「レゴラス殿はまだ起きないのですか?」
ハルディアは扉を開けてそうそう、やや不機嫌そうに聞いた。
レゴラスが横たわっている寝台のすぐ脇に椅子を出して付ききりでいるドワーフのギムリが無言で首を振る。寝台の周囲には意気消沈したホビットが全員そろっていた。
レゴラスが眠りについて二日が過ぎた。
その間、レゴラスが寝かされている部屋には入れ替わり立ち代り、あの場に居合わせたものが何度も顔を出した。ロリアンの領主夫妻の警備を担当しているハルディアでさえも例外ではない。
少女の死はあの場に居合わせた者以外に知らされることはなく、他の者には「は一足先に帰った」とだけ告げられた。それには一つだけ「白鳥の乙女のことでレゴラスに話しかけてはいけない」という厳命も付け加えられた。表向きは彼がひどく悲しんでいるからということになっている。
少女を慕っていた民たちは残念がり、だがきっとまた来てくれるだろうと次の来訪を心待ちにする者が多かった。
城下は冥王の消滅と王の帰還、そして結婚式と続く喜びに沸きかえっている。ここ第七階層はそんな城下とはうらはらに通夜のさなかのような暗さだ。
ハルディアはその原因の一端である闇の森−今は緑葉の森だ―の王子の寝顔を苦々しい思いで眺めた。
(なんて幸せな男だ。)
皮肉交じりにハルディアは思った。
あの時。
が動かなくなった時に、ハルディアは心臓が凍りついたように感じた。
息をすることも忘れ、の顔をしたヴァロマが少女の亡骸を抱えて消え去るまで、でくの坊のように突っ立って見送っただけだった。
が死んだ。
彼女は人間だ。時の流れはいずれ彼女を飲み込んだだろう。
だが、今ではなかったはずだ。
あんなにあっけなく、なにもかも奪いつくされて。
伝えることはなかった想いだが、確かに息づいていた淡い恋心はずたずたに切り裂かれ、ハルディアを内側から傷つけていた。
やり場のない怒りはレゴラスに向かった。
レゴラスはなにも失っていない。
少女を手にいれ、その身も心も我が物とし、なのに人の子との恋の行き着く先の別れも彼にはない。
(目の前で愛する娘の死を見なければならなかった苦痛は、あなたが一番に味わうはずだったろうに!)
ヴァロマの底意地の悪い恩寵がレゴラスに忘却をもたらし、目覚めた時には少女のことを忘れ去ってしまうのだろう。
彼は悲嘆に殺されず、ただの森のエルフとしてこれからも生きるのだ。
という異世界の少女が存在したことも、その彼女を愛したこともすべて忘れて。
ヴァロマに図られたのだ、という理性の声はなんの慰めにもならなかった。
ただ彼女の不在が悲しかった。
彼女の不在を悲しまないであろうレゴラスを憎いと思った。
夢と現の狭間
ああ、眠っていたのかとレゴラスは思った。
珍しく深く眠り込んでいたようで、夢の小路をたどらなかったようだ。
「レゴラス!」
瞬きをすると耳の横でドワーフの低い声がした。
まだはっきりしない頭で声の方を向くと、ギムリがむっつりと顔をしかめていた。怒っているのではなく、なにかひどく心配している時に彼はこんな表情になるのだ。
「…ギムリ?」
寝返りをうつと周囲からがたがた音がした。何事かと思ったのも束の間、小さい人たちがいっせいにレゴラスの周りに集ってきたのだ。
「…えーっと…。どうしたの、かなあ」
彼らは一様にひどく悲しんでいたようで、みんな、目のふちが赤くなっていた。
ピピンはまだ泣きじゃくっており、つかんでいたレゴラスの袖が瞬く間に濡れてゆく。
「気分はどうじゃ?レゴラス」
「ミスランディア」
窓際に座っていたガンダルフが立ち上がった。
身体を起こすと彼は鋭い目でレゴラスを見下ろした。
「皆、どうしたっていうんです?」
レゴラスは困り果ててガンダルフに助けを求めた。
なぜ、皆が自分のことを悲しそうに見るのかレゴラスにはわからなかった。
「あんたは三日の間、ずっと眠っておったのじゃよ。エルフがこれほど長い間眠り続けることなどめったにないので、心配しておったのじゃ。どうかの、レゴラス。どこか具合が悪いところはあるかね?」
