朝は暗闇にまとわりつかれながら目覚め、
身を清めると光がようやく戻る。
晴れていようが曇っていようが、おかまいなしに、
暗闇はまた徐々にわたしの中に押し寄せ、
夜の訪れと共に再び闇に沈む。
飲み込まれる――
闇に捕らわれる――
Mornie utulie
メリアドク・ブランディバックの朝はがちゃんと起きているかを確かめることから始まる。
もしも起きていなかったら起こして、彼女曰く指輪の魔力を洗い流す効果があるという水浴びをさせなければならないのだ。
しかしアラゴルンたちが発ってから二日経つが、メリーはまだより早く起きたことはない。
メリーがの部屋の扉をノックすると、いつもさっと内側から開き、半乾きの髪をした少女が現れるのだ。
そのあとは一緒に朝ごはんを食べる。
実のところはミナス・ティリスで再会した時から食が進まないようになっていたのだが―フォークを持ったままぼんやりとしていたり、一口ごとにため息をついたり、皿をつつくだけつついてなかなか食べようとしなかったりするのだ―体力をつけなくてはと半ば義務のようにむりやり口にねじ込むようにして食べているのだ。
どんなときでも食事を楽しむ主義であるホビットとしてはそういった食事は楽しいものではない。
(だけど最初からこうだったわけじゃないんだよなあ。最初に会った頃は旅の途中で、今よりももっと質素な食べ物しかなかったけど、はどんなものでも好き嫌いしないで食べてたんだもの。こんな風に嫌々食事をするなんて、よっぽど具合が悪いんだろうか。それとも、指輪がそうさせているんだろうか…)
場を和ませるための会話も空すべりしてしまうため、すっかり無口になったメリーはそんなことを考えながらパンを飲み込んだ。
食事がすむと、大抵は光のあたるところを転々とする。
もメリーも療病院をでて歩き回ってもいいと言われていた。
療病院の庭にいることもあるが、それよりも第七階層の中庭にいることを好んだ。
ここはミナス・ティリスの中で一番高い階層なので、夕日の最後の一筋が消えるまで日が当たるのだ。
とメリーはそこでぽつぽつ話をする。内容の多くは東へ去った人々についてだった。
「皆は今、どのあたりかしら?」
「皆はどうしているかしら?」
「皆は無事かしら?」
何度も何度も繰り返し、彼女は東に目を向ける。
しかし「皆が」と言う少女が実のところただ一人を思い出している時があることにメリーは気付いていた。
声には切なさが増し、人差し指の指輪をそっと押さえている時には、彼女はレゴラスを思い出しているのだ。
彼女が望んでいるの大勢の中のただ一人。
ちっぽけな自分のほかに誰が聞いているわけでもない呟きなのに、はただの一度も彼の名を呼ばない。
どんな思いからそうしているのかメリーにはわからないのだが、そんな少女をひどく痛々しいと思った。
この日、昼を少し過ぎた頃にメリーは療病院長から呼び出された。
伝言を携えてきた者に聞くと、実際に用があるのはファラミアだということだそうだ。
一体どんな用事だろうと、緊張しながら彼の元へ行く。を置いていかなければならないのが気がかりだったが、彼女は躊躇するメリーに早く行くようにと背を押した。
メリーが立ち去ったあと、は仰向けになって眼を閉じた。
近付いてくる
暗闇が近付いてくる
広がる
飲み込まれる
「エオウィン姫、ですか?」
ファラミアの前に召しだされたメリーは、何を聞かれるのかと身構えていたが、予想もしなかった人の名前に戸惑い、思わず大きな声で問い返した。
てっきりボロミアのことかフロドやのこと、もしかしたらアラゴルンのことを聞かれるのだと思っていたのだ
「そうです、ローハンのセオデン王の姪御、エオウィン姫についてお聞きしたいのです。メリアドク殿、あなたはセオデン王の小姓であり、姫と共に王の最期に居合わせたとのこと。姫には大いなる不安と悲しみがあり、それは姫が勝ち得た名誉であっても拭うことができないもののようなのです。私は都の大権をまだ引き継いでおりませんし、また例え引き継いでいたとしてもよほどの必要に迫られない限りは院長の職務に口出ししようとは思いませぬ。しかしあれほど美しく、功名高き姫が戦いを望み、死すらも望まれるその理由を私は知りたいのです」
メリーの差し向かいに座るファラミアは、ボロミアほど背は高くはなく、彼よりも細身ではあったが、武人らしい立派な体躯と、理知の力がうかがえる眼差しの持ち主だった。
