「なくなってしまった、とはどういうことです?」
予想外の内容を聞かされて、スランドゥイルは困惑した。
答えたのはエレナだった。
「言葉通りの意味だよ。少し前にクウィヴィエーネンのほとりに長い間暮らしていたという者たちが通りかかってね。エオンウェ様の知らせを受けて住人全員が移動することにしたとかで……。あの方は本当に中つ国すべてのエルフたちのところへ行ったのだね。……と、それはいいとして」
彼女は足を組みながら、表情を引き締め、頬に手を当てた。
「彼らが全員で移住をすることに決めたのは、どうやら湖のあるあたりの環境が激変してしまったことにあるのだそうだ。エオンウェ様が訪れるまでもなく、どこか別のところへ行く算段を練っていたのだそうだよ。激変というのは、湖の大半が干上がってしまったというものでね。湖だけではなくて、ヘルカールもだが」
「干上がった? しかし、父の話では、ヘルカールというのは対岸が見通せないほど広大な内海なのだと……」
オロフェアが頷く。
「そうだ、だから、これがどれほど大きな変化か、わかるだろう?」
スランドゥイルは無言で父の方を見やった。
エレナは髪をかきあげ、ためいきをつく。
「ベレリアンドが、海に沈んだだろう? モルゴスとヴァラたちの戦いの影響で。エオンウェ様がおっしゃったことには――無論質問をしたのはほとりの住人であってわたくしではないよ――これもその一つだということらしい。ベレリアンドにより近いこの森ではさしたる変化もなかったのに、余計に遠い場所でそのようなことが起きたというのが、よくわからないが」
「それほど被害がなかったのですか、ここは」
訊ねると、伯母は「ああ」と答える。
「地が鳴動しているような恐ろしげな響きは感じたし、山並みを越えてただ事ではなさそうな光は見えた。だが、それくらいだな。大きな被害はなにもなかった」
「まあこちらも、越えている最中の山が崩れた、ということもなかったしね」
オロフェアは翳りを含んだ笑みを浮かべる。
「とにかく、わたくしたちはかの地を見ていないわけだからね。何が原因にせよ、この場で結論を下すことはできないよ。しかし内海がなくなったのが事実ならば、そなたたちの今後にも差し支えるだろう。クウィヴィエーネンに向かうと言っておったが、湖がなくてもそうするつもりか?」
オロフェアは腕を組んで沈黙する。そしてスランドゥイルには答えることができなかった。もとより他に行く当てなどない。クウィヴィエーネンのほとりに新しい王国を築くのだと、漠然と思っていただけなのだから。
「単純に考えれば」
オロフェアは軽く指を振りながら言った。
「地面が増えただけだと言うこともできます。実際に湖のほとりに国を作ると決定していたわけではないのですが、もし作るのならば、周囲に堀を築くことで防備を強めようと考えていたのですよ。それを石の塀に変えるだけだと。もっともあそこを離れたのが幼い頃のことなので、実行可能かは現地に行ってからでないと決められないとは思っていましたが。ただ……」
ぴたり、とオロフェアは指の動きを止めた。
「生活するために必要なだけの水も確保できなくなった、となれば話は別です。川の一筋、池の一つもないというのであれば、どうしようもない。向かったところで昔の面影もなければ住むにも不適当となれば、民にいらぬ苦労をかけることになる」
「そうですね……。川や池は残らなかったのですか、エレナ」
問うと、エレナは首を傾けるだけ。
「彼らが、つまり、ほとりの住人たちのいたところからはそのようなものは見えなかったというよ。しかしクウィヴィエーネン、それにヘルカールは広いからね。どこかにはあるかもしれない。わたくしにはそれ以上のことはわからないのだよ」
「実際に行ってみないと、ということか」
オロフェアは眉を寄せ、ため息をついた。
「そういうことになるな」
エレナも同意する。
「となると後は、それでも旅を続けるかどうかを決めなくてはならないのだが……。引き返すかもしれない道行きに、全員を連れてゆくというのもなぁ」
渋い顔をする父に、スランドゥイルは提案を出した。
「先に少数を現地調査に派遣し、結果がわかるまで残りの者はここに滞在させていただいては……? 全員で行くよりは早いとはいえ、エレナたちにはご迷惑になるでしょうが」
「いや、こっちは別に構わんがの。わたくしたちは賑やかな方が好きだから」
鷹揚に微笑むエレナに、オロフェアは目礼を送る。そして彼は息子の方に視線を動かした。
