++ シャニー事件はいつ起こった? ++
年表を作っていたときに疑問が生じました。
映画版の設定年が1870年となっていましたので、てっきり原作もその年に設定されているものだと思い込んでいたのです。
ところが、実際にはパリ・オペラ座が完成したのは1875年。
それなら原作の設定年が1870年というのはありえません。(それに、パリ・コミューンが云々という話も原作に出ていましたし、あれ、1871年なんですよね。近現代史には疎いんで、しばらくわからなかったです)
んじゃあ、実際は何年なんだ?と思いまして。
原作には…と思い読み返しましたが、はっきりしたことは書いていませんでした。
原作は、ある新聞記者がシャニー事件を調べている最中にオペラ座関係者の中で囁かれていたオペラ座の怪人という、幽霊なんだか不審者なのだかよくわからない存在が実在し、またシャニー事件に深く関わっていた、ということを発見したところから始まっています。
この時点でシャニー事件は約30年前だと記者は言っています。
では彼が語っている現在というのはいつなのか?これもとくには書いていませんでした。
ですが、小説では特に何も断っていない限り、小説の中での現在年=現実の年と見るのが普通だと思いますので、オペラ座の怪人が発表された年(1910年)を現在ととりましょう。ちなみに原作は最初新聞小説として発表され、その後単行本化したのですが単行本も同じ年に出ていますのでその点、助かりました。
さて、じゃ、原作の中で年を絞れそうなことは書いてないか、とじっくり読んでみました。そしたらいくつかあるんですね。
1910年の30年前は1880年。この前後の年には違いないでしょう。
作中でファントムがジリー夫人を味方につけるときに使った手紙には、メグが1885年に皇后になる、と書いていましたので、事件はパリ・オペラ座の完成年1875年から1885年の間に起こったのは間違いありません。
が、その後がどうにも詰まってしまって、先に進めなくなってしまいました。
それもこれも130年くらい前のフランスの知識がないせいなのだろうなあ、と思いましたが、ないならないなりにどうにかするしかありません。
もしかしたら、オペラ座のどの年にはこういう演目をやりました、てなことをまとめた本があるかもと思い探してみましたが見つからず(探しきれなかっただけかもしれませんが。あったとしてもものすごく高そうだ。一般向けじゃないもん)。
クリスやラウルの年を参考に割り出してみるということもやってみましたが、イマイチはっきりしませんでした。
しょせんフィクションだからなあ、だいたい1880年だということがわかればそれでいいのかなあ、とあきらめかけましたが、後からふいに思い当たったことが出てきました。
鍵はラウルです。
ラウルは海軍兵学校に入って優秀な成績で卒業し、悠然と世界一周の旅をした。有力なコネのおかげで、彼は最近、<ルカン>号の北極遠征隊員に任命された。この遠征隊は、三年前、氷に閉ざされた北極海で遭難して消息をたった<アルトワ>号の生存者の捜索にあたるため、政府が決定したものだった。(原作より)
で、出発前の休暇中に件の事件が起きたのです。
ルルーは元新聞記者です。もしかしたら、過去に本当にこんな事件があったのかもしれない。と思い立って調べてみました。そしたら…
本当にあったよ…!
