は天にも昇る心地だった。
ハルディアに思いを知られてしまった時には恥ずかしさのあまり消え去りたいと思ったほどだったが、彼は猶予をくれたのだ。子供の自分の思いなど、本気にされないだろうと心配していただけに――だからこそまだ口にするつもりはなかったのだ――喜びはひとしおだった。
そしてこれまで聞くに聞けないでいたハルディアに関することも色々と聞かせてもらうこともできたので、一気に彼との距離が縮んだような気もしている。
は遅い朝食を部屋で取ると――その間もずっと頭がぽうっとしていたので味もわからないほどだったが――これからのことに想いを巡らせた。
どうしたらもっとハルディアに近づけるだろうか。
きっと一緒に過ごす時間は多ければ多いほど良いのだろうが、にはその時間を己の手で捻出することが難しかった。
ハルディアと会えるのは、父の都合次第。そして己の立場では自分から彼のところへ行くことはできなかった。いや、は馬に乗ることはできるのでその気になればハルディアの住むシルヴァンエルフの郷に行くことはできるだろう。だがその行動は両親に心配をさせ、ハルディアに迷惑をかけてしまうだけだ。
は駆け落ちがしたいわけではない。愛する人と祝福をされて結ばれたいだけだ。そして両親はがハルディアのことを好きであると知っているが、そのことについて反対はしてこない。ハルディアのことも信頼しているように見える。だからが大人になり、その頃までにハルディアが自分を好きになってくれていれば、難色を示されるようなことはないと考えていた。その未来を勝ち取るためにも無謀な行動は慎むつもりでいる。
だがそうなると、やはり最初の葛藤に戻ってしまう。
ハルディアと距離を縮めるだけの時間が取るにはどうしたらいいのかと。
「どうしたらいいと思う?」
は侍女に尋ねた。
侍女は少し部屋を出ていた間にがいなくなったので、館中を探し回ることになってしまい、が戻った時には少々お冠になっていたのだった。エルロヒアの館がいくら広いとはいえ、生まれ育った場所で今更迷子になるはずもないとは思っているのだが、両親の元を訪ねるだけでも侍女に行き先を告げてからでないと一人で行動してはいけないとされている。今は客人も多数宿泊しているということもあって、何か問題が起きては大変だと青くなっていたらしい。
その侍女はがおとなしく食事をしたことで、機嫌が直ったようだった。微笑ましいものを眺めるように目を細める。
「直に会えれば距離が近づき、互いのことがわかるとも限りませんわ。わたくしたちエルフは魂が求める相手を一目で感じ取ることができることも多いですし……」
は同意して頷いた。自分の血縁にはそうした一目惚れから婚姻に至ったという者が少なくないのだ。じっくりと愛を育んだ者たちもいるのだが、話を聞く限り、この場合でも最初からお互いのことは気になっていたようである。
「それでも愛する人に愛されないことだってあるわ。相手の人に別の好きな方がいたりして」
そして自分の場合、好きな人の好きな相手というのは自分に良く似た血縁だったりするのだ。なんとも皮肉としか言いようがない。
考えたけれど、やはり彼女が忘れられないと言われたら、は立ち上がれなくなるだろう。ハルディアの中で綺麗な思い出になっている相手とは、競うことすら難しかった。
改めて自分の恋の前途多難さにが重いため息とつくと、元気がなくなった姫君を案じて、侍女が明るげな声を出した。
「そんなに悪いことばかり考えてはいけませんよ。それよりもどうしたら好かれるか、その方策を考えてはいかが?」
「考えるといっても……」
ハルディアの好きなものや嫌いなものは知ることができたが、それだけでは具体的な行動が思いつくものではなかった。だが侍女は何か腹案があるのか、自信のありそうな様子を見せている。
「もしかして、何か思いついているの?」
侍女はくすぐったそうな笑みを浮かべた。
「特に名案というわけではありませんが、姫様のような方には文通というのが一定の効果をあげるのではないかと思いますの」
