緑。枝の間からこぼれる日差しが陰影を作り出す。
湿った土のにおい。
人の声など届かない山深く。
道らしい道もないその中、柔らかい腐葉土に足をとられがちに、わたしは歩いていた。
記憶は、そこで途切れた。
茶。遮るものがほとんどない、荒涼とした地。
冷たい風。
人の姿も、鳥や獣の声すらない。
遠くに木々の影が見える。
呆然。
何が起こったのだろう。
「―――」
わたしは半身の名前を呼んだ。
答えはなかった。
そしてすぐに気付いた。
ここに、「彼」はいない。
絶望。
涙は出なかった。
ただ身体を支えていられなくなって、へたりとその場に座り込んだ。
枯れた丈の高い草が乾いた音を立てて折れ曲がる。
なぜ?
こんなことに。
なぜ?
なぜ?
見上げれば、空の青
再び行軍が開始されると、もうのやることはほとんどなかった。
エオメルの前に座らされ、慣れない馬の背で運ばれるだけ。
目の前に広がるのはまだ枯れ草の目立つローハンの草原。後ろには土煙を上げて突き進む二千の騎士たち。
空を見上げる。
雲はないが空気が重苦しく感じられた。
「どうかしたか?」
じっと顔を上げ続けている少女を不振に思ったのかエオメルが声をかけた。
は首だけ動かしてエオメルに視線を移す。
「なんだか空が…晴れているのに、青くないように感じて…」
エオメルはつられて空を見上げた。
「光が足りないように思えるの。なんだか、嫌な感じ…」
不安そうに眉を寄せる少女を励ますように、エオメルはの肩を軽く叩いた。
「そうだな。大気が戦いが近いことを察しているのかもしれない。それともアイゼンガルドがなにかまやかしの術でも使ったか…。なんにしろ、そなたが案じる必要はない。そなたのことは…」
「わたしがなにか?」
急に言葉を切ったエオメルに、は怪訝そうな表情になった。エオメルはなんでもないとだけ言うとむっつりと黙り込んだ。
『そなたのことは、なにがあろうと私が守る』
続けてそう言いそうになったのに気付いて、エオメルはとっさに口をつぐんだ。
の容疑はまだ晴れていない。アイゼンガルドや、東の暗黒の国とつながりがないとは言い切れていない。
王と合流するまで警戒を解くわけにはいかないのだ。
疑おうと思えばいくらでもできるのだが、実際のところ、疑惑などとうに崩れ去っているのをエオメルは感じていた。
まず外見が問題だった。幼げな容貌に華奢な身体は守ってやりたいと思わせるには十分で、凛と清らかな雰囲気は軽々しく接するのをはばかられるようだった。
頭の回転も速く、かわいらしい声で表情豊かに、時にはふてぶてしく喋る。
剣や槍を向けられても動じない気丈さもあった。
かと思えば疾駆する馬が怖いといって必死の形相でエオメルにしがみついてきたりもする。
これが芝居なのだとしたら、グリマよりもよほど役者であろう。
とにかく疑い続けるのが難しい相手だった。下手に凄んだりしたらこちらの方が悪人に見えるだろう。
エオメルは後ろにつき従っている部下たちのことを思った。
エオメルと特に言葉を交わすことが多いエオレドの中には、すでに彼女に対する警戒を解いている者もいた。
自分もそうすることができたらどれだけ楽か。エオメルは腕の中の少女を複雑な表情で眺めるのだった。
その日は昼に一度休憩を取っただけで、その後は日が落ちるまで走り続けた。
馬上で魔法を使うことに懲りたのか、は昼の休憩と夜に一度ずつエドラス隊と連絡を取った。
明けて翌日、行軍を進めてさほど経たないうちに、はエオメルに寄りかかってきた。
「アイゼンガルドの方から来るものがいます。騎士です。1人だけで、ずいぶんぼろぼろになっているわ」
はまた片目を細めて遠くを見る。エオメルは息を飲んだ。
「誰だ?」
は小さく首を振った。
様子を窺ってきますと言い置いて意識をエドラス隊のほうへ向けようとしたところを、エオメルは止めた。
「私にも見せてくれないか?」
「無茶言わないでください。自分以外の人間の意識までは飛ばせません」
