今ぞ歌え、アノールの塔の民よ、
サウロンの国は永久に終わり、
暗黒の塔は毀たれければ。
戦の後
太陽が没する前に東の方から一羽の大鷲が飛来し、叫んだ。
戦争が終わったのだ。それも、勝利を得て。
中庭にいたファラミアとエオウィンはそれを聞くや療病院を飛び出した。目指す場所である第七階層の賓客室の扉の前では、小さい人が騒いでいた。鷲の知らせを聞いたメリーはの戒めを早く解くよう衛士に言っていたのだ。しかし彼らとて小さな娘が縛り上げられている状況を好ましく思っているわけではないのだが、ファラミアかフーリンの命令なしに勝手をすることはできない。情と職務の間に挟まれて困り果てていたところにファラミアが到着した。
ファラミアはすぐに扉を開けるように命じる。ほっとしたような衛士と対照的に、じりじりと焦っていたメリーは扉が開かれるや否や中に駆け込んだ。
「、!聞こえた!?終わったんだよ。フロドが指輪を破棄したんだ!!」
寝室に入ったメリーは叫びながら寝台に駆け寄って、猿轡を外した。
「聞こえたわ」
大きく息を吸っては微笑んだ。朝と変わらずやせ衰え、憔悴したままではあるが瞳に生気が戻っていた。目じりに涙が伝った跡がある。
ファラミアは断りを入れての姿勢を変え、手と足を縛っている縄を切った。
華奢な手首と足首には縄の跡が赤く残っている。はゆっくりと起き上がって手足を伸ばした。
「終わったわね」
はメリーに笑いかける。メリーは泣き笑いの表情でに抱きついてきた。歓声をあげてはメリーを抱きしめる。
ひとしきり笑うと、はひじで身体を支えてファラミアとエオウィンを見あげた。
「申し訳ありません。最後まで己を保つことが、出来ませんでした」
「殿、謝らないでください。こちらこそ申し訳ないことを致しました。女性に対してこのような乱暴なふるまいを…。あなたは我々のためにご自身を犠牲にされた。感謝の言葉もございません」
ファラミアは膝をついて頭を下げた。エオウィンはの手を取る。
「今日、この日まで耐え抜いたのはあなたのお力ゆえです。ゴンドールの民の喜びの声が聞こえますか?」
は目を伏せてエオウィンの手を握り締めた。
「ええ、聞こえます」
の肩は徐々に震えてきた。堪えようもなく泣き出すと、エオウィンは痩せた背中を優しく抱きしめるのだった。
歌え、喜べ、守護の塔の民よ、
民の見張りは、むだならず、
黒門は、破れ、
王は入城して、勝利を得たれば…
二日もすると早馬の使者がすべての出来事を知らせに到着した。都は王の到着に備える準備が進む。
旅の仲間は欠けることなく無事であると知らせを受けたメリーとは手を取り合って喜んだ。
二人はアラゴルンが陣を張っているイシリアンへ呼ばれた。そこで行われるフロドとサムの功を讃える宴に出席してほしいというものだった。
しかしまだ回復しきっていないは行く事ができず、エオウィンもにつきそうという理由で辞退した。彼らが帰還する前に行けるようならば行くとだけメリーに伝言を持たせて送り出した。旅の道連れがいないメリーは少し不満そうだったが、彼は物資を運ぶ荷馬車と共に出発した。
時は慌しくも、喜びと平穏のうちに過ぎてゆく。
は落ちた体力を回復するために、毎日食事と睡眠、それに無理にならない程度の運動をこなしていった。他に親しい友人がいるわけでもないので、大抵はエオウィンが一緒だった。しかしファラミアは正式に執政職を引き継いだため忙しく、ほとんど顔を合わせる機会がなくなっていたのだった。
「ねえ、。あなたはいずれ迎えの方がいらっしゃるのだそうですけど、それまでゴンドールに滞在するのですか?」」
「いいえ、エオウィン。特に決めていないんです。はっきり言ってわたし、戦争が終わったあとまで自分が生きてるなんて思っていなかったので…」
とエオウィンは日が燦々と当たる療病院の中庭で、お茶にしていた。すっかりエオウィンと親しくなったは、今では名前だけで彼女を呼んでいる。
「朝、起きるたびに自分が生きていることがすごく不思議なんですよ。もう心も身体も重くないし、闇に引き込まれそうになることもない。わたしが指輪不所持者だった期間は実際には二ヶ月もなかったのに、もう何十年もそうしていたみたいで。やるべきことはやり終えて、あとは隠居するだけの老人になった気分です。だけどあながち間違ってもいないと思いますよ。これだけの大仕事をする機会なんて、二度とないですもの。運良く命もなくさないですみましたし」
は苦笑の入り混じった微笑みを浮かべてカップに口をつける。
エオウィンは頬に手を当てて息をついた。
「あなたって、悲観的なのか大雑把なだけなのかよくわからないわね。でも引退なんて早すぎるわ」
冗談なのでしょう?とエオウィンが目で問うと、は表情を引き締めて答える。
「冗談ではないです。もう決めているんです。わたしは巫女をやめます」
