最終戦略会議の結果、次のようなことが決まった。
モルドールに向かう兵は七千人。
うち、アラゴルンは二千人を、イムラヒルは三千五百人の歩兵を率いる。そして馬を失ったロヒアリムが五百人、この中に加わる。
エオメルが直接率いるのは騎士が五百騎。これ以外に五百騎の部隊があり、裂け谷の双子とドゥネダイン及びドル・アムロスの騎士たちが加わった。
総勢六千の徒歩兵と一千騎の騎馬兵だ。
また馬を失っていないロヒアリムの主力三千騎はエルフヘルムの指揮の下に西街道に待ち伏せし、アノリアンにいる敵軍を迎え撃つことが決まった。
出発は二日後の朝だ。
出発前日
会議が終わり、参加者はそれぞれの役割を果たすべく大広間をあとにした。
参加者の中では水穂は留守番になるため、これ以降は特にやらなければいけないことはない。率いる兵がいるわけでもないレゴラスとギムリもぽっかりと時間が空くこととなった。
三人は無言のまま廊下を歩いていた。
水穂を病室に送ってから何をしようかと考えていたギムリは、前を早足で歩く少女がきつく手を握っていることに気がついた。小さい拳は小刻みに震えており、彼女が強い感情を堪えているのだと思った。
無理もない。
事態はここに到ってようやくはっきりしたのだ。
前にあるのは絶望だと。
明後日で彼女とも今生の別れになるかもしれないと思うと、ギムリはなにか言葉をかけなければいけないような気になった。なにを言えばいいのかはわからなかったが。
ギムリが思い悩んでいたその時、水穂と並んで歩いていたレゴラスが無言のまま少女の手を握りしめた。驚いたように隣を見上げ、水穂は大きな目を瞬かせる。
ああ、とギムリは心の中で息をついた。
互いに好きあっているのに一線を引いているこの恋人たちは、自分よりもよほど別れがたく思っているのだろう。二人きりにしたほうがいい。
「レゴラス、ミズホ、わたしはミナス・ティリスをもう少し見てまわってくるよ。この戦争が終わったら、人間たちには修復の難しいところのことごとくをわがエレボールの仲間たちで再建することになったんだからね。壊れた城門だけでなく、建物や街路もだ。大きな仕事になるだろうよ」
ことさら明るい調子でギムリがいうと、水穂は表情を曇らせた。
「でも、ギムリ、それは…」
「なんて顔をしているんだい。これで終わりと決まったわけではないよ。わずかとはいえ希望はあるじゃないか。そんな顔しないでくれ。あんたには強気に笑っていてほしいんだから」
ギムリはいかめしい顔をほころばせた。岩のようなドワーフの顔は、そうすると不思議と愛嬌が出る。
水穂は目尻に涙をうかべたまま微笑んだ。
「明日も療病院に様子を見に行くよ。あんたとメリーのね。ではね」
ギムリはにっこり笑って歩き去っていった。角を曲がる前に一度振り返ると、親友のエルフが口の動きだけで「ありがとう」と伝えてきた。
ひらひらと手を振ったギムリの姿はすぐに見えなくなった。
「机」
「は?」
水穂に用意された病室に戻り、ぐるりと見渡したあと彼女は一言そう言い放った。
「机がほしいわ。書き物机。頼めばもってきてもらえるかしら」
病室は続き部屋になっており、中に入ってすぐの部屋には大きな浴槽が運び込まれていた。奥の部屋には寝台と椅子、小さな棚がある。ここには南向きに窓があった。
他の部屋に比べれば広いのだが病室であるので殺風景で手狭である。
「何をするの?」
わけがわからずレゴラスは困惑した声になる。
「わたしにやれること、よ。弱気になってる場合じゃないわ。やれることやるしかないんだから。そうよ、そうじゃなきゃ、なんのためにここまできたんだかわからないじゃない」
自分に言い聞かせるように呟いて、ぐっと拳を握り締め、部屋から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ミズホ。何がしたいの?私にもわかるように説明してくれないかい?」