「そうではない。そなたの目の中に映っているものを見せてほしいのだ。…そなたには不快だろうが」
最後の言葉はかき消されそうなほど小さかったが、エオメルがまだ合流が叶わない王の一行を心底案じているのを察して、は彼を振り仰いだ。
「誰だかわかるほどはっきり見えるわけではないと思いますよ」
「構わない」
「馬を止めた方がいいと思いますが」
「大丈夫だ。火の足は私を振り落とすようなことはしない」
「…では」
はエオメルにもたれかかり、頭を反らした。右目は手で押さえ、左目を大きく見開く。
エオメルが顔を近づけてきた。吐息が絡みあうほど近い距離でしばしエオメルはじっとしていたが、悔しげなうめき声を上げて顔を上げた。
「ケオルだ。西の谷のエルケンブランド殿の部下だ。エルケンブランド殿は敗れたのか?」
「今の状態では音までは聞こえません。行ってもよろしいですか?そのほうが詳しいことがわかります」
「ああ。頼む」
打ちひしがれたようなエオメルを気の毒そうに見ると、はそっと目を閉じた。
昨日、アイゼン川を渡って退却させられる際に多くの死者がでた。
夜には新たな軍勢が繰り出され、野営地を襲われた。
敵はオークだけではなく、褐色人の国の荒くれた山男や放牧者たちも混じっている。
エルケンブランドは集められる限りの者を集めてヘルム峡谷の砦に撤退し、残りは四散した。
帰還したは淡々と報告をした。
彼女の知らせを聞くために、行軍は止まっている。
エオレドが火の足を囲み、エオメルとが話し合うのをじっと聞き入っていた。
「ガンダルフが言っていました。アイゼンの浅瀬に向かってはいけない。ヘルム峡谷に進むように、と。でも彼は急ぎの用を果たさなければいけないといって単騎で飛び出していってしまいましたけど」
「急ぎの用?」
「具体的なことは何も。ただヘルムの門で待つようにとだけ言っていました」
エオメルは考え込んだ。
は伝えるべきことは全部伝えたといって沈黙した。
彼女はヘルム峡谷へ行けとは言わなかった。挑発も嘆願も、エオメルの意を伺うことも一切しなかった。
判断するのはエオメルの役目であるのだから。
これがもし罠だったとしたら、アイゼンガルドにたどり着くのが大幅に遅れてしまう。またもっと悪いことが起こり、難攻不落の角笛城が落ちていたとしたら、狭い峡谷を通らざるをえない彼らは敵の格好の的になってしまうだろう。
そこまで考えて、エオメルは口を開いた。
「ヘルム峡谷へ行くぞ」
迷いはなかった。彼は口にこそ出さなかったが、不可思議な力を持つ少女を信じたからだ。
彼らは休みなく馬を走らせた。
東エムネトの原を土を蹴立てて南下し、太陽が中天にかかる頃には峡谷の入り口までたどり着いた。そこには角笛城から遣わされた斥候がおり、エオメルたちの到着を歓迎した。
入り口から砦まではまだ何マイルもの道のりがあったが彼らは一気に走りぬき、午後になってまもなく入城が果たされた。
「!!お帰りなさい!」
エオメルたちの到着を歓迎する人々を掻き分けてレゴラスが駆け寄ってきた。
火の足が止まるや、エオメルが手を貸そうとする間もなくを馬の背から下ろす。
エルフの肩に止まっていた鷲が翼を広げて離れていった。
ぎゅうと抱きしめてくるエルフに目を白黒させながらも、少女はようやく馬から下りられた開放感にほっと息をついた。
行き場のなくなった手を戻して、エオメルは火の足から下りる。
人の波が奥から二つに分かれていき、セオデンがアラゴルンとギムリを伴って来た。
「陛下…」
「よく戻った、エオメル。我が妹の息子よ」
エドラスを出奔した時の、年齢以上に老いた王の姿はそこにはなかった。
昔日の力を取り戻した主君であり伯父の慈愛に満ちた声に、堂々とした立ち居振る舞いに、エオメルは胸が熱くなった。
エオメルは剣を抜くとセオデンの足元に置き、跪いた。
「王よ。ご命令ください!」
「我が妹の息子エオメルよ、そなたの剣を取るがいい。そして難攻不落を謳われるこの角笛城をもってアイゼンガルドの軍勢を撃退せしめるのだ」