正直、自分でも半信半疑で調べたのですが、たしかに似たようなことが起こっています。
あいにくフランスの船ではなく、アメリカの船で、国策としての北極探検ではなく個人的なものだったのですが(といいますか、そもそもフランスは国策としても個人としても北極探検、ほとんどしていないのですが)。
それはアメリカの海軍軍人にして探険家のジョージ・ワシントン・デ=ロング少佐のジャネット号です。
ジャネット号は1879年に、前の年に行方不明になったスウェーデンの探検家ノルデンショルトのヴェガ号を捜索するためにニューヨークヘラルド紙が派遣したもので、デ=ロングはその話に乗ったわけです。
ヘラルド紙がこうした(金がかかりそうな上成功するかどうかわからない)ことをしたのは、以前にナイル川の水源を求めて探検していた最中に行方不明になったリヴィングストンを探すために記者をアフリカに派遣し、見事発見したことがあったからだそうで…うーむ、どこでなにがつながってるかわからないもんだなあ。
まあ、そういう派遣側の事情はさておき、ジャネット号は1879年7月8日にサンフランシスコを出発。が、ジャネット号が北極圏に着いた頃にはヴェガ号は閉ざされていた氷から脱出し、太平洋を南下、横浜に向かっていたのだそうです。これを知ったデ=ロングは進路を北極に変更しました。
同年の9月6日には氷に閉じ込められ、身動きが出来なくなります。それでも最初のうちは気象観測や地磁気観測、海深を測定し、さまざまな深度における水温を測定し、海底の調査を行うなどしていたが、10月には極夜が近づき、太陽が姿を現すことはほとんどなくなりました。(地軸の傾きのせいで、北極や南極の方では一日中太陽が見えなくなることがあり、これを極夜といいます。その反対で太陽が沈まないことを白夜といいます)
北極探検が南極と違うことは、北極が海の上に浮かぶ氷に覆われた海域で、氷が動いたり割れたり時期によっては溶けたりするので、進むのに非常に苦労するということです。そして氷(といっても島みたいに大きいのですが)に挟まれると船は破壊されてしまいます。
氷に閉じ込められたジャネット号もそのせいで1881年6月11日に沈没(2年近くの間、引くことも進むこともできなくてずっと漂っていたようです)。探検隊は遭難用の物資をそりやボートに積んで事なきを得たものの、重いそり(1台のそりの荷物は500〜600キロもあった)と極地の夏の天候に苦しめられ前進は遅々として進みませんでした。
途中でベネット島(スポンサーであるヘラルド紙の社長の名前から)と名づけた島を発見。一週間後、再び出発しましたが、飢えと疲労のため、レナ川付近まで近づいたものの、デ=ロングは1881年10月30日になくなり、他の隊員もほとんどが同じ道をたどりました。生き残ったのは2人だけだったそうです。
と、まあ長々と書いてきましたが、要点としては1880年前後に3年間行方不明になった北極探検隊が本当にあった、ということでして、それだけわかれば十分です(^^;)
「オペラ座の怪人」が発表された当時、ラウルのここんとこの場面を読んだ人で、80年代の記憶がある人は、ルルーはこのジャネット号のことを参考にしたんだ、と思ったんじゃないでしょうか。
さらにココから先はものすごーく穿った見方になるのですけど、どうしてルルーがラウルを北極遠征隊のメンバーということにしたのか、(そりゃ、行方不明になって隊員ほぼ全滅、という悲劇はその80年代当時は話題になったでしょうけど、原作が発表された1910年ではそのことを知らない人もそこそこいたように思うのですよ。30年前ですもん)ということなのですが、もしかしたら、もしかしたらですよ?はじめて人類が北極点に到達したのが、1909年(英:ロバート・エドウィン・ピアリー)だったから、かなあと勘ぐっています。
北極探検は15世紀頃から盛んになってきたようなのですが、北極点に到達したのは20世紀になってから。その間、イギリス、スウェーデン、ロシア、アメリカ、ノルウェーなどが何度も船を出しています。特に19世紀後半は地理上の発見、北極点への到達という名誉のため毎年派遣されてるんじゃないの?というほどどこかの国から探検隊が出発しています。
で、とうとう北極点に到達した人物が出た。
話題にならないわけがありません。
原作が発表されたのは1910年で時期的にも合います。
また、南極の話なのですが、初めて南極点に到達したのが1912年(出発は1910年。ノルウェーのアムンセン隊とイギリスのスコット隊が同時に南極点を目指したというのがそれです。先に着いたのはアムンセン。スコットは遅れること一ヵ月後に到着。しかしスコット隊は帰途の途中でブリザードに合い全員死亡という両極端な結果に終わりました)。
原作が発表された当時というのは、北極に限らず、極地探索が最大に盛り上がっていた時期なんじゃないでしょうか。
だからラウルを北極遠征隊の一員にするという、一種の時事ネタを絡ませることで読者の興味を引こうとした…。
というのは、的外れにすぎる。ということはないと思うのですけど…いかがでしょうか?