レゴラスは慌てて引き止めた。最後の別れになるかもしれないのだ。せめてこの二日は少女と一緒にいたかった。泣かれるのはつらいが、こうもやる気に満ち溢れていると自分が彼女にとってまったく軽い存在であるようでおもしろくない。
一応、想いだけは通じ合っているはずなのだが。
そんなレゴラスの想いを知ってか知らずか、水穂は腕を組んで頭二つは優に高いエルフを見上げた。
「フロドたちは滅びの山に向かい、あなたたちはサウロンの目を欺くために進軍する。そして指輪を破棄すると知られるわけにはいかない。そうでしょう?」
「そうだね。でもミズホはここに残るんだから…」
「忘れたの?わたしは魂だけ飛ばすことができるんだから。これからずっと正気を保っていられるか、正直言って自信ないわ。通常、指輪に蝕まれた時には我が物にしたくなるみたいだけど、肝心の指輪はないわけだから、多分わたしは指輪が破壊されるのを阻止しようとするんじゃないかと思うの。となると、ここに残っていようが関係ないでしょう。白鳥ローブもあるけど、あれはあとでガンダルフに渡すつもりだし。ガンダルフが持っていくか誰かに預けるかして、どこにあるかわからないようにすれば、使うことはできないもの」
「でも、あの鷲の紙は私が持っているよ?」
レゴラスは胸元に手を当てる。その懐には角笛城で取り上げた、鷲に姿を転じる紙が入っていた。
「別にその紙でなくてはいけないわけじゃないわ。鞄の中にまだ予備があるし、わたしはやったことはないけど、葉っぱとかでもできるもの。それに、最悪、魂だけの状態で飛ぶこともできるし…」
「君って…」
久々に発揮した少女の魔女ぶりにレゴラスはめまいがするようだった。
「でもね、それはすごく危険なの。下手するとそのまま死んでしまうこともあるの。だからやりたくない。やりたくないけど、どこまで自分をおさえられるかわからない。怖いのよ。わたしがなにもかもを台無しにしてしまうかもしれないんだから。だから、魂が身体から離れたいかないように術をかけようかと思って、それに机が必要なのよ」
必死で言い募る水穂に、レゴラスは諦めたようにため息をついた。
レゴラスとて、彼女の危険を少なくしたい気持ちはある。しかし自分には水穂の負担を軽くするための手段がまったくなかった。己の無力さに落胆してしまう。
「わかった。そういうことなら探して来るから、ミズホはここにいて?」
ね?と肩を抱くと、少女はわずかに頬を赤らめて、うんと頷いた。
小一時間後、どこから持ってきたのか、レゴラスは美しい細工が施されている小さめの書き物机を抱えてきた。その後二回往復して、机に合わせた椅子と大きな長椅子も運び入れる。もともとさほど広くない部屋はこれ以上ものが入らなくなった。
「ちょっと、レゴラス。なにこれ?わたし、こんなの頼んでないわよ」
鞄の中身を寝台の上にごちゃごちゃと出していた水穂は、最後の大荷物に目を丸くした。
「この長椅子は、私が使うんだよ」
レゴラスは顔をほころばせる。
水穂は怪訝な表情で首をかしげた。レゴラスは机と一緒に椅子も持ってきたので、もとから部屋に用意されていた椅子はレゴラスに使ってもらおうと思っていたのだ。
「ここにいてもいいでしょう?」
確認するようにレゴラスは尋ねた。
「それは、構わないけど?」
なぜ聞くのかと水穂は目で問い返した。
レゴラスは苦笑した。彼女は理解していないようだ。
「出発の時まで、だよ?」
少し長い間のあと、
「え?」
水穂は驚きと怯えとがないまぜになった表情で顔を赤くした。
やっぱりわかっていなかったようだ。
残り少ない出発までの時を、レゴラスは少しでも多く少女と共に過ごしたかった。
朝も、昼も、これから訪れる夜もすべて。
だが、野営をしていた時ならともかく、ミナス・ティリスの中でまで共に夜を過ごせるとは思っていない。ただでさえ前科のある自分なのだから。
「何もしないから」
心底困ったように落ち着きをなくした少女に、レゴラスはすまなそうに目を伏せた。
これで最後の別れになるとは思いたくない。だが今度ばかりはエルフの予感も働いてはくれなかった。望みをつなぐにはあまりにも状況は悪すぎた。
