報告書

25 avril 1879



先日のお嬢様、ダーエ嬢、ジリー嬢三名でのデパート訪問における同嬢らの行動及び言動、並びに周辺人物等の動きをご報告いたします。
尚、この報告書に虚偽はないことを私自身と妻子の命にかけて誓います。また、極力誇張や紛らわしい部分を排除したつもりではありますが、この報告書を作製しましたのが帰宅後であるため、多少の記憶違いがないとはいいきれません。疑問点等ございましたら、後日ご説明いたします。





 昨日、がジリー(娘の方)とダーエと一緒に買い物に出かけたのだ。
 私は絶対に行かせたくなかったのだが、彼女がずいぶん楽しみにしていたので、ベルナールを付き添いにつけることを条件に渋々ながら許したのだ。
 ……勝手に辻馬車を拾って出かけられてはかなわないからな。
 そしてベルナールにはそこで見聞きしたことを報告するように命じた。どこかの馬の骨が に擦り寄ってくるかもしれないだろう? 予想しうる危険は避けなければ。
 それに、マダム・ジリーには悪いが、若いメグ・ジリーはの友人としてはあまり好ましくないと思っている。オペラ座の女らしく、気が強くて傍若無人なところがあり、あまり思慮深くもなく、派手好みであるからだ。にはそんなオペラ座女の色に染まってほしくはないのだ。
 こんなことになったのも、もとはといえばメグ・ジリーのせいではないか。あの娘が彼女を焚き付けなければ……。そうだとも、結局私が を褒めずにいられるわけがないのだ! あの日、帰ってきた彼女の表情は私からどんな言葉をかけられるかと期待と不安で彩られていた。私は、最初の決意通り「綺麗だ」とは言わなかったものの「悪くはない」と言った。こんな言葉でも、彼女はとても嬉しそうにしていたのだから、可愛いものだ。
 そういう意味では、の友人にはダーエの方がふさわしい。あの内気さは、オペラ座ではむしろ珍しいくらいなのだ。
 それにしてもベルナールめ、前書きにこうも回りくどく書いてくるとは……なにか私の気に障るようなことでも起きたということか?
 続きを読もう。




13h30

オペラ座前にて、お嬢様を馬車に乗せる。
先生のクーペは二人乗りのため、この日に限っては私が所有しているファエトンを使用いたしました。
ジリー母子の住むアパルトマンへ行くまでの間、お嬢様は先生に関するお話をずっと続けておりました。
内容は、なぜ買い物をすることになったか、そして先生を説得するのが大変であったこと、などです。この件に関しては先生もご存知のことであると拝察いたしまして省略いたします。
しかし一点だけ、おそらく先生にはおっしゃっていないことを私に対してお漏らしになられたと推察いたしまして、そのご発言内容を書き記します。
ダーエ嬢、ジリー嬢と買い物へ行くことを先生が頑なに拒否なさったことの原因をお嬢様なりに思考いたしました結果として、

“エリックはわたしのこと飾るのが結構好きみたいで、でも今回はメグちゃんたちがやったから、それが気に入らなくて拗ねてるのよ。可愛いわよね〜。”

と結論を下しておりました。
また、このご発言は素晴らしい笑顔とともに成されたということを付け加えておきます。




 かわ……。
 思わず眩暈がしていまい、私は手紙を持ったまま硬直してしまった。
 可愛いだって? 私が?
 自分がおよそ賛辞の対象にならないことは知っているが、それでもは私に好意的な言葉をかけてくれる。それは嬉しいが『可愛い』は違う。絶対的に違う。
 男の私が可愛くてどうするのだ。
 ……しかし、は以前にも私を可愛いと言ったことがあるのだったな。
 あの時は多少酔っていたせいだと思っていたのだが、もしやには本当に私が可愛く見えているというのだろうか。なんだか不安になってきた。
 まさかと思うが、彼女はとても目が悪いのではないか?
 ……いや、そんなことはないか。終日薄暗い私の屋敷で不自由なく動き回っているのだし、本も読むし、最近では縫い物なんかもする。……勝手に地上に散歩にでかけたりするしな。
 目が悪ければそんなことはできまい。
 目が悪いのでなければ……もしや趣味が悪い……いや、なんでもない。
 頭に浮かんだ可能性の、あまりにも情けない回答に、私はとっさに頭を振って打ち消した。しかし、一度浮かんだ考えは、用意に消え去りはしなかった。
(彼女には風変わりなところもあるが、それはこの時代や国の生まれではないせいだからだろう。そうだとも、不細工な猫のぬいぐるみを作ったり、私にピンク系のベストを編んだりはしたが、それでも私に贈ってくれたカフリンクスやカルヴァドスなどは私の好みにも合う良い品だった。趣味が悪いはずはない!)
 折れそうになった心をなんとか立て直して、私は再び便箋に目を落とした。
 ……っ、続きだ。続きを読もう。