ちと脇道に逸れすぎましたが、この遭難事件があった、ということを考えると、スーザン・ケイ著「ファントム」の「エリックとクリスティーヌのフーガ」の章が1881年という設定になっているのも、たまたまかもしれないけど、ケイ女史もそう検討をつけた可能性はあるんじゃないかなーと(汗)
● 他にもあったぞ、年代特定
ところが。
別の要因も出てきてしまったんだな、これが。
原作の最初の方で、支配人が交代するという場面がありますね。お別れ会がバレリーナの共同控え室と支配人室の玄関ホールで行われ、そこにファントムが勝手に参加したりしていますが、それは置いといて。
リアル支配人についてはオペラ座・あれこれのページを読んでいただくとして、この支配人の交代というできごとが起こったのは、79年と84年。その前の交代は71年で離れすぎていますし、第一ガルニエ宮は完成していません。84年の次は92年です。ちなみに、この84年から92年にかけての支配人は二人組みです。
ガルニエ宮の支配人が二人体制だったことは何度かあるようですが、二十世紀になるまでの間に二人体制の次がまた二人体制という例はないようなので、人数についてはまあ置いておこう。
となると、79年と84年も候補にあがったわけだ。84年というのは、80年前後というくくりの中にいれるには少し離れすぎているようにも思えるけれど。
さて、ここで本当に困ってしまいました。
だってさー、この調子だと、そのうち80年に起こったこととか82年に起こったこととかもでてきそうじゃない。いや、それならそれでも別にいいんですけど。
しかし他になにか決め手があるかもしれないと思いつつ、「THE ESSENTIAL PHANTOM
OF THE OPERA」をめくっていました。そしたらこんな記述があったのです。
ちなみにこの本はいわば英語訳オペラ座の怪人に注釈がやたらとついているというものです。
そのなかで"thirty years ago"についての注釈なのですが…角川版でいうと7ページ目の「30年前」ってとこ。
Since The Phantom of the Opera in 1910, we have some authority to set the
real time in which the story is set as 1880 or thereabouts.For reasons
that will be indicated later, we have fixed on 1881 as the likely year.
意味としては
オペラ座の怪人が1910年に発表されて以来、私たちにはこの話が1880年かその辺りに設定する権限があります。後で示される理由のために、我々はありそうな年として1881年に定めました。
て感じでしょうか。なめらかな日本語にできなくてすまん、これでも頑張ったんだ。
ちなみに、後で示される理由のためとありますが、どこにそう書いているのか、見つけられないでいます…。だって、これの直後は"Christine
Daaé"についての注釈だし、その次は"Rue Scribe"についてだし。年代特定と関係ない…。本文が全部終わってからかというと、そういうわけでもないし。単に参考文献のリストとかがずらずら載っているだけでした。
まあ、ともかく、この本の編集者であるLenard Wolfも1881年だと思っているという訳だ。
ここで私は非常に悩みました。
ケイ女史とWolf、この二人の一致はどういうわけだ、と。
なんか確信があってそうしているのか?というよりも、もしかしたら、単に日本ではルルーの人気が特にないから翻訳されていないだけで、海の向こうの国ではルルーなりオペラ座の怪人なりの研究書があるのかもしれない。
しかし、あったとしても翻訳されない限り、まず私は読めない…。
で、どうするか。
● 世界はどう見ているのだろう?
目の前の便利な箱(パソコン)を使ってみることにしました。
調査はいたって単純です。
「The PHANTOM of the OPERA」と「80年前後の数字」でググってみるのです。余裕を持って、数字はガルニエ宮が完成した1875(年)からメグが皇后になるとファントムが予言(というか、ホラだな)した年である1885(年)まで。もちろん、まったく関係ないページを拾うこともありえるわけですが、もしここで数字にあからさまに変化があれば、そこには英語圏の人びとの認識があぶりだされるはず!