必ず生きて帰ってくるから、待っていてほしい。
そんな誓いは言えない。
だから、せめて。
「ただ、一緒にいたいんだ」
水穂はじっとレゴラスを見上げていた。やがてゆっくりと近づいてきて、彼女はレゴラスの胸に頭をもたせかけてきた。
「うん」
レゴラスの服を握り締める。
「うん。わたしも、レゴラスと一緒にいたい…」
水穂は声を押し殺して泣いていた。
術が最も効力を発揮するには実行する時間も重要である。
日が昇っている間はできないのだ。真夜中を過ぎて夜が明けるまでに終えなければならないため、水穂は必要な道具をそろえると、夕飯を食べて早々、休むことにした。
着替えをする時はさすがにレゴラスには部屋の外に出てもらった。
寝巻きに着替え終わるとレゴラスを迎え入れる。
何もしないと彼は言っていたし、水穂としてもされるわけにはいかないのだが、意識しないではいられなかった。
クッションを敷いた長椅子に上掛けもなく寝そべり、寝台に横たわる水穂を切なげに、愛しそうにレゴラスは見つめる。少女が目をそらせないでいると気付くと、彼は立ち上がって水穂の顔を手で覆った。
「おやすみ」
ひざまずいて額に口付けを落とす。
ぴくんと少女の身体が震えた。
水穂は照れたように壁側に向きをかえる。
二、三度髪を梳いてレゴラスは長椅子に戻った。小さな声で子守唄を歌う。
広くはない部屋にエルフの歌声が満ちる。
優しい声に包まれて水穂はいつしか眠りに落ちていた。
(弱ってきている…)
水穂がしっかり寝付いたのを確かめると、レゴラスは少女の向きを自分の方に変えた。
水穂の寝顔は穏やかだった。だがレゴラスは知っている。これは始めのうちだけだということを。時が経つにつれ息は浅く速くなり、苦しげに顔が歪む。悲鳴のようなうめき声をあげることもあった。
あまりにひどい時には揺り起こすこともあった。
睡眠をあまり必要としないエルフとは違い、人間である水穂は寝なければ身体がもたない。しかしその睡眠は彼女を休ませてはくれない。むしろ眠っている時の方がつらい、と零したこともあった。
指輪さえなければ…
レゴラスは唇をかんだ。
指輪さえなければ、水穂はこんな目に遭うことはなかった。
中つ国は平和で、レゴラスの故郷の森は闇に覆われることもなく、小さい人が導き手もないままモルドールへ行くこともなかった。
全滅を覚悟の戦を仕掛けることも。
だが、もし指輪がなかったら、自分は霧ふり山脈に行くことはなく、水穂と出会うこともなかったのだろう。
彼女に会わなかった自分は、他の誰かを愛したのだろうか。
そうでなければいいのに、と思った。
レゴラスは夜が半分以上過ぎてから水穂を起こし、彼女が言うところの魂が飛んでいかないようにするための術というものをしっかり見学させてもらった。
沐浴から始まり(用意は手伝ったが、沐浴中はもちろん部屋の外にいた)書写の準備をする。
香を焚き、呪文のような歌のような言葉を発し(これが長かった)、手を打ち鳴らす。
踊るような仕草もあった。
それらすべてが終わると、少女は憑かれたような表情になり、猛然と紙に絵のような字のようなものを書き始めた。
できあがったそれを深めの皿に入れて燃やし、灰に水を入れて飲んだ。
さすがにこれには驚いたが、どうやらそれで終わりのようだった。
一切が終了する頃には夜が白々と明けてきていた。
日はまだ一日残っている。さて、どうしようかとレゴラスは思っていたが、意外にも人に会わなければならないことが多かった。
朝食は小さい人たちやギムリと取り、しばらく話をする。昼近くになって水穂が呼ばれたので一緒に行くと、イムラヒルに代わってミナス・ティリスをまとめる役目を言い付かったというフーリンと面会した。そのあとにはアラゴルン、ガンダルフと会い、二、三の打ち合わせをする。エオメルは忙しい合間を縫ってわざわざ水穂に会いに来た。体調が悪くないようであったら出発前にぜひローハンの騎士たちに言葉をかけてほしいと頼んできた。彼女は了解したがエオメルの姿が見えなくなってから、何を言えばいいのだろうと眉間にしわを寄せていた。
