そこはいつも暗い世界だった。
物理的にいえば光が差さないせいなのだが、しかしどちらかといえばこの場所の役割ゆえに気分的に暗さが増しているせいだ。
せめて形だけでも太陽を昇らせてはどうかとこの世界の主に言ってみたこともある。
彼は、死の国が明るくてどうする、と答えた。
なにも人の子の心象にあわせる必要もないだろう、死の国が暗いと思うから、人の子は死を怖がるのではないか。そう言い返したが。
彼は、「あまり明るくては眠るにも眠れんだろうよ」と笑った。
シコク
「外が騒々しいと思ったら、お前か」
「久しぶり、ディウエス」
渋い顔で出迎えたディウエスに、ヴァロマはにっこりと笑った。
「力を抑えてくれ。まったく、お前がくると死者たちが動揺して困る」
ぶつぶつといいながらも、ディウエスは椅子を勧めた。
「母君にずいぶん怒られたと聞いていたが…なるほどな、誓約が解除されている」
「勝手をしたのは事実だから甘んじて受けるさ。連れ戻したらまた誓約すればいいのだし」
けろりと返したヴァロマに、ディウエスは苦笑した。
「まだ行かないのか?」
「母君の都合がまだつかないのでね。でも、もうじきだ。その間にわたしも必要なものを準備しないと。なにしろあちらに行ったら気軽に力を使えないからね。まあ、それ以前に彼女に力を使うことを禁止されてしまっているのだけど」
「それでもお前を連れてゆくか。母君はお前に甘いな」
「わたしじゃない、ひいなにだよ。あの子は巫女だからね、それもとびきり優秀な」
「…で、何の用だ」
「頼みがある」
「言ってみろ」
「レテ川の水を少し分けてほしい」
ディウエスの眉がぴくりと動いた。
「何に使う気だ?」
「植木にかけるとでも思うのか?レテ川の水の使用方法など、一つしかないだろう」
皮肉げにヴァロマは唇を歪めた。
「に何かあったのか?」
ディウエスはと面識があった。修行の一環と称してヴァロマが彼の国に放り込んだことがあったのだ。彼の世界は生身の生き物が来るところではない。戻れなくなっても知らんぞと脅したが、大丈夫だとヴァロマはいたってのんきに構えていた。
確かに大丈夫だった。
どころか、彼女は彼の妻と瞬く間に仲良くなり、妻は帰りに飼っていた頭が三つある犬に送らせたほどだった。
「あるかもしれない。だから、保険として持ってゆきたい」
「あまり勧められんな。アケロンやステュクスは生身の者が飲んでも命に別状はない。だいぶ性格は変わるとは思うがな。だが、レテは確実に廃人になるぞ」
「そのまま飲ませたりはしない。不必要な記憶だけを消すように作り変えるさ」
引く気のないらしいヴァロマにディウエスは肩をすくめる。
「そこまで言うなら好きなだけ持っていけ。しかしそこまで手間をかける必要があるのか?連れ帰ってから消せばいいではないか」
「そうできたらもちろんそうするつもりだ」
「…お前、何が不安なんだ?」
「他の男に盗られることでしょう」
答えたのはヴァロマではなかった。
「プロセルピナ」
するすると衣擦れの音をさせながら、プロセルピナ―ディウエスの妻だ―は二人に近づいた。両の腕には盆を捧げ持っている。乗っているのは酒杯が3つ、それに葡萄酒だった。
プロセルピナは葡萄酒を注ぎ、夫と客人の前に置く。
「盗られそうなのか?」
一口飲んでディウエスは尋ねた。途端にヴァロマは嫌そうな表情になる。
「不必要なのは、男の記憶か」
ディウエスが納得したように頷いた。
「わたしはひいなにあたう限りの選択と自由を与えた。知識と技と愛情もだ。わたしはあの子が可愛いのだよ。生半な男に渡す気は毛頭ない。ガイアの息子でなければ尚更だ。だが、誓っているからな…あの子に。天と地と海にかけて、あの子の意志を止めたりはしないと」
「帰りたくないと言われたら、使うわけか。巫女の資格を失っていても?」
「そんなことになったら、相手の男がどうなるかぐらい、はわかっているでしょうよ」
プロセルピナはあきれたように肩をすくめた。
「…プロセルピナ、どうして君はそうわたしに突っかかるんだ。なにが気に入らない?」
ヴァロマが軽く眉をしかめるた。
「あら、ご存知だと思っておりましたが?」
プロセルピナはすました表情で受け流した。
「見当がつかないが」
「まあ」
ころころとプロセルピナは笑う。
「わたくしものことを可愛いと思っていますのよ。だから、あの子を縛りつけようとする貴方のやりようが気に入りませんの。それが理由です」
「縛ってなどいない」
むっとしたようにヴァロマはプロセルピナを睨む。
