朝が来た。










出発










まだ太陽が昇る前のペレンノール野には、味方の軍が続々と集結しつつあった。
薄闇の中、大勢の人間の出す喧騒―鎖帷子の打ち合う音や小さな話し声、馬のいななきやその他ありとあらゆる音だ―が緊張と不安を否が応にも高めていく。
レゴラスとギムリはアラゴルンとガンダルフらと共に一行の先頭に立つことになっているので、行き交う人々の間を抜けて、前へと歩いてゆく。まだアロドには乗っていない。
レゴラスは片手に手綱を持ち、もう片方の手はと手をつないでいた。
アロドを挟んで反対側にはギムリとメリーがいる。
「いらしてくださったのですね、
エオメルは軽く礼をしてエルフとドワーフとホビットと少女を迎えた。
諸侯はすでに集っており、出発の時を待っていた。
先頭に集っているのはアラゴルンにガンダルフ、エオメルと双子たち、イムラヒルとドゥネダインだ。
「おはようございますエオメル様。それに皆様。お見送りに参りました」
は丁寧に礼をした。今日も白いドレスだったが、いつものローブは着ていない。ガンダルフに預けてあるのだ。預けられたローブをどうしたかはは聞いていなかったが魔法使いの荷物はいつもより多いということはないので、どこかに隠しか誰かに預けたのだろうと思った。
朝はまだ寒く、ドレス一枚でいられるものではない。はフーリン公から届けられた暖かいマントをその上に羽織っていた。
茶色の髪はミナス・ティリスに着いて以来結っていない。細くてまっすぐなそれは風が吹くたびにふわりと揺れた。
エオメルは幼げな少女の姿や声を焼き付けるかのように、をじっと眺めた。
さすがに朗らかな、とは言えない表情だが、ひどく顔色が悪い風でもない。
それに少し安堵して、二言、三言、話をする。
最後になるかもしれないのだから、彼女から離れようとしない金髪のエルフにはできれば遠慮してもらいたいと、頭の隅でちらりと考えていると、少しはなれたところから「あっ」と叫ぶ声がした。
振り返るとエルフの双子たちがこちらを驚いた表情で見ている。
片方は慌ててこちらに駆け寄り、もう一方は明らかにこちらを気にしながらアラゴルンになにやらまくしたてていた。
(???)
エオメルが眉をひそめているとエルロヒアがレゴラスをものすごい勢いで引っ張っていった。その勢いにはも驚いたようで、彼女は反射的に手を伸ばした。
(あ…!)
それを見た時、エオメルの心臓は大きく打った。
のほっそりとした右手の人差し指には金色の指輪がはまっていたのだ。金属のものではなく、金糸を編んで作ったもののようだ。
エオメルはとっさに振り返った。
よくよく目を凝らせば、レゴラスの両のこめかみにあった細い編みこみが片方ない。
さらによく見ると、レゴラスの右手の人差し指にも指輪がはめられていた。ただしこちらは茶色だ。
(そうか…)
すべてを悟ったエオメルは自嘲したように目を閉じた。





