「まあ、!無事でよかったわ。エドラスに戻ってこないから心配していたのですよ。あなたは馬鍬砦の場所を知らないから、わたくしたちが避難してしまった後、誰もいないメドゥセルドでどうしているのかと思っていたのです。急ぎの知らせが届いて、あなたがエオメルとともに角笛城に行ったのだと聞きましたが」
馬鍬砦に着いた一行を出迎えたエオウィンはの姿を目に止めると、駆け寄って両手を握り締めた。
エオウィンは表情を曇らせて、申し訳なさそうに目を伏せる。
「マークのためにほとんど休みを取らずに尽力してくださったあなたに、エオメルはずいぶん手荒な真似をしたとか。剣を向けることまでしたそうですね。兄の無礼を、どうかお許しください」
エオウィンが頭を下げたので、は慌てて両手を振った。
「ああっ、謝らないでください、エオウィン姫〜。ちゃんとエオメル様とは仲直りしてますから〜!!」
「…そうなのですか?」
心配そうに首をかしげるエオウィンに、は頬を赤らめながらうなずいた。
「わたしのほうこそご心配をおかけして申し訳ありませんでした、エオウィン姫。エドラスに先に連絡をいれるべきだったのに…。気が回らなくて」
「ともあれ、無事でようございました」
エオウィンはそう言うと、ようやくほっとしたように微笑を浮かべた。
檻の内側
王の一行を見送ってから出発したアラゴルンたちだったが、翌日の日が没する頃にはすでに馬鍬砦に到着した。王たちが到着するにはあと二晩はかかるだろう、と彼は呟いた。
エオウィンはアラゴルンがドゥネダインと二人のエルフを連れてきたことをとても喜んだ。
彼らたちからはロヒアリムの男たちにいや勝る力強さを感じるのだ。そして実際に感じるだけではないのだろうと思っていた。
一同が夕食の席に着くと、セオデン出陣以来の出来事をそれぞれ話した。からエオメルと共にいたときのことを聞かされたエオウィンは半ばあきれ、半ば苦笑した。そして話がヘルム峡谷の合戦に及ぶと、姫の目はきらきらと光った。
話が終わると、エオウィンは全員を見渡して言った。
「皆様、お疲れでございましょうから、もうお休みいただきとうございます。急場の間に合わせでベッドのお休み心地はよくないと存じますが、明日になりましたらもっと立派な宿舎を用意いたします。、あなたはわたくしと同じ部屋に」
「いや、姫。われらのことはおかまいくださいますな。今夜はこちらに泊まらせていただき、明日、朝食をちょうだいできればそれで充分です。私はこの上ない緊急事のために馬を進めているからです。明日は暁の光が差し初めるとともに出かけます」
アラゴルンがいうと、エオウィンは硬く笑みを浮かべた。
「では殿はわざわざわたくしに話をするために何十マイルも回り道をしてくださったのですか?」
「このような旅を無駄足だと思う男はおりますまい。そうは申しましても、姫、今取らねばならない道が馬鍬谷に私を導いて来なかったとすれば、うかがうことはできなかったでしょう」
エオウィンの顔からは笑みが消えた。
「では殿は道を間違えておいでです。馬鍬谷からは東にも南にも道は通っておりませんから。殿としてはおいでになった道をお戻りになるのが一番よろしゅうございます」
「いえ、姫。私は道を間違ってはいません。この谷間から出ている道があるのです。その道を私は行きます」
アラゴルンの答えにエオウィンの顔から血の気が引いていった。恐怖に打たれたようにまじまじと彼をみつめ、しばらくの間、口をきくことができないようだった。
「では、殿は」
振り絞るようにエオウィンは言葉を紡いだ。
「死をお求めになるのが殿のご用向きなのですか?その道で見出されるものはそれしかございません。生ある者は通してはもらえないのです」
「私は通してもらえるかもしれません。あえて冒険をしてみます。他の道ではどれも間に合わないのです」
アラゴルンの答えにエオウィンは言い募った。
「ですがそれは狂気の沙汰にございます。ここにおられる功名あり、武勇高き方々を殿は暗闇にお連れになるべきではなく、戦いに率いておいでになるべきです。そこでこそ皆様が必要とされておりますもの。お願いでございます。どうぞ、ここにお留まりになって、兄と共にご出陣くださいませ」