「文通?」
「はい。つまり手紙のやりとりをすることです。これでしたらエルロヒア様も使者を出してくださるのを許してくださるのではないかと思います。ご自身も時折手紙を言付けていらっしゃるようですから」
「手紙、かぁ……」
は住む場所が変わったこともなく、エルフの子供は希少なため、対等な友という存在がいなかった。父か母が親類などへの手紙を書く際に、自分にも一言書くように要請されることがたまにある程度なので、の方から手紙を書くという発想はなかったのだ。
「ハルディアに手紙を書いていいか聞いてみるわ」
は顔を輝かせて侍女を見上げた。それから名案を教えてくれた侍女に礼を言う。
「だけど、やっぱり一緒にいたいという気持ちも強いの。これはどうにかできそう?」
侍女ならばいい思いつきを教えてくれるのではないかという期待を込めて彼女を見上げる。しかし侍女は困惑したように頬に片手をあてた。
「それはさすがに……。ハルディア殿に近くに越してきてくださいなどと頼むのは不躾すぎるでしょうし」
「ハルディアが近くに? そんなことになったら嬉しくって、毎日通ってしまいそうよ」
侍女の予想外の思いつきに、はきゃあと声をあげる。実現しないだろうとはわかっていても、もしもハルディアが近くに越してきたらという想像の話をひとしきりして侍女と二人で笑いあった。
「ああ、でも本当のことにならないのが残念だわ。ハルディアと一緒に散策したり、星を見たりしてみたい」
そして自分から口にするのははしたないといわれそうなので黙っていることにしたが、馬に相乗りをするということも実はしてみたいのだ。
「それくらいでしたら、庭に誘えばよろしいのでは?」
「お庭ではダメよ。誰かに会ったらその人と何か言葉を交わさないと失礼だもの。わたしは半日のさらに半分だけでもいいから、ハルディアと二人だけでいたいの」
部屋に行けばそれは可能かもしれない。だが男性の部屋に押し掛けるのは若い娘のすることではないと教え込まれているため、実行するにはためらいがあった。朝方の行動は、もしかするとハルディアが今後は自分と会うのを避けるのではないかという危機感があったからできたことなのである。
「こうして考えてみますと、案外と難しいものなのでございますね。エルロヒア様のお茶会では、室内での歓談以外にも戸外でのご予定もございますけれど、他のお客様方も一緒ですし……」
前回は日暮れ後に庭にテーブルを並べ、星明かりの下での宴となった。格式張らない気楽なものは主の性格を反映したもので、天上のほのかな銀色の明かりに照らされた庭を散策するために入れ替わり立ち替わりし、テーブルには一時間として同じ顔ぶれが並んでいることはなかったのだ。招待客には夫婦での参加もあったので、その場合は夫婦そろって行動しているようだった。時折父や母から誘われる以外、テーブルで退屈な思いをしていたはそんな夫婦客をうらやましく見つめたものだった。
「ああ、せめてお庭でなければ良かったのに」
庭ではなくどこか別のところだったら、行きや帰りの時間にハルディアと接触する時間があったのではないかとはこぼす。館の庭ではいくら広くても各自の部屋まで戻る距離はたかがしれているので、別れるまでがあっと言う間なのだ。
「庭で出来たことを別の場所で行うのでしたら、それはピクニックではございません?」
「ピクニック?」
「ええ。軽い食事などを持って大勢で行くんですよ。放浪の旅の縮小版といったところでしょうか。どのようなことができるかは目的地次第ですけれど、散策はもちろん、馬で行くのでしたら駆け比べをしてみたりですとか。歌を歌うことはどこでもできますけど、数日滞在するようであれば、夜に星を眺めることもできるでしょうね」
は勢い良く立ち上がり、侍女に抱きつく。
「わたしがやりたいと思っていたのはそういうものなのよ!」
館の外まで散策に行くことはあっても、それは侍女か家族と一緒で、日暮れまでに帰るものでしかなかったのだ。景色は美しいが見知ったものばかりなので、放浪の旅の縮小版だというそれに激しく興味がわいた。