「まあ、では御自身で気付いておられないのね。貴方がに示す寛容は、それそのものがあの子を囲う檻なのだと」
「…意味がわからないが」
「貴方はお優しくていらっしゃるから」
困惑するヴァロマにプロセルピナは優しげに微笑んだ。
「あまり、苛めないでおきましょう。わたくしが悪者になってしまいますもの」
「プロセルピナ」
ディウエスは妻をたしなめるように声をかける。
「貴方はに多くを与えたわ。それはわたくしも否定したりしない。貴方の掌の中であの子は素晴らしい才を持つ巫女になった。でも、あの子は巫女としては完全じゃないわ。それは貴方もわかっているはず。あの子は半神がいないのですもの。貴方は仮の半神。いずれあの子がこれと決めれば貴方の役割は終わる。ねえ、でも、そんな気はないのでしょう?」
「………」
「貴方は、多くを示し、選ばせることであの子からの選択をすべて奪っているの。なぜなら、貴方はあの子が貴方以外を選ぶことなどないと決めてかかっているから。貴方のやりようは、宝箱の中にしまって他に目を向けさせないようにすることに比べれば、はるかに寛大に見えるかもしれないけれど、本質は同じことですわ。声に出さずにこう言っているの、「わたしを選べ」とね。そしてあの子も、そんな貴方の目論見を薄々察している。だから可哀そうなは、恋をしても誰にも言うことができない。言ったら、その不幸な殿方は貴方に目の敵とされるに決まっていますもの」
「そんなことは…!」
音を立ててヴァロマは立ち上がった。
「お怒りになるのは図星を指された証拠、と申します。わたくしの言が的外れならば、笑いとばしておしまいになればいい。いつもの貴方ならばそうしているはず」
怯まず返すプロセルピナに、ヴァロマは拳を握って叫んだ。
「わたしにどうしろと!?」
「そのようなこと、わたくしにわかるはずがございません。貴方は彼の地に赴かれて、懸念していた事柄を見出すかもしれない。その時どうするかは貴方が決めることですわ。貴方はわたくしたちより一段高きところにいらっしゃる方。やりたければいくらでもごり押しできるのですから」
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夜明けと共に馬鍬砦を後にしたアラゴルンたちは、日の高くならないうちにおぼろ林の暗がりに入っていった。黒々とした影は太陽の光を通さず、恐怖が一行を襲った。
一行の行く手に巨大な石が道しるべのように立っていた。馬たちはその石のそばをどうしても通ろうとはせず、乗り手たちは馬を下りて手綱を引いて馬の先に立った。
峡谷の奥深くに入り込む。そこには切り立った岩壁があり、岩壁には入り口がぱっくりと口を開けていた。その入り口からは、灰色の靄のように恐怖が流れ出ていた。
一行はためらった。
「忌まわしい入り口だ。そしてこの先には私の死がある。それでも私はあえてここを通ろう。だが、馬はどれも入ろうとはすまい」
ハルバラドが言った。
「だがわれらは入っていかねばならない。それゆえ馬たちも入らねばならないのだ。何故と言えば、もしこの暗闇を通り抜けられたとすれば、その先には何十リーグの道のりが横たわっている。そしてそこで失われる時々刻々はそれだけサウロンの勝利を近いものにするのだから。さあ、後に続け!」
アラゴルンは前を見据えて歩き出した。彼の意志の力はドゥネダイン全員とその馬たちを否応なくついてこさせるものだった。野伏たちが中に入ってゆくのを見ながら、は大きく深呼吸をした。よしっと小さく呟くと、彼女は暗がりの中に消えていった。
レゴラスが怯えるアロドをなだめて後に続くと、最後にはドワーフのギムリだけが残った。
「こんなことは聞いたためしがないぞ!」
膝をがくがくと震わせて、ギムリは自分に腹を立てていた。
「エルフが地下に入っていこうっていうのに、ドワーフにその勇気がないとは!」
そういうとギムリは中に飛び込んでいった。
松明の揺らぐ炎の他、明かりのない道は、ブーツが土を踏みしめる音と馬のひづめ以外の音はしなかった。
(たくさんいる…)
が神経を研ぎ澄ますと、仲間たちとドゥネダインの生ある者の影法師の他に多くの影が現れだしたのがわかった。それらは冷たい気配だけを発しながら徐々に数を増やしてゆく。
(これは…結構きついかも。でも黄泉路をたどることに比べれば、障害物になるものがないだけましだと思わなきゃ)