レゴラスは驚いて大きく目を見開いた。
「三日もですか?どうしちゃったんだろう。私、どこか悪いんですか?」
「わしが聞いとるんじゃが…」
「自分では特になんとも」
「ふむ」
ガンダルフが鬚を撫で付けながら思いをめぐらせていると、フロドがおずおずとレゴラスを見あげた。
「レゴラス、あの…大事なことを忘れていない?」
「大事なこと?」
「その…今までのあなたと違うことがあるでしょう?何かを失くしたような…」
ガンダルフが続けた。
「心の中に空隙はできておらぬか?あるいはひどくざわめいているか。それはお前さんを悩ませるものではないかね?」
レゴラスは黙して目を伏せた。
そしてようやく皆が自分を腫れ物のように扱うわけがわかった。
森の奥深くに暮らし、他のエルフの国を訪れることもほとんどなかったレゴラスは闇が勢力を伸ばしつつあった時も、悩みも屈託もなかった。せいぜいが蜘蛛が増えたり、森に闇が進出するのを忌々しいと思うことだけだった。彼はエルフとしては若く、大きな戦を経験したこともなければ、故郷を追われて放浪することもなかったのだ。
だが指輪を巡る戦いを終えた今は、以前の自分とはまったく変わってしまったと思った。
森以外の世界を見聞し、エルフ以外の種族と交友を持つ。
岩がちな山、草に埋もれた平原、南に近づくほどに広さを増す大河。
見慣れない景色に心は躍った。森とは違うが美しいと思った。
小さな身体に重荷を背負ったホビット。弱さにつけこまれ、命を散らした人の子。ドワーフとは絶対に相容れないと思っていたのに、いまでは彼は自分の一番の親友だ。
定命の種族の強さと儚さ。いずれ訪れる別れの悲しみとともに、彼らを愛しいと思う。
そして、鴎の声を聞いた。
西への憧れを掻き立てられ、居ても立ってもいられなくなった。
胸の奥では今も、海へと呼ぶ鴎の声が木霊している。何もかも投げ出して、船出してしまいたくなる。
彼らはそれを心配しているのだろう。
だが、
「大丈夫だよ。私の時はまだ来ていないから。それに私にはやらなくてはならないことがあるのだから。ミナス・ティリスに美しい庭を造らなくてはならないし、イシリアンの森も清めなくてはならないのだもの」
レゴラスは美しい顔に微笑みを浮かべた。
その笑顔の下でレゴラスは強く自分に言い聞かせた。
―大丈夫。私の時はまだ来ていないから―
翌日、三日遅れでセオデン王の葬送の一行はミナス・ティリスを出発した。
この旅には帰郷するエルフたちと、ゴンドールの多くの大将たちも同行した。
今度の旅路はゆっくりとしたもので、十五日をかけてエドラスに到着する。
王の葬儀と追悼会が終わると、一行は再び出発した。
ヘルム峡谷で二日休むことになったので、私はかねてからギムリが口を惜しむことなく褒め称える燦光洞に足を踏み入れた(この場所についての感想は控えよう。この洞窟のことを話すのにふさわしい言葉を私は持っていないから)。
その後はアイゼンガルドに向かう。
今度は私がギムリとファンゴルンの森を探検するので、ここで一行と別れることになった。
だから旅の仲間はここで解散することになる。
もう、私たちが全員集ることはないだろう。
それでもこの空の下、皆が幸せであるように、私は祈っているよ。
ギムリと共にファンゴルンと、そのあとあちこち見て回ってから故郷の森に帰った。
あまりに寄り道をしたから、帰路の途中で新しい年になってしまい、父に遅いと叱られた。
森は戦いの後を残していたが、すでに新しい芽が、枝が芽生え、柔らかな下草が生え広がっていた。
森の名はエリン・ラスガレン、つまり緑葉の森と改められていた。
ギムリは嫌がっていたけれど、離れ山に帰るには森を通っていた方が早い。なんとかかんとか言いくるめて我が家に寄っていってもらった。
父はあまりいい顔をしなかったけれど、母は特にドワーフ嫌いではないので歓迎してくれた。