「それについては私も考えた。しかしモルゴスが滅んだとはいえ、敵の残党はまだいるのだ。少数を送り、彼らがもし敵の手にかかってしまったら、戻らない知らせをいつまでも待つことになる」
かといって全員で出発し、クウィヴィエーネンへ到着してから住むには適さない地であるとわかったときの絶望感を思うと、皆で行こうとも言い出せない。目覚めの湖という目的があったからこそついてきた民も多いのだ。このまま流浪の身となるのは、スランドゥイルとしても避けたいところだった。
エレナは頬杖をついてぼやくように言った。
「わたくしの考えでは、実際にそこで暮らしていた者たちが、一人残らず移住をしようと考えた時点で、もうそこはエルフが住めないところになったと思うのだがね。行くだけ無駄、とまでは言わないが、希望は持たない方が精神衛生のためには良いだろうよ」
「はっきりおっしゃいますね、姉上」
オロフェアは苦笑する。エレナは大げさに頷いた。
「当たり前であろ。目的地が安全であるとわかっておるなら、道中の無事を祈っても引き止めたりなどせぬわ。だが、そうではないのだからね。これでほけほけと送り出して、そなたたちが乾き死にでもしたら、わたくしは自分で自分が許せないよ」
とん、と彼女は膝を叩く。
「とりあえず姉として、この森のまとめ役として忠告しておくが、しばらくは休養することに専念するのだね。疲れた心と身体のままでは、まともに頭も働くまい。重大な決意をしなくてはいけないというのなら尚更、自分自身を労わることだよ。それができない状態なわけでなし、どんな決断も、それに向かって進み出したら途端に色々なやっかいごとがでてくるものなのだから、せいぜい英気を養って、対抗できるようにしておくことだ」
オロフェアは小さく笑い、
「ご忠告、痛み入ります」
と目を伏せた。
それからさすがに長く話しすぎたと、オロフェアは部屋に引き取ることにした。スランドゥイルも一緒に立ち上がり、そろって退室する。
黙ったまま先を歩く父の背中を見つめながら、これからどうするつもりなのだろうかと、淡い不安を覚えた。
目指す地がなくなっていたのはさすがに想定外だった。戻ろうにも故郷は海に没してしまったので、西に行くつもりがないのであれば、自分たちはいつ終わるとも知れない放浪の旅に出て、どこにあるかもわからない、国を作るに適した土地を見つけなければならない。
エルフには無限の時間が約束されているとはいえ、気が遠くなる思いだった。
部屋に戻ると、シリンデとタルランクが出迎えに出てきた。オロフェアは上着を副官に預けると、そのまま窓辺へ向かう。
身を乗り出すように天を見上げる父に声をかけてよいのか迷ったスランドゥイルだったが、距離を保ちつつ静かな声で訊ねた。
「父上、どうされました?」
「いやぁ、大鷲の一族が、上手い具合に通りかかってくれないかなぁと思ってね」
振り返らないままのん気な口調で答えるオロフェアに、スランドゥイルは思わず脱力した。
(これからのことについて悩んでいるのかと思ったら……)
彼は新たに判明したことについて、さほど深刻に捉えていないのだろうか。
「こっちまでは飛んでこないのかな。彼らならちょっと東に翼を転じてくれれば、すぐにどこがどう変わったのか知る事ができるのに。いや、もしかしたらもう知っているのかもしれないね。とにかく、空は彼らの領域なのだから」
くるりと振り返ると、彼はどこか不適そうな笑みをわずかに浮かべていた。それでスランドゥイルは理解した。父にとっては悩むほどのことではなかったのだということを。
「……クウィヴィエーネンを目指すことは諦めていないのですね」
「ああ。この目で確認しない限り、やはり納得はできないからね。戻るにしても行き先をかえるにしても、まずそれをしてからだ。だから、やはり、お前が言ったように先遣隊を出すしかないのだろう」
スランドゥイルは頷いた。危険がないとはいえないが、それしかないのだ、やむをえまい。
「タルランク」
オロフェアが呼ぶ。上着を片付けて戻ってきたタルランクが心得顔で歩み寄ってくる。
「シリンデ」
手入れはされているが殺風景な部屋をどうにかして飾りつけようと苦心していたシリンデは、作業の手を止めた。
「状況が変化した。二人とも聞いておきなさい」
窓辺を離れながらオロフェアが穏やかな声で命令する。呼ばれる前にスランドゥイルも動いた。四人は自然に円陣を描くように集まった。
目的地の消失を告げられたタルランクとシリンデは、さすがに戸惑ったような表情になった。
しかし頭を一振りしたタルランクが、当然のように、
