ハルディアは困惑していた。
 ピクニックが終わってからと顔を合わせることがほとんどなくなってしまったからだ。
 彼女は部屋に閉じこもりがちになり、どんな誘いも招待も断るようになった。
 から寄せられていた好意に時折重苦しさを感じていたハルディアであったが、いざ避けられてしまうと今度は落ち着かなくなってしまった。自分が何かをしてしまったのかという不安がまとわりついて離れない。が会おうとしないのはハルディアばかりではなく、他の滞在客や彼女の両親も含まれているので、彼女のこの変化は自分のせいであるとは限らないのだが。
(どうしたものだろうか……)
 ハルディアは窓近くに立って黙考した。
 明るい日差しに照らされた花と緑で彩られた中庭とは逆に、ハルディアの心は陰っている。
 自分のせいであるとは限らない。そう何度も己に言い聞かせたものの、ハルディアは自分がに対して多大な影響を与えてしまう存在であることをよく知っていた。だから自覚なくなにかをしてしまった可能性がある。そこのところがやっかいだった。
 どれくらいの間そうしていただろうか。広い中庭を挟んだ向かい側の回廊に付きの侍女が歩む姿があることに気づく。あちらにはこの館の家族が住む棟があるのだ。そのため姫君付きの侍女を見かけることはこれまでにも何度もある。だが。
姫は出かけたはずでは?)
 ハルディアは引っかかりを覚えた。
 の家族と使用人たち、そして客人と彼らが連れてきた家人たちとで、館にいるエルフの数は平素より多い。それでも誰がどこでなにをしているのかは、ぼんやりとだが把握してしまうのだ。他の種族と比較して良すぎるという、目と耳の力のためだろう。
 は侍女と馬車に乗って外出したらしい。行き先はホビットたちのところだ。
 中庭から入り込む風に乗って、誰かがそんなことを話している声が聞こえていたのだ。
(もう戻ったのだろうか?)
 だが出かけたらしいにしては戻りが早すぎないだろうか。ハルディアは疑問を覚える。
 性急さを求められないアマンにおいては何事ものんびりと進む。ちょっと散歩にでかけただけで数日戻らないということも珍しくない。もっとも年少者に関してはこの限りではないのだが。
 ハルディアはしばし考えた上で、の侍女を呼ぶことにした。もしも忙しくなければ、という伝言も添える。
 が出かけたという話は、ハルディアが本人に直接聞いたものではない。伝聞で知った他者の行動は、その性質上、実際のものとは状況が少々違うということがままあるのだ。だからその確認も兼ねて今後のことを相談するつもりだった。
 侍女はほどなくしてハルディアの客室を訪れた。
「お呼びと伺い、参上いたしました。いかがいたしましたでしょうか、ハルディア殿」
「急に呼び立ててすまない。姫は出かけられたと聞いていたのだが――」
 侍女は肯定の返事をする。
「姫様はホビットの皆様とご親交を深めたいと、ホビット邸を訪問中でございます」
「訪問中ということは、姫君はまだお帰りではないということか」
 ハルディアが何気なく口にすると、侍女は主の側を離れているのかと咎められたと思ったのだろうか、かすかに表情を固くした。
「姫様はわたくしの同席を固く拒否されましたので。夕刻になったらお迎えに参りますが……。このようなことは極めて異例なのは承知いたしておりますが、バギンズ様方の元で危ういことも起きないだろうと。すでにエルロヒア様にはご報告済みでございます」
「そう、か――」
 ハルディアは次にどう切り出そうかと迷いながら頷いた。貴人の側仕えを務める者は主に忠実であることを求められる。主人の素顔や本心を知っても、それを口にすることは職務上の禁忌となるのだ。主側から口止めされれば尚更黙秘するだろう。こちらの知りたいことがその中に含まれていないといいが。ハルディアは懸念しながら慎重に口を開いた。
「時に侍女殿。このところ姫は部屋に籠もりがちになっているが、どうなさったのだろうか」
 問うと侍女は憂いを帯びた顔になった。
「ご気分が優れないとのことです。初めての遠出ではしゃぎすぎてお疲れになったようですわ」