14h15

ジリー嬢、ダーエ嬢の順にアパルトマンに寄り、デパートへと到着しました。車中ではおしゃれの話とオペラ座のゴシップにほぼ終始しておりました。これらをお知らせする必要はあるでしょうか?
尚、マダム・ジリー及び、マダム・ヴァレリアスにはお会いしませんでした。
デパートに到着してからは馬車を預け、私はお嬢様方の後を見張りながら付いてゆきます。そして中へ入りましたところで、先生のご心配はほぼ解消されたと確信するに至りました。
平日の昼下がりのせいでしょう。男性客はまばらだったのです。




 ……平日。そうか。
 ここで暮していると、時間だけではなく、曜日の感覚も曖昧になるからな。
 暇なランチエや道楽者たちがいつも大勢いるものと思っていたが、そうでもなかったのか。
 それと、オペラ座のゴシップはいちいち聞きたいとは思わない。いつも見回りをするだけで売るほど収穫できるのだから。




15h30

初めに装飾品売場に赴き、ダーエ嬢へ贈る予定の飾り櫛を見ていらっしゃいました。
売場には客が数人――女性の二人連れと夫婦者が一組――いました。
一時間近くお嬢様方は売場にいらっしゃいましたが、その間ずっと通りすがりの買い物客や手持ち無沙汰な近くの売場の店員たちの注目の的になっておりました。
なにしろ、売場が売場です。子供が来るようなところではありません。しかし三人の内二人はまだ髪を結い上げておらず、しかし唯一結い上げているお嬢様は他二名よりも幼くお若く見えるので、好奇の、というよりも奇異の視線を向けられておりました。
ですが、お嬢様方は品物を選ぶのに熱心で、そのような視線など少しも気にかけておりませんでした。
ここで交わされていた会話は、「似合う」「似合わない」や、「あれを見せて」「これはどうだろう」等です。不要と思い、割愛いたします。
尚、ダーエ嬢はピンク色の珊瑚でできた小さなバラがついている髪飾りを選びました。値段は35フランです。




 は実年齢よりも若く見えるからな。このくらいのことはあってもおかしくあるまい。
 しかし通りすがりの客はともかく、店員は自分の持ち場を守っていればいいものを、なぜわざわざ見物にくるんだ。外国人も若い娘も、見慣れているだろうに。




15h50

そして、私はこのあたりで従僕にあるまじきミスを犯しました。
お嬢様をしばらくの間見失ってしまったのです。




 …何!?




お嬢様方は、飾り櫛の購入手続きを済ませますと、次の目的であるジリー嬢のリボンを選ぶためにリボン売場に向かいました。しかし、ジリー嬢が途中でドレス生地の売場にあった端切れに興味を取られたのです。お嬢様とダーエ嬢もしばらく一緒にそこにいらっしゃいました。
ドレス生地売場には、大勢の女性客――と私のような使用人――がいました。売場は、かなり混雑していたのです。
そこで私はお嬢様たちが売場から出てくるまで待っていればよいだろうと、売場と売場の間の通路で待っておりました。今から思えば、それが間違いだったのですが。
離れてから二十分は経ったと思います。大柄なご婦人方を避けながら、ジリー嬢とダーエ嬢が戻って参りました。ですが、お嬢様は一緒ではありません。
私は「お嬢様はまだでしょうか?」と聞きました。するとダーエ嬢が「端切れはもういいから、近くの売場を見に行くと言ってそこを離れた」というではありませんか!
私は慌ててお嬢様を探しに行きましたが、ドレス生地売場に隣接する売場のどこにも、お姿を発見することができませんでした。
私は一度ドレス生地売場に戻り、お嬢様を探してくるので、ここにいるかリボン売場で待っているかしていてくださいと申し上げました。あのお二人も一緒にお嬢様を探してくださるとおっしゃってくださったのですが、丁寧に辞退申し上げました。下手に三人で探しても、今度は全員が揃うまで時間がかかってしまうと思ったのです。
お二人は先にリボン売場へ行きました。
私は、売場を行きつ戻りつして、お嬢様を探しましたが、どこへ行かれたのか見つかりません。売場は、場所によっては混みあっていますが、全体としてはそれほど混雑しているわけではないのですが。
そして、ええ、どれくらい探したのか、私もはっきり覚えておりませんが、ようやくお嬢様を発見したのが、紳士用既製服の売場でした。
お嬢様はガウンをご覧になっていたのです。
私がお嬢様に声をかけますと、ずいぶん驚かせてしまったようで、お嬢様はびくりとなさいました。私がお探しした旨をお伝えしますと、いつのまにかドレス生地売場から離れていたようだとおっしゃいました。デパートにはそういうところがございますね。