「ちょっと、エルロヒア、引っ張らないでください。どうしたっていうんです!?」
突然血相を変えたエルロヒアに手首を捕まれ、説明もなしに走り出されたレゴラスは抗議するように声をあげた。
あっという間にアラゴルンとエルラダン、ガンダルフの前に連れてこられる。
『どうしたもこうしたも、これは何さ!』
珍しく怒ったように、エルラダンはレゴラスの右手を皆に見えるように持ち上げた。
『…指輪です』
頬を赤くして、レゴラスはエルラダンにつかまれた手を外す。
『ヤっちゃったの?』
エルロヒアの直接的な物言いに、エルラダンは思わず裏拳で顔面を叩いた。双子の弟は顔を押さえてうめき声をあげる。
『ヤってません!!』
レゴラスは耳まで赤くして叫んだ。
急に騒ぎ始めたエルフたちになにごとかと周囲の将校たちの視線が集るが、エルフ語で話しているため不思議そうに首を傾げるものがほとんどだ。しかし教養高いイムラヒル大公はエルフ語もたしなんでいるため、彼らが話していることがだいたいわかってしまった。だが、その内容が猥談まがいとあっては彼としては聞かなかったことにする以外にない。
隊を見回ってくるとアラゴルンに断りを入れて、彼はそっとその場を去った。
『では結婚の約束だけをしたのか?』
アラゴルンはレゴラスの右手を取り、綺麗に編まれた指輪をそっとなぞった。
右手の人差し指はエルフが結婚指輪をはめる指だ。本来は細身の金の指輪だが、非常時であるため用意できなかったのだろう。もっとも結婚指輪の前に婚約指輪を交わすのが本来は先なのであるが。
『いいえ、なにも。なにも約束はしていません。これはただ、互いの無事を祈るためのもの。それ以上の意味は、何も』
レゴラスはひらり、と手を振った。
『魔法もかかっていません。無力な、髪を編んだだけの指輪です。がここで守られているというのなら私も心置きなく戦いにいくけれど、遠い距離を隔てても尚彼女を苦しめるものがあって、それをどうにかできる術が私にはない。もう頼れるのはヴァロマ殿だけなんです。今日明日にでもあの方がを連れ帰ってくれるのなら、少なくとも彼女は大丈夫でしょう?最悪の時が来るまでの時間稼ぎになるのなら、私は死んでも構わないんです。今の私は、彼女との別れよりも間に合わないことが恐ろしい。われらがすべて斃れ、彼女が暗闇に囚われ、指輪が奪われてしまうことが』
『レゴラス・・・』
『ああ、でも』
じっと食い入るように指輪を見詰める金の髪のエルフはふいに顔を上げた。
『もしもすべてがよい方に終わり、再び彼女を見出したなら、私はもう遠慮なんかしませんからね。私はと結婚します。ヴァロマ殿は反対するでしょうけど、彼女の危機に間に合わなかったような方に文句は言わせません。試練でもなんでも、受けよというならそうしましょう。二つとない功を上げよというならそうしましょう。それでも最後にを手に入れるのは、私です』
レゴラスはにっと笑った。星明りを宿す青い瞳には今は不安や悲しみの影はない。森を楽しんでいた頃の陽気で少し人の悪いレゴラスに戻っていた。
『それくらいの夢を見るくらいは許されるでしょう?』
『じゃあ、功を上げよといわれたときのためにも、ぜひともたっくさんオークを倒しておかないとね。一晩で四十一体が今までの最高記録だっけ?じゃ、まずは最低でも百体はいかないと。ナズグルとかもいたら君に任せよう。なに、アングマールの魔王は人間の男には倒せないけど、君はエルフなんだから関係ないよ。だいたい奴はもういないんだし、他のやつらなら尚更大丈夫さ』
エルロヒアは気楽そうな調子で片目をつぶってみせた。
レゴラスはくすりと笑う。
『君の決意はよくわかった、レゴラス。怒って悪かったよ。でもあんな紛らわしい場所に指輪をしなければ私だってこんなにかっとならなかったんだよ。アルフィエルの魔法は男と交わると消えるんだって、聞いたものだからさ。結婚するって、そういうことなわけだし』
エルラダンは気まずそうに頬をかいた。
『・・・ロスロリアンの奥方に聞いたんですか?』
レゴラスは怪訝そうにエルラダンを見た。レゴラスがそのことを知ったのは自分にかかっていたの魔法を自分で解いてしまったときである。ヴァロマがレゴラスにはいわずにガラドリエルにだけ伝えたというのなら、彼らも知っていてもおかしくはないが。
『え?ああ、まあそんなとこ。ところでレゴラス、アルフィエルに言質はとれないまでも、プロポーズくらいはちゃんとやったんだろうね』
彼も彼の弟も、ガラドリエルに聞いたわけではない。が、今ここでばらしたらどうなることか。口を滑らせたエルラダンは慌てて話を変えた。
『いいえ』
生真面目な顔でレゴラスは頭を振った。
『なんでさ』
上手い具合に気をそらせたようだと安堵したエルラダンは話を続けさせた。
『私ももそんな余裕はありません。それに今の彼女は受け入れられないと思いますよ。私もゆっくり口説いている時間はないですし。でも…万が一受け入れられても、今度は望む未来の輝かしさと、滅びに近い現実の落差に押しつぶされてしまうでしょうね』







