥセルドで育ちました。第三軍団は東マークが受け持ちで、私の生まれた家のあるアルドブルグが本陣です。もっとも、ここ最近は戻ることはほとんどなかったのですが…。ともかく私の家はこれからはメドゥセルドになるのです」
「はあ」
エオメルの言いたいことがわからないので、あいまいな相槌を打つ。
「それで、ですね」
の視線を気にするようにエオメルはちらりと少女を見やる。
「その…」
言い淀んだのも束の間、エオメルはわずかに頬を染めてじっとの目をみつめて両手をとった。
「乙女よ、どうか我が炉辺に来ていただけませんか?」
「…炉辺?王の広間のある、あそこですか?」
は短時間しかいなかったマークの王宮を思い出しながら確認する。
「はい」
ギクシャクとした動きでエオメルが頷く。
「本当に、お気が早いですね」
クスクスと笑うにエオメルはさらに赤くなった。
「でも、そうですね。なかなかいいお話だと思います」
「本当ですか!?」
エオメルが勢い込むように身を乗り出したので、は思い切りのけぞることになった。
「ええ。でも、今すぐは無理ですよ。私はゴンドールに行かなくちゃいけないんですもの。戦いが終わるまでは他のどこにもいけません。いつ終わるのかは知りませんし、わたしが終わりを見られるかどうかもわかりません。それでよろしければ」
「もちろんです。ゴンドールへ行くことになるのは私も同じですから。そして、今一度確認させていただきたい。・アルフィエル。白鳥の乙女よ、貴女は私の申し出を受け入れてくださるのですね?」
必死の形相のエオメルに、はやんわりと微笑んではいと答えた。
「ありがとうございます!」
エオメルは一気に表情を明るくすると、力一杯を抱きしめてきた。
「痛っ、エオメル様、鎧が当たって痛い!」
が悲鳴を上げるとエオメルは慌てて少女を離した。
赤くなった頬を押さえていると、防壁の奥からエオメルを呼ぶ声があった。
「申し訳ありません、もう行かなくては。貴女はどうしますか」
「わたしはもう少しここにいます。まだ見送りが済んでませんもの」
「そうですか…では、しばしの間失礼いたします。出発の刻限には降りてきてください」
「わかりました」
名残惜しそうに立ち去っていったエオメルを、は見えなくなるまで見送った。
ほっと息をついて寂しげな微笑を浮かべる。
ゴンドールへ行くのだ。倒れた仲間の志を受け継いで。
そこから先は暗い予感しかしないけれど、すべてが終わって平和になったなら。
闇の森、シャイア、はなれ山、そしてローハン。
すべて見に行くのだ。
(それくらいことを夢見るくらいは、許されるはずだわ。きっと)










〜!」
午後になってしばらくするとレゴラスとギムリが防壁にやってきた。
例によって疲れた様子もないエルフが足音も軽く駆け寄ってくる。
そんな友人を苦笑するように見守りながらゆっくり歩いてくるのはドワーフ。
彼の兜に守られた頭には包帯が巻いてあった。
「おはよう2人とも。ギムリ、頭の怪我は大丈夫?」
「もともと大した傷じゃない。この包帯は、ちょっと大げさなんだよ」
やれやれとおどけるようにギムリは肩をすくめて見せた。
「ずっとここにいたの?昼食の用意ができたからって部屋に呼びに行ったのにいないんだもの」
「あ、ごめんね。ちょっと思うことがあって、ね」
「もしかして見えてるの?」
言葉を濁すにレゴラスがあっさり訊ねてきた。
「見える?なにがだね、レゴラス」
は死者の魂を見ることができるみたいなんだよ」
「ちょっ…レゴラス!」
「そんなに知られるのは嫌なの?が不思議な力を使うのなんて、私たちにとってはもう当たり前のことだもの、ギムリだって驚くだろうかもしれないけどきっとそれだけだよ。ね、ギムリ?」
にこやかに笑うレゴラスに、は思わず額を押さえた。
2人の様子に、ギムリは合点がいったというように頷いて。
