立てよ、立て、セオデンの騎士らよ!
捨身の勇猛が眼ざめた、火と殺戮ぞ!
槍を振るえ、盾を砕けよ、
剣の日ぞ、赤き日ぞ、日の昇る前ぞ!
いざ進め、いざ進め、ゴンドールに乗り進め!
それぞれが求めること
ミナス・ティリスには恐怖が満ちていた。
七つの層に守られている白い石の都は、下の層から徐々に、徐々に押されていた。
砂糖の塔に群がるありのように、敵は途切れることなく都を襲う。
あちらこちらから、火の手が上がっていた。
そして空からは絶望が襲う。
ナズグルを乗せた翼のある獣が都の上空を旋回していた。
彼らの声は悪意に満ち、死を呼ぶ叫びが空気をつんざいている。
遅かったのか、とエオウィンは思った。
女だからという理由でただ待つだけの役割には我慢が出来ず、伯父にも兄にも内緒で騎士に混じって馬を進めてきた。同じように、身体が小さいからという理由で置いていかれることになったメリアドクを連れて。
これで死んでも、悔いはない。
男たちが戦場を走り、その勝敗の知らせを待つだけに比べたら。
その知らせが明るいものである可能性は果てしなく低いのだから、なおさらだ。
それがわかっているからこそ、エオウィンはじっとしていられなかった。
自分でも消極的な果敢さだと思った。
世界が暗さを増してきて、望みはほとんど費えている。
ならばせめて死に場所くらいは自分で選びたい、そんな程度の意味しかない。
穏やかな生活も戦場を駆けることも、望む人の愛すら手に入らなかったエオウィンは、ひっそりと姿を変え、デルンヘルムとして伯父王についてきた。
デルンヘルム、冑に隠された者として。
初めて見るミナス・ティリスは焔を上げていた。
王はどうするのだろう。
遅きに失し、マークに戻るのだろうか。
エオウィンがそう考えていると、セオデンはミナス・ティリスから視線を転じ、騎士らに向かって声を張り上げた。
セオデンの叫びに騎士らは応える。
角笛が吹き鳴らされた。
エオウィンも叫ぶ。メリアドクも叫んでいた。
いざ進め いざ進め ゴンドールへ乗り進め…!
嵐のような轟音を立てて、ローハンの馬は戦場を駆ける。
メリーは無我夢中で剣を振り、時にはエオウィンに代わって手綱を繰った。
オークの軍勢を蹴散らし、ハラドを乗せた大きな生き物、話に聞いていたが、本物をこの目で見ることになるとは思いもよらなかった「じゅう」を、ロヒアリムが足を狙い、頭を狙って打ち倒すさまを眺めた。
一頭のじゅうがメリーたちのいる方向に倒れてきた。
エオウィンは避け切れず、馬ごと転倒する。
と、空から恐怖を呼び起こす嫌な叫び声を上げる生き物が飛びきたって、大きな膜のような翼と鍵爪のついた足で馬ごと騎士らをなぎ倒した。
セオデンの愛馬、雪の鬣は前足立ちになるとどうと倒れた。セオデンは雪の鬣に押しつぶされ、逃げることが出来なくなった。
怪鳥の上に乗っている真っ黒いマントを着て、鋼の冠を被った者はメリーには見覚えがあった。
風見が丘でフロドを刺した、指輪の幽鬼。それも、九人のうちで最も力のあるといわれているアングマールの魔王だ。
魔王は怪鳥にセオデンを喰らうよう命じた。
メリーがよろよろと身を起こすと、怪鳥とセオデンの間にエオウィンが立っていたのを見つけた。
「立ち去れ、汚らわしい化け物め!腐肉漁りの頭よ、王に手を触れるな!」
言うとエオウィンは鋭い牙の生えた口を持つ怪鳥の首を切り落とした。
くずおれてゆく怪鳥からさっと飛び降りた魔王は真っ暗で表情の見えない顔から憎しみの眼差しを投げかけたようだった。
「ナズグルと餌食の間の邪魔をするな。さもなくば貴様の番になっても貴様は殺さぬぞ。暗闇の彼方にある嘆きの家で、貴様の肉は喰い尽され、縮み上がった心の臓だけが瞼なき御目の前にむき出しに置かれるのだ」
魔王は棘のびっしりついた矛を打ち下ろした。
二度、三度とエオウィンは裂けたが、次には持っていた盾を砕かれた。衝撃で彼女は後ろに倒れる。
魔王は冑ごとエオウィンの顔をつかむと、毒の含んだ声で嗤った。
「愚か者め。生き身の人間の男にナズグルは殺せぬぞ」
この間、メリーは恐ろしさに動くことが出来なかった。
「王の従者よ。お前は王の側に留まらなければいけない。『父ともお慕い申し上げます』と言ったじゃないか!」
しかし身体は彼の意思に反して、ただぶるぶると震えるしかできなかった。
黒の総大将の死の凝視が注がれる恐怖を思うと、逃げ出してしまいたいと心の底から願ってしまうのだった。
だが、メリーの目にエオウィンが苦痛に顔を歪めるのが映ると、彼は恥ずかしさで一杯になった。
(この人は死んではいけない。こんなに美しく、こんなに身を捨てて。少なくとも助けを知らずにただ一人死んではいけない…!)