その後は森の外れまでギムリを見送り、今回はここで別れることになった。
次の再会を約束して。
四年が過ぎた。
私はイシリアンに、ギムリは燦光洞に居を移した。
ミナス・ティリスの再建もあるし、エミン・アルネンに住むファラミアの館の庭も、ついでに私が造っている。近くに住んでいるからね。それからそれ以外にはギムリと旅をしている。
イシリアンではたまに鴎の声が聞こえてくる。
そうなると、私は耳を塞いで、聞こえなくなるまでじっとしている。
まだ行けないのだから。
呼ばないで。
そう、繰り返しながら。
「これをお前さんにやろう」
一年前、私の森を訪れてきたミスランディアが一冊の本をくれた。
彼はやっぱりあっちこっち放浪しているようで、ここに来る前にはアラゴルンのところに寄ったのだそうだ。
私たちはしばらく話をしたが、彼はまだ寄るところがあるとそうそうに辞去していった。その帰りしなに差し出された。
中をめくると船の設計図と作り方が事細かに書いてあった。
灰色港の領主、キアダンの手によるものだと、ミスランディアは言った。
「もう灰色港ではこれを必要とするものがおらんというのでな。小船ならばともかく、海を渡る船の作り方はお前さんたち森のエルフは知らぬじゃろう。お主の父親は要らぬと言ったが、誰かが持っておったほうがよい」
「ミスランディア」
受け取るのが怖くて、私はあとずさった。
ミスランディアはそんな私に微笑みかけた。
「使うも使わぬもお主が決めることじゃ。だが、あんたたち森エルフはあまり手先が器用ではないから、ドワーフに手伝ってもらうのがよいじゃろうよ」
本は今、物入れの奥にしまいこんである。
それからしばらくして、北の風が便りを運んでくれた。
避け谷の、ロスロリアンの、灰色港の主だったエルフたちが船出した、と。
その船には指輪所持者だったフロドと、すべての役目を終えたミスランディアも共に乗ったのだと。
季節は何度も巡り、中つ国は美しさを取り戻していった。
新しい命も生まれてくる。
最初に子供ができたのはサムだった。
徐々にその数は増えてゆき、十三人の子沢山になった。
アラゴルンとアルウェンにも、ファラミアとエオウィンにも子供ができた。
エオメルはファラミアの従妹の女性と結婚した。
たまにゴンドールで大きな式典があると、彼らがいっせいに集ることもある。
その時はとても賑やかで楽しくて、でも少し、寂しかった。
彼らと私の間には、超えようのない溝がある。
どんなに望んでも時は彼らを必ず連れ去ってしまい、私はいつか一人、取り残されるのだ。
…鴎の声が聞こえる。
呼ばないで。
呼ばないで。
何度もそう思いながら、声が聞こえない時には空を見上げる。
空に舞う白い姿を探して。
そうして見つけると、もっと悲しくなるのだけど。
違うのだ。
鴎ではないのだ。
私が探しているのは――
第四紀六一年。
奥方を亡くしたサムは最後の指輪所持者として海を渡った。
彼はフロドにまた会えたのだろうか。
第四紀六三年。
マーク王エオメルが死んだ。
彼はとてもいい人間だと思っているのに、私は彼に対する理由のわからないわだかまりを持っていて、いつまでたっても消えなかった。
彼もそれをわかっていて、でもとうとう最後まで教えてくれなかった。
第四紀の六十年代の後半には、メリーとピピンも共に逝った。
ゴンドールに滞在していた二人は、この国の高貴な死者とともにラス・ディネンに葬られた。
彼らは最後までホビットらしい陽気さを失わなかった。
少しずつ、いなくなる。
私の愛するひとびとが。
第四紀八一年。
良き隣人であったファラミアがとうとう亡くなった。
人の子としてはずいぶん長寿だった。
その少し前、奥方のエオウィンも亡くなっている。
エルフには行けないというこの世を越えたところで、二人はまた会うことができたのだろうか。
ああ、鴎よ、まだだ。まだ行けない。
まだ私の時ではない。
呼ぶな、
呼ぶな、
まだ私は行けないのだから!