 そうなのか…。
 私は専門店にしか行ったことがないので、そのあたりの感覚はわからないのだが。
 それらの店は、大きいと言っても高が知れているからな。



話は戻りまして、お嬢様が見ていらっしゃったのが紳士用のガウンでしたので、先生のものをお見立てしているのだと私は拝察いたしました。
しかし先生のガウンは、先月新しいものをお届けしたばかりでしたので、そのことも合わせてお伝えいたしました。
お嬢様はそのことは知っているとおっしゃったあと、非常に困ったようなお顔をなさいました。
お嬢様はおっしゃいました。
「エリックは家にいるときは大抵ガウンを着ているのよ。それは別に、家の中なんだからかまわないのだけど、あの人ほら、書き物をすることがよくあるでしょ?」
あるでしょ? と聞かれましたが、生憎私にはそういったことまではわかりかねますので、ただお話の続きを促すだけにとどめました。
「そうすると、インクの染みが袖口についてしまうのよね。今着ているものにも、結構大きい染みがあるし……。袖口のところは暗い色合いだから、あまり目立たないけれど、でもやっぱりわかっちゃうし。替えのものにもやっぱり染みがついているし。インクって乾きにくいから、仕方がないといえば仕方がないことなんだろうけど……」
ということで、お嬢様はずいぶんと先生のガウンの染みを気にしていらっしゃいました。
そこで私は、先生はガウンのようなゆったりしたものでも既製服は好まないでしょうから、お選びになるのであれば布地売り場へ行って生地を選び、お嬢様が仕立てるか、専門の職人に頼むかしたほうがよろしいですとご忠告申し上げました。僭越でしたでしょうか?



 いや、ベルナール。その判断は正しい。
 ガウンとはいえ既製服を着るなど、私の矜持が許さないのだ。



お嬢様はそういうことならと、布地売場へ赴かれまして、それは熱心に布地をお探しになりました。
しかし……やはりデパートでは限界があるのでしょう。ここで売っている布地は、下手な専門店よりもずっと種類が多いです。それに価格も手ごろです。しかし客層は高級店には及びません。つまり、先生が普段お使いになっているようなガウンを作れるような布地がなかったのです。
そしてお嬢様は、まだそこまで目が肥えていらっしゃらないのでしょう――観察に基づいた考察結果です。けっして悪口ではありません!――お嬢様がお選びなった布地は、先生のガウン用布地を一級品としますと、せいぜい三級品でしかありませんでした。二級品に相当するような布地もあったのですが。
しかし、お嬢様が作ったものであれば、先生も無碍には扱わないかもしれません。
先生。先生のお嬢様に対する態度は、私にとっては未知数なのです。
私には、お止めすることも、お勧めすることもできませんでした。
私にできたのは、ただこれまでのことをお話して、お嬢様に判断を委ねることだけでした。
お嬢様は少し悩まれたあと、こう答えました。
「確かに、エリックって、デパートが好きじゃないみたいなのよね。本当にいいものでないと身につけたくないみたいだし。わたしだって、どうしてもここで選びたいというわけではないから、またにしましょうか。メグちゃんたちも待たせているのだしね」
実は、これまで省略していたのですが、この場には店員もいたのでした。彼は(店員は男です)お嬢様の発言にひどく気を損ねてしまい、ものすごい勢いでセールストークを始めました。
この店で扱っている布地は高級生地屋にも劣らないということ。そしてその値段は、高級店よりも手ごろであるということを強調しました。
彼は店員です。物を売るのが仕事なのですから、売り込むなとは私は申しません。しかし、彼の言っていることは、わざとか無知からかは知りませんが、間違っているということが私にはわかりました。伊達に先生の使用人を長年務めているわけではありません。高級品が高額であるのは、高額にならざるを得ないだけの理由があるのです。
何食わぬ顔で、お嬢様をその売場から連れ出すことも出来ました。
ですが、私は使用人です。女主人が何も言わないのに、勝手なことはできません。
お嬢様はセールストークに流されて、結局布地を購入することを決意されました。お嬢様手ずから仕立てるおつもりのようです。ただ、実際に作ったことはないので、こっそり作って成功したら先生に渡すのだともおっしゃっていました。
先生。
僭越なのは百も承知ですが、どうかガウンができあがった暁には、一度くらいは袖を通してさしあげてください。
それが無理なのであれば、お嬢様が布にハサミを入れたり印を付けたりする前に、私に渡してください。そうしてくだされば、返品して参りますから。



 難しい問題だ……。
 その三級品だという布を見てみなければなんともいいようがないが、あまりおかしな品であるのなら遠慮したいところだ。
 ガウンを仕立てたいというのなら、布地は私が用意するから、はそれを縫えばいい。
 しかし、せっかく彼女が私のために選んだものを簡単に返品するわけにもいかん。
 ところで、その布はどうしたのだろう。あとで探りを入れておくか。