周囲を取り囲む死者の影は敵意をいえるほどのものを発しているわけではなかった。彼らはただ草の葉が擦れ合うほどの小さな声で囁きながら(しかし数が多いために結構な音量となっているのだが)自分たちと変わらぬ速度で歩いているだけなのだ。しかし彼らがとうに温かな血肉を失っているということが、異様な圧迫感を生むのだ。ある意味死者には慣れているにとっても息苦しいと思えるほどに。
(他のみんなは…息苦しいどころじゃないと思うけど)
前には馬の手綱を手に黙々と歩くドゥネダインたち。後ろから見る分には怯えているようには見えないが、しかしやはり背中が強張っている。後ろをちらりと振り返ればギムリがこけつまろびつといった様子でついてきていた。最後尾は双子のエルフたちだ。彼らはさして恐れているふうでもなく、しかしさすがに表情を引き締めていた。のすぐ後ろにはレゴラスがいた。彼の存在に意識を向けた途端、顔が赤くなるのが自分でもわかった。
今朝、出発の準備のために外に出るとすぐにレゴラスと顔をあわせる羽目になったが、昨夜何度も自分に言い聞かせたように、いつもどおりにおはようと言うと、レゴラスは一瞬自分をみつめ、しかしすぐに挨拶を返してきた。空より青い瞳がわずかに曇って見えた。
(そりゃ、わたしだって…)
はこっそりため息をついた。
昨夜は心底驚いたし、怖かったし、裏切られたような気分にもなってしまったのだが、彼女も健全な女性だ。好きな相手に好きだと言われて嬉しくないわけがないのだ。が、自分が健全ではあっても普通とは言いがたいと自覚している彼女としては、それを受け入れるのはできかねることだった。
は巫女だ。
自分で選んで、自分で決めた道だ。
もちろんそれは利益があってのことだったが、それと同じくらい、場合によっては利益以上の不利益があることも知った上で選んだのだ。
そもそも自分に恋ができるなどと思ってもいなかったし、必要だとも思っていなかった。
にとってもっとも近しい他人の異性がヴァロマだったせいもあって、人間の男にときめくことなど無理だろうと思っていたからだ。
容貌にしろ能力にしろ、比べるのもおこがましいほどかけ離れた輝かしい存在。
勝負になるものではない。
だから。
は一生、恋はできないのだと思っていた。
それは寂しい生き方だと、言われてしまうことなのかもしれない。
しかし他にどうしようもなかったし、はそれを寂しいとは思っていなかった。
家族がいて、友人がいて、ヴァロマがいる。それで充分だった。
それなのに―
レゴラス。
ガイアに行ってもいいと言い切ってくれたレゴラス。
エルフなのに、人間の自分を好きだと言ってくれたレゴラス。
喜怒哀楽がはっきりしていて、自分よりも何倍も生きているだろうに、子供のようなところがあるレゴラス。
愛しかった。
愛しくて愛しくて仕方がなくなっていた。
そんな感情がわきあがってきていても、何度も否定して、何度も捩じ伏せてきた。
勘違いだ、と。
一人だと思うから、不安だと思うから、彼が優しくしてくれるから、いつもより早く脈打つ鼓動を恋だと錯覚しているだけなのだ、と。
そうかもしれないと納得している自分がいる一方で、そうではないと叫ぶ自分もいた。
今は「勘違いでもいい」という思いが大勢を占めている。
レゴラス。
愛しい、愛しい、愛しい、レゴラス。
大好き。
もしもこの心に渦巻く声が聞こえてしまったら、あなたはきっと訳がわからないと怒るでしょうね。
意地になっているだけじゃないかって。
そうだね。
わたしは意地を張っているの。
本来はわたしがいる予定なんてまったくなかったはずのこの地に、わたしが来てしまったことで本来の流れと違った歴史ができてしまっただろう。
本来の流れがどうなのかはわたしにわかるはずもない。
でも。
きっとナセにはそれがわかる。
「わたし」によってもたらされたアルダの変化。
それがどんなものであれ、わたしは起こしたことの落とし前をすべてつける。
それが、人と神との境界に在る、巫の義務なのだから。
それがわたしの生き方なのだから。
必要なら、この命をもってでもあがなうのだ。
総勢約四十人の生者の一行は黙々と歩んでいた。
松明の明かりがほんのわずか、暗闇を切り開くが、それは何の安堵ももたらさない。
生気のない影が横に後ろにさやさやと音を立てて並び、ついてくる。
ここは死者の道。
死が時を刻んだところ。
生者は入れないところ。
ここは死刻。
ここは死国。
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