「お腹がぺこぺこだ。何時だろう」
メリーが眼を覚ました時に最初に発した言葉はこれだった。
「もう夕ご飯の時間は過ぎてるよ」
ピピンはほっとしていつもの調子で答えた。
「ピピン?君に会えたのは夢じゃなかったんだね。それに皆がそろってる」
メリーはようやく、自分が見知らぬ場所で寝かされており、別れ別れになった仲間たちが回りに集っているのに気付いた。
「ここはどこ?」
「ミナス・ティリスの療病院だよ、メリー」
アラゴルンはにっこり笑うとメリーの手を取った。
「何か持ってこさせよう。その他にもこの勇敢なるローハンの騎士が望むものがあれば何でも。ミナス・ティリスで見つかるものであれば」
メリーは喜んで、晩御飯が食べたいと言った。
望まぬ夢の形
「・アルフィエル様はこちらでございましょうか」
メリーの食事が届く前に、看護人が病室に入ってきた。
アラゴルンとガンダルフはすでに別の場所に行っていたので、この場にいるのは小さい人が二人に、エルフ、ドワーフ、の五人だ。
「はい。わたしですが」
が立ち上がると、看護人は一礼する。
「病室のお支度が済みましたので、そちらにお移りください」
「わかりました。それじゃ、メリー。また後でね。わたしもこれからしばらくは、ここに入院することになったから」
「えっ!?も怪我をしたの?」
メリーが驚いて叫ぶと、は苦笑しながら首を振った。
「怪我はしてないわ。こっちの問題」
は親指と人差し指でわっかを作る。
鎖に通した忌まわしいものに思い当たり、メリーは真顔でじっとを見あげる。
「大丈夫よ。まだ、大丈夫だから」
はメリーの顔を覗き込んで柔らかく微笑んだ。
優しい顔立ちではあるものの、少女の意志の強い眼差しには、それだけで何も言うことができなくなる。
メリーは息を飲んで黙り込んだままを見送ると、その場に残ったレゴラスとギムリを見あげた。
「何があったの」
レゴラスは目を伏せて答えなかった。
沈んだエルフの様子から、何かひどいことがあったのだろうと思ったが、強く聞いてもいいものかとメリーは戸惑った。
間を置いて、ようやくギムリが口を開いた。
「色々あったんだよ。でも、今日は止めておこう。あんたは目が覚めたばかりだし、わたしたちも疲れているからね。朝になったらまた来るよ」
翌朝。
五人はそろって療病院の庭で話すことにした。
メリーとの病室は個室であり、五人くらいは十分入るほどの広さはあるのだが、療病院全体は怪我人で溢れていてとてもゆっくり話ができる雰囲気ではなかったのだ。
銘々がくつろいで緑の芝生の上に座り込む。
「えーと、それじゃあ、ぼくがガンダルフとゴンドールに行った後のことを知りたいな。あの後、どうしたの?」
ピピンが尋ねると、昨日よりもずっと元気になったメリーも頷いた。
「死者の道だね。ローハンの人々はそのことを誰も話したがらなかった。ひどく怖がっていたから。生きているものはそこを通り抜けることは出来ないとエオメル様は仰っていたけれど、あなたたちは無事だったもの。アラゴルンが何かしたの?それとも?」
メリーが聞くと、ギムリがむうっと顔をしかめた。
「ああ、そのことは話したくないよ。死者の道で、わたしはすっかり面目を失くしてしまったのだから。それまでは自分のことを人間たちより頑張りがきき、土の下ではどんなエルフより耐久力があると自認していたというのにだよ。エルフはともかく、も幽霊を恐れなかった。後の者はただアラゴルンの意志の力で旅を続けられたんだ」
メリーとピピンは顔を見合わせるともっと詳しく話してくれとせがんだ。
ギムリは黙り込んでてこでも口を開けまいとしているので、が代わって話すことにした。
馬鍬砦を出発したその日の夕刻には、アラゴルンの一行は死者の道を通り抜けていた。
男たちは馬に乗り、は空へ羽ばたいた。
あたりはすぐに暗くなっていったが、上空からは馬に乗る黒い影とその何十倍もの灰色のかそけき影が一列になって進むさまがよく見えた。
