夕食後のゆったりとした時間。まだ湯気が上るミルクティーを脇に置いて、マスターはカリカリとペンを動かしていた。
 月が変わると、マスターは壁掛けのカレンダーに予定を書き込む。バイトに行く日、試験のある日、レポートの締め切り日、すでに決まっている時には遊びに行く日なんかを。以前は予定が近くなった時にマスターから口で伝えられるだけだったけど、ご飯作りや買い物の都合もあるので、直前に言うのはやめてください、と言ったらこうしてくれるようになったのだ。
 十二月である今月は、先月や先々月にはない単語がいくつかある。冬休みと帰省だ。
 わかっていたんだけどね。今回もマスターは数日いなくなるってことは。小次郎さんも連れていくようだし、俺、寂しいなぁ。でも、仕方がないよね。
 すべて書き込みを終えたのか、ペンを置いたマスターはテーブルに肘をついてうなった。
「どうかしましたか?」
 マスターはため息をつく。
「週末は元々バイトをする日って思っているからクリスマス直前の週末に働くのはいいのよ。シフト、いつもより二時間長いけど」
「はあ」
「でも二十三日から日曜日までの連続五日って……。わたし、友達と遊んでいる時間がないじゃない!」
 裏返った声で彼女は叫んだ。
「じゃあ、クリスマスパーティはなしですか?」
「どうだろう。昼間にやるなら行けるけど、わたしの都合だけでは決まらないからなぁ。バイト選び、失敗したかも」
 マスターはぐてんと背中を丸めてテーブルに突っ伏す。
「こういうことが起こるとわからなかったんですか?」
 マスターは色々ものを知っているのに、と不思議に思って俺はたずねた。彼女は覇気を失った声でもごもごと答える。
「よく考えれば飲食関係、しかもイタリアンレストランならクリスマスに忙しくなることくらい予想できたはずなのよ。でも全然その事に思い至らなかったのよ。だって、バイト始めたの、夏だったんだもん」
 それは理由になるのだろうかと思ったけれど、マスターが心底がっかりしていることがわかったので、俺はそれ以上追求するのをやめた。
「パーティの日だけお休みさせてくださいっていうことはできないんですか?」
 お友達と集まるのとサークルで集まるの、二回ともは無理かもしれないけど、どちらかだけなら行けないかな。マスターがすごく楽しみにしているんだもの、行かせてあげたい。
 マスターはもそりと頭を上げる。
「二十三日から二十五日を外せばなんとかなるかな。この三日だけはさすがに休めないよ。毎年、相当忙しいんだって。シフトもプラス三時間よ……」
 一瞬、俺が代わりに行きましょうか、と言いそうになったけれど、経験もなければ知識もない俺がいきなり行ったところで足手まといにしかならないだろう。速攻で却下されるのが容易に想像できたので、俺は黙った。
「二十一、二十二あたりに集まりたいって言うしかないかぁ。二十二なら祝日前だし、ありかも。とりあえず後で相談してみるか……」
 ぶつぶつとマスターは独り言を言う。現実逃避でもしているのか、明後日な方を見ながら、爪の先でテーブルをコツコツと叩いた。
「えっと他にやることはないかな。あ、年末の大掃除! ……は、必要ないか」
 叫んだと思ったら、すぐに我に返る。カイトがいつも綺麗にしているからなぁ、とマスターは続けた。
「大掃除ですか? 改めてしなくても大丈夫だとは思いますけど、マスターが帰省している間は暇なので、俺、やっておきますよ」
 マスターの肩がぴくりと動く。
「あのさ、カイト」
 一気に声のトーンが低くなる。俺は軽く首を傾げて彼女が続きを話すのを待った。
「実は、ジョーさんに年末年始、自分のところに来ないかって言われているんだけど」
「マスターと俺がですか?」
「ううん、カイトだけ」
 ということはジョーさんとローラさんと俺の三人でお正月を過ごすということか。去年はマスターの受験があったから、お父さんとお母さんも帰省しなくって、俺、十日近くもパソコンから出られなかったんだよね。あれはつまらなかったなぁ。
