長い道のりだった……。

 部屋の中を、わさわさと歩き回る彼女を眺めながら、私はそっと二ヶ月前のできごとに思いを馳せた。




My Fair Ladyの作り方




 拷問部屋の一件があった翌日、私は意を決してオペラ座の関係者で唯一私のことを知っているマダム・ジリーの元を訪ねた。
 彼女は劇場で秘密裏に私に便宜を図ってくれている人だが、私的なことはすべてベルナールに頼んでいるため、お互いのプライベートな部分に踏み込んだことはない。
 それが我々の関係を長持ちさせている秘訣だろう。彼女はベルナールと違って私の《声》に操られたりしないのだから。
 しかし、今回に限ってはマダムの助力を仰がなければいけない。
 私は出迎えてくれたマダムの前に立ち、いつもの癖で蝋で封印した封筒を彼女に渡した。
「このようなことを貴女に頼むのは筋違いだとわかっているが……。他に頼めるものがいない。何も聞かず、この中に書かれているものを買ってきてくれないだろうか?」
 マダムは怪訝そうな顔になりながらも封筒を受け取り、便箋を取り出して読んだ。
「ムッシュウ……これは……」
 驚いたというよりも呆れたような口調でマダムは私を見上げてきた。
「何も聞かないで欲しい」
「無茶をおっしゃらないで」
「頼む」
 マダムはゆっくり首を振る。
「買うのは構いませんわ。このトルソーが誰のものかも、聞かないでおきましょう。ですが、サイズがわからないと用意しようがありませんわ」
 トルソー……花嫁仕度か。
 私には縁のない言葉だと思っていたが、たしかにそう思われても仕方がない量だ。
 なにしろどれもこれもダース単位や半ダース単位での注文なのだから。
 しかし、あの子が私の花嫁になることなどありえるのだろうか?
 好んで化け物の伴侶になりたがる女性がいるとは……思えない。
 未来から来たという変わった経歴を持っているにしてもだ。
「身長は群舞のジャンムと同じくらいだ。それに合わせてくれればいい」
 自嘲しながら答えると、マダムは怪訝な顔になった。
「コルセットもですか?」
「ああ、多分大丈夫だろう」
 彼女の嫌がりようではどのみち強く締めるわけではあるまい。
 そう思って答えると、マダムは厳しい顔で、
「多分? これを必要とする方に聞いていないのですか、ムッシュウ?」
「聞いたところでわからないだろうよ。彼女は外国人だ。コルセットはつけたことがない」
 マダムはまあ、と口に手を当てた。
「それでしたら尚のこと、ちゃんと採寸をするべきですわ。身体に合っていないものを身につけても具合が悪くなるだけですもの」
 それができればわざわざおしゃべりな群舞の小娘と同じサイズで、などと言うものか!
 マダムは困惑したように眉をひそめたが、それでも頑として承諾しなかった。
 私が測るか、それができなければマダムが測るか、どちらかにするように迫ってきた。

 そうであれば私が測るしかあるまい。
 彼女とマダムを会わせたら、今まで触れるのを避けてきた私の悪事が彼女に知られてしまうだろうし、マダムがズボン姿の彼女を見たら、彼女の素性を怪しむだろうことは容易に想像がついた。

 私は重い足取りで家路についた。
 こんなことを頼んで彼女に下心を疑われ、軽蔑されたりしたら……!
 積み上げてきた信頼関係もそこで終わりである。
 それが怖かった。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



 当然のことながらひと悶着があったのだが、彼女の承諾を得て採寸をし、マヌカンを作成した。
 無機質な石灰の塊からまろやかな女の上半身が徐々に出来上がってくると、私の意識は神聖なものを冒しているという罪悪感で一杯になった。
 できあがったものについては満足しているものの、この時の精神状態は二度と味わいたくない。

 完成した二つのマヌカンのうち、一つはマダムに託し、ようやく下着と肌着は調えられた。
 もう一つはオペラ座へ観劇に来るご婦人たちの間で評判の仕立て屋へ預ける。ドレスのデザインは彼女にまったくお手上げだと泣きつかれたので私がしたのだが。
 夜会に出る予定などまったくないので、ローブ・デコルテは必要ない。朝用のドレスと、ウエストのあたりがゆったりしたティー・ガウンを中心に選んでみた。
 それに一つ思いついたことがあったのだ。

