++ オペラ座・あれこれ ++


ここは「オペラ座的19世紀の歩き方」部屋だというのに、そういえばオペラ座のことを取り上げなかったなと気がつきまして(遅いよ!)、今更ながらですが、オペラ座に関するもので、管理人がちょっと面白いなと思ったことをつらつらと書いていこうと思います。
尚、「パリ・オペラ座」という建物自体は、フランスが王制だった時代からずーっと移転したり何だりしながら存在しているのですが、ここでは「ガルニエ宮」と呼ばれる建物に焦点を絞ってお送りいたします。


・設立理由:ルペルティエ通りに当時あったオペラ座に行こうとした、当時の皇帝ナポレオン三世が暗殺されそうになったから。ルペルティエ通りが狭かったのが未遂とはいえ、暗殺を決行させる原因になったのだと考えられたのだそうだ。そこでより警備のしやすい広場を持ったオペラ座を作らなければならないとされ、新たに建設が決まりました。


・完成までの道のり:1860年に設計コンペティションが行われ、建築家シャルル・ガルニエのデザイン案が採用されることに決定。ガルニエ宮の呼び名は、彼の名前に由来しています。
当初は67年に行われる万国博覧会に間に合うようにと考えられたのですが、地盤が悪かったせいで工事は遅れに遅れました。その地盤の悪さというのは、セーヌに向かう地下支流にぶち当たってしまったというもので、それを何とかしようと工事をした結果、楽屋でも倉庫でもない大きな空間が地下にできあがる結果となったのです。(そしてそこに怪人が…/笑)
そこへきて、70年の普仏戦争の勃発、翌年のパリ・コミューンの発生と難事が続き、完成したのは約15年後の74年12月、こけら落としが翌年1月5日に行われました。本当は76年までにできればいいや、と思われていたのですが、73年にルペルティエ通りにあったオペラ座が焼失してしまったため、急ピッチで工事を進めることになったのです。


・外観・内観:これは…現存する建物ですし、ツアーとか使えば割と安い値段でパリまで行くことができますので、実際に観てもらったほうがいいと思います(汗)
なにしろ、春日自身が実物見たことないですし、文章で延々説明されても読んでる皆さん、困るだろうし(引用できる資料自体はあるのだが)。
えーと、ただ、完成当時と現在とで違うところもちょこちょこありまして、現在シャガールの天井画で飾られている客席は、完成当時はジュル・ユジェーヌ・ルヌブの「昼と夜の時」と題する作品で飾られていました。


・働いている人たち:たくさんいます。最高責任者の支配人から、いつかはオペラ座でバレエを踊ることを目標としている、バレエ学校の生徒まで、総勢何人いるのやらわからないくらいです。以下は「パリ・オペラ座 夢の聖堂の秘密」に掲載されていた1986年のオペラ座従業員数の内訳です。()は春日の呟きです。

1 技術

縫製係  55名
着付け係 38名
劇場大道具係 122名(ブケーがこれかな?)
アトリエ・ベルティエ専属 66名(アトリエ・ベルティエというのは、大道具制作&保存所のこと。ブールヴァール・ベルティエにあるのでこの名前がついたと思われる)
小道具係 26名
電気係  55名
装置係  22名
音響係  10名
警備係  26名

計422名

2 事務局

管理責任者 10名(支配人もこの中に入るのかな…?)
秘書    13名(レミーがこれですね)
広報担当  25名
庶務・予算担当 7名
人事担当  29名
会計    41名

計 125名

3 芸術部門

・歌唱
音楽指導責任者 1名
歌唱チーフ 8名
歌手    19名(もっと多いのかと思ってた…。)

小計 28名

・バレエ(メグはこっちに所属)
バレエ部門責任者 19名(ALW版のマダム・ジリーが多分コレ)
エトワル     13名
プルミエ・ダンスール 10名
シュジェ     39名
コリフェ     38名
カドリーユ    36名
4名以下のカドリーユ 11名

小計166名
(エトワル〜4名いかのカドリーユというのは、バレエ・ダンサーたちの階級のことです。これについては次回)

・合唱
部門責任者 7名
合唱団員 97名

小計 104名

(原作のクリスティーヌは一応代役をする前にも小さいとはいえ役がついていたみたいなので、多分歌唱のグループに入るのだと思うんですが…。どうなんだろう、合唱なのだろうか)


・オーケストラ及びファンファーレ
部門責任者 7名
演奏家   150名
ファンファーレ 7名

小計 164名

・舞台・エキストラ
舞台係    7名
エキストラ係 2名

小計 9名

・バレエ学校
管理責任者 30名

小計 30名

・オペラ学校
管理責任者 2名
教師    5名
学生    16名

小計 23名(なんでこっちには学生が載ってるのに、バレエ学校の方は載ってないんだろう…?)