「はっ!」
「時間はあまり残されてはおらぬ。夜には戦になろう。まずはエオレドともども休み、それが済みしだい堤防へ集うのだ」
エオメルは深々と頭を下げると剣を鞘に収めて立ち上がった。
セオデンに付き従い、のそばへ歩み寄る。
目の前にセオデンがくると少女は胸に手を当てて優雅に一礼した。
「ご苦労であった、白鳥の乙女よ。そなたには本当に感謝する」
「無事軍団をお連れ申し上げることができて、わたしも嬉しく思います」
疲労の色は濃いものの、毅然と顔を上げる少女にセオデンは笑みを浮かべた。
「そなたが出発した時は随分と慌ただしかったゆえ、そなたへの贈り物がまだであったな。そなたの仲間には予の持つものでそれぞれが望むものを差し上げたのだが、そなたへはなにを贈ったらよいだろうか。しかし麗しき乙女に剣や鎧を贈るわけにもゆかぬだろうし、予が持つもののことごとくはメドゥセルドに置いてきた。であるからして合戦が終わりエドラスへ戻るまで、しばしお待ちいただけるだろうか。たとえそこに予がおらなんだとしてもセオデンの命においてそなたが望むものを差し上げることを約束いたそう」
は困ったようにレゴラスを見上げた。
「こういうのは遠慮してはいけないんだよ。私は肩当てだけで良かったんだけど、少なすぎるからってアロドももらったんだもの」
「へ、へえ〜。…といわれても」
にこやかに答えたレゴラスにはますます難しい表情になった。
「まあ、ゆっくり考えておきなさい。まずはそなたも休むのだ。ここには洞窟があり、西の谷の民がそこに避難している。望むのならば日のあるうちは砦にいてもよいが、日暮れたのちはそこにおるように」
セオデンは風に乱れたの髪を優しくなでた。
はうつむいて黙り込んだがすぐに顔を上げると、踵を返そうとするセオデンを呼び止める。
「陛下、合戦の間、わたしが砦に残ることをお許しください」
「なんと?」
セオデンは驚いて目を見開いた。
「戦いに参加させてほしいとは申しません。そんな技量がないことはわたしが一番わかっています。ですがわたしには義務があるのです。志半ばで倒れたゴンドールのボロミア、彼との約束があるのです」
「執政デネソールの長子ボロミアか。彼のことはアラゴルンより聞き知っておる。なにを託されたのだ?」
マーク王は真剣な面持ちで少女に向き直る。
「ボロミアは最期までゴンドールの行く末を案じていました。そう遠くない未来、すべての決着がつくことでしょう。それが望む未来であろうとなかろうと、見届けるのがわたしに託された役割です。この合戦も、その一つであると…」
は王の後ろに控えていたアラゴルンに一瞬視線を移した。彼は始めのうちは驚いたような表情をしていたのだが、徐々に顔を険しくしていった。
アラゴルンにはまだボロミアから託されたことについて話していない。そして今セオデンにもすべてを話していなかった。
だがアラゴルンには、ボロミアが希望を見出し託していった彼には、が言わなかったことについて察したようだった。
アラゴルンの視線を避けるようにわずかに目を伏せては続けた。
「その一つであると思っています。陛下、わたしは形あるものでほしいと思うものはございません。ただこの願いをわたしへの贈り物として叶えていただけるのなら、それに勝るものはないのです」
セオデンは厳しい眼差しでを眺めた。
「これから起こる戦は、これまであったような競り合いとは違う。敵方の主力部隊だけでもわれらの何倍もいる。サルマンはこの土地をすでに探りつくしているであろうが、洞窟には丘陵地帯へ出る秘密の道がある。砦に残るのであれば、そなたは否応なく我らと運命を共にすることになろう」