顔は似ているが雰囲気は違う。厳しい表情だがどこか遠くを見ているようでもあり、そしてメリーの言葉をじっと待っているのだ。
メリーは乞われるままに、自分が知る限りのことをファラミアに教えた。
それは随分時間がかかってしまい、気がつけば太陽は西に傾いている。
「ああ、いけない。もう日が沈んでしまう。ファラミア様、申し訳ありませんが今日はこれで失礼させていただきます」
「そのように急がれなくても、一緒に夕食をとり、その間にお話を聞かせてはいただけないでしょうか」
慌てて立ち上がるメリーをファラミアが引き止める。
「えーと、食事のお誘いはとても嬉しいんですけど、とにかく僕はについていなくちゃいけないんです。も一緒でよいのでしたら、喜んでお受けするんですけど。そうでした、僕、ファラミア様から何を聞かれるのかとてもどきどきしていたんです。ボロミア様のことか、フロドのことを聞かれるんじゃないかって。それからのことを」
「?変わった名前ですが、その方も小さい人族なのですか?」
「…ご存知ではありませんでしたか?」
「はい。私はフロド殿とお会いして、彼が持つものがなにか知っています。そして兄の身になにが起きたかも、知らなくはありません。その方はどういう方なのですか。二人に関わりのある方なのですか?」
「は旅の仲間の一人です。人間の女の子で、それで、えーと」
肝心な点を言うべきか迷い、メリーは言葉を濁らせた。
ファラミアはまだ身体の癒えない身であり、父を亡くしたばかり―しかもデネソールはファラミアを道連れにしようとしたのだ―の彼にもう一人の肉親の死を詳しく知らせてもよいのかどうか。はボロミアの葬送に立ち会ったばかりでなく、力の指輪についても詳しい。それから魔女でもある。ゴンドールの人間は魔女に好意的になってくれるのだろうか。
いろいろなことが頭の中をぐるぐる回って、メリーは知らないうちに頭を抱えていた。
「メリアドク殿、どうなされた」
「あ、いえ、その…」
「私の申し出が受けられないのであればそう仰ってくださってよいのですよ。無理強いするつもりはないのですから」
「いいえ、は多分ファラミア様とお話したいことがあると思うんです。でも、それは今でいいのか僕にはわからなくて。それに、最近夜になるとひどく鬱々としてしまうから…」
「そうですか。それでは明日、明るいうちにお会いするというのはいかがでしょうか」
そういうことになった。
見えるのは赤い一つの眼
薄れてゆくのは明るい記憶
今味わっている食べ物の味すらも不確かで、
わたしを呼ぶ声は遠い遠い彼方から聞こえる
翌朝、ファラミアの病室には約束どおりくだんの少女を伴ってメリーが訪れた。
は礼儀正しく挨拶をするとファラミアが勧めた椅子に腰を下ろした。
ファラミアは失礼にならない程度に上から下まで少女を眺め渡す。小柄で華奢で、愛らしくはあったが風にも耐えぬ風情のある乙女だと思った。
に会う前のファラミアは、エオウィンのことを聞きたいと思っていたのだが、十人目の旅の仲間であり、魔女だと名乗った少女に興味を覚え、ここにつくまでの旅の話を乞うた。
(似ている…。いや似てはいない)
時間が経てば経つほど、ファラミアは落ち着かなくなってきた。
胸の内は狂おしいほど懐かしい、甘やかな、しかしあやふやな思いが溢れてくる。
(似てはいない…)
髪の色が違う。
肌の色が違う。
目の色が違う。
顔立ちが違う。
声が違う。
何もかもが違う。
あのひとはもっと背が高かったし、
美しい人だった。
溢れる思いに飲み込まれまいと、ファラミアは組んだ両手に力を込める。
「ファラミア様?」
どうかしましたか、と話を止めてが尋ねてきた。
「いえ、なんでもありません。どうか続けてください」
ファラミアは穏やかに微笑んで促したが、少女は気乗りしないようだった。
沈黙が訪れる。
は膝の上に重ねていた両手を組み、半ば目を伏せていた。目のふちにはうっすらと隈が浮かび、全体的に生気が感じられない少女がそうしていると、死人のようにも見える。
「わたしのことを怒っていらっしゃるのでしょう?」
ぽつりとは言葉を漏らした。
「怒る?なぜそう思うのです。私にはあなたを怒る理由などありませんよ」
「ボロミアが死んだのは、わたしのせいです。わたしは彼が不安定になっていたことに気付いていました。気付いていて何もしなかった」
「兄が死んだのは卑劣なるアイゼンガルドのオークのせいです。あなたのせいではありません」
