洗面所に籠もって、すでに三十分は過ぎたようだ。
(う〜。上手くいかないっ!)
 指先には液体に塗れた薄く透明な半円形がふるふると震えている。コンタクトレンズだ。
 学校とバイトの両立生活にも慣れ、月々の支出も安定し、少しずつ貯金もできるようになってきた。ようやく、必須としての身の回り品だけではない、ちょっとチャレンジ的な品物も買えるようになる。という時になってわたしが選んだのがこれ、コンタクトだ。
 高校の時は良かったのよね。着るものは基本、制服だったから。制服だと眼鏡でもコンタクトでもどっちでもいいとしか思えなかったもの。わたしはその頃は化粧はしていなかったから尚更だ。それに校風もあるだろうけど、そもそも化粧する子もあんまりいなかったからね。何よりもわたしはおしゃれよりも趣味にお金をかけたかったから、コンタクトにするよりは眼鏡の方が安上がりだったということもある。
 うん、多分親に言えばコンタクト代は出してもらえたかもしれないけれど、わたしが近視になったのはどう記憶を辿ってみてもわたしがゲームにハマったからだとしか思えなくて。となるとわたしの趣味を良く思っていない二人にコンタクトにしたいと言うのは、反対はされなくてもぶつぶつ言われる可能性は大いにあった。それって面倒だなぁって、思っていたんだ。
 とは言うものの。
「あ、また失敗した」
 初めてのコンタクトは思っていたより大きくて、目を見開かないといけないとわかっていても、怯んでしまってつい閉じてしまうのだ。もちろん指で瞼を押さえてはいるんだけどね。
 まつげに当たって指先から滑り落ちたコンタクトを探すため、膝を曲げる。あーあ、もう一回、やり直しだ。
 洗面台の白い色に紛れるように転がっていたそれを見つけだし、残しておいた保存液に浸す。もう一度やり直す前に下のまつげについてしまった保存液を手の甲で拭った。
(まったく、何分かかってるんだか……って、練習の時にはもっとかかっていたもんなぁ)
 苦心することさらに十何分か。やっとの思いで両目ともに装着し、メイクをしてからようやく準備が終わった。ふと時計を見ると一時間と少し、洗面所にこもっていたことになる。今日が休みで良かった。この週末でできるだけコンタクトに慣れるようにしよう。しようったって、しようと思ってできるものでもないだろうけどね。痛くなったらすぐ外せるように、眼鏡は手に取れるとこに置いておかないと。
 リビングではカイトが掃除機をかけ、小次郎はそれから逃げるようにソファに登っているところだった。わたしは掃除の邪魔にならないように洗面所の扉に寄りかかって終わるのを待つ。
 広いとは言えないリビングの掃除はすぐに終了し、カイトは掃除機を片づける。次に取ってきたのは粘着テープがついたコロコロするやつだ。
「マスター、ソファの掃除をするので小次郎さんを抱っこしていてください」
 コロコロ片手にカイトが振り向く。
「OK。こじろー、おいでー」
 結構毛が長い犬を飼っていると抜け毛はやはりあるものだ。ソファは合皮だからまだましだけど、クッションとかはひどい。
「はい、お願いします」
 軽々と小次郎を抱き上げ、わたしに渡す。両手で受け取るとカイトは小さく声をあげて、ひょいと背を屈めた。
「マスター」
「何?」
 ずい、とカイトの顔が近づく。
「どうしたの?」
 無言のまま強い瞳でこちらを凝視するカイトに、思わず不安になる。ついぎゅうっと小次郎を抱く腕に力がこもり、彼は苦しそうに身をよじった。
「うわ、ごめん!」
 はっとして手を離して床を歩かせると、小次郎はててっと走ってソファの下にもぐりこむ。それもこちらに尻尾を向けて。ああ、やっちゃった。こうなると長いんだ、あの子。
「マスター」
「ごめんカイト。小次郎、しばらく出てこないだろうし、ソファの掃除は後でわたしがするから」
「いえ、それはいいんですけど」
 再びカイトに目を向けると、彼は珍しく思案気な、どこか不安そうな表情をしていた。それからすっと手を伸ばし、
「何か、あったんですか?」
 頬とあごの間をやんわりと包むように触れながら、そうと聞いた。
「特に何もないけど?」
 意味不明な質問にわたしは眉をひそめる。本当に心当たりがないのでそのまま答えたが、カイトの触れ方があまりにも柔らかく丁寧なので、背中が一瞬ぞわっとした。くすぐったいというのもあるけど、それとは少し違う、何かが――。
「目が赤いです。泣いていたんですか?」
「目?」