「そうではありません。なぜなら私は定められた道を行くのですから。しかし私に従う者たちは、それぞれの自由意志からそうするのです。ですからもし彼らが今はここに留まって、ロヒアリムと出陣することを望むのなら、そうしてもかまわないのです。しかし、私は死者の道をとります」
それから食事が終わるまで、話をするものはいなかった。しかしエオウィンの目は絶えずアラゴルンに注がれ、彼女がいたく心を悩ましていることは見て取れた。
はエオウィンの部屋に先に戻っていた。避難民たちを取りまとめなくてはならない彼女にはやらなければならないことが多くある。
疲れただろうから遠慮せず先に休むようにと言いおいて、エオウィンはすぐに部屋からでていった。
王家の姫といえど避難中のエオウィンの寝台も質素なものだった。その隣に設えてあったのための簡易ベッドの脇に荷物を置き、ころんと横になった。
深く息を吐くと、寝転がったまま思い切り伸びをする。
また一日中馬に乗っていたので、すっかり筋肉が強張っていた。
ここに来るまではエルラダンとエルロヒアの馬に乗せられた。もちろん、の希望など聞くような彼らではなかったので休憩のたびにとっかえひっかえされるはめになった。
アラゴルンやレゴラスの文句もどこ吹く風だ。その代わりと言っては何だが、このそっくりな双子の見分け方は完璧に身についてしまった。
(死者の道か…)
角笛城でのセオデン王やエオメル、またエオウィンの様子から、そうとう忌まわしい場所だと想像できた。生きている者は通ることはできないというのも、ただの言い伝えだけではあるまい。
(でもアラゴルンが行く以上、わたしも行かなくちゃ。なにか、手は打てないかしら。何か…)
は身体を横にして胸元を押さえた。
形代の術の効果はしっかり表れており、徐々に指輪の魔力がの中に蓄積されていた。
日の光があるうちはその度合いもゆっくりだが、夜ともなると勢いを増して冷たい闇が流れ込んでくるようだった。
闇へと絶えず招かれているような焦燥感と身のうちが黒く染め上げられそうな不快感がを苛む。
放っておけば確実に指輪に囚われてしまう。指輪そのものはから遠く離れているので、自分が指輪を使うことはできない。
だが、それはあまり希望の材料になるとはいえない。
なぜなら、自分は指輪の行方を知っているからだ。
どのような目的でそれがどこに向かっているか、知っているからだ。
本当に指輪に囚われてしまったら、それを消滅させようとしているという事実を知っている自分は、きっとその妨害をしてしまうだろう。
機会などいくらでもある。これからモルドールにさらに近づいていくのだから。
(フロドは今頃どうしているんだろう。指輪を直接持っている分、わたし以上につらいはずだわ。オークに襲われていたりしないかしら。ちゃんと眠れているのかな。ご飯は…きっとサムが食べたくないと言っても食べさせているだろうから、あんまり心配することはないと思うけど…)
つらつらと考えに耽りながら横になっていたので、そのうちうとうとしてきた。
上掛けをかけないといけないと思いながらも身体は眠りにつきたがってなかなか思うように動いてくれない。
頬でもつねって無理やり起きようかとぼんやりしていると、やや乱暴な音を立てて扉が開いた。
弾みで眠気が少し飛んだ。
室内は明かりがなく暗かったが、頭を持ち上げるとエオウィンがすすり泣いているようだったので、は驚いて起き上がった。
眠気は彼方まで飛んでいた。
「エオウィン姫?どうなさったんです」
が声をかけると、エオウィンは一瞬身体を強張らせ、ぱっと顔を背けた。
背中が大きく上下して、彼女が大きく息を吸った気配がする。
「起こしてしまいましたか?」
「…いいえ。まだ眠ってはいませんでした。どうなさったんです、姫。何かあったのですか?」
が問うと、エオウィンは勢いよく頭を振った。
「何もありません」
は困ったように首をかしげた。
「そうは見えませんが…。聞かれたくないのでしたらこれ以上は聞きませんけど、あの、あまり気持ちは溜め込まない方がいいと思いますよ。わたしで良ければ、聞きますよ?」