総計 508名

1〜3の総計 1055名


さすがに多いですね。当時にはなかった役職などもあったでしょうし、参考程度にしかなりませんが、いかにオペラ座に大勢のスタッフ・キャストがいるのかということがわかります。


・運営予算 〜ファントムはぼったくり?〜

「パリ・オペラ座 フランス音楽史を飾る栄光と変遷」によりますと、『パレ・ガルニエは開幕当時、オペラ座は法律上、国家の委託事業で、国は建物の家賃500万フランは放棄し、当時の照明だったガス料金も半額にした上で、年間補助金80万フランを下附した。オペラ座監督は補助金と同じ80万フランを用意し、半額は将来起り得る赤字の補填、残り半分を運転資金とした。監督はいわば私企業の責任者の立場で利益を上げることを強要され、予算は監査された。そして収益が上がった場合には国と監督で折半する』のだそうです。あ、監督ってのは支配人と同義語だと思います。訳の違いってだけだと。

この80万フランというのは、当時の金額での80万フランでしょうから、現代の日本の金額だとだいたい8億円くらい。予算なんですから、この金額が毎年支配人のポケットから出て行ってしまうわけですよね。オペラ座支配人で破産した人がいるというのは知っていましたが、それも頷ける。本業でよっぽど儲けているか、儲かる公演を狙ってやるかしないと、まず支配人の財産は無事ではすまないだろうな。球団とか経営するのと、どっちが大変なんだろう(笑)

さて、ここからが本題。
当時のオペラ座の年間予算が160万フランだということがわかりました。赤字補填用は抜くとしても、120万フラン。
そしてファントムが支配人に要求していた給料は毎月2万フラン。ということは、年額にして24万フラン…。
つまり、年間予算を160万フランと考えると、「O.G氏への給金」は予算全体の15%、120万フランと考えた場合は、実に20%になるんですね!

ぼ、ぼったくりだー。ぼったくってるよ、ファントムー!


とはいえ、税金も投入されている以上、上記にあるように監査がされているので、さすがにファントムの給金は予算からは出されていないだろう。たとえ、別の名目で計上したところで、年額24万フランになっちゃうんじゃ、怪しまれるだろうし。
や、しかし、ぼってるのだろうとは思っていたけれど、予算と比べてみるまでここまでとは思ってなかったわ、私…。
そりゃー、支配人もやめたくなるわけだわ。


補足:リアル支配人たち

ここに紹介している支配人たちは、実際にオペラ座の支配人として活動した人たちです。原作に登場した支配人のモデルに、どの程度なったかはわかりませんが、ま、お一つ。()は支配人就任期間です。


アランジエ(1871〜79年)

71年ってのは、ルペルティエ通りのオペラ座があった時から続けていたということです。79年まで支配人をしていたので、怪人が実在していたとしたら、一番被害に遭っていたお人だということになります。彼は「新しいオペラ座になってから、大衆の好みを知って、客の入る作品しか上演しなかった」「かつての黄金時代の名作を並べ、冒険を一切しない行き方は、音楽愛好家の間で批判されたが、興行的には成功した」(「パリ・オペラ座 フランスの音楽史を飾る栄光と変遷」より)という、良いのか悪いのか微妙な感じの興行をした人でした。また、「アランジエは更に「ガラ」公演を思いついた。即ち、オペラやバレエの著名なシーン、有名なアリア、合唱、管弦楽団、ガルド・レピュブリケーヌ等の共演などを盛ったプログラムで、オペラ座を音楽と、豪華な社交場と化し、収入を増やした。アランジエはその儲けの半分をポケットにしたわけだが、世にリュリ、ヴェロンについで、オペラ座監督在任中財を成した、三人目で最後の人物と言われている」(同掲載書)そんで、お金儲けに走ったために、任期更新がされなかった、と。
私はオペラもバレエもクラシックもよく知らんのですが、ガラ公演がこのアランジエ以前にはほとんど行われていないようであれば、ドビエンヌ、ポリニーという支配人ズのモデルはやっぱこの人だということになるんじゃないかと思います。それはともかくとして、このアランジエ監督ならば、怪人の給金を難なく払えそうではあるな。本人は払いたくないだろうが。


ヴォルコベイユ(1879〜84年)

俳優の息子で、作曲家(?)な前歴を持つ人。音楽的知性と穏やかな性格、まだ50歳代という根っからの劇場人として期待が集まりました。が、「彼は優れた感受性を持った芸術家だったかもしれないが、一種の理想主義者で実務家ではなかった」そうで、作曲者自身の指揮で「アイーダ」を初演したり、毎年二つの新曲を含む4曲のオペラを保つなどして頑張ったにも関わらず、赤字は年々悪化。84年の11月には40万フランの赤字補填費を突破し、その心労が祟って衰弱。急死しました。
この人は丁度「オペラ座の怪人事件」が起きたとされている時期に支配人をしていた人ですが、こんなに経営が下手だったとしたら、ファントムも地下で頭を抱えていたのではないだろうか。芸術方面ではもしやすると意見が合ったかもしれないが…。


補足その2:オペラ座入場料

オペラ・ガルニエ設立当初の入場料金です。

オルケストラ席 15フラン
アンフィテアトル(現在のバルコン) 17フラン
ベニョワール席 15フラン
第一ロージュ正面 17フラン
同上横      15フラン
第二ロージュ正面 14フラン
同上横      12フラン
第三ロージュ正面 10フラン
同上横      7フラン
第4ロージュ正面 6フラン
同上横      3フラン
アンフィテアトル席 3フラン
スタル横     3フラン
第5ロージュ   3フラン

ファントムの席である二階五番ボックス席は、「第一ロージュ横」に含まれます。(その他の席の名称に関しては「五番ボックス席って、どこよ?」をご覧ください。)
上述したヴォルコベイユが支配人の時代には、年間公演数が192なのだそうで、計算してみると…ファントムの年間ボックス代は

15×192=2880フラン

ということになる。日本円で288万8千円くらい。
24万フランをファントムに支払い、3千フラン近く収入にならない。
やっぱりぼったくりだね、ファントムって…。




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参考文献:「パリ・オペラ座 夢の聖堂の秘密」
     「パリ・オペラ座 フランス音楽史を飾る栄光と変遷」
詳しくは参考文献リストをご覧ください