「ピクニックって、危険なことがあったりするのかしら」
そうであるなら、頼んでも父親は許可をくれないだろう。心配になって侍女に問うと、彼女は笑顔で否定する。ほっとしては胸をなで下ろした。
「それなら、父様にお願いしてみようかしら……」
「旦那様がすでに予定をたてられているかもしれませんので、許可をくださるかどうかはわかりませんが、頼むだけでも頼んでみるのは構わないのでは?」
侍女に背中を押されるように、はうんと頷く。それからの行動は素早かった。
父の元へ行き、ピクニックに行きたい旨を伝える。
話を聞いたエルロヒアはそれも楽しそうだねと快諾してくれた。居合わせた母は、それなら料理もたくさん作ろうと言い出したので、エルロヒアが干し果実と木の実がたっぷり入ったケーキがほしいと要望を出した。
「母様、わたしもそれを作ってみたいです」
ロスマリエンの菓子は美味だと評判が高い。友人のホビットたちなどは、茶会の菓子では彼女の作ったものが一番おいしいと、毎回旺盛な食欲を見せていた。
そうでなくとも今の場面、つまりは夫が妻に好物を頼むというのはには素敵なことのように思えたのだ。おいしいものを食べるのは幸せだ。そしてそのおいしいものを作ったのが自分の大好きな人だったらきっともっと幸せだろう。
ハルディアがおいしいと思うものを自分が作れるようになったら、彼は少しはを好きになってくれるかもしれない。そう意識したときにはすでに母に手伝いの表明を申し出ていた。
ロスマリエンは娘の想いを知ってか知らずか、美しい笑みを浮かべて承諾する。準備ができたら呼びに行くということになったので、はスキップをしたい気分になりながら、父のところから退室した。入れ替わりで滞在中の客人がエルロヒアの部屋へ入って行く。これからまた歓談が始まるのだろう。大人たちの話は自分にはわからないことも多くて退屈であり、いつになったらその中へ正式に入れてもらえるのだろうという焼き餅にも似たものを覚えていたのだが、いまのからはそんな感情は綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
明けて翌日、たちは揃って馬に乗り、出発する。
前日の夕食時に今日のピクニック開催を告げ、希望者のみの参加となったのだが、辞退する者は一人も出なかった。
馬に乗ったものが多いとはいえ、人数もそれなりに多く、また時間に追われることのないエルフの常で進む速度はゆっくりとしたものだった。早足で歩くのとさほど変わらないだろう。実際に歌を口ずさみながら列の間を楽しげに歩いている者もいる。
は行列の中程あたりに小型の馬を繰って並んでいた。一人で乗るには通常の大きさの馬はまだ怖い。だが誰かの前後に乗るのは気が引けるからだ。もう小さな子供ではないという思いもある。だが口には出さないが、もしもハルディアと相乗りができるのであれば、は喜んで前でも後ろでも乗ったことだろう。しかし二人の間にある距離を考えると、ハルディアが自ら進んでを相乗りに誘うことはないだろうと思えた。
だががっかりしているということはない。自宅や親類の館などの決まったところにしか行ったことのないにとって、始めてのピクニックはそれだけでも胸が躍るような出来事なのだ。楽しみのあまり、昨夜は一睡もできないほどだったが、どうしても眠たくなったら、馬に乗ったまま夢の小道で憩えばいいだろうと楽観している。
目的地はどんな所だろう、着いたら何をしようと、は並んで進む天蓋のない馬車に向かって話しかけた。そこにはホビットが三人乗っている。彼らは馬の背に乗るのが苦手であるということで、このように移動には馬車を使うことが多かった。
ビルボは陽気な話好きで、フロドは丁寧な物腰ながら親しみやすい。サムは二人のホビットの前にでしゃばることをしないと決めているせいか、あまりしゃべらないのだが、こと草木や花、野菜のこととなると饒舌になる。