「それでもわたしに責任がないわけではありません。あの日は、本当にいろいろなことがいっぺんに起こりました。わたしがもっと注意して行動していたらボロミアはきっと死なずにすみました。仲間が離散することも。そうでしょう?」
「そうは思いませぬ。兄の行動があろうがなかろうが、オークの軍勢が近づいてきていたのは確かなことでした。ですから…むしろ、兄の行動によりあなたがた一行が離散していなければ、オークにより命を奪われていたのは、兄一人ではなかったのではないかと私は思います。メリアドク殿の話によりますと、やつらはサルマンの命により指輪を持っている「小さい人」だけは殺さないようにしていたとか。となれば小さい方たちはともかく、それ以外の方々にとっては、もちろんあなたもですが、危険はよりいっそう大きなものとなっていたことでしょう。あの場であなた方までもが失われていたとなればどうなっていましたか?ローハンはアイゼンガルドとの戦には勝利せず、ひいてはゴンドールに援軍は到着しませんでした。南方諸領の援軍もアラゴルン卿が率いてきてくださったものです。兄を失ったことは私にとっても、ゴンドールにとってもこの上なく悲しいことですが、兄は名誉を守って亡くなられた。それは心の慰めになることです」
はうつむいて唇を噛んだ。
ボロミアの身内に慰められている自分が不甲斐なく思えたのだ。
「しかし、私があなたを気分を害されるほど見ていたのにはわけがあります。あなたにはどこか、私の母を思い起こさせるものがあるのです」
悲しみと懐かしさの混ざった眼差しで、少し照れたようにファラミアは言った。
「母君ですか?でも、とても似ているとは思いませんが。ご覧の通りわたしは外国人で、顔立ちからなにもかもが全然違うでしょう?」
が答えるとファラミアは声をあげて笑った。
「あとで肖像画をご覧にいれますが、殿と母は外見で似ているところは少しもございません。母は私が五歳の時に亡くなりました。小さかったので私はあまり母のことを覚えていないのです。人が言うには、母は防備堅固なこの都で萎えしぼんでゆく花のようであったのだそうです。父は父なりに母を愛していましたし、母も父への愛ゆえにゴンドールに嫁いで来ましたが、生まれ育った海を忘れることができなかったのだと。
私が覚えている母は、いつも南の窓を向いていました。ドル・アムロスの海の見える谷間はそこからは見えないのですが、無心に、請うように、時には憑かれたようにただひたすら南を望むのです」
ファラミアは一度言葉を切ると、気遣わしげに少女を眺めた。
「窓辺に座る後ろ姿と白い横顔が、最も多い母の記憶です。殿はご自分で気付かれていないかもしれませんが、話をしている間にも、心ここにあらずといった様子が何度もございました。その様子が――」
「母君を思い起こさせる、のですね」
は悲しげに微笑んだ。
「母を蝕んだものは望郷だけではなく黒の恐怖のためでもありました。殿を蝕んでいるそれとは比べものになるものではないですが、根源を同じくしているものです。母はそれに耐えられなかった。私には古のヌメノールの血がわずかだが流れております。かの人々が持つ先見の力は持ち合わせておりませんが、それでも暗い予感がするのです。私の予感が外れるといいのですが」
呼んでいる
呼んでいる
あれはどこかと呼んでいる
駄目
駄目
駄目
応えては駄目
「メリアドク」
ぱたぱたと軽い足音がしたのでエオウィンはそちら見ると、杯を持ったメリーが急ぎ足で歩いていた。どうも急いでいるようだが、中身をこぼさないように杯を凝視ししているせいでちゃんと前を見ていないため、あっちにふらふらこっちにふらふらとしていた。
あまりにも危なっかしいので思わずエオウィンが声をかけると、メリーはぱっと明るい顔になった。
「エオウィン姫。お加減はよいのですか?」
「わたくしが負った傷はそれほどひどいものではないのです。心に負った悲しみに比べれば」
エオウィンがそういうと、メリーの表情はたちまち曇った。
「それはホットワインね。に持ってゆくの?急いでいても、前を見なくては危ないわ。彼女はどうしているの」
八つ当たりのようなことを言ったことが気恥ずかしくなったエオウィンはすぐに話を変えようとした。しかしメリーはますます悲しそうな表情になり、いまにも泣き出しそうになっていた。
「メリアドク?」
「ひ、姫…」
杯を持ったまま、メリーはえぐえぐと泣き出した。
