エリック氏の家計簿〜2万フランの使い道を考察してみた〜その3着るもの編


☆ 住 

↑の言葉は生活するために必要なものを一言であらわしてますが、18世紀のフランスは、まさに衣食住の順番でお金がかかりました。
それというのも、既製服というものがなかったせいです。
19世紀に入ると状況は多少変わりますが、それでも服というのはとても高かったのです。


☆ 男性服 ☆


19世紀はブルジョワジーの台頭とともにイギリスから現在の紳士服の原型ともいうべきものが広がりだしました。
それ以前はフランス風の、フランス革命以前の刺繍がびっちりしてあるような上着とか半ズボンにタイツというようなものだったのでしたが。「ベルサイユのばら」思い出していただければイメージがつかめるんじゃないかと。
時代をぶっとばして1850〜90年あたりの紳士の装いというのは、昼はフロックコート、夜はテールコートが基本スタイルです。あ、テールコートって、燕尾服のことです。それから、帽子は必須です。トップハットが一般的で、トップハットを黒絹で作ったものがシルクハットになります。シャツは1860年代には襟とカフスが堅く糊付けされて取り外しのできるようになりました。クラヴァットにはしだいに小さく蝶結びする小型のネクタイが登場しました。アスコットタイが出始めたのもこの頃です。
原作にも

「で、彼は真っ昼間から燕尾服を着ていたの?」(20ページ)
 その秘書の名前はレミーという名前で、年は二四、粋な口髭をたくわえ、お洒落で、品がよく、当時、昼間の服装の定番だったフロックコートでぴしりと決め〜(後略)(63ページ)

というセリフと地の文がありますので、もっとも基本的な男性の服装なんでしょう。
想像する側にとっては楽といえば楽ですが、それしかないというのは当時の男性諸氏にとってはどんなものだったのかと思ってしまいます。もちろん、服地にかけられる金額や、着こなしによって差異化はだせるにしても、つまんなくないのかなーと。(でも現代のビジネスマンも好む好まないに関わらず、スーツ着なくちゃなんないしね。似たようなものか。)
ちなみに値段は既製服と仕立て服で差がかなりあります。

既製服が本格的に出回りだしたのは19世紀の中頃からです。それ以前にもなくはなかったのですが革命前のフランスでは生地屋と仕立て屋は厳しく分けられていて、生地屋は生地を売ることしか出来ず、仕立て屋は仕立てしかできませんでした。仕立てしかできない、というのは生地のストックを置くことができない、ということです。こうした原則は革命後には消滅したのですが、それでも伝統は無視しがたいということで、その後も生地屋と仕立て屋の分業時代は長く続きました。既製服はこういった時代背景から仕立て職人からは自分たちの伝統に反する下等な行為として軽蔑されたため、なかなか発展しませんでした。既製服は安くて質の悪いものであり、仕立て服業界にとって敵ではなかったのです。とはいえ、当時の労働者にとってはそれでも進歩だったのです。
しかし仕立て技術が進歩し、また安価であるということで既製服業界はどんどん発展してゆきます。そうなると今度は既製服業界と仕立て服業界で死活をかけた市場競争が起こります^^;
1855年7月1日の「フィガロ」紙既製服の進歩を皮肉交じりに描いたこんな記事が。

「ロチルド氏の黒の燕尾服と、氏の使用人の同じく黒の燕尾服との間には、仕立て職人でなければわからないようなほとんど識別不可能な差しかない。――ロチルド氏の燕尾服はおそらくルナールの店で180フランはしただろう。――使用人の服はたぶんベル・ジャルディニエールで35フランで買ったものだ。――いまのところ、違いがあるといえば以上がその違いだ。ただし、ロチルド氏の服は時がたっても黒のままだが、使用人の服は、黒から青に変わり、しまいには汚れた灰色に変わってしまうだろう。また、ロチルド氏は自由に体を動かすことができるが、使用人は、食事の時のような必要不可欠のとき以外は手に口をもっていってはならない。」

180フランというと当時の1フラン=現在の千円といいますから18万円ですか。35フランは3万5千円ですね。おお、安いぞ。
最後の方は既製服がわずかな動作にも耐えられないほどもろいもののように描写しているのですが、もちろんそんなことはなく、もっと丈夫に作られていました。

原作のエリックは燕尾服着てますけど、ぶかぶかだという描写があるので既製服かもしれないなあとひっそり思いました。仕立て服って、体にフィットしてなんぼですからねぇ。
上の記事は1855年のものだったのでああですけど、1860年代からは大量生産大量販売をますます加速させる要素がさらに加わります。デパートの発展です。
それまでせいぜいブルジョワ下層〜労働者上層あたりのものばかりだったデパートは、安いものだけでなく高いものも売るようになり、ブルジョワ上層の購買欲に応えることができるようになったのです。