が言うと、エオウィンはずるずるとくずおれていった。力なく座り込み、絶望に打ちひしがれた眼差しでを見た。
エオウィンはを案内した後、アラゴルンの輩の世話をするために彼らの仮小屋を訪れていた。まだ仮小屋に入っていなかったアラゴルンを呼び止め、どうしても死者の道を行くというのだったら、自分も共に加えてほしいと申し出た。
アラゴルンは驚いて目を見張り、即座に断った。そして彼女に課せられている務めがあることを告げ、言い諭す。
エオウィンは憤慨した。
「務め、務めと何度繁繁と聞かされたことでしょう。なぜいつもわたくしが選ばれるのでしょうか?騎士たちが出陣して行く時、いつもいつもわたくしが残されるのでしょうか?そしてその間に家を守り、みんなが戻ってくると食べ物の世話を焼かねばならないのでしょうか?けれど、わたくしはエオル王家の一員でございます。馬に乗ることも、剣を揮うこともできます。苦痛も死も恐ろしくはありません。殿、殿はをお連れになるのではありませんか?」
「ええ。確かには連れて行きます。ですが、それは彼女に剣を揮わせるためではありません。もとよりそのようなことをさせるためにわれらはともにいるわけではない」
「……を愛していらっしゃるからですね」
エオウィンの言葉にアラゴルンはぎょっとなった。
そして仮小屋の方に振り返り、じっと中の様子を窺った。日に焼けた頬に冷や汗が伝ってゆく。
「殿?」
「ああ、姫。どうか誤解のなきように。われらの間には果たすべき約束があります。私にはを連れてゆく義務があり、彼女には私について来る権利があります。しかし、誓って男女の愛からではありません」
アラゴルンの焦りように、エオウィンは怪訝な面持ちになった。しかし気を取り直して跪いた。
「そうだとしても、お連れになることには代わりがないはず。けして足手まといにはなりませぬ。お願いいたします、どうか」
アラゴルンはエオウィンの必死さを不思議に思った。
「姫、あなたは何がそれほどまでに恐ろしいのですか?」
「檻です」
エオウィンは毅然として答えた。
「柵の後ろに留まることです。慣れと老年がそれを容認し、すぐれた功を立てる機会が去り、呼び戻すことも望むこともできなくなるまで、柵の後ろに留まっていることです」
「あなたは王家の姫です。そのようなことにはなりません」
アラゴルンはエオウィンを立たせると、一礼してその場を立ち去っていった。
「エオウィン姫?」
の声にエオウィンはのろのろと顔を上げた。
「わたくしは、長い間よろめく足のお世話をしてきました。もはやその足もよろめくこともないと思われますのに、わたくしが望む人生を送ってはいけないのでしょうか」
「え?」
「自由を望んではいけないのでしょうか?務めという名に縛られ、何一つなすこともないまま、ただ籠の中の鳥のように萎んでゆくのを待つだけなのでしょうか?男たちが戦いで名誉ある討ち死にを遂げた後には、家と共に焼かれるだけなのでしょうか?」
「姫…」
エオウィンの両の目から涙が溢れた。
「そんなのは、いやです。わたくしは何かを成し遂げたいのです。揺るぐことのない功がほしいのです。自由に羽ばたきたいのです。あなたのように!」
悲痛な叫びに、は動くことができなくなった。
気高く誇らかな美しい人が、身を振り絞って咽び泣いているのはひどく哀れを誘ったが、にはどうすることもできなかった。
ただ彼女を気休めにでも慰めることが精一杯だろうと思った。何の解決にもならなくても。
はそっと立ち上がり、エオウィンのそばにしゃがみこんで囁いた。
「それでは、飛んでみますか?」
「…え?」
夜も深まって篝火もない闇の中、月明かりだけを頼りにエオウィンとは歩いていた。
もっともこの夜は満月で、明るさに不自由はしない。
地面には濃い影がくっきりと落ち、わずかに顔を出した草の芽や、緑の褪せることのない木の葉は銀の光を受けて露のような煌めきを放っていた。
仮小屋が集まっている場所を避けて少し開けた所を見つけた。
は白鳥のローブの使い方を教えると、まずは実際にやってみるように言った。