エオウィンは傷を負ってから五日後には退院したいと院長に言い出し、揉めに揉めて彼女の要望の一つである東に向いた窓のある部屋に移動するということで決着した。
その時ファラミアに会い、また彼の口からがミナス・ティリスに残ったことを知ったのだった。それまであの白鳥の少女はローハンに来た時のように、またローハンをあとにした時のように風変わりな一行と共にいってしまったのだと思っていたのだ。
それまで同じ療病院内にいたというのに、顔をあわせることがなかったため―それはエオウィンは療病院の外に出ることができず、は第七階層の中庭にいることが多かったせいなのだが―気付かなかったのだ。
は他の患者と扱いが違うらしく、出入りする看護人は決まった者のみで見舞いといえども中に入るにはフーリンの許可が必要になるとのことだった。ファラミアは執政であるので彼の許可は必要としないが、事情を知ってからは朝夕の見舞いのたびに逐一報告していた。フーリンも忙しい合間を縫って、毎日に会いに来ていた。もっともこちらは療病院から出られないファラミアよりずっと簡単で、執務室の外にでれば良かったのだったが。
エオウィンはファラミアに頼んでの見舞いに行きたい旨をフーリンに伝えた。返事を待っている間一度部屋に戻ろうとしていたところにメリーと会ったのだ。
メリーはぼろぼろ泣きながらエオウィンをの病室につれて行った。彼は、自分はマークの騎士なのだし、エオウィンは主人の姪である上、を知っている人なので許可など必要ないと思ったのだ。
浴槽の置いてあるはじめの部屋と寝台が置いてある奥の部屋の間をつなげる扉を開けたエオウィンは、愕然と立ちすくんだ。
簡素な白い寝巻きの少女は力なく足を折って寝台の上に座り、ただぼんやりと前を見ていた。いや、なにかを見ているわけではないのだろう。
顔色は灰色で、頬は削げ、目は落ち窪んで、もともと小柄な身体が一回り小さくなったようだった。
「前からぼんやりすることがあったんですけど、昨日の朝から急にひどくなって…それ以来ほとんど食事をとっていないんです。看護人たちに手伝ってもらって口に押し込んでみたんですけど、それも上手くいかなくて。ただ飲み物だけならなんとか飲むので滋養があるものを飲ませているんです」
メリーは杯を寝台の脇にある書き物机にいったん置き、寝台によじ登ってのとなりに立った。頭を支えて唇に杯を当て、ゆっくりと傾ける。
半開きの唇の脇から、血のようなワインがこぼれた。
「…どうして…!?」
変わり果てた姿の少女に、エオウィンは衝撃のあまり悲鳴のような叫び声をあげた。
「どういうことなのです、メリアドク。どうしてがこんな…、こんな…!」
エオウィンの悲痛な声に、の目がちらりと動いた。
しかしは興味がなさそうに再び力なく目を伏せた。
少女の口元についたワインを拭って、メリーは寝台から降りる。すぐ戻るから、と声をかけてメリーはエオウィンを浴槽のある部屋に引っ張っていった。
かいつまんでメリーは事情を話す。すぐに飲み込んだエオウィンは蒼白になってしゃがみこんだ。
「重荷を肩代わりしているとは言っていましたが、ではあれがその結果だというのですね。よりにもよって、なんてものを肩代わりしたんです」
それほど多い時間を共にしたわけではないが、少女には暗い影が少しもみつけられなかった。弱さも悩みも人並みに持っているようではあるが、たくましいと思えるほど前を向いていた。
それが羨ましいとも思っていたし、いじらしいと思っていた。
「ああして座っていて、眠ってもいない。目が見えているのか、声が聞こえているかもわかりません。もうほとんど反応してくれないんです。エオウィン姫。姫も僕も黒の息の恐ろしさを身をもって知っていますけど、を蝕んでいるのはそれよりもっとひどくて悪いものなんです。そしてこの禍々しいやつは、アラゴルンやガンダルフでも癒すことはできないんです。少なくとも、指輪が消滅しないかぎりはね。でも、本当にそんな日がくるんだろうか。姫、僕にはを通してフロドが見えるんですよ。がこうなら、彼はもっとひどいことになっているはずなんです。一体彼はどうしているんだろう。どうなってしまうんだろう。ああ、僕も彼らの重荷を分かち合えたらよかったのに!」
メリーは涙交じりで絶叫した。
助けて
助けて
助けて
ナセ
もう限界です
そしてアラゴルンらが出発して七日目の朝がきた。
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