ドル・アムロスのイムラヒルは執政家の縁者にしてゴンドール諸侯国の中でも最も有力な大公だった。
旗印の紋章は船と銀の白鳥。ドル・アムロスはその昔、ロスロリアンのエルフたちが船出したベルファラスの地にある。
彼の一族にはヌメノールの王家とそこから派生した執政家とは違うが、エルフの血が流れているという言い伝えがあった。
籠の中の鳥は
「たとえモルドールの全軍勢がわれらの間に立とうと、いつか戦場でわれらは再び相会うかも知れない。角笛城で、私はあなたにそう申し上げましたよ」
合戦が終了したが、まだ土埃の治まらない戦場でアラゴルンとエオメルは再会した。
レゴラスとギムリもいる。
四人とも血で汚れてはいるが、彼ら自身が流したものは一滴もなかった。
「たしかに、そう言われました。しかし望みはしばしば裏切られるものであり、それに私はあなたが予見の力のある方とは知らなかったのです。ですが思い設けぬ助けは二倍も嬉しいものですし、友人たちの出会いがこれほどまで喜ばしかったことはかつてありませんでした。また、これほど時宜を得たことも」
エオメルはアラゴルンとしっかりと手を握ると、空を振り仰いだ。
上空ではまだが旗をなびかせて飛んでいる。
合戦の勝利、友との再会、そしてなにより愛する娘が生きていたことが、大きな喜びとなって彼を満たした。
「しかし、アラゴルン殿。あなたの来方は決して早すぎはしません。われらにはすでに多くの損失と悲しみがふりかかったのです」
表情を翳らせてエオメルは剣の柄を力を込めて握った。
その時騎馬の一隊が近づいてきた。
先頭を走る騎士が大声で呼びかける。
「そちらにおられるのは、ゴンドールとエレンディルの印を掲げている方だろうか?」
アラゴルンは旗印から彼がドル・アムロスの大公イムラヒルだとわかった。執政デネソールの義理の弟だ。
彼が手綱を引き、馬から降りるのを待ってアラゴルンはイムラヒルに向き直った。
「私はアラソルンの息子アラゴルン。アルノールのドゥネダインの長。そしてイシルドゥアの世継ぎです」
イムラヒルはアラゴルンの顔を眺めると、驚いたように目を見開いた。
ついで柔らかな苦笑が浮かぶ。
「わたくしはアドラヒルの息子イムラヒルと申しまして、ドル・アムロスの大公です。驚きましたな。わたくしは若いときにあなたに良く似た方を見知っているのです。先の執政、エクセリオン二世は出身の遠近にかかわらず功業の多い者には高い地位と褒美を与えておりました。特にソロンギルという将を重用しておりましたが…あなたがイシルドゥアの末裔でなければ、ご血縁の方だと思うに留まったでしょう」
アラゴルンの顔にも苦笑が浮かんだ。
「覚えておられましたか。お会いしたのは一、二度だけでしたが」
二人のやりとりにエオメルも記憶を探るように眉間にしわを寄せた。
「…ソロンギルといいますと、センゲル王の時代に王に仕えた功多き野伏の将がいたと聞いています。それもあなたなのですね、アラゴルン殿。ヌメノール人はわれらよりも寿命が長いと聞き及んでいましたが」
エオメルは尊敬するアラゴルンと祖父の時代の英雄が同一人物だと知って、感慨深げに溜息をついた。
「――――!!」
「?」
突如響いた悲鳴のような鳴声に、男たちは顔を上げた。少し離れた上空でゆったりと翼を動かしていたが、追われるようにアラゴルンたちのところへ飛んでくる。
アラゴルンが腕を伸ばせば手が届く距離で停止すると、旗を受け取ってもらうのをもどかしげに待つ。そこで元の姿に戻るのかと思いきや、少女はまた一声鳴くと元来た方へと飛んでいってしまった。
「アラゴルン、私も行ってくる。はね、『メリーとエオウィン姫がいた!』って言ってましたよ」
「何だって!?」
レゴラスは通訳するだけしてしまうとアロドに跨り、後ろも見ずに走り去って行った。
残された男たちも、一瞬遅れて馬上に戻った。
旗をアラゴルンに返したはセオデンの亡骸を運ぶ王の騎士たちのもとへ真っ直ぐ戻った。
騎士たちは急降下した白鳥が少女の姿に戻るのを、驚きつつも敬意を持って迎える。
「メリー」
青ざめながら仲間の小さい人に駆け寄ると、メリーを抱きかかえていた騎士はにもよく見えるよう膝をついた。
「メリアドク殿はご無事です。気絶しておりますが、大きな怪我はございません」
