杯が露で塗れている。
 よく冷やされた飲み物が、暖かな外気と反応して杯の表面に細かな水の粒を作るのだ。
 エレナはそれを拭いもせずに両手で抱えている。話しすぎて喉が乾いたのだとでもいうように振る舞っているが、微妙に反らされた視線と心持ち赤らんだ頬がそれが演技であることを伝えてくる。
 彼女は気まずいのだ。
 エレナと自分のこの世で生を受けてからの年月の差を考えれば、彼女がスランドゥイルを子供扱いするのは致し方がないことだ。実際、自分は成人してからまだ数ヶ年しか経っていないのだから。
 しかし意図したことではなかったが、自分はエレナから見直されることをしたようだった。逆に彼女は自分が思い違いをしていたと、恥じらっている。飲み物が供されたのをこれ幸いと彼女は一休みをする風を装ったが、あまりにもわざとらしかった。
 それはともかく、認められたことについては気分が良かった。
 だがそれ以上に不意をつかれた形になったため、嬉しいやら気恥ずかしいやらで胸の内側からくすぐられるような、こそばゆさも感じた。
 もっとも見直されたとはいえ、これまでが慣れぬ地ということもあって過小評価されていたのではないのではという思いもないわけではないのだが、この際それは脇に置いておく。
 スランドゥイルも杯を取り上げた。指先から冷気が伝わる。中身もさることながら、結露に塗れたこともあってよけいにひんやりしているように感じた。
 その冷たさに集中して、しまりのない笑みを浮かべないようにと己を戒める。
 一口含むと、かすかな苦みと清冽な酸味、そして程良い甘味が通り抜けていった。朝摘みの果実を複数混ぜた飲み物は、季節の移ろいのために同じものを飲める時期は短い。ましてや晩秋から初春には楽しめないものだ。酒にしたものもいいが心地よい酔いではなく、一陣の風のような清清しさをもたらすこれも、スランドゥイルは好んでいた。
(さて、と)
 スランドゥイルはエレナを見やる。彼女は薫風に吹かれるのが気持ち良いのだというように窓に視線を向けていた。しかしそれにしては雰囲気が堅い。まだ気まずいのだろうか。話のきっかけを作らないようにしているようにも見える。
 しかしスランドゥイルにはまだ確認したいことがあったのだ。一休みをするには十分なほどの間は取っただろう。
「エレナ」
 呼ぶと、彼女は何気ない様子で視線を室内に戻した。
「何だ」
 いつものエレナ、と言いたいところだが、どことなくほっとしているように見えるのは気のせいだろうか。
 しかしいつものように見せたいのなら、見て見ぬふりしてつきあうのが大人の余裕というものだろう。
 こんな風に考えているということをシリンデあたりが知ったらからかってくるだろうことは目に見えているので、知られないようにしっかり心に壁を張っておく。
「ほかにも知っておきたいことがあるのですが。森への進入者に対する対応について……」
「誰であろうと、ドワーフの時と変わりはしないよ。オークだのゴブリンだのといった、敵以外の何者でもない場合をのぞいてはね」
「そういえば、敵の場合はどうするのですか。以前は中心地まで攻め込まれた場合はここを放棄するとはおっしゃっていましたが」
「とりあえず、撃退できそうであれば、そうするよ。深追いをする気はないけれど、中途半端に刺激してよけい大事になっては困るから、最初にがつんとやるのだ」
「最初にがつん、ですか」
 微妙な雰囲気は完全に流れたと感じたのか、エレナはやっと本調子に戻ったようだ。がつん、と腕を振り回す仕草をする。
「そう。最初にがつん、次に立て直す余裕を与えずにがっとやって、あとはもう全力で叩きのめす。他に方法はなかろう。手加減できるほど、わたくしたちのところの軍は強くはないからね」
 擬音の部分は大きく身振りを入れてエレナは説明した。真顔であるだけに、妙に迫力がある。
「情けをかけても改心するような敵ではありませんし」
 にやりとしながら続きをスランドゥイルが引き取った。
「そのとおりだ。暗闇に生きるよう、歪められた存在だからな。哀れだが、哀れみをかけてこちらが倒されるわけにもゆかぬ。……そういう意味では、人の子が一番やっかいだな。我らの味方になる者もあれば、敵になるものもいるのだもの。他はもっとはっきりしておるのにねぇ」