 カイトは心配そうに眉を寄せる。紡がれる声音は真剣だった。
「お化粧で隠していてもわかりますよ。目の回りもずいぶん赤くなっています。何があったんですか? 話してください。俺、マスターの力になりたいです」
 なんだ、目か。
「本当に何でもないから」
 気恥ずかしさと気が抜けたのも相まって、もぎとるようにカイトの腕を外す。彼はでも、といいながらますます気遣いあふれる様子でじりじりとわたしに近づいてきた。
「コンタクトよ。買ったって言ったじゃない。やー、大変だったよ、慣れないからさぁ。何度もやり直ししちゃって」
 ひらひらと手を振りながら言うと、カイトは呆気に取られたように小さく口を開ける。
「コンタクト、ですか。目に何かを入れるんですよね。もう入っているんですか?」
「入ってるよ」
「見せてください」
「いーけど」
 目線の高さが合うようにしっかり膝を曲げると、カイトは興味津々とのぞき込んできた。メイクが落ちるからだろう、さすがに指でまぶたを押し開いたりはしないが、それも一年前なら怪しいものだと思いながらカイトの好きにさせる。
「目の黒いところのちょっと外側に線が見えます。コンタクトって随分大きいんですね。痛くないんですか?」
「痛いってほどじゃないけど、やっぱり何か入ってるなーって違和感はあるよ」
「大丈夫なんですか?」
「そのうち慣れるって皆言うから、それまでの辛抱だろうね。今日はやたらと時間がかかっちゃったけど、最初だけだろうし。それにコンタクトだとやっぱりアイメイクがしやすいわ」
 眼鏡だとどうしても鏡に顔を近づけてやらないといけなくて、不便だったのだ。息で曇ることもあるし。それにハンディタイプの拡大鏡を使っても両目のバランスが取れないことも多く、上手にできたとしても眼鏡のフレームで一部隠れてしまったりする。ということでメイクする度にちょっと不便さを感じていたのだ。今はそれが解消されて満足している。あとはこの違和感さえなくなれば万々歳なんだけど。
「でも、心配です。コンタクトで目に傷がついたり病気になったりすることって、結構あるみたいですよ」
 カイトは納得がいかない様子で言い募った。こいつ、しゃべっている間にいつもの遠隔操作でコンタクトについて調べたな。
 わたしは一つため息を吐くと、眼前のカイトのおでこを指で弾いた。
「痛いです」
 むう、とカイトは唇をとがらせる。
「あんただって非公式のプラグインを入れてるじゃない。それと同じようなものよ。今ではなんともないんでしょ?」
「そうですけど」
「それに比べればコンタクトなんて非公式のものじゃないし、びびるものでもないわよ」
 装着するのに恐々だったけど、なんてことはもちろん言わずにわたしは笑った。カイトはおでこをさすりながら、それでもまだ不満げだ。
「コンタクト事故のことはわたしも知っているし、目は替えが聞かないからね。ちゃんと気をつけるよ。失明なんてことになったら不便どころじゃないもん」
「では俺はマスターがちゃんと気をつけているかどうかを気をつけて見ていますね」
 それならいいか、という様子でようやくカイトは納得した。うーん、なんというか、カイトは過保護だ。
「さてと、今日は何をしようかな」
 さっさと話を切り替えると、カイトはカレンダーを見やった。
「夕方からはいつも通り、バイトですよね」
「うん。何かやりたいことはある?」
 とか聞いたら歌がやりたいか英語の勉強をしましょう、とかいう答えが返ってきそうだな。しかし、
「俺としては特に必要ではないんですけど、マスター、前に俺にも冬用のコートを買おうって言いましたよね。あれ、まだ探しに行かなくても大丈夫なんですか?」
 俺には本当に必要ないんですけど、と至極当たり前のことのように続ける。
 ああ、そういえばそうだった。この間ジョーさんたちと買い物しに行ったときに一緒に買おうと思っていたんだ。だけど予想以上にローラの服探しに熱中してしまって、時間切れになっちゃったんだっけ。わたしもそうだけど道行く人の装いは徐々に本格的な冬のものになってきているし、いい加減買ってしまおう。
「んじゃ、今日はカイトのコートを探しに行こう」
「買わないという選択はないんですね」
「もちろん。わたしと一緒に行動したかったら、TPOはわきまえてもらいます」
 これからもっと気温が下がるっていうのに、長袖Tシャツにせいぜいネルシャツを羽織っただけの格好までしかできないなんて、見てるこっちが寒いのよ。

