「…起きた?」
「そのようじゃの」
まだまどろみの中にいたレゴラスはその声で覚醒した。
一つ瞬きするといっせいに周囲の気配が動いた。ふらつく頭を抱えて身体を起こすと、レゴラスは自分が大勢に囲まれていることに気付いた。
「レゴラス!」
「レゴラス〜!」
「うわっ!」
メリーとピピンが叫びながら突進してきた。
いつもならこれくらいはどうということもないのだが、寝起きのため、とっさに受け止めることができなかった。レゴラスはメリーとピピンごと寝台に倒れこんだ。
「一体どうしたんだい!?なんでこんな時間に大勢がいるの?」
自分の両腕にしがみついて号泣する小さい人たちを宥めながらレゴラスは混乱して叫んだ。
部屋の中にはホビット四人、親友のドワーフ、魔法使い、結婚したばかりのゴンドールの王夫婦。裂け谷の領主とその息子たち。ロリアンの領主夫妻と彼らの警備隊長。執政とローハンの王とその妹というそうそうたる顔ぶれがそろっていた。時刻はよくわからないが、窓の外は真っ暗だった。
皆、一様にレゴラスに注目している。大抵は気遣わしげな、心配そうな表情だが、何人かは口惜しげな、怒っているような表情だった。
ただならぬ雰囲気にレゴラスは落ち着かなくなる。
「レゴラス、あのな、大事な話がある」
アラゴルンが慎重な口ぶりでレゴラスの肩に手を置いた。
レゴラスは訝しく思いながらも周囲を見渡した。
「お前が眠り込んだすぐあとのことなんだが…」
「はどこ?」
そして天使は舞い降りた
「覚えてるのか!?」
アラゴルンが叫ぶと同時に皆が急にざわつきだした。
「何をわけのわからないことを言ってるんです。それよりもはどこです。皆がいるのに、どうして彼女だけいないのですか?」
レゴラスは妻の名を口にすると少し落ち着きを取り戻した。もうずっと長い間その名を呼んでいなかった気がする。
無性に会いたくなり、レゴラスは寝台から降りた。
「ちょっと待て、レゴラス。あんたはのことを覚えているんだな?ならばヴァロマ殿のことも?」
アラゴルンの出した名に、レゴラスは顔をしかめた。
「ヴァロマ殿?…ええ。そういえば、あの方はどうしました?」
アラゴルンの表情が強張った。
「を得る条件として、お前はヴァロマ殿が出した試練を与える水を飲んだ。彼のいうとおり三日眠り込み、もうじき夜明けになる」
レゴラスの頭からすっと血の気が引いた。
思い出したのだ。眠りにつく前のことと、眠りについた後の夢のことを。
「…悪夢だった」
レゴラスは涙ぐんだ。
夢とはいえ、あれはおそらく現実に起こることなのだろう。西への憧れに胸を焦がしながら、己の時が来るまで中つ国へ留まる。時が愛する定命の仲間たちを、一人一人連れさるのをどうすることもできないまま。
「どんな夢を?」
「言いたくないよ。あんなもの」
レゴラスは袖で乱暴に目をこすった。
「そうかもしれないが…、必要なことだ。お前は、どうやら私たちがお前が失くすと考えていたものとは別のものを無くしたようだから」
「別の…?」
レゴラスは首をかしげる。アラゴルンは一瞬逡巡したが、一つ息を吐くと意を決して口を開いた。
「お前は、のことを忘れるはずだったんだ。あの水はエルフの不死の恩寵を奪うものではなく、忘却を与える水だったからだ」
「なん…」
レゴラスは大きく目を見開いてその場に棒立ちになった。
「うそ…」
アラゴルンは首を振った。他の皆も無言でレゴラスを見つめている。
「は…?」
アラゴルンの眉間にいっそう皺がよった。
この場に彼女がいないことと、アラゴルンの沈黙がレゴラスに答えを与えているも同じだった。
「そんな…」
レゴラスは小さく首を振った。こんな答えは受け入れられない。
彼がを忘れてしまえば、誓約の内容を変えずに彼女を取り戻せる。だからヴァロマはあれほど簡単に結婚を許したのだ。
だったらどうして自分はを忘れなかったのか?