道中で三人のホビットたちとおしゃべりを楽しみ、徐々に移り変わる景色を眺めている間に時間はあっと言う間に過ぎて、気がつけばもう目的地に到着していた。
「まあ、綺麗」
林の間の道ともいえない道を通り抜けると、そこは小高い山の裾野だった。その手前には湖が広がっている。
陽光を反射してきらきらと輝く湖面がまぶしく、は目を細めた。
「館の庭にある池よりずっと大きいわ」
「そりゃあそうだろう。庭の池は作れる大きさに限度があるからね」
の素朴な感想にビルボは笑い声をあげた。
もの知らずだと思われたようで、は頬を赤らめる。そこへフロドが取りなすように話しかけてきた。
「だけどエルロヒア殿の館の池もずいぶん大きいよ。なにしろ小舟を浮かべて舟遊びができるくらいだからね」
舟遊びという単語には反射した。ぱちんと両手を打ち合わせる。
「舟! そうよ、ここに舟があればいいのに。一周するのにどれくらいかかるかしら。それにこの水の澄んでいることといったら、底まで見通せそうなくらいよ」
はしゃぐに、サムはぶるぶると身を震わせた。
「おらは湖は眺めるだけで十分ですだよ。池だの川だの湖だのというのは、おらは苦手ですだ。落っこちて溺れたらと思うと、とても近づけねぇ」
ホビットは水を苦手とし、泳ぎを知らないのだという話は聞いていた。もふと考え込む。
「そういえば、わたしも泳いだことがないから、もしもうっかり舟から落ちたら溺れてしまうのでしょうね」
「そんなことになったら、エルロヒア様もロスマリエン様も、もちろんおらたちもすごく悲しく思いますだよ。だからお嬢さんも湖には行かない方がいいですだ」
真剣な顔でサムはに忠告する。ビルボとフロドは少々大げさだと苦笑していた。
ピクニックは夜を明かしてから帰るという予定になっていたので、随従してきた従者たちが休憩用の天幕を準備する。食事などもそこへ用意し、各自に好きなものを取りに行くようになっていた。
は両親とホビットたち、それにハルディアと湖の周りの草原をのんびりと散策をする。靴を脱いで柔らかな草の感触を楽しんでいたが、足の裏を細い葉がこすれるのが予想以上にくすぐったく、踊るような足取りで飛び跳ねると、周囲から楽しげな笑い声があがった。
も楽しくなり、自然と笑みがこぼれる。わきあがる感情のまま歌を口ずさむと、ロスマリエンがそれに続いた。美しい金の髪の奥方と愛らしい黒髪の姫君の二重唱にその場にいた男たちは耳を澄ます。歌声は風に乗り、遠くまで響いていった。
妻と娘が思う存分歌い、上機嫌で口を閉ざしたのを見計らい、エルロヒアは食事にしようと提案する。ホビットたちが賑やかに賛成の意を表明したので、たちは天幕へ戻った。
存分に食べ、かつ飲むと、ホビットたちはうつらうつらとしてきたため、別の天幕で昼寝をすることにした。そしてエルロヒアは妻の手を取り、しばらく二人で消えるねとハルディアの肩を叩く。
「というわけで、うちの子をよろしく、ハルディア。、しばらくハルディアに面倒を見てもらうんだよ」
「エルロヒア様……」
気楽に頼む父親を、ハルディアは何かを言いたそうにし、だがぐっと堪えるように唇を引き結んだ。自分のことが負担になってはいけないと、ははっきりと断言する。
「大丈夫です、ハルディア。わたし、あなたに迷惑をかけるようなことはしませんから。一人で駆けだして迷子になったり、湖で溺れたりするようなことはしません!」
「……姫君」
あっけに取られたように、ハルディアはを見下ろす。エルロヒアはからからと笑った。
「ようし、ちゃんとわかっているようだね、。ここは綺麗に整えられた館の庭じゃない。一歩間違えれば怪我をすることだってあるんだ。元気なのはいいけれど、君が痛い思いをしたら、僕は辛いよ」
エルロヒアは表情を引き締めての額に口づけをする。
「始めてのピクニックを存分に楽しむんだよ。でも周りが見えなくなるほど、はしゃぎすぎないように」
「はい、父様」
の返事に父親は柔らかく微笑むと、改めてハルディアに娘を頼むと言った。