 一週間の間に、街は随分とクリスマス色を強めていた。赤と緑と金銀が華やかで、自然と気分がウキウキとしてくる。
「今年のクリスマスってどうなるのかなー」
 なんとなしに口にする。うちは夜遊び厳禁な家庭だったので、夜に友達とパーティというのは最初から選択肢に入らなかったのだ。けど今年は、ね……。サークル関係で集まるかもしれないし、単に仲がいい子だけで集まるかもだし、その中には合コン的な要因も入るかもしれないけど、そうなるとカイトが置いてけぼりになるんだよなぁ。
「クリスマスですか……。ケーキでも焼いてみましょうか?」
 こいつはこいつでやる気になっているし。
 青い瞳を輝かせ、すでに頭の中にはどんなケーキにしようかと考えを巡らせているのが丸わかりの表情でカイトはたずねる。
「うーん……。あのさ、カイト、まだ予定は決まってないから気が早いんだけど、サークルとか友達関係とかで集まることになった場合、あんたも来る?」
 合コンが主体の場合はどうしよう。最近ではボロも出にくくなっているし、この見た目だもの、第一印象の良さで人気をかっさらっていくのが目に見えるようだ。それ以前に合コン系だったら、わたしは出席をしない方がいいのだろうか。いや、自分としては出たいんだけど、カイトはきっとわたしが好きだとかいう発言を全く空気を読まずにするだろうからな……。カイトを連れていかないとなると、いつもの通りのおうちでクリスマス、だろうか。悪くはないけど、新鮮味がない。
 カイトはしばし黙ってから答える。
「サークルの集まりだったら、ジョーさんは来ますか?」
「どうだろ。就活の状況次第じゃないかな。あの時期ってどのくらい忙しいんだろうね。まあ、どっちみち、二十三日に集まるのでないなら平日だし、相手がいる人は来ないだろうし、何人くらい集まるのかなってとこ?」
「ジョーさんが来るなら、俺も行ってみたいです。でも来ないなら……どうしようかなぁ。飼い主仲間なら共通の話題もあるけど、そうでないから、俺、何を話せばいいのかわからないですもん。下手なことを話してが困るのも、嫌ですし」
 へぇ、とわたしは心の中で感心した。今までのカイトだったら、自分の知らないことならとにかくやってみたい、という意識の方が強かったのにと。慎重さというものが少しは身についたようだ。
(やっぱり外の世界を知ることはカイトにとって良いことだったんだな)
 さんざん迷ったけど、飼い主仲間たちと交流をもたせて良かった。それにジョーさんという、わたし以外に正体を知っている人ができたことも。やっぱり性別の違いというべきか、数年とはいえ年の功というべきか、わたしでは気がつかなかったことを色々フォローしてくれるんだもんね。感謝、感謝だ。
 カイトの成長をしみじみと噛みしめていると、「あ」という声がした。
「カイト?」
 同時に歩みを止めた彼をわたしは見上げる。
 カイトはぎぎいっと首を曲げると、頬をひきつらせて問う。 
「もしかしてクリスマスの集まりって、お酒飲むんですか?」
「……あー」
 カイト、お酒に弱いもんなぁ。というか、酔い方が滅茶苦茶なんだよね。
「大丈夫よ、あんたは飲めないって言っとくから」
 するとカイトは拗ねたようにむくれながら言った。
「俺のことじゃありませんよ、のことですよ。俺の目がなかったら飲むつもりですか?」
 あ、そっちか。うーん、カイトってバカ正直というか融通が利かないというか律儀というか……。今更だけどカイトが出てきたときに親に紹介していたら、案外お父さんあたりとは本当に気があったんじゃないかな。
「答えないということは、やっぱりそうなんですね。なら、クリスマスは絶対にから離れないようにします」
 わたしが呆れて言葉を失っている間にカイトは勝手に結論を出す。
「一緒に来るのは別にいいけど、盛り上がっているところに水差さないでよ」
「水ならいいじゃないですか」
「……」
 時々、こういうボケているのかただの物知らずが発動しているのかよくわからない答えが来るのはどうにかならないものだろうか。いや、どうにもならないんだろうなぁ。ふふ……。
、道の真ん中でぼーっと立っていると他の人の通行の邪魔になりますよ」
 ぼーっとしてるんじゃないわよ。遠い目になっていただけよ。
 誰のせいだとムッとしたわたしは、カイトの背中をばしっと叩いた。

 目的のメンズ服ショップに到着すると、早速コートを物色する。カイトには事前に、見た目が寒そうでなければいいので、機能面は二の次で着回しがしやすく似合う物であれば何でも良いと伝えていた。