それはエオウィンには丈が短かったが、身頃がたっぷりとあったので難なく全身をくるむことができた。
すぐに青い目の白鳥が姿を現す。
白鳥になったエオウィンは初めて歩いたひよこのようによたよたと地面を歩いた。
「大丈夫ですか?エオウィン姫」
エオウィンはしばらくあたりを歩き回ると、もとの姿に戻った。
「ああ…!何て動き辛いのかしら。手も足も思うように動かないわ。それにおかしなこと、前を向いているのに、後ろも見えるんです」
エオウィンの目のふちは赤くなっており、痛々しかった。しかし今は物珍しさが勝っていたために悲しげな表情は潜めている。
「そういうものなんですよ。慣れれば気になりません」
「翼を動かすだけでは飛べないのですね」
「ええ。上昇する時、下降する時、風に乗る時、向かい風の時と、全部翼の動かし方は違います。やっぱり練習して慣れるしかないんですけどね」
「お手本を見せてくださる?」
「いいですよ」
はローブを受け取ると茶色の目をした白鳥に姿を変える。
優雅な翼を力強く羽ばたかせ、月光が降り注ぐ中を舞うように飛ぶ。
地上に戻るとは翼を動かすコツを教えて再び交代した。
エオウィンははじめこそばたばたともがくような動きだったが、じきに慣れ、短い距離だが確実に飛べるようになった。もともと活発な人なのだ。飲み込みが早いのも当然と言える。
月が角度を変えるまで存分に動き回り、へとへとになってようやくエオウィンは元の姿に戻った。
「ああ、疲れた。でもとても面白かったわ」
ローブをの肩に着せ掛けると、自身は地面に倒れこんだ。子供の時分ならいざしらず、今の彼女がこのようなことをしているのが見つかったら、はしたないと思われてしまうだろう。
「喉が渇いたんじゃありませんか?」
どうぞ、とは杯に水を注いでエオウィンに渡した。部屋においてあった水差しを持ってきていたのだ。
杯を受け取ると一気に飲み干す。風はまだ冷たかったが、上気した身体には心地よかった。
あたりは沈黙が支配するが、静寂なわけではない。風が枝葉をそよぐ音、木立に隠れた小さな獣、夜に鳴く鳥の声がする。離れたところからは馬たちと家畜のいななき。そんなものを聞きながら、二人は黙って座っていた。
「あなたをゴンドールに駆り立てるのは、ボロミア殿との約束だけなのですか?」
を真っ直ぐに見詰めて、エオウィンは問うた。悲しげだが、泣いてはいない。
「姫は、ボロミアをご存知なんですか?」
エオウィンは頷いた。
「ゴンドールとマークは隣同士の国ですもの。ここ数年こそあまり交流はありませんでしたが、ゴンドールの方がお見えになることは珍しくはありませんでした。ボロミア殿とセオドレドは年も同じでしたし、共に優れた将でしたから、話が合うようでしたわ」
「そういえば、セオドレド様がお亡くなりになった日は、ボロミアが倒れた日とほとんど時をおいていないのですね。ほとんど同じ日に、マークもゴンドールも、共に世継ぎをなくしてしまったんですね…」
「ほんとうに、その通りです。ですが、ボロミア殿の意志は、あなたがお継ぎになった」
は頭を振った。
「でもわたしには、彼が生きていたら成していただろうことのほとんどをすることができません。アラゴルンと肩を並べて戦えるわけではないし、兵を率いることができるわけでもありません。援軍を呼ぶことも、助けになるなんらかの物資を届けられるわけでもありません。本当に、ただついて行くだけなんです」
「でも、アラゴルンの殿にはそのようなあなたが必要なのです」
「だと、いいんですけど…」
「?」
は膝を抱えて考えに耽るように遠くを見ていた。
「姫はマークが好きですか?」
「もちろんです。籠の鳥、と申しましたが、それもわたくしがマークを愛するがゆえのことです。危難に際して、何もできぬわたくし自信が歯痒いからです」
「姫からすれば、さぞ贅沢な悩みに聞こえるでしょうけど、わたしはできるなら旅はしたくありませんでした。それこそ、わたしはわたしの務めだと思ったので旅を続けたんです。わたしたちはお互いにできないことこそを望んでいるんですね」
エオウィンの表情が強張った。気持ちを昂ぶらせないようゆっくり息をする。