「では、その先遣隊の一にはわたくしがなりましょう。少数で行くのであれば、腕の立つ者を中心に選ぶべきですからね」
彼はオロフェアの一行の中では五指に入る剛の者なのだ。
「そうしてくれ」
オロフェアが認めると、嬉しそうに破顔する。
一方シリンデはゆっくりと頭を振った。
「わたくしは残ります。タルランクがいなくなるのであればオロフェア様スランドゥイル様の補佐をする者が足りなくなってしまいますからね」
「そうだな」
スランドゥイルは言った。
雑用や身の回りの世話をするだけならば他の者でも構わないが、副官となるとそうはいかない。場合によっては主に代わって命令を下すこともあるのだ。主との間に強い信頼関係がなければ、そして他の臣下や民からも認められていなければ、務め続けるのは難しい。
眉根をよせて考え込んでいたオロフェアは、ややあってからそれも認める。
「シリンデの腕なれば、先遣隊に同行してもらえないのは残念だが、それが無難だろうな。姉上がいるとはいえ、まだ馴染みのない土地だ、居残るのが息子だけとなれば、不安に思う民もでよう」
「……父上?」
息子だけ、という言葉に、スランドゥイルは嫌なものを感じた。
「まさか、オロフェア様も行くおつもりで?」
タルランクが直截に訊ねる。
小さく笑いながら、オロフェアは肯定した。
「この目で確認しないと納得できない、と言っただろう? それに私の腕なら問題なかろう」
確かに彼の武芸の実力は彼らの内では随一である。だが問題はそこではない。
「おやめください父上。ご自分の立場をわきまえてください。主がいなくては民にいらぬ動揺を与える事になる」
スランドゥイルは反駁する。シリンデも険しい表情を浮かべて頷いた。
「わたくしも反対いたします。万が一貴方まで失うことになってしまったらどうするのです。一族は今度こそバラバラになってしまう。思いとどまってください」
タルランクも続けて言った。
「わたくしも同感です。逸るお気持ちはわかりますが、民のためを思って、ここは堪えてください」
一斉に反対されて、オロフェアは辟易したように唇を下げた。
「確かに、旅路の途中で隊を二つに分けるようなことをすれば問題であろうが、ここはエルフの住まう森だ。心強いと思いこそすれ、なぜ不安に思うことがある?」
「エレナカレン様はオロフェア様のお身内、それはわかります。ですがやはりこれまで交流が途絶えていたのですから、それなりに距離をとらないと余計な軋轢を生じてしまうでしょう。それに、可能性のひとつではありますが、こちらでの暮らしを気に入って、いざ再出発しようという段になったときに残ると言い出す者がでてくるやもしれない。エオンウェ様の言伝により半減した我ら一行がさらに減ってしまえば、国を作ることがそも無理になってしまいます」
どうしても主を留めたいのだろう、タルランクはきっぱりと頭を振って牽制した。
「そうなったらそうなったで仕方がないではないか。源へ戻るというのが私の主張だが、格好をつけたところで我らが西での幸福を、ヴァラールから差し伸べられた手を断ったことには違わない。中つ国に執着する我らを変わり者よという連中がいること、そなたらも知らないわけではあるまい」
確かにドリアス滅亡の原因となった戦いの混乱の最中で、有力なシンダールの王族や貴族は、己が一族を率いて国から脱出したが、その大部分は西へ向かったのだ。当時はまだヴァリノールへの渡海を許されていなかったが、少しでも近くにいたいという気持ちが彼らを動かしたのは想像に難くない。
そのなかで東に向かうという選択をしたオロフェアの一行は、行き会った別の一行に共に行こうと持ちかけられたことが何度かある。その都度断ってきたのだが、反応はどれも好意的なものではなかった。
「もしも私の一行のなかから、森での暮らしを選ぶものが出たとしても、私は構わないよ。なぜって、この森のエルフの中から私の一行に加わりたいという者がでてこないとも限らないからね。姉上の様子だと、そう言い出した者が出てきても、やはり好きにさせてくれるようだし、ならばお互い様だ。違うか?」
「しかし……!」
スランドゥイルは反射的に叫んだ。だが言葉が続かない。来るもの拒まず去るもの追わず。これまでそうしてきていたのに、今回は駄目であるというのは、反対するには弱すぎる理由のように思えたからだ。
オロフェアは微笑んだ。
「もちろん先遣隊だってすぐに出発するわけではない。山越えに川越えと、厳しい道のりが続いたから、ここらでじっくり腰を据えて休むのもいいだろう。今は秋に入ったから、そうだな、出発は春だ。それならば残される皆もこの森にだいたい慣れてくる頃合だろう」