ということで、実行してみました。
英語タイトル | 数字 | 検索ヒット数 | |
The PHANTOM of the OPERA | なし | 2,310,000 | |
1875 | 74,900 | ||
1876 | 66,900 | ||
1877 | 64,900 | ||
1878 | 71,200 | ||
1879 | 66,100 | ☆ | |
1880 | 96,900 | ☆ | |
1881 | 92,300 | ☆ | |
1882 | 72,200 | ||
1883 | 70,400 | ||
1884 | 68,200 | ||
1885 | 72,600 |
調査日 2007年11月22日 Google使用
タイトルのみだと200万ヒットを越していたのがさすがです(笑)
ちょっと注意したいのが、タイトル+1880で検索したもの。これ、一桁端数がないせいで、他のより余計に関係ないものを拾っているみたいです。値段関係はけっこうあったな。あとは18880'sとか。
それから、☆がついているところは、ざっとトップ20くらいまでを眺めていて、この年が「オペラ座の怪人」の事件があったときだよと書いているらしきページが多かったところ。
79〜81に集中していましたけど、数では80と81が頭一つ抜けて多いのがわかります。
では次にフランス語タイトル+「年」でググッたもの。
フランス語タイトル | 数字 | 検索ヒット数 |
Le Fantôme de l'Opéra | なし | 236,000 |
1875 | 9,210 | |
1876 | 797 | |
1877 | 855 | |
1878 | 766 | |
1879 | 735 | |
1880 | 16,000 | |
1881 | 864 | |
1882 | 854 | |
1883 | 970 | |
1884 | 773 | |
1885 | 13,600 |
調査日 2007年11月22日 Google使用
英タイトル検索とは全然結果が違いました。というより、少な…。
ざっと眺めただけですが、「オペラ座の怪人」に関するページではないところがほとんどのように感じました。とにかく"Le
Fantôme de l'Opéra"と一続きで表示されていない(Fantômeとかl'Opéraとか、単語でをバラバラに拾っているというか…)ページがすでに上位ページにきているんですよね。
そういうわけで、つけようがないため、こちらには☆はありません。
また、シャニー事件(英:affair Chagny 仏:affaire Chagny)+1875〜1885というのも調べてみました。
そうしたら…やっぱり単語バラバラヒットがほとんどなのですが、英語では上位に来たのは、ファンフィクションでした(笑)
さ、参考にならない…!
また、ヒット数だけならば、タイトル+数字のときとは逆で、仏語の時の方が多かったのですが…しかしオペラ座のページ含有率という意味ではどっちもどっちっぽいなと。
さて、となれば話は「英語圏での認識について」へ戻りましょう。
検索した結果、英語圏の人びとの中では数の上では80年か81年に事件が起きたのだと考えている人が多い、という結果が出てきました。
80年というのは、単に原書が出たのが1910年で、そこから単純に30を引いただけかもしれません。もちろん何か確信があってそう書いている人もいるかもしれませんが。
では81年は?
これも、何か確信があってそう書いている人もいるでしょう。
しかし、81年に関しては、この結果に導いた立役者というか、大きな影響を与えたというか、そういう人物がいるのです。
だれあろう、アンドリュー・ロイド=ウェバーです。
舞台版のオペラ座の怪人は、プロローグが1911年、オーヴァーチュア後は1881年という設定になっているんです。舞台版のCDブックレットに書いてるんですわ。いや、私、読み返すまで気付いてなかったんですけど(汗)
…で、彼はどうして81年だ、と設定したんだろうなぁ。
何か確信があってやったのかなぁ。
そしてケイ女史やWolfはどうなんだろうなぁ。
「PHANTOM」も「THE ESSENTIAL PHANTOM OF THE OPERA」も、ロイド=ウェバーの舞台が始まって以降に出版されているわけで、影響を受けていないとはいいきれまい。特に「PHANTOM」は舞台がなければ存在してなかったんじゃなかろうか、という代物だし。
しかし二人とも、小説と注釈書という、方向性の違うものを書きつつも、色々調べているわけで。
プロなのだから、単にロイド=ウェバーの舞台がそうなっているから、という理由だけで81年にしているとはあんまり考えたくないなぁ。
これを言ってしまえばもう堂々巡りになるしかないのですが、ルルーや「オペラ座の怪人」に関する研究書があるかもしれないのだし(あるのだったら、誰か翻訳してくれないだろか…)
謎は深まるばかりです。
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参考文献:「極地に消えた人々」
「ビジュアル版 南極・北極大百科事典」
「パリ・オペラ座 フランス音楽史を飾る栄光と変遷」
「THE ESSENTIAL PHANTOM OF THE OPERA」
「The PHANTOM of the OPERA ORIGINAl CAST RECORDING」(ロンドン舞台版CD)のブックレット
「劇団四季 オペラ座の怪人 ロングラン・キャスト」(四季舞台版CD)のブックレット
(詳しくは参考文献リストをご覧ください)