考えられるとしたら、一つしかない。
西へ行かなかったからだ。
喪失感がレゴラスを襲った。足から力が抜けて立っていられない。
膝をついたレゴラスをギムリとアラゴルンが支えた。
「…」
レゴラスの頬を涙が伝う。固い石の床に落ちた水滴は点々と小さな染みとなっった。
「レゴラス殿、嘆かれるお気持ちは痛いほどわかります。あの方は…はじめからを残す気などなかったのでしょう。かの君の企みに気付けなかったこと、無念に思います」
エオメルがレゴラスのそばまで歩み寄り、膝をついた。憔悴した様子で目の周りが黒くなっている。頬も少し削げたようだ。
エオメルもを愛した男の一人である。少女が目の前で無残に命を奪われた衝撃でこの三日というもの、一睡もしていない。レゴラスのことも気がかりだった。彼が本当にのことを忘れてしまっていたらきっと彼女は悲しむだろうと思った。レゴラスには悪いが、彼がを忘れなかったのは僥倖だと思った。彼は少女が死んだことを知らない。ただ連れ去られたのだと思っているのだろう。それでも彼にとっては死んだも同じだ。二度と会えないのだから。エオメルはレゴラスに彼女の不在を悲しんでほしかった。それがの夫である彼の義務だと思った。
「ひどい、ひどい、ひどい!わ、私は恩寵を捨てたのに!もう西には行けない。マンドスも私を迎えてはくれない。それでもいいと言ったのに、あのひとは約束を破ったんだ!嘘つき!を返せ、返せ、返せ!」
身を振り絞って叫ぶレゴラスに、エルフたちは蒼白になり、アルウェンは顔を覆って泣き出した。
レゴラスは自身に起こったことを今やはっきりと理解していた。
ヴァロマが言ったとおり、レゴラスはエルフの恩寵を失っていた。ただしそれは不死ではなく、西方の地へと行くこととマンドスの館で憩う権利だった。不死のエルフは肉体が滅びると魂はナーモの住まうマンドスの館へ行く。だが人間が死んだときには本当にこの世を去るのだ。エルフの中でその運命に従ったものが過去に一人だけいた。そしてこの場にいるアルウェンもそうなるだろう。
ただし、レゴラスもそうなるとは限らなかった。彼からその恩寵を奪ったのは、異世界のヴァラなのだから。
「なぜ、レゴラスはを忘れなかったんでしょう。これもあの方の考えの内だったのでしょうか。こうしてレゴラスを苦しめることが」
フロドは嘆くレゴラスから辛そうに目をそむけた。
ガンダルフは厳しい顔つきで呟いた。フロドへの答えと言うよりも、自分に言い聞かせているようだった。
「…ヴァロマ殿は、のことを忘れるとは言わなかった。あれは忘却の水。そして失うは『生きるに不要な記憶』じゃ。恩寵の返還は忘却とは言わぬだろう」
「ではレゴラスは恩寵を奪われた上に他にも何か忘れてしまったというのですか?そんな・・・ひどい」
すがるように見上げるフロドに魔法使いは疲れたような面持ちて嘆息をついた
「わしにはわからぬ」
ガンダルフが叡智を秘めた眼差しで窓辺に目を向けた。
東の空の暗黒はわずかに薄れてきていた。
+++
「ずいぶんな言い様だ」
ヴァロマが半目になって呟くと、
「当然の反応ではなくて?」
目深にフードを被った女性があきれたように返した。
「横恋慕してきたのは彼のほうなのに」
ヴァロマは面白くなさそうに腰に手を当てた。
今の彼はの姿ではなく、通常とっている丈高い男の姿に戻っていた。
広いが閑散とした広間は色鮮やかなつづれ織りで壁中が覆われている。
何もない空間の一角が水盆のように丸く切り取られ、そこには中つ国の様子が映し出されている。
この場にいるのはヴァロマとフードの女の他に四名。ヴァラールの王マンウェ、彼の妃で星々の女王ヴァルダ、マンドスの館の主ナーモ、その妃である織姫ヴァイレ。アルダのヴァラールのうちの四人である。この六人が空間に映し出されているミナス・ティリスの様子を眺めていた。
「異世界の母君、そして世界を作り出したる方よ、あまりわが方の子らをいじめてくださいますな」
ヴァロマに並んで空間を眺めていたナーモがすっと視線を上げた。