 ところがジョーさんのところ、というのはジョーさんのマンションではなく、実家のことだったのだ。
「ローラさんも行くんですか?」
「ううん、ローラは行く気がないんだって。それ以前にさすがにローラを連れて行ったら揉め事になりかねないから無理だろうとは言っていたけど」
 やっぱりそういうものなんだろうなぁ。なら、行かないと言ったのも、ローラさんの本心かどうかわからないじゃないか。でも待機も仕事のうちだと思っているローラさんなら本心なのかも。ああいうローラさんだから、どっちのマスターにも怒られたりしないんだろうな。……ということは、やっぱりマスターと離れるのが寂しいとか思ってしまう俺はやっぱり駄目なボーカロイドなのだろう。
「えっとね、わたしが帰省している間、カイトが暇だろうって。ジョーさんも帰省してもやることないんだってさ。だから暇人同士、時間つぶしでもしようって」
 マスターの肩は心持ち申し訳なさそうに縮んでいるようだった。まったく、ジョーさんは俺のことをなんだと思っているんでしょうね。マスターのことをこんなに困らせて。先輩に言われたのなら、簡単に断れないってことくらい、俺にだってわかるのに。
「どうせ行くなら、マスターと同じところに行きたいです」
 無駄だとわかっていても、念のため、一応、とりあえず、言うだけ言ってみた。すると、何と言って紹介しろと? と引くついた顔をされる。ですよねー。
 お父さんたちだけじゃない、マスターの親戚一同の前でヘマをしないでいられる自信はない。そうしてほしいけど、本当にしてほしいけど、恋人として紹介してくださいというだけの勇気は、さすがになかった。怒られるのを通り越して久々に蹴られそうだったし。
「まあ、ジョーさんの件に関しては、何が何でも来いってことじゃなくて、気が向いたら来ればいいって感じだからカイト次第よ。行ってみたいと思ったらジョーさんに伝えておいてね。後、わたしにもね。気兼ねはいらないっていわれているけど、手土産くらいは持っていかないと」
「興味なくもないですけど、でもやっぱり迷惑になるんじゃ……」
 そりゃ、ジョーさんのところなら、ジョーさんの友達という立場でいられるだろうし、友達ならそんなに警戒はされないとは思うけれど、でも年末とかお正月は特別な日のようだし、そういう時に無関係の俺がいるのはおかしいのではないだろうか。
 そうマスターに言うと、
「それはわたしもそう思うよ。でもジョーさんのところは親戚が集まるわけじゃなくて、日帰りで挨拶周りをするくらいで後はやることが特にあるわけじゃないらしいのよ。実際のところはどうだか知らないけれど、ジョーさんが言う迷惑じゃないって言葉を信じるしかないな。だから本当に、カイト次第なのよね」
「そうですか……」
 迷うなぁ。お盆のことを思えば、マスターも小次郎さんもいない日々は本当に退屈で寂しくて……。だからと言って甘えてもいいのだろうか。ローラさんも行くというのなら、まだ行きやすいんだけど。
「ジョーさんと直接話して決めます。マスター、携帯貸してもらえますか? 今でなくてもいいんですけど」
 メールよりもこっちの方がいいだろうと、俺はマスターにお願いする。マスターは快く貸してくれたので、早速ジョーさんに電話をかけた。
 話すこと数分、なんだか全然問題ないというよりも歓迎されているようなので、俺はジョーさんの実家に遊びに行くことにした。ジョーさん、本当に暇なんだろうなぁ。でも地元のお友達とは会わないんだろうか。それを含めても退屈なんだろうか?
 電話を返すと、マスターが困ったような、でも安心したような様子で受け取る。俺がお盆の時に消えるかもしれないと思った話をした時、マスターはすごく心配してくれたから、また同じことが起きるかもって考えたのかもしれない。でも俺だってちゃんと考えているんだ。アイスの買いだめをして、一日一個、できれば三個くらい食べて、元気にお出迎えするつもりだったんだ。これは必要経費なので、俺のアイス代じゃなくて食費からだそうと思っていたんだけど、いいよね。駄目かな?