そして不意にメリーはホビット族特有の、燃え立つには時間がかかるが安逸とした生活の中にあっても消えることのない勇気が目覚めた。
メリーは剣を握り締めると、エルフにも負けないすばやさと静かな足取りでナズグルの首領の後ろに駆け寄り、力任せに剣を突き刺した。
メリーの剣は穢れた黒いマントと鎖帷子の下まで貫いて、強い膝の背後の筋肉を刺し通していた。
魔王は激しい苦痛の悲鳴をあげてエオウィンを手放した。
エオウィンはよろけながらも立ち上がり、冑を脱いで宣言した。
「わたくしは男ではない!」
束縛から解き放たれた彼女の波打つ金の髪が風になびいた。
エオウィンは最後の力を振り絞って、剣をナズグルの冠とマントの間に突っ込んだ。
弾かれたように剣は砕け、エオウィンはふらりと倒れた。
だが一方、冥王の手足、最も力ある存在として君臨していた幽鬼の王、絶望と恐怖の権化たるアングマールの魔王の鋼の冠は歪み、ひしゃげ、黒いマントは風の中の塵と混じり、最後の叫び声を残して消え去った。
エオウィンとメリーは無言のまま、ふらつく身体を引きずってセオデンの側まで行った。
セオデンは苦しい息の下で静かに口を開いた。
「エオウィン、わが娘よ。そなたがわかる」
エオウィンは涙を浮かべ、懸命に微笑もうとした。
「メリアドク、マークの騎士よ」
メリーの顔はもう涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「もう、目が見えぬ」
「お助けします」
「殿、セオデン王!」
すがりつく二人にセオデンは微笑を浮かべた。
「もう助けられた。予の身体は砕けてしもうた。予は先祖たちのところへ行く。彼ら偉大な父祖たちと一緒でも、余はもうわが身を恥じることはない。陰惨な夜明け、そして嬉しい昼ぞ。やがて金色の夕暮れが訪れよう」
「お許しください。叔父上の言いつけをわたくしは破りました。馬鍬砦を離れ、ここまで来たことを」
「殿のお言いつけを破りながら、殿へのご奉公になしたことといえば、お別れに際してただ泣くほかない仕儀で」
「嘆くでない。許しているぞ。偉大なる勇気が拒まれることはないのだよ。これからは幸せに暮らしてくれ。笑顔でな」
そして、マークの王はひっそりと息を引き取った。
「これは…どうしたことだ」
エオメルが馬を駆けさせて生き残った王家の騎士を率いて戻ってきた。
そこにはすでに事切れている王と、王を守るように両側に覆いかぶさっているエオウィンとメリーの姿があった。
二人も、ぴくりとも動かない。
彼は愕然として動くことも出来ず、血の気を失って突っ立っていた。
徐々にエオメルの心に冷たい激しい怒りが湧き上がる。そして彼はものに取り憑かれたかのような異常な興奮状態に陥った。
「エオウィン、エオウィン!どうやってここに来たのだ。何という狂気の沙汰だ。それとも悪魔の仕業か!?死だ、死だ、死だ!死がわれら全員を奪うのだ!」
エオメルは押し留めようとする王家の騎士たちの言葉も聞かず、馬に拍車をかけると、ローハンの軍勢の先頭に駆け戻り、角笛を吹き鳴らして大音声で進撃を命じた。
「死だ!進め、進め、破滅に向かって、この世の終わりに向かって!」
エオメルの呼びかけと共にローハンの軍は動き始めた。大きな津波のように次第に速さを増し、彼らの戦いの場は彼らの死せる王の周りをかすめ通って去り、蹄の音を轟かせて南の方に駆け去っていった。
今やマークの新王となったエオメルが率いる騎士らの攻撃は凄まじいものとなった。
エオメルの怒りがロヒアリムのすべてに乗り移ったように、彼らは前にもまして目の前の敵を屠っていくのだった。
しかしモルドールの軍勢は数が多く、彼らは少しずつその数を減らしていった。
日がわずかに高くなり明るさが増してゆくと、ゴンドールの城壁の下で戦っていた歩兵や騎兵がローハン軍と合流しようと東へ進んでいた。オークやハラドの軍勢がそれを阻み、またローハン軍の背後を突こうと進行を変える。
白い都に、ペレンノール野に、新たな恐怖が起こったのはそれからさほど時をおかなかった。