「あら、わたくしはいじめてないわよ。今回の件を考え出したのはみーんなこの子なんだから」
そう言ってフードの女はヴァロマをちらりと見た。
「母君。賛成されたのは、どこのどなたですか」
ヴァロマは女―ガイア―を見やった。この場にいる丈高い男たちの中に立っていても遜色のないほど背の高いガイアは、ほっそりとした肢体をフードとマントに包んでいる。鼻から上を見ることはできないが、あごや唇の形が比類ないほど美しかった。
世界の母の名の通り、抑えても抑えきれない力に溢れ、この場にいるものすべてを圧倒している。
「あまりすんなり許してしまうのではあなたも、それにこちらの方たちも納得しないでしょう?わたくしだってそうよ。それにエルだって賛成したわ」
ガイアは後方を振り返った。
白い石の床に刺繍の施された布が敷かれ、の亡骸が横たわっていた。その脇には肉体から引き離されたが座っている。
ヴァロマがの身体と魂をここマンドスの館に連れてきてからというもの、は一言も口を利かずそうしていた。
ガイアが少女に駆け寄って抱擁しても唇を噛み締めて黙ったままだった。
レゴラスと引き離された悲しみと、ヴァロマに、ひいてはガイアに欺かれたという思いから彼女は外界の一切を拒絶している。
ガイアは視線を空間に戻した。
「わたくしはわたくしの子が行方知れずになるのが嫌なだけ。居場所がわかっているのなら、そしてこちらの方がわたくしの子も守ってくれるのなら、それでもいいの。好いた相手ができたなら生木を裂く気なんて無粋な真似をする気はないわ。ただ、残念ね。は本当に優れた巫女で、わたくしの前まで来ることができた数少ない地上の子ですもの。手放すのは惜しいわ。でも仕方がないわね」
ガイアの言葉に、青い衣にサファイアの王笏を持ったマンウェがに向き直って口を開いた。
「異世界より訪れし娘には、われらの恩寵を与えることができなかった。本来ならば。だがサウロンが作りし指輪は、娘の運命もまたアルダに絡めとることとなった。娘もまた指輪所持者である。この功により、また不幸なめぐり合わせにより、われらは他の指輪所持者同様、娘がエルダマールに住まうことを許そう。この地に暮らすものは悲しみを忘れることができる。ただしスランドゥイルの息子レゴラスはここに来る資格を失ったので、共に暮らすことはできぬ。もしくは、娘が望むのであれば中つ国へ戻っても構わない。だがルシアンの時と同様、生命と喜びは保障されるとは限らないが」
マンウェの声はさざなみのように広がった。
一同が少女の一挙一動に眼差しを注いでいる。
しばらくうつむいていたは、ぼんやりと顔を上げた。
「この身体は、もう使えません。たとえ戻ってもおぼろなこの身では夫を抱きしめることができません」
話しているうちにの顔に赤みが戻ってきた。
たとえ死のうと、異世界の神々の前であろうと、鍛え抜かれた魔女としての矜持がただ状況に流されることを拒んだのだ。
「ですが、ええ。わたしは中つ国へ戻ります。身体がなくても、レゴラスのそばにいられるのなら、そちらを選びます。一人にはさせません。愛しているんです」
自分の遺骸の前で背筋を伸ばして座る少女に、ヴァルダは微笑みかけた。
「異なる世界の娘の、なんと気丈なこと。いいえ、身体ならありますよ。ガイアがすべて手配済みです」
「お姉さま?」
ガイアのフードの下からみえる唇は笑みの形になっていた。
「お嬢さん、ようやくこっちを見てくれたわね」
の「姉」発言にヴァラールが互いに顔を見合わせたことに気付いて、ヴァロマが注釈を入れた。
「母君はが自分のとこに来てくれたのがあんまり嬉しくて、姉と呼ばせていたんです。母よりも親しい感じが出るからだとかとかなんとか。ずるいよなあ、特別な呼び名はわたしの専売特許だったのに」
おしまいにはぼやいたヴァロマを、ガイアは軽く流した。
「はいはい、それで?中つ国に戻るのでいいのね?」
はしっかりと頷いた。
「はい!」
「決まりね」
ガイアの言葉にナーモは頷いた。
「運命はかく定まりました。ガイアの娘御・アルフィエルの帰還及びエルダールが
