あのひとはもうヒントをださないといったけど、周りの人たちがあれこれ思いついたことを言うことを止めたりしなかったから。
さんざんしゃべって、わたしは一つの確証を持った。
なるほど、自分の後始末をつけろとはよく言ったものだ。
素直に考えればこういったことをわたしに決めさせるというのは、あのひとの厚意…と言えなくもない。
でも。
ナセはわたしの結婚を良く思っていないから。
やっぱりこれはイヤガラセなんじゃないかと思う。
命の糸
運命というものが形をなすとしたら、それは糸なのだそうだ。
細い一本一本が織りをなし、色と光の渦を生み出す。
生まれたばかりの命の糸は乳白色、死の間際にはそれぞれが歩んできた人生によってまちまちだ。濁った色はやはりあまり美しくないけれど、黒に近いものが悪い、というわけでもないらしい。
わたしが巫女を志した十三歳の頃、ナセはわたしをあちこちに連れまわした。
その中の一つが『泉の君』の機織場だった。
彼女はガイアに生まれた、ありとあらゆる命の来し方行く末をずっとこの場所で見守っているのだそうだ。それぞれの命が糸の形で彼女の前に現れ、時間と共に長さを増す。そして彼女はそれを織る。糸の長さが持ち主の生きた時間なのだ。
しかし、彼女自身が寿命を司るのかといえば、そうではない。
彼女はあくまで機を織るだけなのだ。
寿命の決定者は他にいる(ちなみにそれはナセでもない)。
しかし何か理由があって誰かを(『何か』でもいい。糸は人間のものだけではないのだから)寿命より早く死んでもらわなければいけない時や、非常にまれだが長らえさせたい時には彼女が話しを聞いたうえでその糸を切ったり継ぎ足したりすることがあるという。
糸が切れた部分は見た目が悪くなるのでよほどのことでなければ承知しないということだが…。
その余程の時とはどういう時かとわたしは彼女に聞いたことがある。
彼女は答えた。
ガイアの腕から零れ落ち、もう取り戻すことができないと判断した時だ、と。
つまり、こういうことだ。
ガイアでは、死んだわけでもないのにその命の持ち主がいなくなってしまうということが何度か起こっているのだそうだ。そうなると命の糸は長くなることも切れることもなく、ただそのままそこに存在するということになる。
ガイアが調べたところ、どうやら世界というのはガイアの意思によって創られたガイア以外にもあるのだそうだ。行方知れずになったものは何かのはずみにより、繋がってしまった別の世界に飛ばされてしまっている。
ガイアはこれを嘆いた。
何とかして取り戻そうとその度に手を尽くして捜した。
だが、必ずしも取り戻せるとは限らない。いや、実際には生きて戻ってこれるもののほうがまれなのだそうだ。
なぜなら飛ばされた先がその生き物が生きていける環境であるとは限らないからだ。
そこが非常に高温な世界だったら?逆に寒冷な世界だったら?そうでなくとも呼吸する空気が違ったら?食料とするものがなかったら?もうそれだけで生きてゆくことは不可能だ。
いや、たとえ環境に問題ない場合でも、生きてゆくためには助けとなるものが必要となるだろう。ただ一固体だけで生きてゆくなど、無理なのだ。
だが、そこの生き物が歓迎するとは限らない。その前に意思が通じるかどうか。
異なる外観はそれだけで恐れられ、排除される可能性を生む。
草木ならばむしられ、獣は狩られ、人ならば、殺される。
運良く生存可能な世界に放り出されたもののほとんどがこういった末路を迎えている。
まれに、本当にまれにその世界に受け入れられても、ガイア生まれはガイアでしか適応できないというように定められた寿命よりも前に死んでいった。
ガイアの護りがないというのは、それだけで圧倒的に不利なのだ。
だからガイアは行方知れずがでると何を置いても探す。
ガイアに生きるすべてが彼女の愛情の対象であり、土の一欠けら、雨の一滴といえど失われるのは耐えられないのだ。