 そこまで虚弱な少女ではなかったはずだが、とハルディアは内心で唸る。これはやはり何か隠されているのだろうと思いながら会話に戻った。
「ではそのお疲れは癒えたのだろうか。ホビット邸を訪問できるくらいなのだから」
「古くからの付き合いがある方と肩肘を張らない語らいをなさりたいとのことです。大勢お客様がいらっしゃるのも、今の姫様には落ち着かないことのようですの」
 内輪での茶会どころかもっと大規模な宴は何度もこの館で催されている。無論もそれらに参加しているのだ。やはり彼女のこの異変は気まぐれや疲労などというものが原因ではないとハルディアは結論付ける。
 侍女のこの対応がの指示によるものであるのならば、このまま話を続けてものらくらとかわされてしまうだろう。そうでなくともハルディアは会話での駆け引きは得手ではなかった。
 仕方がない、と彼は腹をくくった。聞きたいことをそのまま問おう。後で無骨よ朴念仁よと使用人たちの間で笑われようと構うものか。
「侍女殿。姫君の側仕えであるあなたならばご存じだろう。姫のご様子がおかしいのは、私に原因があることなのだろうか」
 侍女の顔にかすかに動揺が走る。ハルディアはその目を見据えて続けた。
「私には心当たりがないのだが、認識していないだけかもしれない。そうだとしたら放ってはおきたくない。だから何か知っていたら教えてほしい」
 昨日を誘ったのはそのことを聞きたかったからだ。もちろん己に非があったのならば償うつもりでもいたが、結局誘いは断られてしまった。
 侍女はハルディアから目をそらすと、小さくため息をついた。
「わたくしにもわからないんですの、ハルディア殿。姫様はわたくしに対しても心を閉ざされてしまったのですもの」
 彼女は寂しげに答える。
「ですがハルディア殿。わたくしの見立てでしかございませんが、姫様の変化はやはりハルディア殿に関係すると思っております。恋は女を良くも悪くも変えますもの」
 それから彼女は慌てたように口元に手を当てた。
「ああその、姫様が悪い方へ変わってしまったということではないんですのよ。物思いに沈むこともあれくらいのお年になれば起きうることでしょう。またエルロヒア様は姫様が成長しつつあることではないかとおっしゃっておりましたわ。時間が解決することもこういうことには多いだろうとも」
 納得できなくもないが、どこか釈然としない。
 それはの変化が唐突だったことに起因するだろう。何かがあって、彼女は変わった。それは成長の過渡期とくくれるものかもしれない。ならばそれはどこかで越えなければならないものだろう。恋愛がらみではないとはいえ、ハルディアにもそういう時期はあった。遙か昔のことだが。
 だがそれは、原因がはっきりしないことには判断ができない。そしてハルディアには時間がなかった。もう数日もしたら故郷に戻る予定でいたからだ。この状態では帰郷する日になっても彼女に会えないかもしれない。自分がを知らずに傷つけていたかもしれず、それを放置したまま日を置くのは避けたかった。だがどうしたら原因を突き止められるのだろうか。はハルディアのことも避けている。会えなければ話すことすらできないだろう。
 ふいにハルディアの脳裏に閃くものがあった。そして夕方に行く迎えを自分にさせてほしいと侍女に願い出る。少々強引なのは否めないが、こうでもしないととは会えそうにない。
「それは……どうでしょうか」
 侍女はかすかに眉を寄せて難色を示した。
「無理だろうか」
 やはり強引が過ぎたかと内省する。侍女は首を傾け、考え込んだ。
「姫様があのように沈黙をなさるのは、ご自分で考えをまとめられたいということではないかと思いますの。ですからわたくしはあまり急かさない方が良いのではないかと考えております。ただ……」
 急かすなという侍女の意見をハルディアは一理あると感じた。時間がないのは自分の都合でしかない。ここは真相究明したい気持ちを抑えるべきかと思いかけた時、侍女は深刻そうな顔でハルディアを見上げてきた。
「ただ?」
「姫様のご性質を思い返しますに、それはそれで後になってから非常に落ち込んでしまうのではないかと思うのです。その、ハルディア殿に失礼なことをしてしまった、嫌われたらどうしようと……」