「やっぱり、いけなかったのかなあ」
少し離れた場所で大騒ぎしているエルフたちから己の人差し指にはまっている指輪に視線を落として、はぽつりと呟いた。
「いけないなどと…よくお似合いですよ」
見あげるエオメルの表情はいささか複雑なものだった。一生懸命笑おうとしているが眼差しは揺れている。
一度は結婚の申し込みをされ、断った相手だ。まったくわだかまりがないといえば嘘になる。できるだけ他の者と同じようにしているが、どうしても一歩引いてしまうところがあった。
それはエオメルも同じようなのではあるが。
「ありがとうございます」
エオメルに気を遣われたのが申し訳ないやら照れくさいやらで、もごもごとは礼を言った。
エオメルは困ったように頭を掻こうとし、冑を被っていたことを思い出して手を下ろす。

が何か言おうと口を開いた時、ガンダルフがつかつかと歩み寄ってきた。
「あ、はい」
「こちらへくるのじゃ。エオメル殿、ギムリ、それに、メリーお主も」
二人は思わず顔を見合わせた。
今まで放っておかれたメリーはとうやく自分を呼んでくれる人が現れたので顔が少し明るくなった。
だがガンダルフが呼んだのだからとエオメルは大股で、とギムリは小走りで、メリーは走ってアラゴルンらと合流した。
ガンダルフを中心に一同が集る。魔法使いは重々しく口を開いた。
「さて、わしらはこれから出発する。何事もなければ、七日ののちには黒門に着くじゃろう。メリー、、お前さんたちと会うのもこれが最後になるやもしれぬ」
「ガンダルフ、やっぱり僕も行きたいんです。七日あるのなら、それまでにこんな腕の傷なんか治りますよ」
メリーは今日までアラゴルンやガンダルフを探し回り、時間の許す限り何度も行を共にしたいと訴えていた。
今朝もメリーは療病院の看護人が止めるのも聞かず、以前エオウィンからもらったローハンの盾と冑、皮の上着を着ている。剣はなくなってしまったので持っていなかったが。
しかし今までと同様、今度もアラゴルンもガンダルフも首を横に振った。
それでも尚言い募ろうとするメリーに、アラゴルンは膝をついて肩に手をのせる。
「メリー、黒の傷が治るにはまだ時間がかかる。それにこのような遠征はあんたには向かない。ペレグリンにホビット庄の民を代表して行ってもらうことにしよう。危険な目に遭う可能性のある彼のことを羨んじゃいけない。それからあんたにはやってほしいことがある」
「何です?」
についていてあげてほしい。フーリンや療病院長など、一部の者には彼女のことは話してある。だが、彼らには彼らの仕事があって、いつもについていられるわけではない。ミナス・ティリスで始めに異変がおこるとしたらまず彼女からだろうし、そうなったら、いち早く気付いて対処できる者がほしいんだ」
メリーはを見あげた。
「でも僕、魔法は使えない。役には立たないよ」
「立つわよ。わたしがメリーにもできるやり方を教えてあげる。それに、知らない人ばかりの場所で気にかけてくれる人がいるのといないのでは、大違いだもの。メリーはわたしと一緒じゃいや?」
はメリーに目線を合わせるためにしゃがんで、悔しさと悲しさが混じったホビットの顔を覗き込む。
メリーははっと息を飲んだ。今のはメリーが知る限り、しばらくぶりに食事も睡眠も充分とれているはずなのだ。なのに彼女の発する生気が薄れているように感じたのだ。
「そんなことないよ」
メリーはぶんぶんと首を振った。
よかった、とは微笑んだ。しかし表情はすぐ悲しげなものに変わる。
「これから出発する皆は、フロドたちが指輪を捨てる時間を稼ぐために戦うわ。わたしもフロドが少しでも指輪に囚われる時間を遅くするためにわたしのやりかたで戦います。どうか助けて頂戴、メリー」
メリーはしっかりと頷いた。
「もちろんだよ、
「しかし、そうなりますと兵士の少なさが悔やまれますな。ゴンドール最盛期の前衛部隊にも及ぶか及ばぬ七千騎そこそこを率いてかの山々と黒の国の難攻不落の門を攻撃するべく出陣するとは、ゴンドール史上最大の茶番劇となりましょう。それでもあたう限り勇気を持ち戦いに臨みますが。だが、ここにせめてもう一万の兵士がいてくれたらと願ってしまいます」