「なるほどなあ。あんたは死者の魂が見えるのか。それでボロミアと話をすることもできたのだね。おかしいと思ったんだよ。あの時あんたはフロドとサムを見送っていたんだからボロミアの最期には立ち会っていなかったはずなのに、あんたときたら彼から託されたことがあるだなんて言うのだから。どうして言ってくれなかったんだね。ボロミアの言葉なら、私だって聞きたかったよ」
責めるでもなくいうギムリに、は心底すまなく思ってボロミアとの最期のやりとりを伝えた。聞いたドワーフはどう言葉をかけたものやら全く見当がつかないという表情になったのではかえって気が楽になったくらいだった。
「―だから、わかってもらえますか、ギムリ。あの頃のわたしたちはまるで先が見えなかった。もしもこのことを打ち明けようとしたら感情的になってしまうのは避けられなかったと思うの。自分の悲しみと不安だけに囚われて、アラゴルンを傷つけてしまったでしょうね。でもどうしても一人で抱えていられなくなって…」
「私にだけ打ち明けてくれたんだよ」
にこにこと己を指差すレゴラスにはぱっと頬を染めた。
「うん、そうなの。ギムリに知られるのは構わなかったんだけど、ぐっすり寝ていたし、それにアラゴルンだけ仲間はずれにして教えないのもどうかなあと思って…ごめんなさい」
「ああ、ああ。そんなに気に病むんじゃないよ。あんたの選択がどれだけつらいことなのかわからないわたしじゃないさ。しかし本当に良かったのかね」
案じるギムリには困ったように笑う。
「今だってわたしはガイアに帰りたいです。でも選択に悔いはありません。アラゴルンにもちゃんと話します。近いうちに仲間内だけで過ごせる時間があるといいんだけど…」
「えええっ!!」
そうか、と言いかけたギムリの言葉をレゴラスの悲鳴のような叫び声がかき消した。
「な、なに?レゴラス」
「どうしたんだ?」
レゴラスは防壁の上に手を付き、身を乗り出して食い入るように外庭を見下ろしている。
とがった耳が時折ぴくりと動き、白い肌は血の気が失せて真っ白になっていた。
レゴラスの様子にとギムリは何事かと並んで外庭の様子を見に行った。
そこには先ほどより人の数が増え、歓声すら聞こえてくる。
セオデン王をはじめとするアイゼンガルド行きの面々がそろっているようだった。
距離があるので人間やドワーフの耳にはなにを話しているのか聞き分けることはできない。
「ねえ、なにがあったの?レゴラ」
!」
がしっとレゴラスがの肩をつかんできた。
「エオメルと結婚するってホント!?」
「……は?」
「いきなりなんなんだね、レゴラス」
話の飛躍についていけないとギムリがエルフを見上げる。
「ねえ、ホント!?彼が好きなの?」
レゴラスは蒼白になって詰め寄ってくる。
「…一体誰がそんなことを?」
ようやくそれだけ答えたにレゴラスは即答した。
「エオメルだよ!」
「は?エオメル様が?なんで?」
「だからそれは私が聞いてるんじゃないか。どうなの?」
「どうって、そんな話聞いていないし、聞いていないんだから答えるはずないし、第一わたしがエオメル様と結婚なんてできるわけないじゃない。何かの間違いよ」
「でも…!」
「あー、なんだ。ここで言い争っていないで確かめに下に下りたらどうかね」
いつまでも言い合いをしそうな2人に、ギムリが提案を出した。




外庭は人で溢れていたが、背の高いレゴラスが先に立って歩くと、進む先から人垣が割れた。
はレゴラスに遅れないように小走りになりながら、背中に冷や汗が流れるのを感じていた。
彼女に気付いたローハンの人々は、感謝の言葉と共に祝福の言葉を投げかけてくるのだ。
さすがに何かまずいことをしてしまったらしいと理解したが、なにがどうしてこうなったのかはさっぱりわからなかった。
いつもは音も気配も感じさせない歩き方をするレゴラスが、怒ったように荒い足取りで進むので何とはなしに後ろめたく思ってしまう。