 エレナは両手を組んでちらりと天井を見上げた。
 確かに。スランドゥイルは息を吐く。
「敵についてはわかりました。ではそれとは別の存在でしたら?」
「別?」
「エルフです」
 エレナは驚いたように一瞬目を見開くと、次には顔をしかめた。
「そなた、最初の時にわたくしたちがそなたらを取り囲んで詰問したことを根に持っているの?」
 問われてスランドゥイルは目を丸くする。
「いえ。そんなことは。私たちはお互いに事情を知らなかったのですから、ああなったのは致し方がないと」
「ならそのような意地悪な質問などしないでおくれ。相手がエルフであろうと、見知った者でもいない限りは警戒を緩めたりはせぬよ」
 スランドゥイルが了解の意味の返答をしようと口を開きかけた時、エレナは片手をつきだしてそれを制した。なんだ、と思っていると彼女は早口でまくしたてる。
「あ、オロフェアがいたのに、とか言うでないよ。幼子が子持ちになるくらいに成長するまで一度も会わずにいたのだから、わからずとも仕方があるまい?」
 エレナがずいぶん必死だったので、スランドゥイルは思わず微笑んでしまった。馬鹿にされたと思ったのだろう、エレナはそんな彼を恨めしげに睨みつける。
「わかっております。何も気にしておりませんのでご安心を」
「なんだか、調子が狂うのう……」
 エレナは髪をかきあげ、天を仰いだ。スランドゥイルはあまり笑わないように頬に力をいれる。
「ええ、今日のエレナはいつもよりも親近感がわきますね。新鮮で、可愛らしい」
「……甥っ子に可愛いといわれるのも心外だのう」
 天を仰ぎつつ、彼女は顔を手で押さえた。スランドゥイルは礼儀的な微笑みを浮かべて、話を元に戻してこれ以上エレナを突付くのはやめよう、と考えた。これ以上やったらどんな反撃がくるかわかったものではないから、ということもあるが。
「エルフのことを聞いたのは、私にとって非常に好ましくないと感じるエルフの種族がいるからです。彼らがもしもこの森に入り込んだ時にはどうするのか、知りたい。その種族は――言うまでもないことのように思えますが――ノルドールです」
 エレナの頬がぴくりとした。彼女はやや間を空けてから口を開く。
「同じ、だよ。エルフならば、森へ来た目的を聞く。その目的がわたくしたちと相入れないものであれば立ち去ってもらうし、援助が必要であればそれを与える。それはエルフであるのなら、種族は問わずに行うと、初代の森の王の時からの決めごとだ」
 しかしそう話す彼女の声は固い。目も、だんだん座ってきた。
 エレナの赤い唇が、歪む。
「だが、わたくしはノルドは好かぬ。ドワーフよりももっとな」
 いつになく強い嫌悪感を露わにする彼女に、スランドゥイルは驚きを隠せなかった。
「なぜ――?」
 直接的な因縁のある自分たちならばともかく、森エルフである彼女がここまで嫌う理由がわからない。
「望んで西へ渡ったくせに、自分たちの思い通りにならないからとそこを飛び出し、中つ国に戻ってきて散々もめ事を起こしたような者らをどうして好意的に思えるというの」
 吐き捨てるようにエレナは言う。そのあまりにきつい口調にスランドゥイルは戸惑いを覚えた。いつも陽気でおおらかで、機嫌が悪いことなど滅多にない彼女がこれほど嫌う者たちがいたとは。
「たしかに、彼らには私たちも辛酸をなめ尽くされました。ですが意外ですね。エレナまであれらを嫌っていったとは。……もしや、直接彼らとなにかあったのですか?」
 戻ってきたノルドールはベレリアンドに分散した。エレド・ルインを越えて移動した一派がいるという話は聞いていないが、ノルドにも放浪を好む者がいないとも限るまい。そう予測してスランドゥイルは尋ねたが、エレナはいいや、と軽く頭を振る。
「だが、華やかなベレリアンドから遠く離れた森にも、それなりに話は伝わってきておるものだよ。元々中つ国には黒き敵がのさばっておったとはいえ、ノルドさえ西でおとなしくしておれば、この地の戦乱も、もっと少なくて済んだだろうにと腹が立ってしかたがないのだよ。平和な場所から来た者らが、災厄を振りまくとは、とんだお笑い草だ」
 エレナは軽蔑したように鼻を鳴らした。