説明を聞いたは泣き笑いのような微笑を浮かべてメリーの顔を覗き込んだ。と、はっと表情を強張らせてメリーの右手をとって優しくさする。
「エオウィン姫とセオデン王は…?」
が振り向くとセオデンの担架に付き添っていた騎士が口を開く。
「殿は名誉とともに父祖のおられる地へ逝かれました。エオウィン様は…生きておいでです。死と隣り合っておりますが」
はメリーの手を離すとセオデンの担架に近寄りじっと亡き老王に目を注ぐ。ややあって彼女は深々と頭を下げた。
続いてエオウィンに近づき、そっと頬に触れる。
エオウィンの肌からはぬくもりが消えかかっており、危険な状態だということがわかった。
血はほとんど流れていないが応急処置程度の知識しかないにはどうすることもできなかった。おそらく、怪我の程度はひどくないのだろう。問題は別のところにあるのだ。
(この、二人に巣くってる穢れをどうにかすれば、楽になるはずだわ。特に、エオウィンの方は)
の目にはメリーの右腕とエオウィンの全身に黒い霧のようにまとわりつく影が見えていた。時間を置けば置くほど広がってゆく類のものだと彼女の経験が告げている。
は顔を上げて騎士に訪ねた。
「これからどうなさるのですか。お医者様が診てくださるのですか?」
「はい。ドル・アムロスの大公が城内に連絡を入れてくださっております。私たちは都の療病院に向かいます」
「そうですか。では、急がなくてはなりませんね」
騎士は深く頷くと担架を運ぶ足取りを速めた。
しばらくするとレゴラスが到着した。少し遅れてアラゴルンとギムリが。エオメルとイムラヒルは近衛の騎士を引き連れている。
「何と、またしても戦場に乙女の姿を見ることになろうとは…!いったいそなたは何者か。ロヒアリムには見えないが」
イムラヒルはを見るやそう叫んだ。
戦場で女性をみることなどないのが普通である。エオウィンを見つけたときも驚いたが、彼女は鎧を身にまとっていた。戦う意志あってのことだろうと驚きながらも哀れに思ったが、目の前の少女はエオウィンよりもさらに若く、旅装束の上に裾の長いローブを身にまとっているだけだ。
肌の色は黄身がかっていて、顔立ちも今まで見てきたどこの族とも違う。
濃い茶色の髪と幼く愛らしい姿、悲しみに気を張り詰めていても消えることのない凛とした優しい雰囲気とが相まって、上等のクリーム菓子を思わせた。
少女は急に大声を上げたイムラヒルに気を悪くした様子もなく見あげると、胸に手を当てて一礼した。
「わたしはと申します。アルフィエルとも呼ばれております。わたしの故郷はガイアといいまして、ここからとても遠いところにあるのです。裂け谷を出発した九人の方々に途中で加わらせていただきました。失礼ですが、あなたはどなたでしょうか」
イムラヒルは馬から降りると手綱を従者に渡した。
アラゴルンたちも下馬して担架に並ぶように歩く。
「これは失礼。わたくしはドル・アムロス大公の位にあるものでイムラヒルと申す。ガイアというのは初めて聞きました。それよりも、先ほどエルフ殿が旗持ちの白鳥をあなたと同じ名で呼ばれましたが?」
は一瞬迷ったが、隠してもそのうち知られてしまうだろうと思い直して正直に答えることにした。
「ええ。あれはわたしです。わたしは巫女なんです。巫女というのは魔女の呼び名の一つだと思っていただければ差し支えはありません」
が言うとイムラヒルは目を大きくした。
「何と…!ミスランディア以外の魔法の使い手には初めてお会いします。しかもこれほどお若い方が。もっとも魔法使いは見かけどおりではないといいます。老人の姿でいるのも、乙女の姿でいるのも、本質的には変わらぬということでしょうな」
イムラヒルの言いに、の表情が固まった。
彼以外の面々からは、言ってしまった、という空気が流れている。
「…いえ、あの、わたしは…」
「イムラヒル殿。は人間の乙女です」
エオメルは思わず口を挟んでしまった。
「人間とな?」
「はい。私も初めて聞いた時には驚きましたが、は間違いなく人間の乙女で、年も19なのです。ガイアなる地では、人間にも魔法の使えるものがいるのだとか」
「19…。わが娘ロシリエルの一つ下になるのか。それにしても…」
困惑したようにイムラヒルはを眺めた。
「どうせ、わたしは童顔ですよ」
ぼそりと不貞腐れたようには呟いた。