溜息をつきそうになるのをこらえて、はレゴラスの後を追いかけていった。
ようやく人の波の向こうに見知った面々を見つけた。
だが、喜びに沸く人々とは打って変わり、彼らの表情は一様に困惑しているのだった。
アラゴルンがレゴラスに気付く。その後ろにがいるのを見つけてほっとした表情になった。
。ちょうどよかった。今お前のことを話していてな、私たちとエオメル殿との間に見解の相違が起こっていたので呼びにいこうと思っていたところだ」
周囲の人々の視線が一斉に自分に向くのを感じて、は逃げ帰りたい衝動にかられた。
重い足取りで前に出る。
セオデンとガンダルフを中心に、ローハンの主だった騎士がその場に集まっていた。
エオメルがもの問いたげな眼差しを送ってくる。まともに見返すことが出来なくて、は自然と伏目がちになった。
「さて、そんなに硬くならずともよい。白鳥の乙女、・アルフィエルよ。そなたに確認したいことがあるのじゃ」
おずおずと見上げてくる少女にセオデンが鷹揚にうなずく。
「エオメルが申すには、そなたは我が妹の息子、マークの世継ぎの妃になることを承知したとのこと。しかし我が導き手ガンダルフとそなたの仲間アラゴルン殿は有り得ぬことと断言した。さて、どちらが正しいか」
「あの、陛下。そもそもどうしてこんな話がでたのか、わたしにはさっぱりわからないんですけど…」
セオデンの話から、自分とエオメルとの結婚話がでたというのは信じざるを得なくなった。
そしてエオメルはそのことを自分が承知したと言うのだ。
最初の出会いまで記憶をさかのぼってもまるで心当たりがないのだが、自分に無断でエオメルが話を進めたのだとも思えなかった。少なくともそういうことをする人物であるとはは思っていない。
少々頭に血が上りやすく、猪が突き進むかのように猛進するところはあるが、裏表のない実直な人柄だと感じていた。
「エオメル様が、わたしに結婚の申し込みをした、のですよね?ですが、申し訳ありませんがわたしには心当たりが全然ないんです。ご存知のとおり、わたしはマークの民ではありません。ですから、あの、こちらで一般的な申し込みの仕方をしてくださったのかもしれませんけど、それにわたしが気がつかなかったという可能性は十分ありまして…」
セオデンの後ろにいたエオメルを見ると、彼は力が抜けたように呆けていた。
「あの、それで、どの言葉が「それ」だったんでしょうか…」
エオメルの様子にひたすら恐縮しながら、はセオデンではなくエオメルに直接聞いてみた。
セオデンは気を利かせて自分が立っていた場所をエオメルに譲る。エオメルは表情を硬くしての前に立った。
「私が貴女に結婚の申し込みをしてから数刻もたっておりません。防壁でのことです」
「本当にさっきのことだったんですね」
それでもにはまるで覚えがなかった。
「そこで多くの話をしましたね。最後に私は貴女にこう聞きました。「我が炉辺に来ていただけないか」と」
「あれがそうだったんですか!?」
ここまで聞けばいくらなんでもわかろうというものだ。ようやく納得できたが、すぐに自分がなんと答えたかについても思い出して血の気が下がりそうになった。
。貴女は一体私が「どう」言ったものだと解したのですか?」
「どうって…私たち、結構喧嘩腰でいままできていたじゃないですか。だから、仲直りをする意味で招待されたのだとばかり…大体、これって一般的な言い回しなんですか?どうして炉辺なんです」
の驚きようと困惑ぶりに、本当に気付いていなかったのかという空気が周囲から発せられた。セオデンは愉快そうに目を細めると、動けずにいる甥に代わって説明をすることにした。
「炉辺というのは各家の女主人がいる場所じゃ。そこへ来ていただくよう申し込むわけであるからマークではこのような言い回しはよくあるのだ。余も遠い昔にエルフヒルドに告げたことがある。そなたの故国ではこうは言わないのかね」