 嫌うなどということはないと答えながらも、ハルディアは心の中がムズムズするような面映さを感じた。つまりは侍女に反応が予測されるほど自分のことを話しているということだからだ。自分がいない間ののことなどこれまで考えたことはなかった。ハルディアの脳裏にこれまで見聞きしたことのある恋愛話をする女性たちの様子が思い浮かぶ。幸せそうな気配をまとい、頬は薄紅、目は愛しい人を思い起こしているのか、きらきらと輝いていた。も彼女たちと同じようなのだろうか――。
 侍女は安堵の表情を浮かべつつも、困惑げに頬に手をあてた。彼女としては難しい判断をしなければならないところだからだ。
 そして彼女は結論を下した。
「ハルディア殿、ご足労おかけいたしますが、一緒に来ていただきますでしょうか。やはりわたくしには姫様がハルディア殿にお会いしたくないと思っているとは思えないのです。機会は作ってさしあげたい。ただそれを姫様が受け入れられるかは、姫様次第ですが」
 が面会を拒めば無駄足になる。それでも何もしないよりはましだとハルディアは了承した。


 一緒に、とは言いつつも、二人は別々にエルロヒアの館を出た。ハルディアは馬で、侍女は馬車に乗ってだ。機動力のあるハルディアは一足先に進み、途中で侍女を待って合流する。
 の馬車は二人乗りなので三人では定員超過だということもあるが、彼女がハルディアと話す意志を示さなかった場合、馬車に同乗しなければならないとなると互いに気まずい状態になることは避けられないからだ。
 それ以外にもハルディアにとっては、このように分けて移動することは有益だった。それというのも、三人以上が乗れるような馬車での侍女とホビット邸に向かってしまえば、ハルディアが何をしに外出したのかが館の誰にとっても明らかになってしまうからだ。あっという間に噂が流れてまた色々と勘ぐられてしまうだろう。興味と好奇心が入り混じった目で見られるのは居心地が悪い。そのような状況におかれることを回避できるものならばそれに越したことはなかった。
 日が傾く頃に丸い緑の扉のある屋敷に到着した。ハルディアが代表してノックをすると、ややあって軽い足音がして扉が内側に開いた。
 出てきたのはフロドだった。彼はハルディアを認めると驚いたように目を見張った。
 そして隣にいる侍女に気がつくと、口元に小さく笑みを浮かべて納得したように頷く。なぜハルディアが来たのかを察したのだろう。
「ああ、もう夕方になっていたんですね。話に夢中で時間を忘れていましたよ」
 そういうと彼はくるりと後ろを向いた。
、迎えがきたよ」
 フロドの声に応えるように、奥からがたりと椅子が引かれる音がした。すぐに行くと答えるの声に彼女を引き止める声がかぶさる。
「姫君の他にも来客が?」
「ええ、そうなんです。約束はなかったんですけど、とも知り合いのようだったから通してしまったんですが」
 フロドはそこから先を努めて小さな声で続けた。
「ちょっとまずかったかもしれない」
「それはどういう……?」
 二人がそんなやりとりをしている間にも断固として辞去を告げる声がした。ややあってが辟易とした中にも安堵の混じった表情で中から飛び出してくる。そして八つ当たり染みた声音で侍女を呼んだ。
「待ってたのよ。ああ、もう、帰ってなんて言うんじゃなかったわ」
 一体何があったのだろうといぶかしんでいると、はハルディアがいることに気づいて足を止めた。一瞬ぽかんと小さく口を開けたがすぐに愕然と目を見開く。
「ど、どうして……っ!?」
 は反射的に後じさった。ハルディアが来るなど予想していなかったのだろう。動揺は大きかった。
「姫君」
 自分の行動は唐突なものに写ったのだろう。ハルディアは驚かせてしまったことをひとまず詫びようと口を開く。だが一瞬の差で別の声が割っていった。
「何があったんだ?」
 ホビット屋敷の扉をくぐって金髪のエルフが出てくる。見慣れない顔だったが、一目で血統の良い生まれであることは見てとれた。まだ若い。成年に達したかどうかというところだろう。
 彼は小生意気そうな目でちらりとハルディアを見やったが、すぐに関心を失ったようだった。の頭をなでながらその顔を覗き込み、理由を言うように促す。