エルロヒアたちが立ち去ると、ハルディアはどこか行きたいところはあるかと聞いてくる。ははっとして顔をあげると、少し待ってくれるよう頼んで天幕に戻った。
待機している侍女に、預けていた自分の蓋付き籠を返してもらうと、は勢いよく天幕を飛び出す。
「お待たせしました。あの、わたし、しばらく散策をしたいのですけど、いいでしょうか」
背中を反らすようにしっかりとハルディアを見上げては言う。
「わかりました。まずはどちらへ向かいましょうか」
「ハルディアはこのあたりに来たことはありますか? 館にはないようなお花が見られたらいいなと思っているのですが。この辺りにも小さなものが咲いていますけど、もっとまとまって……そう、花園みたいになっているところがあればいいんですけど……」
「館にはない花の園、ですか……」
ハルディアはおとがいに手を当てて考え込む。
「群生して咲く野の花はありますが、私はこの辺りを訪れたことがないので、どこにあるのかまではわかりかねます。見つかる保証はできませんが、探してみますか?」
「はいっ」
は念願の二人きりの状況に舞い上がりそうだった。だが父との約束を思い出し、手放しで喜ぶのを堪える。だが顔は勝手に笑顔になってしまうのだった。そして先ほどから丁重な態度ではあるが、どこか堅い表情だったハルディアはふいにかすかな笑みを浮かべた。ただそれだけでぐっと優しげな印象になり、の胸は大きく波打つ。
「では行きましょうか。ああ、籠を持ちましょう。貸してください」
「いいえ、いいんです。これはわたしが持っていたいので」
見ほれてぼうっとしていたは、籠の一言で我に返る。慌てて後ろ手にすると、ハルディアは困惑したようにわかりましたと答えた。
それから二人は林の方へ行ってみることにした。湖の周りは開けており、群生する花はないというのが見て取れたからだ。
はハルディアに先導されるように歩く。木は密集しているほどではないが、行き過ぎれば湖が見えなくなり、戻れなくなってしまいかねない。
ハルディアは時折立ち止まりながら、辺りを記憶するようにぐるりと見渡す。ロスロリアンにいたときには、きっとこんな風に仕事をしていたのだろうと、は青年の背中を頼もしい思いで見つめていた。
太陽の光が弱まりかかった頃、たちはようやく群れて咲く花々を見つけることができた。五枚の花弁が放射状に広がった濃淡の違う紫の小さな花が、絨毯のように下草の間を縫って広がっている。
「すごいわ、こんなにたくさん」
は歓声をあげる。
ここへ来るまでにも木の幹に絡まる蔦から生える花や、岩陰にひっそりと咲く花など、がこれまで見たことのない花を見たが、これは圧巻だった。
「ようやく見つかりましたね」
ハルディアも満足げに微笑む。
は膝をつくと籠を脇へ置き、そっと花の香りをかいだ。ほのかに甘い香りがする。
「ここに寝ころんだら、この花の香りが移るかしら」
は膝をついたまま、ハルディアを仰ぐ。男は苦笑した。
「香りと一緒に草の汁までついてしまいそうです。ドレスを汚したらご両親に何事があったのかと心配させてしまいますよ」
「ハルディアったら、ロマンチックじゃないのね」
がぷうと頬を膨らませると、ハルディアは困ったような笑みを浮かべた。
「確かに私はロマンを理解できるとは言い難いです」
本気で受け取られては慌てた。
「でもそういうところが、ハルディアらしいと思うの」
「そう、ですか……?」
ハルディアは首を傾げた。
「ええ、そう」
はしっかりと頷く。
好きな相手に優しい、甘い言葉をかけてもらいたいという気持ちはにもある。だが言葉を大げさに飾らないのがハルディアの良さだ。
「ハルディア、ここで少し休憩にしませんか?」
籠を抱えて立ち上がる。
「構いませんよ。あそこの木がよく乾いていそうです。そこに座りましょうか」
ハルディアはの少し先を歩いて倒れた木の幹のところへ向かった。彼はマントを外すと幹にかけ、に座るように促す。だが少女はふるふると首を振った。