しばらく進むと広大な谷間に出た。
ここはモルソンド。黒根谷といって山脈の険しい南斜面にまではいりこんだ山ふところだった。谷間の遥か下の方には家々の明かりがまたたいていた。この谷間は肥沃で、大勢の人々が住んでいるのだ。
しかし一行が集落に近づくと、家々の明かりは消え、戸口は閉められ、畑にいた人々は恐ろしさに逃げ出した。
死人たちの王が来たと、叫ぶ声があちらこちらからあがる。
大騒ぎになった村々の上空を飛びながら、は心の中で謝り倒した。
(ごめんなさい、ごめんなさい。非常事態なんです。事情を説明している暇はないんです。いえ、暇があったとしても幽霊軍団を従えている人と差しで話そうなんて人がそうそういるとも思えないけど、でも…ごめん)
真夜中まで強行軍は続き、頂に黒い石が立っている丘に着くまで止まらなかった。
丘の名はエレヒ。谷間に住む人の間では、ここは幻の人間たちの集会場であると信じられており、近づく者はない場所だ。
アラゴルンは石のところで止まったので、も翼をたたんで地上に降りた。
丘の周りは灰色の大軍勢に囲まれている。
アラゴルンは馬から降りると石のそばに立って大音声で呼ばわった。
「ついに時は来た。私はこれよりアンドゥインのほとりペラルギアに向かう。汝らは我に従い来るべし。この地よりサウロンの下僕たちの掃蕩されたる暁には、我は誓言の果たされしものとみなし、汝らは平安を得て、とことわに去りゆくべし。我はゴンドールのイシルドゥアの世継ぎ、エレスサールなれば」
ハルバラドに命じて裂け谷からもたらされた丈高い棒の黒い布を広げさせた。
それは真っ黒な旗だった。紋章があったとしても暗闇に紛れて見えなかった。
灰色の軍団からは何の声もあがらなかった。
しかし彼らは消えず、アラゴルンたちは彼らに囲まれたまま夜明けまでの仮眠をとることにした。
「知っている人なら、たとえ幽霊でも怖くはないと思うけど、まったく知らない、その上大勢の幽霊に囲まれるなんて、ぼくなら耐えられないな」
今日の日差しは昨日よりも明るかったが、ピピンはぞっとしたように肩を縮めた。
メリーはくわえていたパイプをおろすと、口から細い煙をゆっくり吐いた。
「死者の軍団か…。オークは山ほど見てきたし、ナズグルにも遭遇してその都度恐ろしいと思ったものだけど、そういや僕らも死人には遭遇していたんだっけ。もう随分昔のような気分がするけど。ピピンも覚えているだろう?塚山丘陵でのことさ。あの時はトムじいさんが助けてくれたから、恐ろしい思いもすぐに吹き飛んでしまったけど、だけど、あの時に見た夢、槍の穂先が心臓に突き刺さる感じ、あの感じは忘れられない。あれはオークやナズグルとはまた別の恐ろしさなんだ。冷ややかで、ひどく気味が悪いんだ」
メリーは顔をしかめた。
「は本当に怖くないの?それとも向こうの人間は皆そうなの?」
ピピンが問うとはまさか、と言ってクスクス笑った。
「怖くないわけじゃないわ。ちゃんと鍛えてそうなったの。慣れもあるし。幽霊の中にもものすごく攻撃的なのもいるから、そういうのはやっかいだけど、ただその辺にいる分には気にしすぎないようにしてる。そうでないと…そうでないと…とてもじゃないけど、ここにだっていられないもの」
だんだん声が低くなっていくに、一同はさっと目を合わせた。
ミナス・ティリスの眼前に広がるペレンノール野は昨日大きな合戦があったばかりだ。都の第一環状区も敵の蹂躙にあった。
ホビットにはホビットの、エルフにはエルフの、ドワーフにはドワーフの種族的特長というものがある。
他種族から見てそれがどんなに大変そうなことでも受け入れるしかないのだ。
そういう意味では、これはというガイアの巫女の特長である。下手な慰めの言葉はかえって逆効果だ。
一瞬の間にそう目と目で会話をすると、彼らはそのことには触れないように努めた。
「で、その後は?」
メリーが言った。