一人、レゴラス・スランドゥイリオンとの婚姻を我ら一同認めることにいたしましょう」
死者の家の管理者、霊魂の召喚者、そして運命の宣告者であるナーモは厳かに告げた。
「さ、でははじめましょうか。ヴァルダ」
ガイアがヴァルダを引き連れてを別室に連れて行くのを横目で見ながら、ヴァロマは懐からの命の糸を取り出した。それを気の進まないように手の平で何度も転がす。
ナーモのそばに控えているヴァイレが苦笑するように微笑んでいた。
「はあ…」
苛立ったように頭をかきむしり、次には目頭を強く抑えると、彼はずいとヴァイレに腕を伸ばした。
「…ヴァイレ…お願いします」
「確かに、お受けいたしました」
ヴァイレは糸を受け取ると一礼して部屋を退散した。
彼女の機織機には、異界の糸が一本加えられることになった。
「最後はヴァロマ殿にお任せしたほうが良いでしょうな」
ヴァイレを見送り、マンウェがヴァロマに含みを持った視線を流した。
「当然。他に譲る気はないね」
ヴァロマは中つ国の様子が映っている空間を一瞥してその場を離れた。
「ああ、そうだ」
途中で歩みを止めて振り返る。
「マンウェ、あなたたちヴァラールは違うようだが、わたしたちガイアの神々は涙を流すことができないんだ。代わりに、空が泣いてくれる」
「では、お二人が戻られた後のガイアの天気は大荒れでしょうな」
マンウェは世間話をするような口ぶりで返した。ヴァロマが皮肉げに唇の端を上げる。
「そう、嵐だ。きっと何日も続くだろうね」
その一瞬後、ヴァロマは何事もなかったかのように真顔に戻った。
「すべてが終わったらもういちどこちらへ寄らせていただく。の遺骸は親元に返したいのでね。とりあえず…世話になった」
「いや、こちらとて大いに興味深かった。一度くらいならばこういうことがあっても良いだろう」
マンウェが頷く。
ヴァロマは踵を返すと片手を挙げて立ち去っていった。
+++
ミナス・ティリスの第七階層の一室からは途切れることなく嗚咽の声が聞こえる。
朝が来て、日が高くなってしまったのでどうしても仕事に戻らなければならない者が部屋を出て行った。他にもレゴラスがあまりにも悲嘆に暮れているので、ガンダルフが若い者たちに一度外に出ているように命じた。その「若い者」の中にはエルラダンとエルロヒアが含まれていたり、年齢的には彼らよりもずっと若いギムリが含まれていなかったりした。アルウェンも外にでるよう言われていた一人だが、断固として首を振った。
見過ごしておけないとゴンドールの王妃は言った。
「レゴラス、まさか死んじゃわないよね」
ホビットと裂け谷の兄弟は誰からともなく中庭に出て、三々五々に座り込んでいる。
ピピンが鼻をぐずぐず言わせながら膝を抱えた。
それには答えずエルフの双子たちは完全に打ちのめされたように寝転がった。
「ああ…レゴラスの声が頭から離れない。私まで悲しみに引きずられそうだ」
エルラダンが言うと、
「異世界のヴァラの厳しいこと。何も…殺すことないじゃないか」
エルロヒアが仰向けになって顔を覆った。
「レゴラスには言えないよなあ」
「知ったらマンドスの館に直行しそうだ。今ですら危険なのに」
「ですが…あの」
サムがおずおずと切り出した。
「レゴラスの旦那は、マンドスの館には行けねえって言っておりましただ」
双子が片肘をついて身体を支えると、深く息をはいた。
「そうみたいだね」
「大問題だよ」
その後は皆、無言になった。暖かな陽だまりの中で時間だけが刻々と過ぎてゆく。
「……」
ふっと、双子の片割れが立ち上がった。
「ラダン?」
「ロヒア、あれ、見えるか?」
エルロヒアは兄が指差す先を眺めた。そしてあんぐりと口を開ける。
「嘘だろ…!?」
エルロヒアが叫んだ。
「どう思う。罠か?」
「どうしたんです?」
太陽の方向を見ながら騒ぎ出した双子にフロドが尋ねる。
「ああ、君たちには見えないか…。いや、白鳥が…」
「アルフィエルと同じ白鳥がこっちに向かってきてる」