彼女はすべての母。彼女以外のすべてが彼女の子供だからだ。
ガイアの願いもむなしく、取り戻せなくなった命は、その糸を切られる。
別の世界で生き続けていたとしても、ガイアでは「死んだ」と見なされる。
幸いにも、というべきか、糸が切れてもガイアの外にいる限りはその命は死ぬことはない。
ガイアの理は、ガイアの囲いの中でしか通用しないのだから。
あの時に交わした、たわいないわたしの疑問がここで役に立つとは思いも寄らなかった。
つまり、わたしが中つ国で生きていこうとするのならば、この糸を泉の君に返し、彼女に切ってもらうのだ。
それでわたしは「取り戻すことができない」命となり、ガイアの理の外の人間となる。
今よりもさらに寄る辺のない身になるが…致し方のないことだ。
わたしはレゴラスを選んだのだから。
ただ、このことはレゴラスには言う気はない。
故郷のすべてと別れることになるけれど、それをかわいそうだとは思ってほしくはないのだ。負い目に感じてほしくはない。わたしはわたしの意思で決めたのだから。
ただ気になるのはどうやらわたしの寿命が予想よりずいぶん短くなりそうだということだ。
いずれ避けようのない別れが来るにしても、せめて人並みの長さがあれば良いと思っていたが、どうやらそれは虫のいい考えだったようだ。
ああ、わたしはどのくらい彼といることができるのだろうか。
願わくば、彼の悲しみが少しでも小さくあるように。
悲しみが彼を殺してしまわないように。
切に、切に、わたしは祈る。
レゴラス。
わたしの愛するエルフ。
はそこまで考えると(それはそんなに長い時間ではなかった)ゆっくりと顔を上げた。
すべてを悟りきったかのような微笑みを浮かべ、ほっそりとした両手は膝の上に重ねられている。
(そうね…)
不意にはおかしくなって小さく肩を震わせながら込み上げてくる笑いを押し殺した。
(良いほうに考えれば、そういうことなんだけどね)
クスクスと笑いだした少女に、恋人のエルフをはじめとする関係者たちは心配そうな表情になった。考えすぎておかしくなったと思ったのだ。
(それは重要な問題じゃないわ)
「ナセ、わかりました」
はにこやかにヴァロマに向き合うと糸を指差し、
「これはわたしの命の糸ですね」
額に青筋を浮かべて明るく答えた。
「正解。まあ、これくらいわからないようでは困るのだけどね」
ヴァロマは目の前の少女が非常に複雑に怒っていることなど意に介さない。
は勢いよく立ち上がると涙目になって叫んだ。
「なんてことしてくれたんですか―――!!」
一気に吐き出して、は肩で息をする。
少女のあまりの剣幕に、年長のエルフと魔法使い以外は驚き、互いに眼を見交わす。
「、ねえ、何がどうなってるの!?」
興奮する妻を落ち着かせるのは夫の義務とでも言うように、レゴラスも立ち上がる。
近づこうとするが、すぐにヴァロマに目で制され、動くに動けなくなった。
「信じられない、もうもう、どういうつもりですか。よりにもよって、泉の君のつづれ織りをほどかせたんですね!?」
「そう。割と快く引き受けてくれたよ」
「そんなわけないじゃないですか!あなた自分のしたことがわかってるんですか。あれはただの布じゃなくて、今までガイアに存在した命の糸を織りつづってきたものでしょう!?ガイアに生命が現れてから一日だって休んでいないものを十九年分もほどかせて!しかも一本抜かしたまま戻すわけにいかないから、今、泉の君、手を止めてるってことじゃないですか!!」
「そうだ。…おと姫、何を怒っているんだ?」
「ナセ―――!!」
が絶叫するも、ヴァロマは少しも困った様子を見せない。
ガラドリエルが考え深げに口を開いた。
「つまり、これは織姫ヴァイレ、西の方ヴァリノールに住まう偉大な精霊たちのお一人で、時間の中に存在したことをすべて物語りに織りなし、つづれ織っている方ですが、その方のつづれ織りをほどき、その手を止めさせたようなものと解してよろしいのでしょうか?」