「だがな、わたくしが一番腹に据えかねているのは、奴らが同族殺しをしたことだ。それも二度も。理由はそれなりに聞き知っておるけれど、そんなことはどうでも良い。どんな理由もただの言い訳にしかならぬのだから。ノルド、《知者》とは、名がなくのう。知恵を蓄えた結果がこれか。野の獣でさえ、生存に関わるぎりぎりの状況にさらされぬ限り、同族では争わぬ。なのにあれらは光る石ころのためにそれを行ったというではないの。エルの長子であるはずのエルフがそのような理由で蛮行を犯すとは、情けない。スランドゥイル、そなたはドワーフを憎んでおるようだけれど、そのドワーフでさえ同族で殺しあったという話は聞いたことがないよ」
 エレナにとってノルドールはドワーフ以下か。彼女の剣幕に気圧されながらも、なぜかその評価が愉快に思えて、スランドゥイルはうっすらと微笑む。そこを笑い事ではないのだぞ、とエレナに睨まれた。彼女は話を続ける。
「だがエルフはエルフだからね。万が一この辺りを通りかかって援助を求めてきたら、できる限りのことはするつもりだよ。しゃくだけれどね」
「あなたは面倒見が良いから……」
 そのお陰で自分も後悔と憎しみから少しずつではあるが解放されてきているのだ。赤に彩られた記憶がひたすら繰り返される、その拷問のような時間が途切れるようになってきたのだ。
 しかしエレナは頭を振る。
「それが今のわたくしに課された義務だ。義務に私情を挟んで好き勝手に変更していたら、後進が困るであろうよ。形骸化するのも問題だが、務めには本来すべて意味がある、とわたくしは思っておるからな、できるかぎり尊重したい、それだけだ」
「そこまで考えていらっしゃるのに、なぜ代理なのか、私には理解できません。良い女王になるでしょうに」
 実際にすでに女王なのだ。本人がそう名乗らないだけで。
「柄ではないよ。わたくしにはその役目は重たすぎる。これでもつぶされぬよう必死なのだけど、そなた、気がつかないの?」
「軽々とこなしているように見受けられますが」
 スランドゥイルは素直に答えた。
「そなたの目は節穴じゃのう」
 エレナはふてくされたように片方の頬を膨らませた。
 と、顔を見合わせて、笑う。王だの長だのの代理としてではなく、ただの親しい身内として。
 聞きたいことはすべて聞いた。責務の話は終わった、とスランドゥイルは感じる。
 しかし、あと一つだけ。彼女がどう思っているのか知りたいと思うことがある。
「エレナ、ノルドは確かに同族殺しをしましたが、それは私たちにも言えること。私も父もシリンデも、私たちにつき従ってきた男たちのほとんども、数の多少はあれどノルドールを殺している。あなたは私たちを軽蔑しているのだろうか」
 戦乱のさなか、混乱していたとはいえ、スランドゥイルはノルド兵を切った手応えを覚えている。相手は倒れはしたが、生死の確認はしていない。怪我は負ったが、生きているかもしれない。だが、今となっては確認のしようがない。ましてや自分は、殺すつもりでいたのだ。
 エレナは驚いたように眉をあげた。
「なぜそのようなことを思うのか、わからん。同族殺しをするのはもちろん愚かだが、それを回避するためにわざわざ殺される方も愚かだ。殺されないようにするためには抵抗するしかあるまい。結果、相手が死んでも仕方がないとしか、わたくしには思えないのだけど?」
 そなたは違うのかとエレナは首を傾げる。うまい具合に答えられなくて、スランドゥイルは言葉を濁した。
 このことはそんな単純に考えていいものではない、という気がする。ただ罪悪感は特にはない。生き残るのに精一杯だったので感覚が麻痺したのかもしれなかった。
 エレナは表情を和らげ、スランドゥイルを見つめる。
「まあ、ともかくそれはわたくしに責める筋はない、ということだよ。あまり気に病むでない。……といってそれができるほど単純でもなかろうが、こっちとしては他になぐさめようもないからのう」
 困った、とエレナは首を傾げる。スランドゥイルは彼女の率直な気遣いに感謝を覚えた。気持ちがゆっくりと浮上する。
 エレナはなにを思ったのか、名案を思いついたというように両手を打ち合わせる。
「スランドゥイル、そなた、もしや落ち込み足りてないのではないの?」
「は?」
 落ち込み足りない? これ以上ないというほど落ち込んだと自分では思っているのに、まだ足りないと彼女は思うのか?