「な、なんでもないわ。ちょっとつまづいて転びかけただけよ」
 は金髪のエルフの手から逃れるようにさらにゆっくりと後退した。彼は空中に取り残された手を不満げに下ろす。
「それにしてはずいぶん切迫していたようだったけど」
 のとっさの嘘を見抜いて、若者は追求した。虚言を察知することはエルフにとって難しいことではないのだが、そんな能力はなくとものそれはすぐにわかっただろう。あからさまに態度にでているからだ。
 それから彼は困ったものだといわんばかりの態度でゆるゆると頭を振る。
「で、何があったの?」
「何もないわ」
 は強情に言い張る。
「フロドさん?」
 彼女が駄目ならということだろう。答えを求めて彼はフロドを見やった。そんな彼にフロドは苦笑する。
「つまづいて転んだわけではないけど、それと同じくらいのことしか起きていないですよ」
 言外にたいしたことではないからこれ以上騒がないでほしいと仄めかした。金髪のエルフはお手上げだというようにため息をつく。
「わかった。そういうことにしておいてあげるよ」
 拗ねた声音で彼は言った。それからの侍女とハルディアを不快げに見据える。
「ところで――エルロヒア殿はもしかして僕に含みでもあるのかなぁ」
 切れ目がなく進む話に口を挟む余裕もなく、ただ傍観しているだけだったハルディアだったが、若いエルフの好意的ではない視線に身を引き締めた。
「どういうこと?」
 答えたのはだった。彼女の声はかすかに強ばっている。
「侍女はともかく、迎えに警護官までつけてくるなんてさ。こんなこと、以前はなかったはずだけど?」
 ハルディアと発言者以外の者が同時にはっと息を飲んだ。ハルディアも瞬間的に驚きを感じたが、同時に納得もした。
 初対面にもかかわらず、この金髪のエルフがハルディアを無視していること――。
 それは常であれば不作法であると受け取られる。だがそれが相手が従者などの使用人であれば話は別だ。貴人同士の話の最中には側に控えていてもいないものとされる。それが彼らの役目でもあるからだ。
 以前はハルディアもそのような立場にあった。だが警備隊の勤めを辞した今はハルディアには仕える主はいない。もちろん身分の問題はあるので、誰に対しても対等だというわけではないのだが。
 フロドは咳払いをして皆の注意を自分に向けた。
「失礼。お二人はまだ面識がなかったんですね」
 そして金髪のエルフと銀髪のエルフの紹介を両者に向けてする。そこでハルディアは初見に感じた通り、ファラウレが有力な一族の貴公子であることを知った。ファラウレはハルディアをまじまじと見つめる。
「シルヴァンエルフの友人がいるなんて、信じられない。エルロヒア殿は一体何を考えておいでなんだ」
 整った顔立ちに、嫌悪の色が浮かぶ。
「それはどういう意味なの、ファラウレ」
 ハルディアより先に言い返したのはだった。彼女の声には怒りが混ざっている。
「いや、失礼。口がすべった」
 すました顔でファラウレは謝罪を口にする。は彼女にしては珍しく皮肉の混じった口調でつっけんどんに言い返した。
「本当に失礼だわ。わたしの両親のどちらにも、シルヴァンエルフのご友人はたくさんいるし、わたしにはシルヴァンエルフの血が混じっているというのに。もちろんそんなこと、とっくにご存じだと思っていたけれど、どうやら違ったようね」
 きっとファラウレを睨み付ける。
「姫君、落ち着いてください」
 まだ先を続けたそうなを制すために、ハルディアは彼女に歩み寄る。
「でも」
「私は気にしておりませんから」
 ただシルヴァンエルフであることだけで見下されたのだ。ハルディアが怒りを覚えてもおかしくはない。事実彼はファラウウレの発言が棘のように心に突き刺さるのを感じた。若いエルフには悪意がなさそうだったが、だからといって平気でいられるわけではない。しかしに先を越されたことですっかりその気分は失せてしまった。
 ファラウレはハルディアにも素直に謝る。だが同時にの前で格好つけるなという心の声もはっきりと聞こえてきた。そこでハルディアはようやく気がつく。
(もしかして彼がエルロヒア様が懸念していた相手……か?)