 ダウン、モッズ、ダッフル、トレンチ。種類は色々あれど、ロングコートに真っ先に目がいってしまうのはカイトのマスターである性だろうか。この店にある膝下丈のものはダウンだけのようだけれど。
(さすがにダウンのロングコートは見た目が暑苦しいよね)
 なんかこう、ウエストを絞った感じのウールとか、ウールは高いから化繊でもいいけど、白くてスラッとしたラインのものがあったら文句なく似合うんだろうけど、よく考えたらこれから先は買ったコートを着て小次郎の散歩に行くことになるんだから、ロングであることはともかく、白は不向きだ。毛がつくし、汚れやすい。
(正装のコートなら自動的に綺麗になるんだけどなぁ)
 こっちで買った服もカイトと一緒にpcに収納できたらいいのに。そうしたらスペースの節約になるし、洗濯の手間が省ける。
はどういうのが好き?」
 とりあえず手にとってみましたという感じで、カイトは襟にもこもことファーがついているものを選ぶ。
「とりあえず、それ、羽織ってみたら?」
 コートだからいちいち試着室に行かなくてもいいだろうし。
 カイトはそうですねとのほほんと答えると、きょろりと首を巡らせて鏡をさがした。歩きながらコートを羽織る。
 鏡の前に立ってしばし。顔だけこっちに向けてカイトはこれでいいんじゃないですか、とのたまう。
「もう少し悩みなさいよ」
 面倒くさがるんじゃない、とわたしはぴしりと言う。
 カイトは不満げに頬を膨らませた。
 いや、別にそれでだめなわけではない。色は黒だしカジュアル系で普段使いにしておかしなところはない。しかし、選び方があんまりではないか。
「せめて五着くらいは着比べてみなさいよ。で、こういうのが好きだなあってもの、見つけてみなさい。予算内なら複数買ってもいいんだから」
 あまり人には聞かれたくなかったので、声は潜めてわたしは言った。だってこれでは衣服には関心のない息子とそれを心配する母親ではないか。
「店員さんと相談してもいいから、自分で選んでみてよ。コートなら他のと違って種類が多すぎて試着しきれないってこともないもの」
「はぁい」
 渋々といった様子でカイトはコートを脱ぐ。それから困ったように頭をかきながら、ふらふらと店内をさまよいだした。
(やーれやれ)
 わたしは肩をすくめる。
 そりゃ、別にわたしが選んでもいいけどさ。あんまりわたしの好みばかりに染まってほしくないんだよね。歌とかアイスとかローラのこととか英語とか、まあそれなりに自己主張する部分もあるけれど、まだまだ、興味の範囲が狭い。
(ただ、ジョーさん曰く、カイトの自己主張の仕方は問題ありっぽいのよね……)
 ジョーさんたちとわたしたちの四人で買い物に行った翌々日、再びジョーさんに呼び出され、マスター会議を行ったのだ。そこであろうことかないことか、要注意宣言を受けるという、驚きの展開となった。
 そりゃあ、常識とか知識とかに偏りが大きいということはわかっていた。だけどそれは仕方がないことだと割り切っている。最低限、他人に危害や迷惑をかけなければまずはそれで良しとしないと、って。
 わたし自身に関しては、以前も、それにきっとこの先しばらくもカイトが引き起こす面倒事に巻き込まれるだろうと諦めている。……そうなんだ、覚悟しているとか納得しているとかではない。もうそういうものなんだと諦めているのだ。だって、わたしはマスターだから。
 それでも面倒事は時間と共に減るだけだろうし、面倒といっても精神的な負担が主なものだと思っていた。また馬鹿なこと言って、とか。どうフォローしたものか、とか。出てきた当初こそ、己のガタイのデカさを認識しないでこっちに突進してきたりもしたけれど、さすがにそういう、怪我につながりそうな事例はもうないに等しいくらいだったので。
 だから、わたしは楽観していたのだ。カイトと共にいることに。
 けれどそんなわたしにジョーさんは警告した。
「――つまりな、カイトの情緒面……範囲を狭くした言い方をすれば性的な精神年齢ってやつはせいぜい小学生レベルなんだよ。小学生っていっても、高学年じゃないな、もっと低い。だいたい同学年でも女の方が先に大人っぽくなってくじゃないか。第二次性徴とかそういう以前に精神的な部分でもさ。だからまあ、高学年になっても男の方がずいぶん子供というか、アホなんだが、それでも意地とか見栄とかでだいぶ素直さが薄くなってくるから、カイトのあの開けっぴろげな素直さは十歳以下だ。下手すると幼稚園児レベルかもしれん」