16h45

ガウン用布地の購入手続きをされると、お嬢様はリボン売場へ向かいました。
ジリー嬢はすでにほしいリボンを選び終わっていまして、お嬢様が来るのをやきもきしながら待っていたところです。
なかなか来ないので置いていかれたかと思ったと、ジリー嬢は拗ねたように言いました。大人ぶっているようでも、こういうところはやはり子供ですね。
以上で買い物は終了し、私どもは会計場へ行きました。
先生のガウン用の布地はmあたり8フランで、しめて40フラン。リボンは1m分を5フランで購入しました。飾り櫛の代金と合わせて、全部で80フランです。
会計が済むころには5時半近くになっていましたので、ダーエ嬢、ジリー嬢の順に送り、最後にお嬢様をオペラ座前で降ろしました。
お嬢様がおっしゃるには門限は6時だということですが、オペラ座前に到着した頃にはすでに過ぎておりました。次回またこのようなことがあるようでしたら、出発時間をもう少し早めることをお勧めいたします。女性の買い物はかくも長いものなのでございますから。



 そうか、戻ってきた時間が門限を過ぎていたので、どこかで寄り道でもしてきたのかと思ったのだが……思っただけではなくてしっかり追求したら、デパートにしか行っていないと言い張られたのだが、本当に寄り道はしていなかったのか。
 そうか。女の買い物が長いという話は伊達ではないということか。




ところで、ひとつ確認したいことがございます。
今後のこともありますので、お答えいただけるとありがたく存じます。



 ん?



布地売場の店員が、お嬢様のことを「奥様」と呼んだのです。
どうも、お嬢様が先生のことをエリックと呼び、私が「先生」とお呼びしたため、ガウン用布地を購入したい相手が、父親や保護者ではなく、愛人か夫だと考えたようで……。
ご存知のこととは思いますが、労働者階級の間では、一緒に暮していても式を挙げないこともまま見受けられます。そういった場合には未婚であってもその女性のことを「お嬢さん」ではなく「奥さん」と呼ぶものです。夫に相当する男性がいるわけですから。
一緒にするのははなはだ恐縮ですが、先生とお嬢様はご婚約をし、かといってすぐには結婚ができる状況ではございません。日本からはまだ何の連絡も戻ってきていないのですから。
ですが、いずれはご結婚をなさるのでしょう。
それで、大変聞きづらいことですが、お嬢様は今でも「お嬢様」なのでしょうか。それともすでに「奥様」なのでしょうか?
もう奥様であるのならば、私が「お嬢様」と呼び続けるのは失礼かと存じます。
外国生まれの方なので、気にしていらっしゃらないどころか気付いていらっしゃらない可能性がございます。このようなことを私がお嬢様(もしくは奥様)に直接聞くのもはばかられましょう。
どうかこの召使いを哀れと思し召して、お教えいただければ幸いと、末筆ながら加えさせていただきました。



報告者 ジュール・ベルナール




 ……なんということだ。
 彼女がまだ生娘かどうか教えろと?
 聞いてきたのがベルナールでなければ、嫌味だと思うところだ。例えばナーディルとかな。
 ベルナールは小心者だ。私に対して嫌味もあてこすりも嘘も言えない。
 だから奴は本当に困り果ててわざわざこのように書いてきたのだろうが……。
 正直に言って、答えたくはない。
 はまだ「お嬢さん」だ。だがそう答えたら、あいつは私のことをとんだ甲斐性なしだと思うのではないか?
 ここは嘘でも「奥さん」だと答えておくべきか?しかし呼び名が変われば、も不審に思うだろう。それはまずい。
 もう一つは、ベルナールに答える前に本当に妻にしてしまうことだが、私たちの大事な愛情の交換を、こんなことのために実行するなど癪に障る。
 彼女がほしくないわけはない。
 しかし一方で、結婚に望む際に、何一つ曇りないようにしたいという気持ちもあるのだ。
 もしそうするのであれば、彼女に手を出すわけにはいかない。婚前交渉はタブーなのだから。
 ああ、一体私はどうすればいいのだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 一晩じっくり考えて、私は結論を下した。
 何もベルナール相手に格好をつける必要もない。
 そして、は実際の年齢はともかくとして、見た目はとても結婚ができるような年には見えない。
 よって、実情はともかくとして、結婚するまで彼女のことは「お嬢さん」と呼ばせることに決めた。
 なに、日本から返事がこようとかなかろうと、私の予定では彼女が「お嬢さん」である期間はもうそれほど長いことではないのだ。だから、何も問題はない。



 別に強がってなどいないぞ?








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