「わたしが今の状況をわかっていないと思われているのでしたら心外なことです。陛下、わたしはわたしが望みさえすれば、ロスロリアンの黄金の森で世界が変わってゆくのを待つことができたのです。それでもわたしは、そうすべきだと信じたからこそ希望の少ない旅を続けることを選びました。その希望というのがなんであるか、ガンダルフから聞いておられるのであればわたしから申し上げることはなにもありませんし、何も聞かされてないのであれば、やはりわたしから申し上げるわけにはまいりません。ですが、本来のわたしたちの旅に比べて、今がより絶望的であるなどとはわたしは思ってはいないのです」
の声は静かだったがけして引くことのない強さがあった。かすかに微笑みを浮かべてさえいる少女にセオデンは愉快なものを感じた。そう、愉快なのだ。影が迫っているというのに。
「承知した。そなたへの贈り物として砦に留まることを許そう」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げたを、セオデンは亡き息子と幼いうちに両親をなくした甥と姪にするように親しげに肩を抱いた。
「さあ、もう行きなさい。嵐は迫っているのだから」
白いローブの裾を翻して城内へ向かう少女の前の人垣が割れた。レゴラスがの手を引いて先導する。
「お待ちください!」
エオメルが駆け寄ってきた。
「なにか?」
「私はあなたに謝らねばなりません」
は小さく目を見開くと、すぐに表情を硬くした。エオメルは片膝をついて跪き、を見上げた。
「王の書簡もあなたの言葉も疑い、白の翼を無理に押し込めてしまったことをどうかお許し願いたい」
エオメルは判決を待つ者のように頭を低く下げた。
「いやです」
思いがけない返答に、エオメルは思わず顔を上げてしまった。
少女と旅を共にした仲間たちだけでなく、事の次第を見守っていたマークの王を始めとする多くの騎士や兵士も一様に驚きの表情を浮かべた。
「私の知らぬうちに他にもあなたを怒らせるようなことをしでかしてしまったのでしょうか。そうであればぜひお聞かせ願いたい」
「理由なんてありません」
はエオメルからつんと頭をそらした。
「それは嘘です」
すぐに断言されて少女は頬を膨らませた。あまりにも子どもじみた仕草にエオメルは笑いがこみ上げてきた。
じっとの目を見詰める。
「われわれはおよそ考えられるうちで最悪な出会い方をしました。私はあなたを疑いましたが、角笛城へ至る間、あなたをずっと見ていました。あなたは勇気があり、賢く、誠実な心をもっておられる。たとえ私を嫌ったとしても、理不尽に許しを与えないような、そのような方ではないと、このエオメル理解しております」
「買いかぶりすぎです。わたしがあなたを許さないのは、ただそういう気分にならないだけです」
「ではどうしたらそのような気分になっていただけるのですか?」
エオメルは辛抱強く問いただした。彼は少女が言葉どおりの意味で自分を拒んでいるわけではないとわかっていたからだ。しかし理由はまるでわからなかった。
「なにがあなたをそうまで頑なにさせているのです?」
途端、は悲しげに顔を曇らせた。レゴラスの背後に隠れるように身を翻す。
「・アルフィエル?」
エオメルは立ち上がり、に近づこうとした。そんなエオメルに、寄らば切るというようにレゴラスは背の短剣を抜いた。
やめて、とはエルフの腕をそっと押さえる。
「なにがあっても今日はあなたもあなたと一緒にいた騎士の方々も許さないわ。でも、もしかしたら、明日になれば気が変わるかもしれません」
わずかに震える少女の硬い声にエオメルははっとして動きを止めた。
「これ以上話すことはありません。失礼します」
は逃げるように立ち去った。レゴラスは慌てて後を追う。
明日になったら――
エオメルは胸の中でかみ締めるように繰り返した。
彼女は生き残れ、と言っているのだ。
エオメルのため、マークのため、少女の気まぐれさを装って、頑なに謝罪を受け入れるのを拒む。
ひどく遠まわしな、しかしいじらしい想いに胸を突かれる。
「お約束しましょう!」
真剣に、しかし晴れ晴れとした気持ちで小さくなってゆく背に呼びかける。
「明日、私はあなたの前に立ち、改めて許しを請いましょう。それが叶うまでは我らに憩いはないものとなりましょう!」