 マスターは両手を組んでぐっと伸ばし、背中の強ばりをほぐすように首を回した。それからすっきりした顔で話を変える。
「さっきあんたが電話をしていた時に思い出したんだけど、大掃除はともかくとして、片付けはしてしまいたいんだ」
「何を片付けるんですか?」
 溜まりまくっているマスターの買った雑誌とかかな。だって俺は掃除もだけど片付けだってちゃんとしているんだし。
 しかし思いがけないマスターの返答に、俺は目を丸くする。
「カイトが当てた懸賞の賞品」
「え! なんでですか!?」
「なんでですかって……。使えるものはともかく、使わないものが溜まってきているじゃない。今それを一時的に置いているところもそろそろ限界でしょ。カイト、相変わらず応募しているようだから、これからもまだ色々届きそうだし。それはそれでいいけど、だったら年に一度は整理しないと、増えていく一方じゃない」
「でも、使っていないものはまだ使っていないだけで……!」
「あのねえ」
 マスターは深いため息をつく。
「そりゃ使えるか使えないかで言えば使えるけど、それを使うようになるまでどれだけかかるのよ。ストラップとか、三十個くらいあるじゃない。それに化粧品のサンプルとかさー。大体なんで化粧品の懸賞にまで応募するのよ、あんた使わないじゃない」
「マスターが使うと思ったので」
 今はまだお母さんにもらった化粧品を使っているけど、ものによってはそろそろなくなってきているし、だから使ってもらえるだろうって。サンプル品って量が少ないからたくさん用意していないといけないと思って、一生懸命はがきを書いたりしたんだ。
「それにしたって多すぎるし、肌質とか色の問題もあるの。それにずっと使わなければ品質が劣化して、結局使えなくなるんだから、なんでもかんでも応募しないで」
「す、すみません。以後気をつけます!」
 そうか。開封しなければいつまで置いていても大丈夫だと思っていたけど、そういうものでもないんだ。
 俺は両手で山盛り二杯分はある化粧品サンプルを思い出しながらマスターに謝った。
「……それで、使わないならどうするんですか。す、捨ててしまうんですか?」
 使われずに捨てられるなんて、まるで以前の俺じゃないか。ああ、あの苦しみを知っている俺が、他のものに対して同じことをしてしまったなんて。それも化粧品サンプルやストラップだけじゃない。まだまだたくさんあるんだ!
 楽しくてやっていた懸賞応募だけど、その結果の残酷さに愕然とする。目が潤んできたけれど、泣いちゃだめだ。俺が引き起こしてしまったことなんだから。
「カイト、ちょっと大丈夫?」
 マスターの声がする。心配してくれているみたいだ。
「うう……。今の俺に優しくしないでください」
 自己嫌悪で壊れてしまいそうだ。ここでマスターによしよしとかされてしまったら、マスターとのお約束なんてきっと守れなくなってしまう。すがりついて号泣してしまう。
 マスターの手が伸ばされた気配がしたけれど、しばらく宙にとどまったまま、それは静かに下ろされた。
「捨てるのは最後にすることよ。その前に欲しい人にあげたりとか、やれることはやる。それは最初から考えていたことよ。だって全部捨てるなんて、もったいないじゃない」
「あげるって……」
 受け取ってくれる人がいるなら、もちろん嬉しいけど。
「基本はリサイクルショップだろうね。カイト、大丈夫?」
 久々に聞いたその単語に、反射的に身体がびくりとなる。でも我慢しなくては。だってこれは俺が引き起こしたことなのだから。
「だ、大丈夫です、続けてください」
 マスターは眉をよせて俺をじっと見つめたけれど、ややあって口を開いた。
「化粧品サンプルはさすがに売れないだろうから、サークル室に持っていって「ご自由にお持ちください」ってやろうかと思うの。あんまり多くてもなんだから、友達とか飼い主仲間にももらってくれる人がいるかどうか聞いてみる」
 なるほど。マスターの友人知人は女の人の方が多いからそれならなんとかなりそうだ。
「食品関係は使えるから、これはそのまま残すよ。でも調味料がちょっと多そうだから、これも引き取り手を捜そうかな。飼い主仲間が良さそうだね、主婦が多いし」
 調味料なら喜んで引き取ってもらえそうだ。マスターは頭いいなぁ。
「それと、金券もそこそこあったっけ。図書カードはわたしがもらうしクオカードはカイトが使っているけど、他が意外と使い道がないのよね。これはもう現金化した方がいいわ」