イムラヒルは苦笑いを浮かべてアラゴルンを見やる。
「いいえ、もしこれが茶番劇なら笑うには痛切すぎます。これは五分五分の大熱戦の最後に進める駒であり、どちらが勝ったにしろ、これがゲームを終了させることになるのです」
アラゴルンのあとにが続く。
「『もし戦死する運命にあるとすれば、わが国に与える損失はわれわれだけで充分であり、
また、もし勝って生き残るとすれば、少数であればあるほど名誉の分け前は大きくなる。
だから頼む、一人でも多ければいいなどと望んでくれるな』」
?」
全員がに注目する。
「どうしたんだい、。まるで王様のような口を利いて」
ギムリは目を丸くして少女を見上げる。
「王様の口を利いているんだもの、茶番劇の」
「は?」
「『ヘンリー5世』っていう劇があるの。劇だから実際にヘンリー5世がこういったわけではないと思うけど。でも、今の状況と似てるところはあるわね。相手は冥王じゃないけど、五倍の敵とやりあわねばならなかったの」
「ほう。して、結果は?」
ガンダルフは今朝になってから初めて表情を和らげた。
「ヘンリー5世が勝ちました」
「なるほどのう。、先ほどのセリフの続きはあるのかね?」
「ええ」
は少し早口で暗唱すると、アラゴルンはにこりと笑った。
「よい言葉だ。だが、ここで言うには余分な言葉と、足りない言葉があるな」
「…そうですね」
はアラゴルンが何を企んでいるか気付いたが、余計なことは言わずに返事だけした。
「頼まれてくれるか?」
畳み掛けるように尋ねるアラゴルンには思わず冷や汗を流した。
「…あの、エオメル様。かねてからのお約束がありましたけど、ゴンドールと合同でもいいですか?」
エオメルの表情を窺うようにおずおずと切り出すと、彼は苦笑しながら承諾した。
「もちろんいいですとも。われらローハンは、乙女が勇を鼓してくださるのを独り占めしたりなどいたしません」
アラゴルンはエオメルに目で礼をすると、を抱え上げ、自分の肩に座らせるように支える。
そのまま兵士らの前まで歩くと、大音声で叫んだ。
「ゴンドール、ローハン、すべての自由の民よ。
身分の高下なく集い来たった戦士らよ、聞け!
東には疑いようのない滅びが待ち受けている。
そなたたちは中つ国の一片であり、失われるのは土塊が波に洗い流されるようなもの。
それを恐れるなとは私は言わぬ。
だが、望みもまた東にあるのだ。
かぼそい望みの糸ではあるが、まだ切れてはおらぬ!」
続けては片手を上げて叫んだ。
風を受けてマントが翻る。
「聞いてください、戦士らよ。
これからの日を生き延びて、無事故郷へと帰る者は、
その日のことが話題になるたびわれ知らず胸をはり、
自由の記念日に心躍らせるでしょう。
これからの日を生きのびて、安らかな老年を迎えるものは、
毎年、その前日が来るたびに隣人を宴に招き、
「明日は自由を勝ち得た記念日だ」と言うでしょう。
そして袖をまくり、古い傷あとをみせながら、
「記念日に受けた傷なのだ」と言うでしょう。
老いた者は忘れやすい。しかしほかのことはすべて忘れても
その日に立てた功はいっそう偉大なものとなって、
記憶に残るでしょう。そのとき、
あなたがたの名はいいならわされた言葉のように繰り返されて、
溢れる杯が飲み干されるたび、新たに記憶に刻まれる。
善き父親は息子にこの戦いを語り継ぎ、
記念の日はけして色あせることなく、
その日からこの世の最期のときまで、
あなたがたのことは記憶に残るでしょう!
ゴンドール、ローハン、すべての自由の民に祝福あらんことを!」
一斉にラッパが吹き鳴らされ、鬨の声があがる。
打ち鳴らされる剣や槍が朝日を受けてきらめいた。
「さて、出発じゃ」
はアラゴルンの肩から飛び降りると、ガンダルフ、アラゴルン、ギムリと抱擁をかわして別れを告げた。エオメルとは握手をし、レゴラスとはただ見つめあい、ただ一言言葉を交わしただけだった。
「行ってくるよ、
「…行ってらっしゃい」
ただ、これだけを。