「それよりも、。また貴女とお会いできて嬉しく思います」
エオメルが話を変えようとに近づく。
「少々やつれたようですが、やはりアラゴルン殿のとられた道のりは厳しいものだったのでしょうね。貴女に二度とお会いできないだろうと思った時には心臓が張り裂けてしまうかと思いましたが、こうして無事な姿を拝見できてようやく安堵いたしました」
「エオメル様もご無事で良かった。でも…」
は小さく微笑を浮かべたが、すぐにその表情は陰る。
「申し訳ありません。メリアドク殿がわれらについてきていたとは、私も知らなかったのです。それに、エオウィンも…」
「エオウィン姫は置いていかれたくなかったのでしょう。ずいぶん思いつめていましたから…」
「そう…だったのですか?」
「気付いていなかったのですか?」
「恥ずかしながら、少しも。妹は貴女に何を話したのですか?」
はひどく悲しそうな表情でエオメルを見上げた。
「籠の鳥」
少女の口から出た言葉は短かったが、エオメルを動けなくするには充分だった。
愕然としたまま立ち止まったエオメルにも歩くのを止めて向き直った。
静々と運ばれる担架の列はすぐに彼らを追い越して行く。
イムラヒルは目だけでアラゴルンに礼をすると担架についていった。
その場にはアラゴルンとギムリ、レゴラスも留まる。
「馬鍬谷で、わたしたちはエオウィン姫にとてもお世話になりました。その前も、姫はエドラスでセオデン王のお世話をなさっていた。それ以前のことはわたしは知りませんので推察するしかないのですけど、セオドレド様やエオメル様がいらっしゃらなかった時には、姫が国民を取りまとめられていたのではないですか?」
「その…通りです」
「姫は賢明な方です。それが大事な役目であることは承知していらした。だけど、その役目は時にやるせなくなるものなんです。どれほど心を砕いて務めても、少しも報われないように思えてしまうから。いえ、報われるためにするものではないのでしょうけど、でも、何もしていないように思えてしまうんです。エオメル様、あなたは平原を馬で駆り、オークを掃討すること、ローハンの敵を討つことがお役目ですね。これは、わかりやすいといえばこの上なくわかりやすい役目です。少なくとも成果が目の前に見えるという点で言えば。
剣を振るって国を守ること。戦えない者たち、戦うためにでてゆく者たちのために家を守ること。どちらも等しく大切なことです。比べるようなものではありません。ですが、王が弱ってゆかれるのを間近にし、館の中で一人、己と向き合わなければならなかった姫がどれほど望みを無くしたことか。
姫は仰っていました。何かを成し遂げたい。揺るぎない功がほしい。何もできない自分が歯がゆいと」
エオメルは片手で顔を覆い、唇を強く噛み締めた。
「騎士たちと共にお連れするべきだった、とは申しません。それが難しいことくらいはわたしにだってわかりますもの。エオメル様、あなたがこのことで責任を負うとしたら、エオウィン姫が悩んでいるということに気付けなかったことに対してです」
エオメルの手の間から涙が幾筋も流れ落ちた。
はばつが悪そうに目を伏せる。
「申し訳ありません。生意気なことを言って」
アラゴルンはわしわしとの頭をかき混ぜると、エオメルの前に進み出て肩に手を置いた。
「エオメル殿。今はまだ嘆かれる時ではありません。ともかく姫はまだ生きているのだから。療病院へ急ぎましょう。多分私には姫の身体を癒し、暗い谷間から姫を呼び戻す力があるだろうから。しかし姫が目覚めて見出すものが、望みであるのか、はたまた絶望か忘却か、それは私にはわからないが」
アラゴルンらとエオメルは人々の歓声をくぐって城塞を登ってゆく。
しかしアラゴルンは旗を巻いてしまっていたので人々は彼が何者か知ることはなかった。
そして人々は長い間伝承でしか聞いたことがなかったエルフとドワーフに目を丸くし、何よりゴンドーリアンともロヒアリムとも違う肌の色をした小さな娘は何者だろう。なぜ戦場から来たのだろうかと訝しげに話し合うのだった。
「ガンダルフ!」
アラゴルンは療病院の入り口でイムラヒルに追いついた。そこにはガンダルフも居合わせており、は思わず大声で叫んで白の魔法使いに駆け寄った。
「ガンダルフ!ガンダルフ!良かった、すぐに会えて。お話したいことがあるんです。出来るだけ早く。フロドのことで」