 理解できずにぽかんとしていると、エレナは勝手に頷いて話を進める。
「民らの手前、あまり泣きわめくこともできなかったのではないの? のう、シリンデ。そなたなら知っておろう?」
 話しかけられて、シリンデは礼儀正しく返答する。
「はい。ドリアス脱出後すぐはまだ落ち着かぬご様子でしたが、クウィヴィエーネンへ向かうことが決定してからは表向きは静まりました。ですが、それは皆の前だけです。休憩時にはお一人になりたがって、思い詰めたお顔もなさっておりましたし、お一人でノルドに復讐しにでかけるのではないかと心配しました」
「いや、だからな……」
 シリンデの前で自分を隠すことは――ほとんど――ない。だから民の前で見せないことも彼は知っていた。
(だからと言って馬鹿正直に答える奴があるか)
 スランドゥイルは腹の中で文句を言った。
 嘘を答えろというわけではないが、他に言いようがあるではないか。これではエレナに同情してくれと言っているようなものではないか。
 案の定、エレナは気の毒そうに柳眉を寄せている。
 やめてほしい。
 痛む傷口を案じられることは、己を肯定されているような心地よさがあるが、同時に試練に立ち向かえぬ非力な者であると見なされているようにも感じる。
 可哀想だと思われたくはない。もうそんな段階は過ぎたのだ。
 エレナは立ち上がってスランドゥイルの前に立った。軽く両腕を広げる。
「男だからと言って辛いことをすべて抱え込む必要などないよ。おいで、伯母様が抱きしめてあげよう。頭もなでてやろうか?」
 冗談のかけらもない顔で彼女は言った。
「……謹んでご辞退申し上げます」
 スランドゥイルは額を押さえて答えた。めまいがしそうだった。
「遠慮などいらぬのに。それとも照れておるの? ここにいるのは身内だけなのだから、気にすることなどないのに」
 ほれほれと、スランドゥイルを呼ぶように両手を上下させる。
「遠慮いたします!」
 気にするなと言われて気にしないでいられるものか。シリンデも双子の侍女も言い触らしはしないだろうとわかっているが、見られること自体が嫌なのだ。みっともなさすぎる。
 スランドゥイルが叫ぶと、すっとシリンデが前へ進み出た。そしてエレナに向かって軽く頭を下げる。
「エレナカレン様、どうぞご勘弁願います。若君はまだ思春期であらせられますので、お美しい伯母上様の胸に顔を埋めたりしますといろいろ大変なことになってしまいま」
「お前は何を言っているんだ!」
 スランドゥイルはシリンデの話を遮る。
 なぜ止めるのかと彼は真面目な顔で振り返ってきた。
 だが副官のこの気遣いは半分がからかいでできているとスランドゥイルは確信している。シリンデはふっと目をそらした。白々しい表情で。
 エレナは真面目に困惑していた。
「別に胸に顔を埋めさせようと思っておったわけではないけれど、まあ、そなたがしたいのならわたくしは構わないよ」
 彼女はきりっと眉をあげる。
「あなたも何を言っているんですか!」
 叫ぶと立ち上がってスランドゥイルは部屋を飛び出した。
 自室に戻ってから、どうして自分はこう余裕のある行動ができないのかと、スランドゥイルは落ち込んだのだった。






あとがきは反転で。
一言もしゃべっていませんが、双子侍女も控えています。




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