++ 日仏国際結婚への道 ++



では日本人がフランス人と結婚する場合はどうするかを見てみましょう。
この件に関しては素晴らしくも、「国際結婚第一号 明治人たちの雑婚事始」という本がありましたので、そちらを参考に進めます。


日本側の事情



ご存知のように、日本は幕末まで鎖国をしていました。こうした状況では日本人と外国人の結婚はありえません。
最初に国際結婚(と現代では言ってますが、当時は「内外結婚」「雑婚」と呼ばれていました。ですが混乱を避けるためにこのページでは「国際結婚」で統一します)に関する許可が出たのは、慶応三年(1867年)、英国領事マイバーグから「外国人と日本人との婚姻を禁止する法が存在するかどうか」という問い合わせから発生しました。
問い合わせを受けたのは神奈川奉行の水野若狭守でしたが、そこから幕府に上申され、老中、外国奉行等で審議された結果、「これからは外国人が日本人を妻に迎える事は差し支えない」という回答がでました。
ここで、「妻に迎えること」とあるので、んじゃ男は外国人女性と結婚しちゃいけなかったんかい、という不満がある向きもあるかと思いますが、この時期はまだ日本に来ていた外国人はほぼ男性であること、また日本人が外国に行くのは、せいぜい幕府や藩が送り込んだ留学生くらいしかいないことを考えると、日本人男性と外国人女性の組み合わせは想像の範囲外にあったと見ていいでしょう。


さて、国際結婚OKの回答は出たものの、実際に結婚した例は旧幕時代にはなく、時代は変わって明治五年、国際結婚について、国籍、財産、不動産、宗教などに関する一定の規則を設ける必要があるとして、規則案が作成されました。
ということは、慶応三年の時には細かい条件などまったく決めていなかったということになりますね。最も、外国人の数自体が少なかったので、各奉行所で対応すればいいと思っていたのでしょうが…。

そして出来上がったのが、「明治六年三月十四日付け太政官布告代一〇三号」です。
以下が全文です。

・日本人、外国人と婚姻せんとする者は、日本政府の允許を受くべし
・外国人に嫁したる日本の女は、日本人たる分限を失うべし。もし、故あって、再び日本人たるの分限に復せんことを願う者は、免許を得能べし
・日本人に嫁したる外国の女は、日本の国法に従い、日本人たるの分限を得るべし
・外国人に嫁したる日本の女は、その身に属したる者といえども、日本の不動産を所有することを許さず。ただし、日本政府にて定めたる規定に違背することなくば、金銀動産を持携するは妨げんとす。
・日本の女、外国人を婿養子となす者も、また日本政府の允許を受けるべし
・外国人、日本人の婿養子となりたる者、日本国法に従い日本人たるの分限を得べし
・外国において、日本人、外国人と婚嫁せんとする者は、その国あるいはその近国に在留の日本公使または領事官に願い出、許可を乞うべし。公使及び領事官は裁可の上、本国政府に届け出すべし



…少ない、ですよね(汗)

ええと、これを当サイトのオペラ座ヒロインさんで説明してみます。
変換できませんので、便宜上、L嬢とさせていただきます。

・L嬢はエリックと結婚するなら、日本政府の許可を受けなければならない。
・L嬢は日本国籍を失うことになる。しかし再び日本国籍に戻りたいのであれば、許可を受ける事が必要。
・L嬢は、もし日本に自分の財産を持っていても不動産を所有する事はできない。ただし、動産は日本政府の規定に反することがなければ持ってゆく事は妨げられない。
・L嬢が外国人を婿養子にする場合も日本政府の許可が必要。
・外国で、L嬢が外国人を結婚する場合は、その国あるいはその近隣諸国にある日本公使または領事館に願い出て許可を受ける事。公使及び領事官は裁可の上、日本政府に届ける事。