ちらっとは振り返った。一瞬のことだったので表情はよくわからない。
笑っていたのかもしれないし、悲しんでいたのかもしれない。
確実に言えるのは、彼女はローハンを案じているということだ。
エオメルは少女への愛しさが溢れてくるのを感じた。
「聞け、エオルの家の子よ!」
エオメルは抜き身の剣を掲げた。鬨の声がそれに答える。
「マークに勝利を!王のために、白鳥乙女のために!」
大音声に角笛城が揺れた。
歓声は止まることを知らなかった。一気に高まった熱気にセオデンは感極まったように目を閉じた。
「アラゴルンよ」
「なんでしょう」
「白鳥の乙女は、そなたの仲間の内やあるいは故郷に、誰ぞ言い交わしたものがおるだろうか」
「陛下!?」
ぎょっとするアラゴルンにセオデンは苦笑する。
「勘違いをするな、予ではない。エオメルにだ」
レゴラスが適当に見繕った角笛城の客室に入ると、はほっと息を吐き、長椅子に倒れこむように腰を下ろした。
軽い音と共に扉が閉まるとそれだけで喧騒は遠ざかる。
窓のない部屋は暗い。そんな中を危なげなく歩き回ってレゴラスは蝋燭に火を灯してまわった。
彼が手早く火を起こすと部屋の中は明るさを増した。
しかし、かいがいしく世話をしてくれるエルフの青年にはすまないと思ったが、はすぐにでも1人になりたかった。
彼はに優しい。多分、望めばいくらでも甘やかしてもくれるだろう。だが一度それを自分に許してしまえば際限なく甘えてしまいそうでできなかった。彼はの片割れではなかったから。
今度は溜息をついた。
のろのろと立ち上がりひらりと手を動かした。
長椅子の背もたれに止まっていた鷲が応えて翼を広げた。
「どこに行くの」
「ガンダルフを探してくる。アイゼンガルドの方に行ったのよね」
「またそういう無茶をしようとして!はいつもそうだ」
レゴラスは扉の前に立ちはだかった。
「行くのはわたしじゃないんだけど…」
は傍らの鷲をチラッと見て一応の反論を試みる。
「同じことだよ。その子だって君の力で動いているんでしょう」
「でも、兵の数がまだ足りないのよね。エルケンブランドとかいう方がまだみつかってないんでしょう?きっと、ガンダルフはその方を探しているんだと思うの。夜まではまだ時間があるわ。
わたしも手伝わなきゃ」
エオメルが率いていたのは二千。エドラスからは百。ここヘルム峡谷には千の兵士がいたが、その大半は兵としては年を取りすぎているか若すぎる者たちなのだった。
「そうだとしても、そんな顔色で行かせられるものか。どうしてもっていうのなら、いますぐ眠らせて、明日の朝まで起きられないようにするからね!」
レゴラスの歌の威力はすでに2度経験済みだ。
はぶんぶんと頭を振ってそれだけはやめてくれと頼んだ。
「じゃあ、この子の術を解いて。当分必要にはならないと思うから」
レゴラスにしては珍しく命令するように言った。が渋々従うと、途端に鷲は紙に戻った。
感心したようにしげしげと眺めていたが、これは預かるからとレゴラスは紙を折りたたんで懐にしまった。
しょんぼりするに、少しやりすぎたかと腰をかがめて目線を合わせる。
「ミスランディアはヘルムの門で待てと言っていたでしょう。彼は結構人使いが荒いもの。助け手がほしかったらきっとそう言っていったよ。なにも言わなかったとうことは、が行くまでもないって事だよ。そんなに心配しないで。は役目をちゃんと果たしたんだから、ゆっくり休んでいいんだ。次の出番は私たちなんだから」
明るい青い瞳を細めて、レゴラスはのまなじりに口付けた。
レゴラスはすぐに離れたが、観察するようにじっと見詰め、しばらくするとにこっと笑った。
最後の行動の意味がよくわからなかったが、先にやらねばならないことがあったため、はそのことは脇に置いておくことにした。
「でも、わたし、エオメル様にあんな無茶苦茶なことを言っちゃって…このままにしていていいはずないよ。あんなに盛り上がるなんて思わなかったもの。形勢不利になっても特攻しかけそうな勢いじゃない」