「はい。暖炉自体、わたしの故郷にはほとんどありませんので」
「なるほどのう。そなたの故国は暖かい土地柄なのだな」
それは違う、といいたかっただが、エアコンやヒーター、こたつやストーブといった暖房機器の類を誤解させずに説明できるとは到底思えなかったので、曖昧に笑ってごまかした。
が、そうとばかりもしていられない。セオデンの次の問いかけにははたと我に返った。
「それでは双方の誤解が解けたところで改めてそなたの返答を聞きたいと思うのだが、どうであろうか。白鳥の乙女よ」
「え…えっと…」
反射的に後ずさりしたところを、レゴラスがしっかり肩をつかんできた。心の中で放してくれと叫ぶが、エルフはお構いなしだ。
「セオデン王。それからエオメル殿。これはもとよりお話にならないことです。なぜなら彼女にはすでに想う相手がいるのです。それを確かめもせずに一方的に思いを告げては困るばかりでしょう。それも、こんなに多くの者が見ている前で」
そうなのだ。
ここにはエドラス、東マーク、西マークの騎士がほとんどと西の谷の領民の多くが集まっているのだ。皆が皆、興味津々に彼女たちのやりとりを見物している。
エオメルのことは嫌いではない。好意はある。だがけして恋ではない。
が、妙に期待のこもった視線の間に置かれてしまっては言いたくても言えない。
エオメルの妻になるものは、将来的にマーク王妃になるのだ。しかし素性のはっきりしない自分がその候補にあがっているというのに、セオデンもマークの民たちも反対する気配はない。
もうこのまま流されてしまうのではないかと半ば諦めたところに、レゴラスが助け舟を出してくれた。
「そうなのですか、
あからさまにほっとした表情をしてしまったせいかエオメルの面には影が差していた。
「…はい」
今すぐにでも会いたいひとがいた。
物心がついた頃にはすでに横にいた、己の半分とも思っている、ひと。
レゴラスはそのつもりで言ったのだろうが、この場合、彼を理由に断るのは違うとは思った。
なぜなら、ヴァロマへの思いも恋ではないのだから。
彼はの理解者であり、保護者であり、相棒であったが、恋人ではない。今までも、これからもそうはならない。
それでも肯定してしまったのは――
「そう、ですか…」
落胆するエオメルに、はなんと言葉をかけてよいかわからなかった。
彼とは出会いのときからすれ違いが多かったが、違う出会いをしていたらもしくは、とは思う。
だが「もしも」は起こらない。
「申し訳ありません」
精一杯の気持ちを込めて頭を下げる。意図しなかったこととはいえ、無駄に期待を持たせてしまったのはの責任だ。
(ガラドリエルの奥方様、このことをわかってらっしゃったのかしら…)
言葉が通じていても意味が通じていないこともある、と警告を送ってくれたエルフの王妃を思い浮かべた。
「いいえ。私のほうこそ失礼いたしました。貴女が遠き地よりの来訪者であることをすっかり忘れてしまい、1人浮かれていた私に落ち度があったのです。どうかお気になさらず。しかし、叶うならば我らの間の友情までが壊れてしまわないことを願います」
「それは、もちろんです」
はようやく微笑を浮かべられる余裕を取り戻した。
「ですがこれだけは覚えていてください。私は貴女が好きです。この気持ちは変わることがないでしょう。そしてマークは、マークに勝利をもたらした白鳥の乙女を、貴女への愛と共に歌に歌い継いでゆくでしょう」
「は、はい。ありがとうございマス」
はっきりとしたエオメルの物言いに、鳴りを潜めていた照れくささがぶり返してきた。
真っ赤になって消え入りたく思いながらも、ここで逃げたらいけないと、理性と気力をかき集めてなんとかその場に立っていることが出来た。






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