「翌朝、日が昇るとすぐにエレヒの丘を出発した。その日も強行軍だったよ。タルラングの地峡を過ぎ、ラメドン、カレンベルへ。次の日は夜が明けず、暗闇の中を疾走した」
今度はレゴラスが答える。そして彼は眉をひそめて目を閉じた。
「三日目の夕方までは、そう、順調だった。ギルラインの河口の上流にあるリンヒアでは、ラメドンの人間たちが川を上ってきたウンバールとハラドの敵たちと浅瀬の争奪戦をしていた。だけどそこで我らは戦いに参加したりはしなかった。なぜなら双方ともが我らが近づいただけで恐怖に駆られて戦いを放棄してしまったから。ただラメドンの領主アングボールだけが我らを待ち受ける勇気を持っていたよ。アラゴルンは彼に命じて、灰色の軍勢が過ぎ去った後、もし敢えてそうする勇気があるなら後から来るように言ったんだ」
レゴラスはここで言葉を切った。
「それから?」
ピピンが促す。
「それから、ギルラインを渡り、レベンニンの平原を進んでいった。そして…ああ、駄目だ。私には言えない」
レゴラスは口を手で覆うと黙り込んだ。白いエルフの顔は血の気が失せて青白くなっている。
メリーとピピンが顔を見合わせる。
「が、墜落してしまってね」
ギムリが代わって答えた。
「墜落!?」
二人の小さな人が叫ぶとは情けなさそうな表情になって頷いた。
「何があったのか、よくわからない。でも、いきなり弾かれて、その衝撃で意識を失っていたみたいなの。フロドの方になにかあったのは間違いないのだけど」
「フロド?」
「もしかして…あれを」
「うん。盗られた、というか、一時的にフロドが持っていなかったのは確かよ。今ではまたフロドが持っているのだけど。
わたしが意識を取り戻したのは翌日の朝になる前だから、結構長い間気を失っていたのね。
弾かれる直前までは指輪の気配はあったのだけど、目覚めた時にはなかったの。それが戻ったのはさらに次の日の昼になる前。でも、これが本当によくわからないのよ。だって、わたしがフロドにかけた術は、指輪の魔力が半分こっちに流れてくるようにするものであって、たとえば嫌な言い方だけど、フロドがオークの手にかかって死んでしまった場合はこういう弾かれ方はしないのよ。指輪が消滅したのであれば、今までわたしに流れ込んできた分も消えるだろし」
考え込むようには頬に手を当てる。
「フロドは生きていて、でも指輪は持っていなかった。何らかの攻撃を受けたのは間違いないけど、オークではない。一日後には指輪は再びフロドの元に戻った。わけがわからないわよ。だって、もしナズグルとかがフロドから指輪を奪っていったとしたら、おかしな弾かれ方も納得できるし、攻撃を受けるのもわかるわ。でもそしたら指輪を奪い返せるとは思えないの。モルドールの中にいて、指輪が発見されてサウロンに届けられないなんてこと、あるのかしら」
「仲間割れしたとか…」
自信がなさそうにピピンが言う。
「あるいは、もとから届ける気がない奴が盗っていったか」
ギムリが言う。
「サムと交代で持つことにしたとか」
メリーが言った。
「何にせよ、憶測の域はでないわね。ガンダルフには報告したから、これ以上のことは真相がわかるまで置いておくしかないわ。わかる時がくればの話だけど」
自嘲するようにが言った。
ギムリは隣に座るレゴラスをそっと盗み見た。レゴラスはまだ青い顔のままで、悲しそうにを見ていた。
は自分が気絶していた間のことはちっとも覚えていなかった。それは致し方ないことだったが、事情がわからずただただ少女が目覚めるのを待つしかなかった男連中の一人としては胸がつぶれるほど心配でもあったし、また盛大に嘆き騒ぐ友人の存在がいっそうその思いを助長させたものだった。
二日目以降は夜が明けず、暗い空にぽつんと、そこだけ影を切り取ったようにがいた。
暗闇に押しつぶされそうな白影は、しかし確かな希望の証であるかのようにギムリたちの前にあった。
彼女が落下してきたのは突然だった。
それまで動かしていた翼は動きを止め、糸が切れたように落ちていったのだ。