「あれは発奮させるためにわざと言ったのだと思っていたけど…違ったの?」
レゴラスは首をかしげた。
は逡巡するように面を伏せる。
「よくわからないわ。ただあれは、わたしが大莫迦だという証みたいなものよ。これから起こることが戦争だって事はわかってる。犠牲がでるのだということよ。仕方がない、だなんて言いたくないけど、でも現実としてそれは避けられない」
胸の前でほっそりとした指を絡ませる。不安げな様子は風にもたえないように儚げだった。
「…ごめんなさい、なんだか、頭の中がぐちゃぐちゃで、上手く言えないんだけど…でも、これでよかったのかと思ってしまったの。これから犠牲がでるわ。でも、それはわたしが彼らを連れ戻したからなのよね。あのままアイゼンガルドを奇襲させた方がもしかしたら、もしかしたら被害が少なかったかもしれない、なんて。でも、そんなわけにはいかないじゃない。大軍がこちらに向かっているのがわかっているのに。そんなことしたら、レゴラスたちが危険な目にあうじゃない。…死んじゃうかもしれないじゃない。
わたしは戦争のやり方なんて知らないからガンダルフやセオデン王がそうしたほうが良いというやり方に従うしかできない。でも、ガンダルフはいないし、まだ兵は足りないっていうし、ならどう足掻いたって勝ち目はないように思えてきちゃって。
でも、おかしいわよ。わたしは、ただ、皆に無事でいてほしいだけなのに。誰も、傷ついてほしくないだけなのに、なんであんな煽るようなことを言ってるのよ!?」
終わりの方はほとんど叫んでいた。苛ついて、苦しくて、どうしてよいのかわからないというように。
レゴラスはじっと聞いていたがそっと腕を伸ばすと小柄な少女の身体をすっぽりと包み込むように抱きしめた。
「…いいんだよ」
「――え?」
は思わず聞き返した。
「怖がったっていいんだ。そんなこと、無理して押し込めることなんてないんだよ」
穏やかだが真剣なレゴラスの声はどこまでも優しい。
「は平和な世界にいたんだもの、武具の冷たさも、戦の熱も、君には馴染まないものなのだろうね。気付けなくてごめん。それなのに独りにしてしまって、ごめん。ついでに…わがまま言ったことも謝る」
くすり、と腕の中でが笑った。
「しばらく馬には乗りたくないかな」
「無理に乗せるのはやめるよ。でも落ち着いたら一から乗馬を教えてあげるから、慣れたら、ね」
おどけたように言うレゴラスに、はますます笑いを強めた。
「そうね、慣れたらね」
「そうしたら、闇の森にも来てくれる?」
エルフはどさくさにまぎれて約束をねだる。
少女は笑いながら瞳をうるませてうなずいた。
「全部行く。ホビット庄にも、はなれ山にも。だけどまずはゴンドールに行かなくちゃ」
「ボロミアとの約束だものね」
「――ええ」
決意を込めては顔を上げた。
(あ……)
「どうかしたの?」
額がくっつきそうなほど近い距離で自分を見上げたまま固まったに、レゴラスはやりすぎたかと内心ドキドキしていたが、またもや予想したような彼女からの拒絶はなかった。
それどころか彼女は愛らしく微笑んだため、今度は別の意味でドキドキすることになった。
「素敵なことに気付いたわ」
「どんなこと?」
「内緒よ」
ふふっと笑っては唇に指を寄せた。
その日がどんな天気だったかなんて、覚えていない。
呆然とした。
絶望した。
そしてきっと怖かったのだ、あの日のわたしは。
だけど、
呆然となんてしていられなかった。
絶望なんてしていられなかった。
怖がってなど、いられなかった。
帰るために生き延びる。
それは見事に失敗しかかったけど、その時レゴラスがわたしを見つけてくれた。
それからは見上げればいつも青空があった。
空よりも明るい空の青。
明るく輝くエルフの瞳。
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