第四紀百二十年三月一日。
指輪の仲間は、とうとう私とギムリの二人だけになった。
星一つ出ない冬の日の夕暮れのように冷たい灰色と化したアルウェンに、私は言葉をかけることができなかった。
「もう、疲れた」
小さく口に出して、心が決まった。
アラゴルンに最後の別れを告げ、森に戻った私は、長いこと省みなかった物入れを散々探して、埃だらけになっていた船造りの本を取り出した。
それを持って燦光洞へ行く。
鬚も髪もすっかり白くなった親友は、ゆっくりページをめくって、最後ににっこり笑った。
「大丈夫だよ、レゴラス。
あんたのために船を作ろう」
「私は一人で行きたくない。もうこれ以上私の愛するものに置いていかれるのはいやだ」
だからギムリも一緒に来てくれないか?
そんな私のわがままを笑い飛ばしたりしないで、ギムリは長いこと考えてくれた。
夜が更け、月が沈み、東の空が白んでも彼はずっと黙ったままだった。
とうとう日が昇り、ようやく彼は私を見た。
「仕方がないね」
レゴラスの大好きな、朴訥で温かな笑みだった。
船の建造にはそれほどの月日はかからなかった。
海を渡るとはいえ、乗るのはレゴラスとギムリの二人だけであるので、そう大きなものではないからだ。
作業はイシリアンで行われ、レゴラスがこの地へ連れてきた同胞たちと、ギムリを慕うドワーフの職人が数人手伝った。
「鴎が呼んでる」
「…あんたはそういう時、いつも辛そうだ」
作業の手を休めてレゴラスが空を振り仰ぐと、ギムリもつられて空を仰いだ。
「でもそれももうすぐ終わりだよ。あんたはもうすぐ海を渡れるのだから」
「うん…でも…」
「どうしたんだい、レゴラス」
浮かない表情のレゴラスにギムリは首をかしげた。
なんでもない、とレゴラスは言った。
(ようやく海を渡る決心をしたというのに、
自分の時が来たというのに、
心は少しも晴れない)
なにか大きな忘れ物をしているような気がして落ち着かなかった。
(感傷、なんだろうな)
中つ国に留まることが耐えがたくなっていても、愛情が減じたわけではない。
これまでが幸せだった分、離れるのが辛いのだろう。
レゴラスは思考を切り替えようと軽く頭を振ると作業を再開した。
船ができた。
レゴラスは同胞と船の建造を手伝ってくれたドワーフたちのために別れの宴を開き、その翌日には出発した。
アンドゥインの流れに乗って、船は滑らかに進む。
流れはたちまち船を運び、岸で見送るエルフとドワーフの姿がたちまち小さくなった。
風がレゴラスの金糸の髪を翻す。
この時になっても、レゴラスの心は少しも慰められていなかった。
一瞬ごとに胸が締め付けられそうに苦しく、息をするのも辛いほどだった。
「レゴラス、顔色が悪いよ。どれ、わたしが舵を取ろう」
ギムリがそういうとレゴラスの身体を押しのけた。
「ごめ…ん。ギムリ」
「かまわないよ」
部屋に戻っても楽にはならないだろうと思い、レゴラスはそのまま床に座り込んだ。
友の近くにいた方がまだ安心できる。
「ねえ、ギムリ」
「なんだい」
「他のエルフも皆こうだったのかなあ。西は喜びに満ちた美しい国で、これからそこに行くというのに、辛くて辛くて仕方がないんだ。やっぱり私、どこかおかしいのかなあ」
「わたしはエルフじゃないからなんとも言えないが、中つ国に愛着を持ち、離れたくなかったと思うエルフもいたかもしれないね」
「ギムリは…やっぱり行きたくなかった?」
少しの間があり、
「わたしはね、レゴラス、今年で二百六十九歳だよ。ドワーフとしてもずいぶん長生きなんだよ。わたしはわたしのやれる限りのことをしてきたつもりだ。そして次代というものを育ててきた。わたしがいなくとも燦光洞は大丈夫だし、ローハンの人間たちともうまくやっていくだろう。あんた以外はね。わたしにはもうあんた以外のことで心配なことなどないんだよ。あんたときたら、いつまでたっても子供のようにひとのことを振り回すのだもの。それを許しているわたしもわたしだと思うがね。だから、一緒に来てくれと言われた時も、ああ、またか、仕方がないなと思ったのさ」
ギムリは舵を握ったまま、振り返らなかった。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