 彼女がここに来て二ヵ月は経つが、彼女の顔色が優れなくなってきているのに気がついていた。
 若く健康な女性が、日の射さない地下にずっといるせいだろう。
 私でさえたまには外の空気を吸いたいと思うこともあるのだ。いわんや彼女においては私よりもその欲求は大きいはず。
 可哀想なことをしたと思う。
 ここは一つ、コルセットが出来上がったらさらにその状態でマヌカンを作り、外出用のドレスも誂えてやろう。そして彼女をパリ見物にでも連れて行くのだ。
 昼間に出かけるのは気が進まないが、人が多いところは馬車で移動すれば……。
 その考えがいたく気に入った私は、当初予定になかったブーツや日傘、帽子も用意することにした。外出用ドレスがまだできていないにも関わらず、である。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



 そして一ヶ月が経過した。

「エリック……」
 ようやくドレスが出来上がり、意気揚々と家に戻った私は、さっそく彼女に着替えるように言った。
 服にはあまり興味がないと言っていた彼女も珍しさが手伝ったのだろう、素直に頷いて寝室に行く。
 それからずいぶん時間が経ち――悪戦苦闘しているのだろう――ようやく彼女が寝室の扉から顔を出し、
「変じゃない?」
 と不安そうに聞いてきたときには嬉しさのあまり頬が緩んだ。
 思ったとおり、彼女に良く似合う。黒髪とクロテッド・クリームのような肌に合わせるために何度もデザイン画を書き直した甲斐があったというものだ。
 それに着替えにずいぶん苦労したせいか頬は赤みを帯び、目は潤んでいる。息切れがしているようで、僅かに戦慄いている唇が可愛らしかった。いつもは溌剌としている彼女とはなんて雰囲気が違うのだろう。
 今度は髪飾りと首飾りも用意しようか。
 彼女には真珠が似合うだろう。
 どんなデザインにするか、さっそく頭の中で検討を始める。


 だが――。




 ばさっ。
 ばさばさ。

 ばささっ。


「あー、もう、動きにくいなあ」
 彼女の呟く声。


「…………」
 頭が痛くなってこめかみに手を当てる。
 なんなのだ、この優雅さのかけらもない所作は。
 いくらドレスを着たことがないからといっても、ひどすぎる。

「君は……」
 声が重々しくなるのを抑えることが出来ない。
 彼女はびくっとして、
「な、何?」
 と恐る恐る私を見上げてきた。
 小動物をいじめているような感覚に襲われたが、このまま放っておくことなどできない。
 エレガントな動き方をするよう言うと、彼女は抗議の声をあげた。

 彼女は今までズボンをはいていたのだが、それが本人にとって馴染んでいたこともあって、さまになっていた。そのため女性が颯爽と歩くということは考えられない時代ではあるが、私自身はこのことを不快に感じたことはない。
 だがドレスを着てその歩き方をするのはどうにも品がないように見える。おまけに足運びが危なっかしい。いつ転んでもおかしくなさそうだった。
 だからドレスに慣れるまで未来の服を着るのを禁止するとあからさまに不満そうな返事が返ってきたが、パリ見物をほのめかすと途端に表情が明るくなり、とととっと走りよって抱きついてきた。

 不意打ちを食らって思わず固まってしまうと、彼女はすまなそうに謝ってきた。
「いや、気にすることはない」
 動揺して激しく動く心臓を悟られないようゆっくり言葉を吐き出す。
 彼女は私を窺うように心配そうな表情をしていたが、外出がよほど嬉しいのだろう、頬が上気していた。

 それから彼女は熱心に家の中を歩くようになった。
 時間があるときにはオペラ座に来る上流夫人のやり方を覚えてそれを教えたりすることもある。
 彼女はなかなか良い生徒だ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 暗闇に支配された我が帝国。
 明るく華やかな色合いを添えるのは一輪の花。
 まだ蕾に過ぎないが、いずれ華麗に咲き誇るだろう。

 彼女の手を取り導くのは誰でもない、この私なのだ。

 その喜びが私を満たす。






部下はご主人さまのことを死ぬほど心配してるってのに、本人まったく無自覚です。

トルソーに関してはこっちを参照
あ、カタカナ表記にしてしまうと人体模型のトルソーとごっちゃになって紛らわしいですが、フランス語のトルソーはTrousseauと綴ります。意味も別です。
マダムに頼んだのはアンダーリネン類。ハウスリネンとエトセトラはベルナールに買わせ、エリックが自分で注文したのがドレス類という感じです






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