「…微妙に違うが、まあそう間違ってもいないかな」
ヴァロマは鷹揚に頷く。
ガラドリエルは頬に手を当ててため息をついた。
「それは…姫君ならずとも困ったことをしてくださった、と言うことでしょう。わらわはガイアの方は殿しか存じませぬが、力ある方々が己が領域を踏みにじられるのを快く思うことはないと思われるのですが」
ヴァロマはガラドリエルの顔を眺めると、次にガンダルフに視線を移した。
この老魔法使いはヴァロマとの最初の挨拶以降ずっと黙したままだった。
「…なんだかわたし、すっかり悪者にされているね」
ヴァロマは肩をすくめた。
「じゃが、殿はそれを楽しんでおられるのでしょう」
ガンダルフはようやく口を開いた。
「わしには殿がなにをなさろうとしているかわからぬが、殿が深い情けと愛情の持ち主であり、そのお心によって偉大な力を揮われるであろうことを疑いは致しませぬ。であるからして殿、わしは事この件には口出しをしないでおきましょう。殿にお任せするのが最も良い結末を迎えることになるのでしょうから」
「ミスランディア、それはあなたの先見ですか?」
ガラドリエルは不服そうに尋ねた。
「いいや、そのような気がするというだけじゃ」
ガンダルフはひょいと肩をすくめた。
ガラドリエルとガンダルフのやりとりにやや怒りをそがれる形になったは、ふてくされたような表情で椅子に腰を下ろした。興奮はまだ収まっていなかったが、落ち着きを取り戻さないとどんどんヴァロマの思う壺になってしまう、と言い聞かせては無理やり呼吸を整えようとした。
「ガンダルフ、残念ですけど、その予感は外れたようですよ」
叫びださないよう殊更ゆっくりとは言葉を紡いだ。
「認めるだなんだとは言いましたけど、言葉のあやのようですもの。わたしは二十年も生きていない若造ですけど、これでも巫女としてガイアや精霊たちと付き合ってきた自負があります。彼らがどんな務めを持っているか、その大いなる力をどんなことになら使えるのか、あるいは使えないのかをわかっているつもりです。ガイアやナセが行方知れずになったわたしを案じたことでしょう。そのことは、本当に、申し訳ないと思いますし、ありがたいと思っています。でも、だからって、これはやりすぎじゃありませんか!」
は涙目でヴァロマを睨んだ。
「泉の君の作業の邪魔は、何人たりともしてはいけないはずです。権力で押さえつけましたか?このことを他の方々が知ったら、決して黙ってはいないですよ。わたしもすぐにでも戻って泉の君に謝らなければいけないわ。それでもきっと、お許しにはならないでしょうけど」
は口惜しさや悲しさでごちゃごちゃになってしまった頭を必死に動かした。
望みがあると思った。
祝福はされなくてもわかってもらえると思っていた。
だが、ヴァロマはが戻らざるを得ない事態を引き起こしてきていた。
これが好意から発生した偶然だと思えるほど莫迦ではない。
確信犯だ。
半ば信じられない思いではヴァロマを睨み続けた。
ヴァロマが好きだった。結局恋になることはなかったが、大事な存在であることには違いなかった。
これから先がどうなろうとも、その思いは生涯変わることはないだろうと思っていた。
なのに、最初から認める気などなかったのだ。
はこれほどひどいしっぺ返しをヴァロマから返されたことはなかった。
少なくとも彼はの話を考慮に値しないという態度を一度も見せたことがなかったというのに。
相手がレゴラスだというのがそんなに気に入らないのだろうか。
それとも単に自分が結婚するということにたいしてなのか。
どちらにしても、それがそんなに悪いことなのだとは思えなかった。
なのに拒絶される。
こういうときはヴァロマを恨んでもいいのだろうか。
それよりも、疑いもなく許されるはずだと思い込んでいた自分の甘さを呪うべきだろうか。
だんだん自分が情けなくなってきて、はしゃくりあげた。