+++








「最近評判が悪いぞ」
珍しく足音も荒く境界内に入ると、彼は早々に切り出した。
「誰の?」
振り返りもせずヴァロマは問い返す。
「あなたのだ、みこと」
「そう?」
「さきほどまた抗議の使者が来た。これで何度目、何人目か知っているか!?私はあなたの御言持ちだが、知らないことには答えようがないんだぞ。何を始めたんだ、みこと。聞かされること聞かされること、初耳ばかりで私にはもうどうすることもできない」
「相手にすることはないよ、おと彦。放っておきなさい。言いたいことがあるのなら、直接わたしに言えとお言い」
「言えないから、私のところにくるんだろうが」
おと彦はげんなりと大げさに肩を落とした。
がいなくなって、気が触れたのではないのかとまで言ってくるのがいるんだぞ。それと、人間の娘に本気で傾倒したのかともな。まあ、後者に関しては私も真実が知りたいとは思っているが」
ヴァロマは愉快そうに笑った。
「わたしがひいなに恋をしているかって?」
「人間の男が人間の女に恋するように、とは思ってないが、あなたのへの入れ込みようは度が過ぎていると思っているよ」
おと彦は遠慮なくヴァロマのそばまで歩み寄るとどっかりと胡坐をかいた。
「あなたは地上の者に関わりたがる。私の先祖に会ったのも、それゆえだと伝え聞いている。あなたの地上のものへの愛情は疑ってはいないし、それに私たち御言持ちもただの畏怖や恩恵のためだけにあなたと関わり続けたわけでもない。私も私の祖先たちも、あなたを愛するからこそこの役目を請け負い続けた。
だがどれほど親しくなろうと貴なる御方と死すべき地上の子としての線引きは、なされていたんじゃなかったのか?だというのに、あなたは明らかにを手放しで可愛がっている。誓いまでするほどに』
「…妬いているの?」
切れ長の目をわずかに見開いて、ヴァロマはおと彦に向き直った。
彼の手には様々に輝く糸が紡がれた糸巻きがあった。ただし本来巻きつけられる量の四分の一ほどしかなかったが。
「そうじゃない。あなたがを可愛がるのは別に構わないんだ。だがね、あの子が行方不明になって以来、あなたは職務の一切を放棄し、見つかれば見つかったであちこちの神々を訪ね歩き、持ち出すことが難しい品々をかき集めている」
「許可はとっている。なにも強奪しているわけではない」
「それでも良く思わないものがいるものだよ。別々の事柄に使うのならまだしも、それはすべてのために集めたのだろう?あなたにそこまでさせるということで、を恨みに思っているものもいるようなんだ。私だってあの子が無事戻ってくることの方が何より大事だ。神々や精霊の思惑など知ったことではない。だがあなたがを必要以上に大事にすることで、かえってあの子の身が危険にさらされるんじゃないかと心配なんだよ。だから教えてくれ、あなたはいったい何をしようとしているんだ」
「教える必要はないと思うが。わたしとわたしの巫女の問題だ」
しれっとヴァロマがいうと、おと彦はいきり立って彼の胸倉をつかんだ。
「忘れてもらっては困るがね、その、あなたの巫女というのは私の娘なんだよ。父親に知る権利がないとでも?」
「知らないほうがよいと思うのだが」
どこまでも慈悲深いまなざしで、気の毒そうにヴァロマは微笑む。
他に誰も聴くものもいない空間で内緒話をするように、彼は巫女の父親の耳に口を寄せた。

「………なんなんだ、それは」
話を聞き終わったおと彦は、開口一番にそういった。
「聞いたままだ」
ヴァロマは真顔で答えた。ただし彼はいつも微笑んでいるため、笑っていなくとも唇だけは笑みの形を作っているのだが。
「わたしはあの子が可愛い。お前たちとどこが違うのかと聞かれれば、正直よくわからないのだが、それが特別というものだろう。ひいなのためにならばなんでもしよう。そのために誓いもした。あの子は必ず連れ戻そう。だがわたしはひいなを守るためだけに存在しているのではない。出来ることと等しい程度にはやらねばならぬこと、やってはならぬことがある。だからこれはわたしにできる最大の妥協だ。わたしにとってもにとっても、望む形ではないね。もちろんおと彦、お前にとっても。やらずにすむのならそれが一番よい。何も失わず、借り物も使わなくて済むしね。さて、どうなることか」
輝く瞳をわずかに伏せて、ヴァロマは糸巻きからでている糸の先をほつれないように間に押し込んだ。
「さて、そろそろ時間だ」
すっくと立ち上がって袖を振る。すると糸巻きは姿を消した。
ゆっくりとした優雅な足取りで彼は境界の帳を分ける。


「行ってくるよ」
取り残されたおと彦は、ヴァロマの消えた空間をじっと見詰めていた。






次へ   あとがき   戻る   目次