あまりにもきっぱりと答えたのでエオウィンは慌てた。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。やめようと思ってやめられるようなものなの?あなたの力が必要になる機会はまだありますわ。あなたの故郷でもそれは変わらないでしょう?」
「光栄ですけどエオウィン、わたしの意思に関係なく、本当にもう続けられないんです。傷が大きすぎて…」
が言うと、エオウィンは表情を強張らせた。
「手当てさえ充分なら怪我は治ります。でも、傷を負った事実はなくなりません。傷が大きければ跡が残るでしょう?心も同じです。どれだけ時が経とうと、わたしが指輪の魔力に晒され、飲み込まれた事実は消えません。そしてこの傷は、治ることはない。そう感じるんです」
「そんな…」
「わたしのことよりも、エオウィンの方が気になります。最近、全然元気がないじゃないですか。サウロンは滅びたし、あなたの怪我もほとんど良くなっているのに、なにがあなたを悩ませているんです?」
は心配そうにエオウィンの顔を覗き込んだ。
少女はサウロンが消滅した日から徐々に健康を取り戻していったが、エオウィンは逆に少しずつ血の気が失われてきていた。気になってはいたのだが、彼女も怪我を負い、黒の息に侵された身であるので、まだ調子を取り戻していないだけなのだと思っていた。しかし一向によくなる気配がない。
「そのようなこと、わたくしは…」
「隠しても駄目です。ちゃんと顔に書いているんですから。顔色もよくないし、なにより肌の艶がなくなっています。ちゃんと眠っていますか?もしかして、わたしがなにか術をかけちゃったとか?あの日のことはあまり覚えていないんです」
「心配は無用です。あなたはわたくしに何もしていませんわ。それに、わたくしを悩ませている原因も、わかっているのです。わたくしは今、気の迷いの中にいて気持ちが不安定になっているのです。しばらくすればそれも落ち着くでしょう」
「気の迷いですか…?」
怪訝そうには眉をひそめた。
「そうです。気の迷いです」
エオウィンはきっぱり答えるとそっと目を伏せた。
翌日になってもその次の日になってもエオウィンの表情は曇ったままだった。
はどこまで突っ込んで聞いていいものか迷い、考えた末ファラミアに相談することにした。忙しい身の上の執政ではあるが、はミナス・ティリスの特別な客人として厚遇されており、面会を申し込めばすぐにでも会える。なにより彼はエオウィンを愛しているのだとは気付いていたので、力になってくれるだろうと思ったのだ。
話を聞いたファラミアはエオウィンの身を案じ、二つ返事で彼女と話をすることを承諾した。
ファラミアにエオウィンを任せている間は特にやることもなかったので、は厨房の片隅を借りて菓子作りをすることにした。しばらくぶりに会ったファラミアも仕事で疲れているようなので、甘いものでも振舞おうと思ったのだ。
カスタードのプディングとベリーのジャムを挟んだミルクレープが出来上がると、盆に載せて療病院に戻った。茶の道具は厨房の前を通りかかった侍女に頼んで持ってもらう。
しかし残念ながらそれらは執政と盾持つ乙女の口には入ることはなかった。
なぜならは中庭に出てかと思うと、踵を返してしまったからだ。安堵と苦笑の入り混じった顔では厨房に引き返した。
誰の目からも見える城壁の上で、ファラミアとエオウィンは口付けを交わしていたのだ。
遠目にもファラミアの表情は喜びに輝き、エオウィンにも纏わりついていた陰りは消え去っていた。
(あの二人には必要なさそうね)
クスクス笑いながら一人ごちると、は菓子を、指輪が破棄された日にさんざん怖い思いをさせた侍女たちに上げることにした。
(会いたい、なあ)
決着の日から十日も経つと、の身体はほとんど元に戻っていた。
そげていた頬も元の柔らかさを取り戻し、大きな茶色の目は生き生きと輝いている。
しかし右の人差し指を見ているときと、東の方を眺めている時にはそんな少女も切なげな眼差しになった。
レゴラスに会いたかった。
幸運にも生き延びることができたのだと実感してから最初に考えたのは、レゴラスはどうしているのだろう、ということだったのだ。
無事を知り、宴に呼ばれたときには行きたくてしかたがなかった。しかし恋する乙女としてはげっそりと肉が落ちた姿など見せたくなかったのだ。
療病院長の判断を仰ぐまでもなく、今のに必要なのは栄養と睡眠だ。レゴラスと仲間たち―特にフロドとサムに―会いたい一心では熱心に療養に努めた。
院長から退院許可がでたのは、それから五日後のことだった。
「その、コルマルレンの野というのはどこにあるんですか?」