 まあ、お金と同じものですしね。だからだろう、商品券の現金化は俺にもほとんど抵抗がなかった。
「それと、数はあんまりないだろうけどプレミアが付きそうなのはネットオークションに出した方がいいかな。でも面倒だなー。わたしにはそんなことしている余裕はないし。顔の見えない相手と取引する以上、カイトに任せっぱなしにするのも怖いのよね。これはちょっと保留しておくか」
 ネットオークションのトラブルというのも色々聞きますしね。
「残りはリサイクルショップね。持っていく先は種類によって変えるくらいはしようね。買い叩かれるのも癪だし」
 俺は拳を握り、俯いた。身体がばらばらになりそうなほどの衝撃を必死でこらえる。
「……っ」
 マスターは悪くない。「リサイクルショップ」はアから始まる怖い言葉みたいに言い換えるための言葉を用意していなかったのだから。口にしないと話ができないしね。それにあそこは終わるばかりの場所ではないのだ。そういうお店がなかったら、俺は今、マスターとこうして幸せに暮らせていない。でも、一度は誰かに「もういらない」という烙印を押されたものが集まるところなんだ。俺がそうだったように。
「カイト、わたしのこと、恨む?」
 ふいにマスターが声の調子を変えた。俺は思わず顔を上げる。静かで憂鬱そうなその響き。こちらを見つめる目にも力強さなんてないのに、でも少しも反らせなかった。
「恨むって、なんで?」
「わたしね、いつかこうなるだろうなって思ってたんだ。うちの収納にも限界があるもの」
 もちろんそうだ。こんなことにも思い至らないのは、俺がバカだからだ。
「懸賞がこんなに当たるものだと思っていなかったというのもあるけど、だんだん、あ、これは使わないなっていうのが増えてきた時、ちょっとやばいなって思ったんだ。あんたの過去を考えれば、いらないものでも未使用で処分なんてことになったら、またパニックを起こしかねないし、そうでなくてもすごく傷つくだろうって。でもこれも良い機会かもって思っちゃったの。少し先のことを考えて行動するってことを学ぶために」
 マスターって、やっぱり俺のことをよく考えてくれているんだなぁ。
 話の前半を聞いていたときには、わかっていたなら止めてくださいって思ってしまったけれど、それだと駄目なんだ。それではいつまで経っても学習できない。俺だっていつまでも過去を引きずりたくないんだ。
「マスターは厳しいですねぇ」
 泣きたいような、笑いたいような気持ちだった。俺は今、どんな顔をしているのだろう。
「まあね。自分でもそう思う。もう少し時間をかけた方がいいかとか、別のやり方もあるんじゃないかとか、色々、迷った」
 テーブルに肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せる。そして唇をちょっと突き出すようにして言い訳をするマスターは可愛かった。
「でも、ありがとうございます」
 自分でも信じられないほど穏やかにマスターに笑いかけた。マスターはびっくりしたように目を見開く。
「前のマスターのことは、今はあまり気にならないんです。どんな人だったかなんて、もう確認しようがないですし……。でも」
 この先を続けるには勇気がいった。俺はすうっと息を吸い、お腹にぐっと力をいれる。
「アンインストールをされた時の衝撃が……。いきなりだったとか、どうしてって思いだとか、吸い込まれるように消えていく感じだとか、そういうものだけが固まりのように記憶の片隅に残っているんです。消えないんです」
 マスターは意外なものでも見るように俺を見つめる。そうだよなぁ。俺もやれるとは思わなかった。自分でアンインストールって言えるようになるんて。
 彼女はしばらく黙っていたけれど、自嘲するように片方の唇の端をあげる。
「うん。嫌な思い出って、そういうものだよね。忘れたいけど忘れられるものじゃないのよ。大体、本当にそこだけ忘れるなんて、どんな都合のいい記憶喪失よ」
 その口振りに俺は首を傾げる。
「マスターにも忘れたいような嫌な思い出があるんですか?」
 反抗期のことかな。でもあれはどっちかというと恥ずかしい思い出だよね。それ以外にもあるのだろうか。
 マスターは苦笑する。
「それなりにはね。あんたの過去ほど壮絶なものはないけど」
「比べるようなものじゃありませんよ」
 ふふっと俺も笑った。