「ええ!?」
ホビットたちが一斉に空を仰いだ。
双子の言葉通り、しばらくするとホビットたちの目にもミナス・ティリスに向かってくる白鳥の姿を捉えることができるようになった。
「!?」
「だ!」
わあわあと小さい人たちが騒いでいる間に双子たちはレゴラスを呼びに駆けていった。
ほとんど時を置かず、レゴラスは中庭に飛び出してくる。その後にはレゴラスに付き添っていた者たちが追ってきた。少し間を置いて仕事に戻っていたゴンドールとローハンの王たち、執政が走ってくる。
そして空を見上げて呆然と立ち尽くした。
白鳥はミナス・ティリスの上空まで着くと徐々に高度を下げてきた。
大きく翼を羽ばたかせ、レゴラスの目の前にゆっくりと下りてくる。
彼が両手を広げると白鳥は器用に羽を畳み、すっぽりとレゴラスの腕の中に納まった。
白鳥は長い優美な首を涙で濡れたままのエルフの頬に摺り寄せた。
「ただいま、レゴラス」
くちばしから流れる声は、のものだった。白鳥の姿は以前と変わらない。だがその翼はさらに白さと輝きを増していた。
「…本当に君なの?」
「ええ、わたしよ」
「連れ去られたと…」
白鳥はくりんと首を傾げた。レゴラスの脳裏にはその仕草をする少女の姿が鮮やかに思い出される。
「そうじゃないわ。わたしは、死んだの」
「死・・・?」
レゴラスは途端に不安と恐怖に慄いた。
「でも、戻っていいって。わたしも指輪所持者だったから、恩寵をあげるって。エルダマールに住むか、中つ国に戻るか、どちらか選びなさいって」
「誰がそれを言ったの?」
「マンウェという方。でも他のヴァラールも了解済みだったみたいだし、ガイアもナセもグルだったわ。というより、ナセが首謀者でガイアがそれに協力した感じだった」
レゴラスは開いた口がふさがらなくなった。
「それじゃ…それじゃ…あの試練は何だったの!?」
「それはちゃんと関係あるの。あれは夢だけど夢じゃない。レゴラスが海を渡っていたら、本当にわたしのことを忘れてしまったのですって」
失うものを選ぶことがヴァロマの仕組んだ夢の真実。
を忘れてしまえば、レゴラスは彼女と出会う以前の彼に戻り、いつか西へと渡るのだ。
それはレゴラスにとっては優しい忘却かもしれない。
だがもしどうあっても忘れないのであれば、彼は永遠に中つ国に残される。エルフの時代は終わり、人間の世となってゆくこの地に…。
そこまで理解が及んで、レゴラスは深く息を吐いた。
(あのひとは…)
敵わないなと一人ごちると、レゴラスはを抱きしめる腕に力を込めた。
「はもういなくならない?」
「ええ、ここにいる。レゴラスのそばに。永遠に」
「永遠に?」
レゴラスが顔を上げると、白鳥は再び首をすり寄せた。
「新しい身体の具合はどう?」
ヴァロマはが新しい身体を得ると、マンドスの館から中つ国まで一気に飛んだ。
着いた先はアンドゥインの上空。薄い帳で隔たれており、その上に立っている。
普通であれば空気は薄く、風も吹き荒れているであろうが、帳のおかげか寒くもなければ風も吹いていなかった。
「なんか…馴染むまで時間がかかりそう」
ガイアがヴァリノ−ルの土をこね、ヴァルダが星の光を注いで作ったそれは、人間だった頃よりも数段丈夫にできているようだった。
動かしてみるのもそこそこに横抱きにされて今に至る。
「そう、まあ時間は充分あるのだから大丈夫だろう」
「…うん」
「意味、わかっていないね」
ヴァロマはにやりと笑った。
「え?」
「その身体、年をとらないよ。エルフと同じというわけではないが、まあ、不死であるという点では似たようなものだろう」
「…!」
「病を得ることもない。ただしエルフが死ぬ程度の傷を負えば、その時はその入れ物も壊れる」
「ちょ、ちょっと待って。どうして!?」
戻れるだけで充分だと思っていた。新しい身体を得られると知って、これ以上望むべきもないと思った。
はじっとヴァロマを見つめた。ヴァロマはいつもの表情の読めない微笑みを浮かべる。