「それではマントが汚れてしまいます」
乾いた幹に腰掛けるだけなら、ドレスが草の汁や泥で汚れるということもなさそうだ。だから必要ないと謝絶する。
「たしかにさほど汚れることはないとは思いますが、剥がれかけた木の皮でドレスにかぎざきを作ってしまうのではないかと……。せっかくの美しいお召しなのですから、大切になさった方が、作った方も喜ばれますよ」
は赤面する。そんなことまで考えたことがなかったのだ。
「そ、そうですね」
恥入りながらはハルディアのマントに座らせてもらう。いつも彼の身を包んでいるものをお尻の下にするというのは、なんともむず痒い気分になった。
「ハルディア、あの、これ……」
「なんでしょうか」
ハルディアはが膝に乗せた籠を開けたので、中身を見ていいものだと思ったらしく、覗き込んでくる。
「母様に手伝っていただいて、わたしが作ったんです。その……良かったら、食べていただけませんか?」
「これを、姫が?」
籠の中には焼き菓子と小さな水筒、それと杯が二つ入っている。二人きりの時間がとれたら、ぜひハルディアに食べてもらおうと張り切って作ったのだ。全員に行き渡る分を作るのは大変だったということもあるのだが。
ハルディアは一言断ってからそっと籠の中に手を入れて、焼き菓子を一つ取る。は水筒を取り出して中身を注ぎ、ハルディアに渡した。味見をしたら、生地が少しパサついていたからだ。
「ありがとうごさいます。ではいただきます」
は菓子を口に運ぶハルディアを、祈るような思いで見つめた。母の指導のもと、手順通りにしたはずなのに、母が作るものとはなんだか見た目も味も違ってしまったのだ。焦げてもいないし、形が変だということもないのだが。
口の中のものを咀嚼して、ハルディアはを見やる。
「母君のご指導を受けられたとおっしゃるので、先ほどいただいた焼き菓子と同じなのだと思いましたが、生地に混ぜているものが違うのですね」
「はい。同じでは飽きてしまうかと思ったので、果物の皮を砂糖漬けにしたものを入れてみたんです。これも母様の提案だったんですけど」
「甘すぎないし清涼な香りがいいですね。おいしいです」
「ほ、本当ですか!?」
はがばりと身を起こした。急な動作にハルディアはぎょっとしたように身じろぐ。弾みで杯の中身が跳ねて服に数滴飛び散った。
「す、すみません!」
は慌ててハンカチを取り出すと、ハルディアの胸元を拭こうと腕を伸ばす。
「いえ、大丈夫です。透明なミント水なのですから、染みにもなりません」
「でも」
「お気遣いなく。それよりも、もう一切れ頂いてもよろしいですか」
の目が大きく見開く。義理で口にしただけかもしれないと思っていたが、これは気に入ってもらえたということだろうか。
「どうぞ、ハルディア。全部でも構いませんわ」
勢いよく籠ごと突き出す。ハルディアは苦笑し、かすかに首を傾げた。
「さすがに全部は……。それに姫君は召し上がらないのですか?」
「わたしは味見をたくさんしましたから。それに、胸がいっぱいで入りそうにありません」
その言葉は真実で、皆のいるところまで戻り、夕暮れの宴が始まっても、彼女は何も口にすることができなかった。
午後のことを思い返すだけで体中が満ち足りてゆく。
そして昨日はほとんど寝ていないこともあって、空が暗くなるころには、うとうととしてきた。
女性用の天幕へ行き、簡易寝台に横たわりながら、夢の小道へと心を漂わせる。木漏れ日と緑の木立、そこに佇む銀髪の男性が鮮やかに浮かぶ――。夢の中でも彼に会えたと、は唇をほころばせた。
どれくらい眠っていただろうか。が目を開けると、まだ外は夜のようだった。天幕の中に据えられた明かりは光量を抑えてあるので薄暗い。
目をパチパチと瞬かせると、もう眠気は消えてしまったので、は外へ出て風に当たることにする。それにここには館から漏れる明かりはない。きっと庭で眺めるよりもっと美しい空が見えることだろう。