「誤解があるようだけど、姫が行方知れずになった件に関するあらゆる事情は泉にはすべて伝えてある。その上で協力するかしないかは彼女自身に決めさせた。前代未聞だと驚いてはいたが、泉は進んで糸をほどいたのだよ。彼女の仕事の重要性をわたしがわかっていないと本気で思ったのなら、反省するのだね。あまりひとのことを見くびらないことだ」
ヴァロマは涙にぬれるの頬を袖で優しく拭った。
変わらない仕草にはますます泣けてくるのだった。
「さあ、わたしもここに長くは留まれぬ。選びなさい。これをどうする?」
力ある快い声に促され、は糸に目をやった。
涙でにじんだままぼんやりとそれを眺めた。
(…泉の君に返して、切ってもらってください。そう言ってしまって良いのだろうか。
それで本当にすべてが終わるのだろうか。
でも、運命はわたしの手でどうこうできるものじゃないんだもの。渡されたって、どうすることもできない)
は向かい側に座っているレゴラスに視線を向けた。
彼はやや青ざめた顔で、痛いほど真剣にを見つめている。
「さあ、どうする?」
ヴァロマが問う。
(…他にどうしようもない)
はつばを飲み込むと恐る恐る口を開けた。
言葉を発するのをこれほど恐ろしいと思ったことはなかった。
「この糸は、泉の君に…」
声が震えて続けることができなくなった。
は何度も空気を求めてあえいだ。
怖くてヴァロマの目が見られない。
「…ん?」
ヴァロマは先を促す。は自分が追い詰められた兎のようだと思った。
は逃げ出したい思いを必死に堪えて、何とかヴァロマに向き直ろうとした。
「…ナセ」
目の前の人物は自分と同じ姿をしている。定まった形を待たない[彼]は、気まぐれに姿を変えた。それでも変わらないのは長い時を経てきたもののみが持つ眼差しだった。
ふっとは力が抜けてゆくのを感じた。
この眼差しにずっと見守られてきていたのだ。
[彼]がどういう結果を下すかは、自分の知るところではない。
だが最後まで信じようと思った。
これまでそうしてきたのではないか。
なぜ今更それができなくなっていたのだろうか。
信じるのだ。
「これはナセに委ねます。最も良いと思うようにしてください」
笑顔すら浮かべては言い切った。
ヴァロマはわずかの間少女を無言で眺めていたが、しばらくして
「承知した」
と静かに頷いた。
ヴァロマが錘を取り、伸ばされていた糸を丁寧に巻き取ると袖の中に戻した。
「これで姫の運命は定まった」
「どうなったんです?」
「わたしはここに降り立つ前にガイア、ヴァラールとそれぞれ話し合いの場を持った。どこまでなら彼らの協力を得られるのか、どこまでならわたしが独断で決定してもいいのか、それを決めるために。繰り返すけどここはガイアではないから、わたしはそうそう勝手な真似はできないのだよ。姫が定めの糸をわたしに託した場合も既に決められてある」
「はい」
緊張した様子では頷いた。
周りの者も固唾を呑んで見守っている。
「結果はすぐにでもわかるがもう少しだけ待っておいで。さあ、レゴラス・スランドゥイリオン、次はそなたの番だ。そなたの覚悟とやら、見せてもらおう」
声音は平坦だがレゴラスの正式な名を呼ぶあたりにヴァロマの棘が見え隠れする。
これは挑戦だった。
たとえの選択が中つ国に残れるものだったとしても、飲まねば彼女は連れ戻されるのだろう。
レゴラスは握り締めたままだったビンに目を落とすと、確認するようにヴァロマに尋ねる。
「は、ここに残れるのですか?」
「そなたがわたしの要求するものを首尾よく差し出せたなら」
それを肯定の意味だと受け取って、レゴラスはビンの栓を抜いた。
は胸がざわざわとし、いても立ってもいられなくなった。レゴラスのそばまで駆け寄り、不安げにヴァロマを振り向く。
「…どのくらい時間がかかるの」
「夜が三度明けるまでには目覚めよう」
「ずいぶんかかるんですね」
思わずレゴラスが言うと
「文句ばかりいうでないよ。本当ならもっとかかるところを、ここまで短くしたのだから」