「おや、そんなに。ずいぶん悠長だとは思いますが、それくらい間をとっていただけるのであれば、わたくしの反対は撤回いたしましょう」
軽い驚きの表情を浮かべて、シリンデは言った。
「シリンデ……」
反対派の一角があっさりと崩れたことで、タルランクは渋い顔になる。
「留守の期間はどれくらいになりそうな目算ですか、父上?」
「そうだな、馬をお借りできればいいと思っているのだが、もし借りられるのならば、太陽が二巡りをする期間もあれば十分だろうね。このあたりからクウィヴィエーネンのほとりまでは実はそれほど遠くないのだろうと思っているんだよ。以前旅した時には大人数だったので遅々としか進まず、また幼い頃のことだったので実際よりも長く感じたというこがあるだろうから」
「歩きでは?」
「水が干上がったというのだから、周辺一帯の状況を調べないといけないだろう。だからそうだな、倍の時間はかかるのではないだろうか。もしそれを越えてしまっても調査が終わらなかったときには一度戻るよ。さすがにあまり長い間留守にするわけにもいかないからね」
スランドゥイルは小さくためいきをついた。
「わかりました。ならば父上の留守中には私が代わって民をまとめましょう。エレナはご自分が言うほどやる気のない女王でもなさそうですから、彼女の協力も得られるでしょうし」
実は父に行かせるくらいならば自分が先遣隊に加わろうかと考えたスランドゥイルだったが、少数での決行となると実力不足を自覚している自分が加わっては足手まといになるだけだろう。ならば自分は自分にできることをした方がいい。そう判断して反対を取り消し、タルランクのほうを見やると、彼はますます苦い顔になった。
「そういうわけで賛成三人、反対はお前一人になったが、まだ駄目というのか、タルランク?」
ん? とオロフェアは覗き込むように副官を見やると、彼はぐっと眉をしかめた。
「オロフェア様のお考えは理解いたしました。ですがやはりわたくしは反対いたします」
「まったく、頑固だね」
「意地を張っているわけではありません。シンダール公子の副官といたしましては、みすみす主を危険にさらすわけにはいかないのです」
「私の腕を信じないのか?」
「一対一であれば、敵の残党程度に負けるようなオロフェア様ではないと信じておりますが、敵というのは我らに害をなそうとするものです。となると、そのような騎士道精神など発揮するはずがない。奇襲や、こちらよりも大人数での乱戦となるでしょう。そういったことまでお考えになっているのですか?」
「……その時はその時だろうね」
オロフェアは苦笑する。
彼は一見思慮深そうだが、根は大雑把なところがある。タルランクの心配も、故なきものとも言い切れなかった。
「その時がこないように努めるのも、民をまとめる者の務めだとは思いませんか?」
「民を守るために率先して動くのは、主の務めだとは思わないか?」
タルランクの問いに対してオロフェアは問いで答えた。
双方静かに見つめあう。どちらも引くつもりはないらしい。
スランドゥイルとシリンデは互いにちらりと見やった。
こうなると長いのだ、あの二人は。
付き合いが長く、どれだけ信頼が厚かろうと意見が衝突することもある。
どちらかが折れるか双方が妥協できる案が出てこない限り、終わらない。
オロフェアは狭量ではない。反対意見を表明されたくらいで副官を更迭するような愚は冒さない。
なので、こういったときの周囲の対処法はただ一つ。
結論が出るまで放っておくこと、だ。
「それでは一通り話も終わったことですので、私は少々森を見てこようかと思います。シリンデ、お前もどうだ?」
「お供させていただきます」
そうしてスランドゥイルは父の返事も待たず、さっさと部屋を出て行った。
あとがきは反転で
シルマリルや追補編にはたしか載っていなかったと思うので、このクウィヴィエーネン消失を春日が勝手につけた設定だと思われると困るな……。
ということで先に書いてしまいますが、怒りの戦いの影響で消失したのかは、はっきりしたことはわからないのですが(教授がそこまで資料残してくれなかったのでわからんのだそうだ)クウィヴィエーネン及びヘルカールの水がほとんどなくなったのは中つ国的には事実です。
参考資料は 「中つ国」歴史地図
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