天幕の中で休んでいる他の女性たちを起こさないよう、そっと抜け出す。ついと顎を開けると、満点の星空が目に入ってきた。その見事さに息を呑んでいると、ふいに小さな笑い声が聞こえてきた。
周りには夜明かしをしている者たちの黒い影がところどころに固まっている。星を愛でながら語らいをしているらしい。
風にのって途切れ途切れの会話が聞こえてきた。両親やハルディアがいるのだろうかと目をこらすが、見える範囲に彼らはいないようだった。
時間が時間だから天幕にいるかもしれないが、別のところにいるかもしれない。探してみようとは歩きだした。見つからなくても湖の波音を聞きながら散策するのも、きっと楽しいだろう。
「それはエルロヒア殿にとってはお気の毒なことだ」
しばらく歩いていると、笑みを含んだ声で父の名が告げられたので、は足を止めた。だが父の名は出たが、エルロヒアがいるわけではないようだ。そこでは数人が車座になって話をしている。
「それで拗ねていたんですね。でも仕方がないよ。恋している時は相手しか見えなくなるからね」
「で、結局エルロヒア殿は味見もさせてもらえなかったという、姫君が初めて作った焼き菓子というのを、ハルディアは食べたのかい?」
「そうらしいよ。ちゃんとおいしかったって言ってた」
「ロスマリエン様がご指導されたのならそうだろうね。でも実際のところ、おいしくなかったとしても、言えないだろうな」
「そりゃあ……」
「そうだろうなぁ。不快にさせるとわかっているもんな」
一瞬場が静まりかえった。
言えないとはどういうことかとは彼らの話に耳をそばだてる。
誰かが咳払いをして、静寂を振り払った。
「ハルディアの立場であの状況はきついだろ、色々と」
「うん。姫君は可愛らしいけれど、今の姫君にもし本気になったら、それって渡ってはいけない川を渡るようなものでもあるからな」
「ああ。だからあの好き好き攻撃にそつなく対応しているだけでも、ハルディアはすごいと思うよ。最初は堅物そうでとっつきがたい森エルフだと思っていたけど――堅物なのは実際にその通りだったけど」
わかるわかる、と誰かが相づちを打った。
「エルロヒア様に手玉に取られてあたふたしているのも、なんだかおもしろいし」
「あいつなんかより全然いいよ。ほら、アマン生まれアマン育ちってだけでやたらこっちを見下してくるいけ好かない奴。規模の大きい宴だと必ず顔を合わせないといけなくなるから、そのたびにむしゃくしゃしているんだ」
「ああ、あいつな。そりゃああいつに比べたらハルディアの方がずっといいよ。結構話せるからな」
「なあ、ハルディアがそっちの宴にも招待されるようになったら、あいつ、絡んでくるんじゃないか?」
「絡むだろうな。大体ノルド貴族の僕達でさえけちょんけちょんに言う奴だから、シルヴァンエルフ相手だったら、もっとひどいことになるだろうよ」
ひどいことになる。そう聞いては不安に胸がふさがれそうになった。
彼らがほのめかしている人物にはも心当たりがある。その相手はも苦手としており、できれば会いたくはないのだが、館で宴が行われる場合は、顔を合わせないで済ませることはできないのだ。余所での宴ならば、若年を理由に出席を断ることもできるのだが。
その男がハルディアにひどいことをする?
(ううん、それだけじゃない)
その件も心配だが、どうやら自分の行動のせいでハルディアが見世物のようになっているらしいことに気付き、は愕然とした。悪意がなくとも冷やかし気分で眺められるのは、きっと居たたまれないことだろう。自分がハルディアにそんな思いをさせてしまったのだ。は自分の思いが周囲に知られないようにと気をつけてはいたものの、その逆――ハルディアがどう思われるかまでは考えたことがなかったのだ。
(わたしのせいで……)
はそれ以上聞いていられなくなり、きびすを返した。
あれほど幸せだと思った昼間の輝きが嘘のように心から消えていくのを感じながら。
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