「わたしが断腸の思いでを手放すというのに、百年もしないうちにあいつに死なれたら癪だからさ。彼には生きてもらう。、君にも」
「ナセ…!」
の目に涙が溢れた。
「それから、帰郷を断ったことを後悔させるために。これから君は何度も、ガイアを、わたしを、君が捨てたものすべてを思って泣くよ。千年の十倍の時が過ぎても、忘れることはできない。わが愛する巫女よ、これがわたしのはなむけ。そしてわたしの呪いだよ」
はヴァロマにしがみついて大声で泣いた。
「ナセ、ナセ!ごめんなさい。ごめんなさい」
「、さあ、別れの時間だ」
ヴァロマは泣きじゃくる少女を引き剥がす。
「待って、お願い、もう少しだけ…!」
嫌々と首を振る少女をヴァロマは構わず帳の下へ押し込んだ。
帳を突き抜けた途端、は白鳥へと姿を変じた。
羽ばたくのも忘れて仰向けに空を見上げる。
空には小石が投じられた水面のよう波紋が浮かび、すぐに消えた。
ヴァロマの姿はもう見ることができなかった。
「ナセ…」
白鳥のくちばしから、人の言葉がこぼれる。
「ありがとう。ごめんなさい、ごめんなさい。ナセ、ガイア!大好き、大好きよ!」
風を受けて白鳥は落下する。
「大好きよ…!」
最後にそう言って、白鳥は翼を広げた。
彼女の夫が待つ、白い都へ行くために。
「が不死になったか…」
の話を聞き終えるとガンダルフが考え込むように呟いた。
「またずいぶんと大胆で豪快な贈り物をもらったことじゃのう。それがお前さんにとって幸いなことであるとはわしには言えぬ。エルフの時代は終わり、美しいものはそのほとんどが西へと去って行くことになろう。そしてお前さんと同じものは他にはおらん。それは思うよりもずっと辛いことになるじゃろう。まさに祝いであり呪いじゃの」
「ええ、でも」
はレゴラスを見あげた。
「一人ではありませんから」
レゴラスは目を細めて微笑み、柔らかな白い羽毛にキスをし、高らかに宣言した。
「そうです、一人にはさせませんから!」
「ねえ、ところでさ、はずっと白鳥のままなの?もう元には戻れないの?」
ピピンが叫ぶと、他の一同がようやくそれに気付いたように白鳥に注目した。
「戻れるわよ」
がすぐに答えると、レゴラスはぱあっと表情を明るくした。
「良かった!白鳥のも好きだけど、乙女の姿が見られないと寂しいもの。戻ってよ!」
「あ、今は無理」
「なんで?」
一瞬の間の後、はレゴラスの耳にくちばしを寄せた。
「だってわたし、服を着ていないんですもの」
ビルボからフロドへ、フロドからサムワイズへと渡され、サムワイズが西へ渡る際に娘のエラノールに与え、彼女の子孫である髪吉家に伝えられた赤表紙本には指輪戦争で起こった多くのことが記されている。
指輪の仲間のその後については多くを割いてはいないが、レゴラスとについてはこう書かれている。
サウロン滅亡後、レゴラスは緑葉の森のエルフたちを連れてきた。彼らはイシリアンに住まったので、この地はふたたびすべての西方諸国の中でも最も美しい国となった。
また、指輪戦争の最中に鴎の声を聞いた彼は西への憧れに囚われていたが、奥方を取り戻す試練を受けたあとはそれが収まり、二度と心を騒がすことがなかったという。ガンダルフが言ったことには、必要がなくなったから忘れたのだろうとのことだ。
・アルフィエルは人間とエルフの間に立ち、両種族の架け橋となるべく忙しい日々を過ごした。また彼女は貴重な知識の持ち主として、ゴンドールの復興にも手助けしたという。
彼らの間にはエルフと人の魂を持つ不死の乙女の血を引く子供たちが生まれた。
だが第四紀百二十年にエレスサール王が崩御し、その数年後に燦光洞の領主であるドワーフのギムリが遂に永遠の眠りにつくと彼らはめったに森から出ることもなくなった。
年月が過ぎるごとに、エルフの姿を見ることはなくなり、イシリアンの森は徐々に閉ざされていったということである。
だが今でもそこに彼らがいるのか、それを伝える記録はない。
《 完 》
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