 ファラウレはに特別な思いを抱いているようだ。だがそうだとして、一体何が問題なのかハルディアにはわからなかった。少々傲慢であると感じたものの、生まれを思えば理解できなくもない範囲であるというのがハルディアの感想だった。また、ファラウレがどれほどを望んだとしても、も同じ想いを返さなければどうすることもできないものだ。
(それとも問題は彼ではなく、彼の一族や血縁にあるのだろうか……)
 ハルディアの友人や知人は中つ国でできたものが中心となっている。ヴァンヤールやテレリとはほとんど接点がないのだ。それゆえ彼には確信を持つだけの判断材料がなかった。
 ぎこちない雰囲気を打ち破ったのはだった。
「とにかく、迎えがきたからわたしは帰ります。また来ますね、フロド。さようなら、ファラウレ」
 有無を言わさない口調で彼女は告げた。だが一応淑女の礼儀とばかりに笑顔で一礼する。
「うん、またね、
 フロドは小さく手を振る。は早くいきましょうとハルディアと侍女を促した。
「ちょっと待って」
 ファラウレが鋭い声で呼び止める。
「なあに」
 気が乗らない様子では振り返った。
「どうしてエルロヒア殿のご友人だっていうシルヴァンエルフが、君の迎え役をするんだ? こんなの、ただのお使いみたいなものじゃないか。『友人』がするようなことじゃないよ」
「気分転換とか、色々理由はあるでしょう。第一そんなこと、あなたには関係のないことじゃない」
「関係あるよ。ようやくわかった。、君、狙われているんだ」
 腕を組み、至極真面目な表情でファラウレは断言した。
「狙っているって、誰が?」
 はきょとんとして聞き返す。
「彼がを、に決まっているじゃないか。君の父君と仲が良いのをいいことに、シルヴァンエルフ風情が高貴な姫君を得ようとしているってことだよ」
 あまりにも的外れな言いがかりにハルディアは呆気に取られた。だが改めて自分との関係を客観的に考えてみれば、そのように受け取られてもおかしくはない、という一面はある。
 どう訂正するのが最良だろうかとハルディアは悩むんだ。現状としては正しくはないが、将来はどうなるかわからない。エルロヒアの思惑と自分の葛藤、そしての望みが入り混じっているため、事態は余人が思う以上に複雑なのだ。
 は呆れたように頭を振る。
「ハルディアはそんなことをする方ではないわ。邪推をするにしてもほどがあるというものよ」
「邪推なものか。前から君の僕に対する態度はどうもおかしいと思っていたんだ。いつも心ここにあらずといった風で。こいつが純真な君を誘惑していたんだね。騙されちゃだめだ、
 ファラウレはぎりっとハルディアを睨みつつ、を抱き寄せようと腕を伸ばした。だがはファラウレにつかまれないようにとっさに背を仰け反らせる。ファラウレの手は空を切った。どうやら彼のこういった行為に慣れているらしい。
 それからは何事もなかったかのように体勢を立て直した。
「わたしは騙されていないし、ハルディアは誘惑なんてしないわ。とても真面目な方なのですもの」
 とても、というところに力を込めては言い返す。ファラウレは傷ついた表情を浮かべた。
はまだ子供だからわからないだろうけれど、世の中には本心を隠して目的を遂げようとする狡猾な奴もいるんだよ」
「ファラウレ……。わたしの話、聞く気がないでしょ?」
 は困惑顔になる。
 ハルディアは二人の間に挟まれてまごついた。ファラウレにどのような対応をすればよいのか皆目わからなかったからだ。
 ファラウレが彼女に対して無礼を働くようであれば身を挺してでも守らなければならない。だがに対する馴れ馴れしさと若干の思い込みの激しさはあるものの、無礼というほどではないと思えた。だからこそやっかいなのかもしれないが。
(むしろ、それだからこそエルロヒア様は私を姫君の傍に置かせたがったのだろうか。姫君はファラウレ殿を厭っている。はっきりと落ち度があるわけではない相手から姫を守る盾になってほしいと、そういうことか……?)