そしてまた、夜が来る。
にぎやかだった昼間とは打って変わって、療病院の奥にある水穂の部屋はひっそりと静まりかえっていた。
レゴラスと水穂は長椅子に腰掛けてぽつりぽつりと話しをするが、どれも長続きしない。沈黙の中、水穂は心細そうにレゴラスの肩に頭を預けた。
「もう、おやすみ」
ずっと少女の肩を抱いていたレゴラスは名残惜しそうに腕を離した。水穂はなにかを言いたげにエルフの青年を見上げる。柔らかい茶色の瞳は悲しみに暗く翳って、今にも泣き出しそうだ。
少女は口を開きかけて、止めた。うな垂れて、嫌々と頭を振る。
「駄目だよ、君はちゃんと休まなきゃ。辛いかもしれないけれど、寝ないとかえって身体に悪いよ」
珍しく駄々をこねるような少女の仕草に、レゴラスは小さく微笑んだ。
「いや」
囁くような声で水穂はまた頭を振った。
「ミズホ」
レゴラスは苦笑して、しっかりと少女を抱きしめた。布越しに少女の体温が伝わってきて泣きたくなるほどほっとする。あとわずかな時間で彼女と別れ別れにならなければならないことが心底辛かった。
指輪の魔力を負った少女。
彼女のそばについていたかった。たとえそばにいることしかできないにしても、一人で苦しませるようなことはしたくなかった。
レゴラスは少女の髪に顔をうずめて一度抱きしめる腕に力を込めると、華奢な身体を横抱きにして立ち上がった。
「レゴ…」
少女を寝台に横たわらせて上掛けをかける。起き上がろうとする水穂を手で制し、目元と額に口付ける。
水穂はすがるようにレゴラスを見つめた。
「おやすみ、ミズホ」
儚げで稚いその眼差しに心引かれながらも、振り切るように微笑んでみせた。
「いやよ。レゴラス、また起きているつもりでしょう」
水穂は片腕で身体を支えて起き上がる。
そうして一晩中でも歌っているのだ。うなされる自分のために。
「エルフは人間ほど睡眠を必要としないんだよ。それに、私にはそれくらいしか君にしてあげられることがないからね」
そして明日からはそれすら出来なくなるのだ。
レゴラスは安心させるように微笑んだ。しかし水穂は強情に言い募る。
「それでも駄目よ。全然必要ないというわけではないんでしょう。ちゃんとベットで横になって疲れをとらないと」
水穂の瞳は揺れ動いていて、いつもほど強いものではなかった。それでも彼女の意志は明らかで、レゴラスが同意するまで眠るつもりはないらしい。こういうことは先に惚れたほうが負けというか、どうしても先に折れてしまうのがレゴラスだった。しかし最後の最後で出ていけと言われても簡単に同意できるものではない。
水穂なりに自分のことを考えていてくれのことかもしれないが、それよりも彼女の憂いだ表情が気になった。
一人になって泣きたいのかもしれないとレゴラスは思った。
「必要ないよ。明日からしばらくは行軍するだけだもの」
だから長椅子で充分で、部屋から出る気はないのだと遠まわしに答える。
「そうじゃなくて…」
水穂は目を伏せてシーツを握り締めた。うつむいた顔は赤くなっているようだ。レゴラスが不思議に思っていると、彼女は頬を染めたまま決然と顔を上げ、身を起こして上掛けを折り返した。水穂はさらに壁際に下がる。そうすると寝台にはもう一人が横になれるだけの空間が空いた。
「…いいの?」
呆然とレゴラスが呟く。
水穂はますます顔を赤くして、頷いた。
「何もさせてあげられないけど…」
少女は消え入りそうな表情で、両手で上掛けを握り締める。
気がつくとレゴラスは勢いよく何度も頷いていた。
エルフの白い肌はほんのりと赤くなっている。野営の続いた夜は寄り添って眠ることも何度かあったが、それらとは根本的に意味合いが違うのだと、言葉にしないながらも悟っていた。
「ごめんね。我慢、してくれる?」
恥じらいながら囁く少女を、レゴラスは熱をはらんだ瞳で食い入るように見つめていた。
「する」
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