となります。
L嬢は日本に自分の財産は持っていませんし、外国人婿養子を取る事はないですので、これは置いておくにしても、必要なのは「日本政府の許可」です。
パリで結婚する場合、そこには公使館がありますので、出向いていって公使から許可をもらわなければならない。許可は公使が出すので、乱暴な手段ではありますが、戸籍などを一切持たないL嬢(2005年から来た設定になってますしね〜)でも公使を騙くらかせればできない事はないのです!
しかし、ここで困った問題が発生しています。
ここんちのオペラ座二次創作は1878年(明治11年)の設定です。
この時期は婚姻規則が改正中で、公使や領事官が裁可するのではなく、外務省経由で日本政府から許可を取る必要があったのです。
出来たばかりでなぜ改正しているのかというと、「外国人婿養子」に関して、英独仏から異議の申し出が出たこと(婿養子の制度が外国にはないことと、夫となる自国民が日本国籍になることが主な原因)です。
英国は他にも日本人男性と結婚した女性の国籍に関して不服を申し出ていたのですが、面白い事にフランスはこの件に関してはまったく問題にしていなかったということ。これは、もともとここの箇所はフランスの民法を参考に作成されたので、フランス人にとっては自分のところと一緒なので反対する理由がなかったからだと思われます。
この改正期間は明治9年11月から明治14年11月まで続きます。




フランス側の事情


さて、めでたく日本側から許可が出たとしても、L嬢はフランス式結婚をするわけですから、今度はこちらに提出したりなんだりすることが必要になります。
現在でこそ、
・婚姻届
・結婚証明書
・同和訳文
・外国人配偶者の国籍を証明する書類
・同和訳文
・戸籍謄本
・届出人のフランス滞在許可証
というのが必要なのですが(↑は在仏日本大使館から引用)、L嬢に必要なのは、前ページの民事婚の部分で
・身分吏は婚姻をしようとする者に出生証明書を提出させること。
と書いているように、出生証明書だけ必要なようです。
日本で言えば、戸籍謄本にあたります。
…どうすればいいんだ。これは(爆)
と、言うなかれ。
希望のある例がちゃんとありました。
明治19年、ドイツ在住の水夫、西井富太郎の例です。

この人物は上州で生まれ、万延元年、2歳の時に両親とともに長崎港に移り、その後神戸市に移転した。明治7年に横浜を出航して以来13年間水夫としてドイツのキンチン会社のアトランタ号に勤務した。とあります。

余談ですが、万延元年(1860年)に2歳ということは、生年は1858年。
彼の父親というのが何をしていた人なのか、記述はなかったのですが、留学生の類ではなさそうですし、「幕末・明治のホテルと旅券」によりますと一般国民の海外渡航の許可が出たのは慶応二年(1866年)となっているところから、漂流民(漁や物資輸送の途中で遭難して国外に漂着した人びと)ではないかと春日は推測しています。



西井富太郎はドイツに永住する覚悟であり、婚約者と結婚するためには日本政府の許可と出生証明書が必要であると要請、外務省から長崎県、兵庫県に彼の戸籍が存在するか照会をするものの、返ってきた答えはどちらも「なし」。
その時の外務大臣井上馨は
『まず、西井富太郎の戸籍が存在しないので、西井は無籍者ということになり、西井の結婚願いの諾否を決めることは困難である。まず最初に西井の戸籍を復するのが順序で、その後に西井富太郎は結婚願いを提出するべきであるとしている。つぎに問題となるのは、西井富太郎がドイツ側に提出したいとする日本政府からの結婚許可証と西井の出生証明書の発給の件で、日本政府は過去にそのようなものを発給したことがないので、領事や公使は西井富太郎の願意を届けさせるに止めるように指示している。』
のです。
つまりは、結婚許可証と出生証明書を発行しなかった、ということなのですが、後日談があり、彼は明治22年に再度結婚願いを出しています。
この時は戸籍が見つかったのではなく、西井の家族の消息を、長崎、群馬、兵庫に出し、群馬に西井の家族を知っている者がいてようやく承諾されたのだそうです。



この件で問題となっているのは、太政官布告代一〇三号では、日本人男性が日本国籍を離脱することがまったく想定されておらず、規定がなかった、ということです。女性はともかく、男性の国籍離脱は認めないという方針だったがためにややこしくなったのですが、L嬢の場合はもともと太政官布告代一〇三号によって旦那側の国籍になれよ、と言っているので、うまく立ち回って戸籍を作ってもらえさせすれば、身分証明書もできるし、結婚もできるという利点がありますので、頑張ってみる余地はあるかと思います。
ちなみに、この頃の外務卿は1878年でしたら寺島宗則、79年になると井上馨になります。
…がんばれよ、L嬢。






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参考文献:「国際結婚第一号 明治人たちの雑婚事始」
     「幕末・明治のホテルと旅券」