☆ 婦人服 ☆

その一方、婦人服は紳士服とは別の理由で既製服はなかなか普及しませんでした。マントやコートならともかく、ドレスは体にぴったりしたものでないとずり落ちてしまうため、大量生産が難しかったからです。が、それも第三共和制期に入るとモデル数が30〜40、値段は下は25フランから上は700〜800フランのものまで揃っていました。
しかし安くなったとはいえ、当時の物価から考えると、まだ服は気軽に買えるものではありませんでした。たとえば、1869年の肉体労働者の日給は1フラン50サンチーム〜3フラン(1500〜3000円)、仕立て職人の平均日給は4フラン50サンチーム(4500円)でした。白パン1キロ35サンチーム(350円)でしたから、やっぱりまだ高いなあ、と感じます。服って、1着あればいいってものでもないですしね。
にしても婦人服はやはり紳士服よりずっと高かったようです。と、いうのも使う布地の量も飾りの量も段違いに多いからです。
上流階級のものですが1869年に書かれたこんな証言があります。
「30万フランはすぐ消しとんでしまう。ごく普通のドレスが500フランはする。この500フランには、つなぎやヒダつけのためのヴァランシエンヌ・レースの値段は入っていない。ヴェネチア編みのマントレは5000フラン、部屋着にアランソン編みを使えば8000フランは見積もる必要がある。ベッド用シーツが上下で3000フラン、クリーニング代が1万フランはかたい。靴と帽子がそれぞれ5000〜6000フラン。香水は1日10フランかかる。」
ごく普通のドレスが500フラン(50万円)かぁ。高いな…。
しかしお気づきでしょうか。この証言の中には必要不可欠なある品物の値段までは入っていないのです。それが入ったら一体どこまで値段が膨れるのやら検討もつきません。
ここに書いてない必要なものっていうのは…。


☆ 下着 ☆


です☆
当時の下着として名高いものはコルセットでしょう。ウエストを細く見せるためにぎゅうぎゅう締め付けるもので、ろくに息もできない、という描写がパイレーツ・オブ・カリビアンなどでも描かれていました。理想のウエストサイズは18インチ(約45、7センチ)とされ、21インチ(約55、3センチ)になる前に結婚することが若い娘の望みだったという…(汗)。が、理想はあくまでも理想であって、D・Lムアの『流行に乗った女性たち』によれば、現存する1000点ものヴィクトリア朝期の衣装を調査してみても、1つとしてウエストサイズが20インチ(約50、8センチ)以下のものが見つからなかったというそうな。当時からコルセットに対する賛否両論があげられていましたが、賛成派がどれほど擁護しようと、女性たちの体調不良という現実から軍配はコルセット害悪論にあげざるをえませんでした。が、いかに害悪であるといわれても、女性たちはコルセットを着用しつづけていたのはコルセットが単なる社会的規範ではなく、「美しくなりたい」という女性側の心理が働いていたためであろうと思われます。その気持ちは同じ女としてわからなくもないですが、身体に悪いものはやっぱり悪いんであって、当時のある医者の統計によれば、
「コルセットを着用する100人の娘のうち、25人は結核にかかり、15人は最初の出産で死亡し、15人は最初の出産のあと、病気がちとなり、15人は奇形となる。もちこたえるのは30人だけだが、その女性たちも多かれ少なかれ、不快感に苦しむことになる」
のだそうだ。

その他の下着として、シュミーズ、ドロワーズ、ペチコート、ストッキングがあります。
シュミーズはいわゆる肌着のこと。「下穿き」と訳されるドロワーズは現在のショーツのようなものです。膝下まであるゆったりとした筒状の下着で、足をいれるところは別々ですが前は縫い合わさっていないという、かなり不思議な形状をしています。『レディー・ヴィクトリアン』6巻で橋から落っこちかけたベルが足をつかまれて助け出されるというエピソードの時、なんであんなに恥ずかしがっていたのか理解できなかったのですが、(そりゃ、現代でいえばショーツ丸見え状態なのだろうなあ、という推測はできましたけど、あんなに何枚も着てるんだから…と現代的感覚が抜けなかったもので)こういうことがわかるとあの場面のキワドサがよくわかる…。本当に見えてたかもしれなかったんですね(汗)
ペチコートはスカートの下に着るもの。バッスル、クリノリンといったスカートを膨らませる道具がなかった頃は何枚も重ねていたのだそうだ。
ストッキングは当時は膝丈のもので、ゴムバンドで止めるのが普通。サスペンダー式になるのは19世紀末になってからのことです。
バッスルとクリノリンは共にスカートを膨らませるための道具です。流行時期がそれぞれありまして、1850年代からクリノリンが流行し、その人気に陰りがでた1860年代後半からバッスルに人気が出ます。クリノリンは鯨の骨や鋼の輪でできた籠状のもの。スカートをドーム状に膨らませます。一方バッスルはお尻のところを膨らませるように見せるパッド状のものです。両者とも女性の下半身を強調し、腰を細く見せる工夫させるものでありました。

余談ですが、19世紀のブルジョワ階級では、持参金は当然のこととして、それ以外に持参金と同額かそれ以上の費用のかかる「トルソー」というものを持って嫁ぐことが多かったのです。トルソーとは下着を含めた身支度一式、寝具や食卓で使うリネン類のことをいいます。持参金は旦那のものになってしまうのですが、トルソーは妻の個人財産と見なされていました。そのため破産時にも差し押さえ対象外になるので、それを売って一時しのぐことができたのではないかと考えられています。

あとは男性用下着がどうなっていたのかも知りたかったのですが、よい文献が発見できす…。無念。



主な参考文献
「ファッションの歴史」
「おしゃれの社会史」
「図説ヴィクトリア朝百科事典」
「英国レディになる方法」
「明日は舞踏会」
詳しいブックデータは参考文献リストを参照してください。




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