は先ほどまでとは打って変わって泣かんばかりの表情になっていた。
ガンダルフは厳しい表情で頷くと少し待つように言った。
「アラゴルンよ、ミナス・ティリスの執政も今は療病院おられる。ファラミア卿はたちの悪い投げ矢で傷を負うたのじゃ。さよう、今はファラミア殿が執政じゃ。というのはデネソール候はすでに身罷り、その墓所は灰燼に帰したからじゃ」
ガンダルフは一部始終を話して聞かせる。
「それでは、せっかくの勝利の喜びも摘み取られ、悲しみもてあがなわれたのですね。ゴンドールとローハンの双方が一日にしてその君主を奪われたのなら。ロヒアリムはエオメル殿が統治される。ミナス・ティリスはアラゴルン殿が治めていただけるのだろうか」
イムラヒルが言うとアラゴルンは首を振った。
「いいえ。イムラヒル殿。私は今のところ野伏の長にすぎません。ファラミア殿が目覚めるまで、ドル・アムロスの大公に統治していただきたいと思います」
イムラヒルはそれを受けると一同は療病院の中に入っていった。
「馳夫さん!それに!レゴラス!ギムリ!」
中に入ると城の塔の制服を着た少年が喜びの声をあげて飛びついてきた。
少年はピピンだった。
「やっぱり、黒船に乗っていたのはあなたたちだったんですね。が飛んできたからそうだろうと思っていたんです。でも皆はが近くまで飛んでくるまで『海賊船だ、海賊船だ』とどなってばかりで、ぼくの言うことをちっとも聞いてくれなかったんです。あれはどうやったんです!?」
アラゴルンは笑ってピピンの手を取ると「本当によく会えたね」と言った。
「だが、旅人のほら話をしている暇はまだないのだよ」
ピピンも加わって一堂は怪我人や病人が看取られている部屋部屋の方に行く道すがら、ガンダルフはエオウィンとメリーの功を語って聞かせた。
病棟に着くとアラゴルンはまずファラミアのところに行った。次にエオウィン、最後にメリーの許に行く。
3人を見終わると難しい表情でアセラスがあるかと看護人に尋ねた。
蓄えがないことを知ると彼は探してくるよう命じ、その間他の者に湯を沸かすように言った。
ガンダルフはを部屋の隅に呼ぶとレゴラスとギムリを衝立代わりに立たせて死者の道を通ってからのことを話すように言った。
すべて聞き終わったガンダルフは痛ましそうにを見た。
「もとより望みのない選択じゃった。叡智の極みか大愚の果てか、消滅させるべくそれは遠く離れた。フロドの無事がわかったのは喜ばしいことじゃ。相変わらずお前さんたちが重荷を背負っていることには変わりなく、わしらには代わることができないにしてもじゃ」
ガンダルフが振り向いてファラミアの横たわっている寝台に目を向ける。
部屋の中は届けられたアセラスのすがすがしく鮮烈な香に満ち溢れていた。
「彼はもう大丈夫のようじゃ。よいかね、。お前さんはこれからしばらく、いや、勝つにしろ負けるにしろこの戦いの決着がつくまでここに入院しなくちゃならん。なぜならお前さんの身体はひどく弱っているし、指輪が消滅せぬ限り癒えることはないからじゃ。お前さんの技で軽くすることができるにしてもな」
「…はい。ガンダルフ」
は大人しく頷くとひどく疲れたように息を吐いた。
「院長に病室を用意してもらうよう頼んでこよう」
そこで待っているよう言い置いてガンダルフは離れていった。レゴラスはガンダルフに並んで歩き、彼にしか聞こえない声で問うた。
「ミスランディア、もしも指輪が消滅せず、彼女がガイアに帰ったとしたら・・・その時はヴァロマ殿が彼女を癒せるのでしょうか」
「ガイアのことはわしにはわからぬ。じゃが、そうさのう、その可能性は高かろう」
ガンダルフはレゴラスをちらと見る。
「私は望みを捨てたくないんです。の愛は私にあります。西の果てまでも共に連れて行きたい。たとえ祝福されないのだとしても。
でも、彼女は生き急いでいます。それを私には止めることが出来ない。この世界にいることが苦痛になるのなら、私は彼女を手放さなければなりません。彼女の幸福のために」
暗い表情で呟くレゴラスに、ガンダルフはただこう答えるだけだった。
「未来のことは誰にもわからぬものじゃ、レゴラス」
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