はアラゴルンたちの予定がどうなっているのかを尋ねにファラミアの部屋を訪れていた。決着の日からすでに二週間以上経っているため、もしかしたらミナス・ティリスに戻ってくる途中かもしれないと思ったのだ。しかしファラミアの返答は、王の帰還はもう少しかかるはずだというものだった。なぜなら暗黒の国は滅びたとはいえ、まだ東夷や南方人の残党が残っているのでこれらを鎮圧する必要があり、またモルドール国内にある要塞は全て破壊しなければならないのだ。
だが、おそらく旅の仲間はコルマルレンの野にいるだろう、とファラミアは結論付けた。
まだ中つ国の地理に詳しくない少女のためにファラミアは地図を持ってこさせる。
「コルマルレンの野というのはこちらです」
ファラミアはそういって北イシリアンの一部を指した。彼がフロドとサムを見つけたところからそう離れてはいない場所だ。それほど昔のことではないのに、ひどく懐かしい思いがした。
「こちらへはオスギリアスからカイア・アンドロスに船で渡る方法が一番早く到着します。鳥が飛ぶように進めば六〇マイルほどで…」
気付いたようにファラミアは言葉を切った。
「六〇マイルですね。それなら三時間もあれば充分つきます。意外に近いんですね」
が笑っていうと、ファラミアは苦笑した。
「六〇マイルが近いなどといえるのは殿以外では大鷲の一族くらいのものですよ。お一人で大丈夫ですか?体調がよくなってきてはいるとはいえ、無理は禁物です」
「無理はしません。だから三時間もかかってしまうんですよ。体調が万全なら、一時間で着きますもの」
その時扉をノックする音がした。ファラミアが誰何すると女性の声で答えが返ってきた。破顔したファラミアは立ち上がって自ら扉を開けにいった。茶道具を載せた盆を抱え持ったエオウィンが入ってくる。
「まあ、。ここにいたの。探したのよ」
「ごめんなさい。地図を見せていただいていたのよ」
「コルマルレンの野へ行くの?」
「ええ」
エオウィンが器に茶を注いでいる間、ファラミアとは散らかっているテーブルを片付ける。
干し果物の入っている焼き菓子と薫り高い茶。和やかな雰囲気で歓談していると、ふいには何かに気付いたように小さく声をあげた。
「忘れていたわ。ねえエオウィン。あなた、やっぱりコルマルレンの野には行かないのよね?」
「ええ。本来ならば前王の姪として、現王の妹として、祝いに行くべきなのでしょうけれども、わたくしにとって最も喜ばしい場所はここミナス・ティリスなのです。ですから皆様がお戻りになるのをお待ちしておりますわ」
エオウィンは幸せそうに微笑んだ。そんな彼女を見るファラミアの表情もどことなく緩んでいる。
「それで、このことはエオメル様に聞かれた場合、答えてもいいものなんでしょうか」
が真顔で尋ねると、一瞬部屋の空気が固まった。
「そうですわね…。こういうことは本人の口から言うべきなのでしょうね。でもわたくしはあちらには参りませんし、そうなりますと兄は心配するでしょうね」
エオウィンが頬に手を当てて困ったように首をかしげた。
「私としましても、エオメル殿へのご報告は自分で申し上げたいところです」
ファラミアは真剣な表情で膝の上で両手を組む。
「下手に隠すつもりはありませんから、どうでも知りたがっているようであれば話してしまって構いませんわ。でもは気まずいのではなくて?エオメルはあなたに振られたのだし、そのあなたの口からわたくしの結婚話まで聞かされたりしたら…」
「下手したら、とどめの一撃ということになりかねますね」
はうつろな目で笑った。
「あの、エオウィン。今殿がエオメル殿を振った、と言いましたか?」
ファラミアの疑問にエオウィンとはそろって頷いて肯定した。
傷の癒えた背中に冷や汗が流れる。
ということはエオメル殿は最愛の女性を手に入れられなかったということで、
そのエオメル殿に妹君の結婚話をする(かもしれない)のが当の最愛の女性ということになって、
エオメル殿は殿を得られず、エオウィンを奪われるということに!?
それはまずい、のではないか?
ここは、ぜひ、なにがなんでも、私の口から一番にエオメル殿にお知らせしなければ!!
…しかしそうか。エオメル殿は殿がお好きなのか。
確かに芯が強いし賢いし情も深い。エオウィンとは別の意味で見事な乙女だとは思うが、いかんせん年が離れすぎてはいないか?成人するまであと何年かかるんだ。まあ、私とエオウィンも10以上離れているし、わが父デネソールと母フィンドゥイラスは20離れていたことを思えば問題ないといえばないのだろうが。しかし少なくともエオウィンは成人しているわけで…。
「殿。どうなさいましたの?」
ファラミアが突然難しい顔でうなりだしたので、エオウィンは心配そうに顔を覗き込んだ。
「いえ、なんでも…」
まさか、エオメルは幼女趣味があるのではないか、などと考えていたとは言えなかったファラミアは引きつった笑いを浮かべてごまかすしかなかった。
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