いやなら飲むな、と言外に告げてヴァロマは露骨に顔をしかめた。
レゴラスは「飲むよ」とに囁き、彼を案じて泣きそうになっている少女の頬にキスをした。
「じゃ、三日後に」
レゴラスは小さく微笑むとビンを呷って中身を飲み干した。
瞬く間に眠気が襲ってくる。エルフの常として目を開いたまま、彼は眠りに落ちた。
「寝台に運んであげなさい」
レゴラスが深く眠り込んだことを確かめて、ヴァロマはアラゴルンに促した。
が二人いるという状況のこの部屋に侍従を呼ぶわけには行かず、アラゴルンはファラミアに近くの寝室を整えるよう言いつけた。エオメルとハルディアがレゴラスを運ぶ手伝いを申し出る。
「…中身が何かは知りませんけど、後遺症とかは出ないですよね?」
はレゴラスの頭を膝に乗せ、金色の髪を梳きながら心もとなそうに首をかしげた。
「彼にとって不都合なことは何も起こらないはずだ。なくすのも、忘れるのも一つの事柄に関してだけだから」
「…忘れる?」
は聞き捨てならないと眉を寄せた。
「それの中身はレテ川の水だから」
何でもなさそうに答えるヴァロマに、は動きを止めた。
瞬きも忘れたように呆然と目を見開く。
「いま…なんて…」
掠れた声で半神に問う。
「中身はレテ川の水だから」
[彼]はゆっくりと言い諭すように答えた。
は目に見えて蒼白になり、かたかたと震えだした。
あえぐように二、三度口を開け、大粒の涙が零れ落ちた。
悲鳴が響き渡った。
胸が裂けんばかりの絶望の声。
レゴラス、レゴラスと気が触れたように繰り返す少女に、ヴァロマ以外の一同は何が起こったのかわからずヴァロマと少女を交互に見交わす。
「何をなさいました」
エルロンドが少女の尋常ではない様子に表情を固くする。
「レテ川というのは死者の国の入り口を流れる川で、定命の者は死んだあと、生前の事を忘れさせるために飲まされるのだよ。わたしくらいの者ならば効きはしないが、格の低い精霊なら充分効力を発揮する」
つまり、エルフにも効くという意味だ。
「なっ…!」
一同の驚きをよそに、ヴァロマは淡々と説明してゆく。
「もちろんすべてを忘れさせるわけにはいかないから、薄めて成分を調節した。彼が目覚めた時には、余計なことは一切覚えていないだろうよ」
ヴァロマはじっと錯乱するに目を注いだ。
余計なことと言うのは彼女のことか。一同が同じことを胸のうちで考えた。
「それがあなたのやり方か!こんな…だまし討ちのような行いが!!」
エオメルが憤然と立ち上がり、少女の姿をした異界の神につかみかかった。
ぎりぎりと締め上げられていることになど興味もない様子でヴァロマは言葉を続ける。
「こちらの世界で何が起きているかわたしにはわからなかった。だがこちらではわが力は使えぬだろうと思い、ガイアの諸神精霊の持つさまざまな道具を借り受けてきた。アルダに来て姫がレゴラスと共に生きることを望んでいると知り、わたしはレテの水と命の糸を使うことを決めた。それがもっとも良いと判断したからだ。
なぜならわたしはガイアの諸神の一人、エルの子らであるそなたらのためには一切力を使えぬ。そしてわが行いのためにそなたらのただの一人といえども損失を与えてはいけない。つまり、姫を連れ戻せばレゴラスが嘆き死ぬとわかっているのだから、そうすることはできなかったのだ。レゴラスが姫に執着している以上は」
の嘆きの声は続いていた。にもかかわらずヴァロマの声は誰の耳にもはっきりと聞こえた。場違いなほど涼やかで力強く、快い。
「だから記憶を消すと…?」
エオメルは呻いた。
「もともと姫もわたしも、そなたらとは会うことはなかった」
ヴァロマはエオメルを見あげた。本来なら[彼]の方がエオメルよりも背が高いのだがの姿をとっているためそうなってしまう。少女の形をした力の塊の目を覗き込む形になったエオメルは力を失ってへたり込んだ。何かされたわけでもなく、[彼]も何もする気もなかったのだろうが、茶色の瞳の奥にある圧倒的な存在感に打ちのめされたのだ。