船は順調に下って行き、川は時と共に幅を増していった。
日が沈み、夜を迎える頃には潮の香もしてくる。
月を頼りに舵を取る。この晩はどちらも眠らなかった。
東の空が薄闇に溶ける頃、朝を喜ぶ鴎の声がすると、レゴラスは居ても立ってもいられなくなり舳先へと進んだ。
船はエシア・アンドゥインまで着ていた。
ここを抜ければベルファラス湾、海に出るのだ。
鴎が鳴く。
白い翼が翻る。
見渡す限り青い水の上に、何羽もの鴎が飛んでいた。
「レゴラス?」
声もなく立ち尽くすレゴラスにギムリが声をかけた。
「…がう」
「なんだい」
「違う」
「なにが?」
「鴎じゃない」
「あれは鴎だよ、レゴラス」
振り返ったレゴラスはギムリに食って掛かった。
「違う、鴎じゃない。私がずっと、ずっと、ずっと、気にかけていたのは鴎じゃない。忘れられないのは鴎じゃない。違うんだ!」
耳を塞ぎ、聞かなかったことにして、なのに空を見上げては探してしまう。
白い翼を。
見つけるたびに失望するのは、それが望むものではなかったからだ。
鴎ではなかったからだ。
「じゃあ、なんだっていうんだい?」
ギムリはむっつりとした。
「それは…わからないけど」
それが一番の問題だった。
これほど心を悩ませることがわからないとはいったいどうしたことなのだろうか。
「レゴラス」
ギムリが困ったようにため息をついた。
レゴラスは浅い息を何度か繰り返すと、決然と動き出した。
「船を止める」
「おいおい!」
「駄目だ、私は行けない。今、西に行ってしまったらわからないことがずっとわからないままになる」
レゴラスは躊躇なく碇を下ろした。
鈍い衝撃のあと、船が停止する。
「それで、このあとどうするんだい」
「…一度戻ろうと思う」
「それは構わんよ。だがね、レゴラス。あんたがもう一度海を渡ろうと決めた頃には、わたしは既にいないかもしれんのだよ」
「…うん」
その時のことを思って、レゴラスは涙ぐんだ。
ギムリを失った悲しみは、これまでの別れの比ではないだろう。
「それでも戻るかい?」
ギムリは少し首をかしげて、レゴラスを覗き込んだ。
「…戻るよ。わからないまま、忘れたままでいることはできないんだ。きっとこれはとても大切なことで、私はそれを思い出さなくちゃいけないのだと思う」
「思い出せるのかい」
「…ギムリは何か知っている?」
「さあね、ただ」
ギムリは悲しそうに笑った。
「思い出さない方が幸せなこともあるよ」
レゴラスはふと不思議と目の前にいるかくしゃくとした老ドワーフがギムリではないように感じた。
「あなた、誰です?」
考えるよりも先に口が動いていた。
「レゴラス、碇をあげて西へ行きなさい」
ギムリの姿をしたものは、優しく命じた。
その声に従いそうになる心を押さえつけるように胸元を強く押さえて、レゴラスは首を振った。
その命令だけはきけないと思った。
「レゴラス、行くんだ」
「いやです」
「西に行ける機会は一度だけだ。今引き返したら、船があろうとたどり着けなくなる。それに、中つ国で死んでもマンドスの館にはお前の居場所がなくなることになる。そなたがただのエルフでいるうちに、さあ、行きなさい」
『ギムリ』は威厳のある声で諭す。
レゴラスは頑なに首を振り続けた。
「それでも」
震える声でレゴラスは答えた。
「私は思い出さなくちゃいけない。邪魔をしないで。どうしてもというのなら、私は西に行けなくても構わないのだから」
音が途絶えた。
波の音も帆が風を受ける音も、鴎の声もすべて消えた。
周囲の景色が一変した。
波飛沫の一つ一つ、光の一筋一筋までが動きを止めた。
動いているのはレゴラスと『ギムリ』のみ。
何が起こったのかと戸惑うレゴラスに、『ギムリ』が盛大に鼻を鳴らした。
「強情っぱりエルフめ。やっぱりわたしは君が大嫌いだよ」
その瞬間、レゴラスは動かぬ世界から弾かれた。
光も波も、船も鴎もありとあらゆるものが消えうせた。
ただ暗闇に包まれたとレゴラスは感じた。
意識を手放す瞬間、雪のように白い小さな羽根がそこだけ闇を切り取って落ちてきた。
それをつかもうと手を伸ばしたが、届いたのかどうかはわからなかった。
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