「なにかあったのか?」
アラゴルンが言いかけたとき、エルフが大声で叫んだ。
「アロド、急いで!」
ローハンの馬はエルフの声にがむしゃらに走り出した。一緒に乗っているギムリは思い切り揺さぶられて、思わずレゴラスの背中にしがみついた。
あっという間にアラゴルンを追い越し、が落ちてくる辺りに着くと、レゴラスは全力疾走する馬から飛び降りて間一髪で白鳥を受け止めた。
残されたギムリは興奮するアロドをなんとか宥めると、慣れない手綱さばきでレゴラスのところに戻る。
ギムリが戻った頃にはすでにアラゴルンと野伏たちも集っていた。
狂ったように何度も少女の名を呼ぶ友人のエルフに、居たたまれない気持ちになった。
「息はあるな。だがずいぶんと弱い。気絶しているだけのようだが…」
変身を解いた少女の額に手を当て、アラゴルンは呟いた。
レゴラスはを抱えて泣きださんばかりの表情になっている。
「なにかにぶつかったわけでもないし、あれかな、やっぱり」
エルラダンが少女の顔を覗き込んだ。
横たわるはただ瞳を閉じているようだった。少なくとも苦痛の表情は浮かべていない。
「兄上方、それに我が同胞よ。アセラスを持っている者はいないだろうか。私が持っていたものはすべて使ってしまったのだ。彼女は影の中を歩いている。これが指輪のせいであろうとなかろうと、呼び戻さなければ危険だ」
アラゴルンの言葉にレゴラスははっと顔を上げた。
「アセラスを使えるのは君だけだからね。私たちは普段から持ち歩いていないんだ。裂け谷にある父の館にはいくつかあるようだけど…」
エルロヒアが言うと、ドゥネダインも頷いた。
「どうするんだ、エステル。探すかい?このあたりにはアセラスはほとんど生えていない。時間がかかるだろう。ミナス・ティリスに着くのも、それだけ遅くなる」
エルロヒアは星の光を湛えた目でアラゴルンをじっと見つめた。
アラゴルンは厳しい表情で黙り込んだ。額に汗が滲んでいる。
決断しなければならなかった。今は一刻を争う。
アセラスさえ見つかれば、を呼び戻すことはできるだろう。しかし、彼女を蝕んでいるのは指輪そのものだ。一時しのぎにしかならない。再び倒れた時に呼び戻せるかは、そのときにならなければわからないことだった。そして何より確かなことは、アセラスを見つけるのには時間がかかるということだった。
「…出発しよう」
ようやく搾り出すようにアラゴルンは口を開いた。
「夜になるまでこのまま進もう。進めるだけ進まなければ、すべてが水泡に帰してしまう。だが休息は交代でとろう。数人ずつ、別々の方向に行き、アセラスを探してもらいたい。朝になるまでに見つからなかった場合は捜索はそこで終わりにする」
立ち上がって全員を見渡す。激しい感情を堪えるように、彼の掌はきつく握り締められていた。
「すまない、。今の私にこれ以上のことは…」
レゴラスは何も言わなかった。
蒼白のままを抱えて立ち上がり、アロドを呼び寄せて跨る。
レゴラスの目からは星の輝きが消えうせ、若木のようにしなやかな姿からは精彩が失せ、冬の夕暮れのように冷たく灰色と化したようだった。
アラゴルンはそんなレゴラスを辛そうに見ていたが、すぐにギムリの肩を叩いて自身も馬上に戻った。
レゴラスがを抱えているため、ギムリはアロドに乗れなくなってしまった。
今度はアラゴルンとの相乗りである。
「レゴラスはと一緒に馬に乗りたがっていたね」
ヘルム峡谷へ行く道のりでの、緊迫した中での賑やかだったやりとりを思い出してギムリは鼻をすすった。
「そうだな。こんな形は望んでいなかったがね」
不死のエルフは悲嘆で死ぬ。
話では知っていたが、その一端を垣間見て、自然とアラゴルンの表情は暗くなった。
が目覚めたのは翌日の、まだ夜が明ける前だった。
それまでにアセラスを見つけ出せた者は、いなかった。
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