 男性であるジョーさんが言うその台詞には妙に説得力があった。しかし幼稚園児レベルかもという内容には少なからず脱力もした。けれどそれがなんだというのだろう。それならそれで良いではないか。どこに問題があるというのだろう。
 そう答えたわたしにジョーさんは言う。
「精神年齢一桁がいつまでも変わらなければな。、一年以上あいつとつき合ってきて、精神的に……情緒的にと言ってもいいかな、変化とか成長したと思ったこと、全然ないか?」
 もちろん、ある。
「ローラが出て来てまだそんなに経っていないが、俺も変化は感じている。元々持っている性質だってあるだろうが、基本的にはあいつらは白いキャンバスみたいなもんだ。周辺環境の影響でどんどん変わっていくだろうぜ。その辺は人間と変わらんだろうな。少なくとも俺はそう思う」
 ジョーさんが言いたいことはわかる。わたしだって気づいていなかったわけじゃない。だからこそ余計にどう返答すれば良いのか迷い、わたしは沈黙してしまう。
「んで、つまりな、今は良くて十歳程度のカイトでも、そのうち徐々に成長していって、中学生レベルになった時にが押し倒される可能性が高いんじゃないかと、これまであいつと話していて思ったんだよ。もちろんが受け入れるつもりがあるんならこれ以上野暮なことは言わねぇよ。でもそのつもりがないってんなら、ちょっとどころじゃなくヤバいだろ? で、お節介だとは思ったがその辺自覚があるのか確認しようと思ってな」
 押し倒すとかジョーさん何言ってるの、と焦ったがセクハラ的な冗談などではないことは全く笑みのない表情からも窺えた。だからわたしはしどろもどろになりつつも、カイトにはマスターとのお約束があるし、本人もそれを守るつもりがあるようであることを説明する。
 しかしジョーさんはそれに頷きつつもこう言ったのだ。
「けど、あいつ、どうしてもやりたくなったことって、結局やっちまうだろ。自制が効かなくなるんだよな。しかもこの間のコートの件で言えば、先に謝るって行動取っているあたり、かなり問題だな。悪いことであるという自覚があるということだろうが、あれは。ただこの点については時間が経てば改善するかもしれない。でもその前に事が起きてしまうかもしれない」
 指摘されて気づいたけれど、たしかにカイトにはそういうところがある。新歓コンパの時だって、やってはいけないことだとわかっていつつもわたしの個人情報とGPS機能を使って追いかけてきたんだもの。
 わたしは今までこれらの件は、ちょっと躾の悪い大型犬が勢いに任せてじゃれついてきているようなものだと思っていた。躾に失敗したのはわたしだし、実害を受けるのもほとんどわたしな訳だから、しょうがないと思っていたけれど、本当はもっと深刻な問題なのかもしれない。
「例えばの話、俺はローラに迫られても困らないぜ。役得としか思えないし、気が乗らなければ力尽くでやめさせることもできる。でも、はあいつに力任せにこられたら抵抗できないだろ。そんでその場合、よりダメージを受けるのはの方だ」
 それからのジョーさんの話は……。ああ、わたしはまだこの事に返事ができていないのだ。だって、どうしたらいいのかわからない。本当にわからないんだもの。
「で、だ。これはからかっているんでも何でもない、一応、本気で心配して言っているんだが……。俺があいつを教育しようか? さすがにローラには知られたくないから、やるなら年末年始だな。それなら俺の友人ってことで、実家に連れていける。男所帯で親戚が集まるってほどでもないから、時間は作れるだろうぜ」
 何の教育か、なんて改めて聞く必要もない。
 この辺でわたしは許容値が限界に達し、その返事は後日でということで解放してもらった。

 一時間近く経って、カイトはダークグレイのピーコートを選んで戻ってきた。丈はちょっと長めで上品な感じなので、カイトが三割増し頭が良さそうに見える。
 すごくいいけど起毛しているので、小次郎の毛がつきやすいだろうなと思っていると、予算が残っているので、がんがん洗濯機で洗っていいパーカーかなにかも買います、などと言う。うん、カイトは確実に色々考えられるようになってきている。生活面に関してだけは。





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