「そう…だったのですか。でも、なぜです?」
「怖かったからです。わたしは故郷から遠く引き離されて、自分では帰ることができません。距離が問題ではないのです。たとえわたしに飛蔭を乗りこなすことができたとしても、翼の力があっても、たどり着けない。だって、この世界のどこにもないんですもの」
「それは…」
エオウィンは目を伏せた。明るく気丈な娘だとばかり思っていたが、この少女にそのような過去があったとは思いもよらなかった。エオウィンにとってはエルフのように自分の力に確固たる自信を持っているように見えていたからだ。無力さに嘆き、恐怖に苛まれる自分とは違うのだと思っていたからだ。
「わたしをゴンドールに駆り立てるのは何かと、聞かれましたね。もちろん、ボロミアとの約束もあります。それにもう一つ、わたしたちには別れ別れになった仲間がまだいるんです。二人です。彼らはローハンを通らずに東にむかいました。彼らのうちの一人に、わたしは術をかけました。重荷を少しでも肩代わりしようとして。それから…最悪の事態に陥ったら、すぐにわかるように。それによって、戦況は大きく変わりますから。ただ、やっぱり、わかる以上のことはできないんですけどね」
は大きく息を吐くと杯に水を注いで喉を湿らせる。
「でも、それ以上に、彼らにおいていかれるのが嫌だったのだと、今ではわかります。わたしがこちらにきて最初に出会ったのが、ガンダルフたちでした。怪我もしていましたし、こちらのことを何も知りませんでした。事の重大さを知って、わたしは彼らに迷惑をかけるべきではないと思いました。自分の安全を考えるのなら、ロスロリアンに留まるのが一番良かったんです。でもそうしなかった。
卵から孵ったばかりの雛が、初めて目にした動くものを親と思い込む。そのようなことがわたしにも起こったんです。彼らと離れたくなかった。おいていかれたくなかった。怖くて、不安で、自分にできることがあるのを盾にとって、無理やり同行しました。彼らを案じていると言いながら、結局は自分のためでしかないのです。わたしは…卑怯です」
はうつむいて言葉を切った。膝を握り締めて、わき上がる強い感情に飲み込まれまいとしているようだった。幼くあどけない容貌の少女のそうした姿はひどく痛々しかった。
「身の安全を望むのが卑怯なのだとしたら、この世の女と子供は皆、卑怯者だということになりますわ。そのように自分を卑下するのはおやめなさい」
きっぱりと言い放つと、エオウィンはの肩を抱き寄せた。
細くくせのない髪がエオウィンの肩にも流れてくる。
「あなたのしてくださったことは、自分のことのみを考えている者にできることではありません。本当に卑怯な者は、自分では何もしないからです。一人になることを恐れない者がどれほどいることでしょう。孤立無援の時に、心の内だけでも頼りとする者にすがらないでいられる者がどれだけいますか。あなたを責める者がいるとしたら、その者こそが責められてしかるべきです」
エオウィンが本気で心配しながら怒っているようなので、は思わず苦笑をしてしまった。暖かい感情が胸に込み上げてくる。
「姫、楽園って、どんなところだと思います?」
「楽園?」
唐突な質問にエオウィンは面食らった。しかしはにこりとも笑っていない。軽い話題ではないのだと言うことを察して、エオウィンは表情を引き締めた。
「わたくしにはよくわかりませんわ。でも伝承にあるヴァラールがおられて、エルフが行くことができるという西の国を思い起こします」
「満ち足りて、欠けたところのない場所。存在することを許され、愛され、守られている。何があろうと、味方となってくれる人がいる。そういうところを楽園というのだと、わたしは思います。危険や争いがない、ということとは別ですよ。それはどれほど整えられた国、世界であろうと、なくなるはずがありませんもの」
「そうかもしれません。でも、そういう場所を、多くの者は故郷と呼ぶのではありませんか?」
「そうでしょうね。わたしにとってガイアは故郷。欠けたところのない楽園でした。帰りたくて、帰りたくて、仕方がなかった。でも、最近、少し変わってきているんです」