 を溺愛するエルロヒアならばそれも有り得そうなことだと思えた。
 もしもそうであるのならば、はっきりとそう言ってもらえた方がハルディアとしては動きやすかったのだが、エルロヒアがいない今は確かめようがなかった。
 ともかく、いつまでも一人に対抗させているわけにもいかない。
 ハルディアはファラウレの矛先が自分に向くようにと誘導を試みた。
「ファラウレ殿。それはエルロヒア様や姫に対する中傷にもつながります。仮に私が下心を持って彼らに近づいたとしても、気づかない方々ではありますまい」
 ファラウレは冷たい視線を向ける。
「騙されている最中には自分が騙されているとはわからなくなるっていうからね。でも僕は君に欺かれたりはしない」
 それから彼はを見やった。は警戒している小動物のように精一杯の威嚇を込めた視線でファラウレを見据えていた。彼は悔しげに呟いた。
「まったく、僕がやエルロヒア殿の言い分を大人しく聞いている間にこんなことになっていただなんて。一体どんな手を使ったのやら。真面目が聞いて呆れるよ」
 が食って掛かろうとした気配を感じたので、ハルディアは制した。ファラウレはこちらにすっかり悪印象を抱いている。そういう相手とは議論をするだけ時間の無駄だ。平行線が続くだけなのだから。それにハルディアは特に相手を言い負かしたいわけでもない。こういう時には早めに話を打ち切るに限る。
「ファラウレ殿」
 ハルディアは嗜める響きで相手に呼びかけた。
「あなたのおっしゃったことは事実無根の言いがかりです。そしてそのことはここにいる三名の方々は十分承知していることです」
 反発を込めた視線でファラウレは睨んできたが、ハルディアは淡々と返す。
「私はこの方たちを騙してなどおりません。ですがそれを証明する手段は思いつきません。ですからファラウレ殿が私をどう思われようとそれは個人の領域に属することですので、私は口を出すつもりはありませんが――言葉は選ばなければ、かえって貴公の評判を下げることになるでしょう」
 がいるところでハルディアをこき下ろせば、かえってからの好意は失われる。ファラウレにとってはなによりも打撃になるであろうことをそれとなく悟らせようとした。
 ファラウレは感じるところがあったらしく、むくれながらも視線を逸らした。
「それなら、何もないって言うんだね」
「何があるというんです」
 ハルディアは真顔で答えた。
 あろうはずがない。の年で何かがあったら大問題だ。そんなことがあったらいくらエルロヒアであっても黙っているはずがないだろう。
のことは、特に好きってわけじゃない?」
 ファラウレは念入りに確認をする。
 ハルディアは頭を振った。
「姫君を好きにならない者はいないでしょう。それはファラウレ殿も同意見だと思っていますが」
「まあね」
 多少気分を良くしたようで、ファラウレはふっと唇に笑みを浮かべる。
は可愛いから、そう思うものが出るのは仕方がない。目を引いてしまう以上賛美が集まるのも、自然なことだ。それが森エルフからのものであってもね」
 ファラウレは腕を組んで鷹揚さを見せる君主のように胸をそらす。
「先ほどの暴言は取り消そう。しかし今後はとの立場の違いを自覚して、彼女に軽々しく近づかないようにしてくれたまえ。それさえ注意してくれるのならば君がを友人だと思うくらいのことは許そう。ああ、だけど僕が彼女といる時には一切邪魔はしないでくれ。なにしろは僕の片翼なのだから」
「姫君が許容されるのであれば、私が口出しすることではありません」
 ハルディアは当たり障りなく答えた。
 とはいえがファラウレを苦手としているのは明らかだ。なのにこの自信はどこからくるのだろうと不思議に思っていると、後ろからマントが引かれた。
 振り返って見ると、がハルディアのマントの端を握り締めて癇癪を起こしそうな顔で見上げていた。そして彼女は叫ぶ。
「ハルディアの……馬鹿!」






前へ  目次  次へ