「…それではどうなるのです?このまま連れ帰っても今度はが嘆き死ぬことになるのではありませんかな?からも記憶を奪うおつもりか」
ガンダルフが立ち上がった。
「それについても考えてある」
ヴァロマはエオメルに一顧だも与えずすたすたとの後ろに歩いていった。
レゴラスを抱え、泣きじゃくり、繰り返し夫の名を呼ぶ少女を見下ろす。
「この子をこのままここには置けぬ。指輪の傷はガイアの娘の天命を削った。たとえ傷が癒えても長くは生きられぬ。ガイアに戻っても巫女には戻れず、ただ失意と絶望の中ゆるゆると果てるだろう。だがね、」
名前を呼ばれては声を詰まらせた。ゆっくりと顔を上げ、後ろに立つヴァロマを見上げる。
「そうすることもわたしの本意ではないのだよ。わかるね」
少女は何の反応も見せなかった。
ヴァロマは袖から錘を出し、糸端をするりと伸ばした。そして、
「定命の人の子よ、わが愛する娘よ、ガイアが待っているよ」
微笑んで糸を引く。
ぷつり、と音がしたような気がした。
同時に少女の身体が傾いだ。
「ナ…」
呼びかけは最後までなされることはなく、少女は不思議そうにヴァロマを見上げたまま動かなくなった。
「壊れた器から解き放たれよ。これが我が審判ぞ」
ヴァロマはの目を閉じさせた。そうすると少女は泣き疲れて眠ってしまっただけのように見えた。
耳が痛いほどの沈黙が部屋を支配した。
「……?」
フロドは呆然と呟いた。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
ただ彼女を起こしたほうがいいという考えが浮かんだ。
このままでは少女はレゴラスと離れ離れになってしまうから。
立ち上がると、おかしいほど身体がふらついている。
ヴァロマがレゴラスをどかし、の小柄な身体を引きずり出しているところに近づくと、力なく垂れ下がる少女の手を取った。
「…」
そのままくい、と引っ張った。
「起きて」
「起きぬよ」
時をおかずヴァロマが答える。
「死んだのだから」
「…死んだ…?」
言っている意味がわからないと、フロドは思った。
さっきまで泣いていたのに。
「…死んだ…?」
「そう。でも悲しむことはないよ。ガイアにおいても死は定命の子に与えられた恩寵なのだから。この子は解放された。もうどんな痛みも感じることはない」
ヴァロマは片腕に今の自分と同じ背格好の娘を抱え、もう片方の腕で見えない誰かを引き起こすような仕草をした。
「さあ、行くよ」
その見えない誰かに声をかけると、ヴァロマは扉に向かって歩き出した。
「お…お待ちください」
アラゴルンは混乱する頭を抱えたままよろめくように立ち上がった。
「…は…」
「死んだといっただろう」
涼やかにヴァロマは答えた。
「レゴラスは!」
「三夜のうちに目覚める。生きるに不要な記憶を失って、な」
「なぜです!?」
アラゴルンは絶叫した。
「これで綺麗に決着がついたろう?」
ヴァロマがの愛らしい顔で微笑む。
「レゴラス殿が目覚めたら、・アルフィエルは生き返していただけるのですか?」
ガラドリエルが立ち上がり、青ざめているが毅然とした表情で尋ねた。
「あいにくだが、わたしは人の子の生死には関わっていない身でね。がわたしに糸を委ねてくれなかったら、さっきのこともできなかったよ」
ヴァロマは微笑んだまま一同を見渡すと、片腕に少女の亡骸を、もう片方の手には見えない何かをつかんだまま優雅に一礼した。
「わが目的は果たされた。わたしはこれで失礼しよう」
そして後ろを向くと、ろうそくが吹き消されるように姿が掻き消えた。
部屋に残ったのは呆然とした人間たちとホビット、苦汁を隠しきれないエルフたちだった。
魔法使いは沈黙を守り、眠りの中にいるエルフの親友たるドワーフは悲しげに頭をうなだれた。
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