「どういうことですか?」
は寒さを堪えるように己の肩を抱きしめる。夜風にあおられた肌は白さを増していた。
凛とした強さは掻き消え、容貌そのままの幼く力ない少女がそこにいた。
「籠の鳥、とおっしゃいましたね。姫。わたしにとってのガイアも、大きな籠のようなものなのです。わたしには生まれたときからわたしを守ってくれているひとがいました。彼はガイアにあまねく力を揮っていました。わたしは彼を愛しています。女の愛ではないにしても。
どこにいようと彼の力が存在するガイアは、居心地のいい鳥籠であり、檻です。どこに行こうとどこにも行けない。行かなくてもいいと思わせられる。嫌なのではありません。だって、居心地がいいんですもの。戻りたいんです。でも…」
「でも?」
エオウィンの問いかけに茶色の瞳が揺れた。これ以上口にしてよいのか迷い、唇を噛む。
「欠けて…しまいそうなんです。楽園にないものがこちらにあります。わたしはそれを欲しいと思っている…のだと思います。確定は、まだ、していないんですけど」
消え入りそうな声に、エオウィンはふと考え込むように顎に手を当てる。
「それは、ガイアには持って帰ることのできない「もの」なのですね?」
「ええ…多分…無理です」
「その方のために、こちらにお留まりになる?」
「人」であるなどとは一言も言ってはいないのだが、こういうことは言わなくて察するものだ。特に否定もしないまま、はうつむきながら首を振った。
「できません。無理です」
「なぜです?」
「…わたしの意志は関係がないからです。こちらに来たのも、帰るのも、わたしにはどうすることもできないからです。最初から決定権なんて、ないんですもの」
エオウィンはじっと少女を見詰めていたが、ふと微笑を浮かべるとの顔を上げさせた。
「、いまはしがらみを考えずに答えてほしいの。もしもあちらかこちらかを選ぶことができるとしたら、あなたは帰りたいと思う?残りたいと思う?」
はエオウィンを見上げたまま逡巡していたが、じきに口を開いた。
「今ならまだ帰る方を選びます。でも、時間が経てば経つほど、残りたいという思いが強くなるのだと…思います」
「楽園を捨てることになっても?」
「…ええ。多分」
「そう」
エオウィンは目を閉じると華奢な少女の背を抱きしめた。
「もしも、あなたが本当にこちらに留まることを選んでくださったのなら…どうか諦めないで。マークではこのようなときには『意志の欠けることなければ、道は開く』というのです」
「はい…。姫もどうか諦めないでください」
の肩からは力がぬけて、ようやく微笑が戻ってきた。
「ええ」
頷いたエオウィンの目に決意が宿った。
セオデンの一行が馬鍬谷に到着したのは二日後の夕暮れだった。明けて早朝、彼は招集を行った。
メリーには奉公を免じ、砦に留まるよう命じた。メリーは必死に言い募ったが、セオデンは許さなかった。
エオウィンはアラゴルンの頼みでメリーに戦いの用意をしていた。小さな兜と丸い盾。メリーに合う鎖帷子はなかったので代わりに丈夫な皮の上着を着せた。
すっかり用意が整っても、メリーは出発する王の一行についてゆくことはできなかった。
馬に乗った騎士たちが出発するのを口惜しさと情けなさで一杯になりながら、メリーは眺めていた。すると、背後からメリーを引きずりあげる者がいて、彼は気付くと馬上の人になっていた。
「『意志の欠けることなければ、道は開く』われらの諺にこういいます」
メリーは驚いて後ろを振り返った。聞き覚えのある声と、鬚のない美しい顔に誰なのかをすぐに察した。
「僕の場合もそうでしたよ」
メリーは嬉しくなって答えた。
「あなたはマークの王の行かれるところに行きたいのでしょう。顔に出ています」
「そうです!」
メリーの答えに、騎士は厳しい表情に微笑を浮かべた。
「あなたを連れて行きましょう。こういう熱意が拒否されてなるものですか!」
「ありがとうございます。姫!」
騎士の装いに身を包んだエオウィンはホビットを乗せ、灰色の軍馬を駆けさせていった。
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