ペレンノールはランマス・エホールという外壁によって守られている。ミナス・ティリスから最も離れているのは北東で、四リーグの距離があるのだが、一番近いところは南方にあり、一リーグあるかどうかというところだった。そこはアンドゥイン河が大きく湾曲しているため、外壁は大河の真際に建てられているのだ。
壁の外には南の領地から河をさかのぼって来る船のための船着場があった。
進撃を続けていたエオメルは南方の外壁から一マイルも離れていないところにいた。
外壁とロヒアリムの間にはまだ数限りない敵がおり、背後には新たな敵が押し寄せてきていた。
ゴンドールの援軍はローハンから完全に切り離され、彼らは孤立無援だった。
そこへアンドゥインをさかのぼって来る何隻もの艦隊が目に映る。
攻撃を続けながらも、彼は怒りに満ちた目で風をはらんで近づいてくる黒い帆の船を睨みつけた。
(進退もここに窮まったか…)
さらなる援軍の到着に、モルドール軍の攻撃は勢いを増した。
エオメルは角笛を吹かせてここまで来られるすべての者を終結させようとした。
(ならばここを最後に盾ぶすまを築き、最後の一人まで闘って歌に残る功をペレンノール野に立ててみせよう。たとえ西の国に一人として生き残る者がなく、マークの最後の王を憶えている者がいなくなるにしても!)
ここにきてエオメルの覚悟は決まった。
(よ。私の愛する白鳥の乙女よ。もしも生きてここにたどり着けたのなら、死者すら見通すその目で私を見つけ、悼んでくれ。
だが、もし貴女が先に斃れていたら――
必ず貴女を見つけ出し、父祖が、セオデン王が、父母が、セオドレドが、エオウィンが待つ地へ、貴女も連れてゆく!)
エオメルは絶望を嘲笑うように黒船を眺め、挑むように剣を振り上げた。
しかし次の瞬間、エオメルは戦場の最中にあることを忘れるほど驚くこととなった。
さらには喜びが溢れてきて、彼は剣を放り上げると、笑いながら落ちてくる剣を受け止めた。
騎士らの視線も黒船に集る。見張り台に立つ人と、その旗に。
一番先頭の船の見張り台には翻る旗を持つ白い衣の人影があった。
黒い地色の旗にあるのはゴンドールの花開く白の木の紋章。そして長い年月の間身に帯びる王侯がいなかった、木の上に輝く七つの星と高い王冠の、エレンディルの印だ。
それが意味するのは一つ。
「アラゴルン殿!」
思いがけない援軍の到着にロヒアリムとゴンドールの軍勢は力を取り戻した。
反対に味方が乗っているのだとばかり思っていた海賊船に敵が満載されていたモルドールの軍勢は周章狼狽し、陣形を崩す。
見張り台に立つ人影が旗を大きく打ち振ると、一斉に船から人々が飛び降りてきた。
アラゴルンとレゴラス、ギムリ。
ハルバラドと北の野伏たち。
エルラダン、エルロヒアの双子たち。
レベンニン、エシア、ラメドンと南の諸封土の戦士らが。
船の帆は黒く、旗もまた黒かった。
そのせいで旗持つ人の白い姿は遠くからも目立った。
彼女は―エオメルはその人影が「彼女」だという確信があったが―一瞬光に包まれると、白い姿を空中に躍らせた。
白い衣は白い翼へ。
少女の姿は白鳥に。
「アルフィエル!」
「白鳥乙女!!」
エオメルをはじめとする王家の騎士たちの間で歓声が沸き起こった。
手にする剣を、槍を振って少女を讃える。
彼らの多くはエオメルと共にアイゼンガルドへ向かっていた者たちだ。白鳥のを直に知っている者が多いのだ。
「白鳥が来たぞ!白鳥の乙女が勝利を運んできたぞ!」
は足で旗竿をつかんで戦場を飛んだ。
アラゴルンと船から降りた者たちを追い越し、ローハン軍の頭上を飛び越え、都に向かって風を切る。
矢や攻城櫓から飛んでくるものに当たらないよう距離をとりつつ、白鳥は大きく弧を描いて都と戦場を一周した。
こうして白鳥が再び野伏の首領の上まで戻ってきた時には、外壁の北東側、船着場から最も離れているところでも援軍の存在が知られることとなった。そして彼らを率いるのは失われた王権を持つ者であるということも。
戦いは、その日、日暮れまで続いた。
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