 なんだか色々と吹っ切れたので、俺は早速作り付けの物入れから紙製ボックスを全部引っ張りだし、中身をぶちまけた。ちなみにボックスは百円均一で買ったものだ。当選品が増える度に買い足していったので、今では五つに増えている。大きいものは入らないのでボックスの周辺に積んであった。
 ますは種類ごとに寄り分ける。手を動かしながらも俺はパソコンと連動してプレミア価格が付きそうなものはさらに別にした。
 当選品の中には化粧品以外のサンプル類もたくさんある。それらはパッケージにサンプル品と書いているものが多いので、受け取ってくれそうなグループを想定してマスターが分けた。
 作業をすること、約一時間半。テーブルの上も床も、種類ごとにわけた品物の小さな山がたくさんできた。
「あーもう、足の踏み場もないな」
 マスターは呆れた口調で言う。
「種類ごとに袋にでもいれた方がいいですね。もう夜中だし、俺がやっておきます」
「ん、サンキュ」
 マスターは小さくうなり声をあげながら伸びをする。
「それにしても、本っ当に多かったわね。ここまで増えていたとは思わなかったわ」
「郵便も宅急便も、マスターが学校に行っている間に届きますからね。俺も細々したものとかは、マスターに見せることなく仕舞ったりしていましたし」
「そうなんだよね。見たことがないのがいっぱいあるもん」
 マスターは文具類の小山から企業ロゴが入ったボールペンをつまんでカチカチとペン先を出し入れする。シャーペンとかメモ帳とかもたくさんあるのだ。これらは当選人数が多くて当たりやすいから。
「マスター、俺は反省しました」
「うん?」
 決意を込めてマスターを見つめる。意志の強さを表すために正座をして。
「俺は今後、食品類と金券類以外、使いそうなものでない限りは応募しません。使うかどうか、俺では判断できないものはマスターに確認をしてからにします」
「おお……」
 マスターは感心したように小さく拍手をする。
「もう二度と、応募できるからというだけの理由では応募しません!」
 ぐっと拳を握り、俺は宣言した。
「趣味なんだしその辺はカイトの好きにすればいいと思っているけど、そうと決めたのならやってみればいいよ」
 中途半端な応援に、俺はあれ、と思う。
「マスターは今まで通りでも別にいいと思っているんですか?」
「カイトが辛い思いをするってことがなければ、別に懸賞自体は応募できるからという理由だけで応募してもいいと思うよ。だって、懸賞って必ず当たるわけじゃないもの。応募している人だって、何が何でも欲しいって人は少数だろうしね。買えるものが大半だし」
 そういうものなのだろうかと思ったが、俺もそうだったもんなぁ。当たることが嬉しいのであって、欲しいというのとはちょっと違うんだ。
「こういう風に、自分たちが使わないものだって、売ればお小遣いになるしね。リサイクルショップでもオークションでも、そういうところでものを買おうっていう人はそれが欲しくて買うわけでしょ? 一手間かかっているけど、結局欲しい人が入手できるならそれはそれでいいと思うのよね」
 お小遣いか。金券なんかもそこそこ当たるけど、そんなに高いものばかりではないし、アルバイトをするのも俺にとっては厳しい。だからもし当選品を売るということをするようにしたら、それは貴重な収入源になるだろう。元々は実際に当たった物を使うだけのつもりだったけれど。
 だけど俺たちにとって必要でないものをわざわざ集めるというのはちっとも楽しいことではない。でも働くのは何であっても大変なことのようだし、それなら俺の辛さだって耐えるべきではないだろうか。マスターの仕送りには元々俺の分は入っていない。その分マスターの生活は苦しくなっている。俺はせめて自分にかかる分だけでもどうにかしたい。そうすることができるかもしれないやり方がようやく見つかったのだ。なら。
「……あの、さっき必要ない物は応募しないって言いましたけど、あれ、やめます」
「前言撤回早すぎない? 別にいいけど」
 いぶかしそうにマスターは眉をひそめる。俺は考えたことを彼女に伝えた。マスターはやれやれと肩をすくめる。
「そんなの気にしなくていいのに。カイトにお金を稼いでもらうつもりなんて最初から考えていないもん。費用がかかるなんて最初からわかっていたし、わたしはそれを承知であんたを連れてきたの」
「でも」
「カイトは家のこと、毎日きっちり手抜きしないでやってる。ご飯作りもすっごく上達した。そりゃね、掃除なんて毎日やらなくったって問題ないし、ご飯がスーパーの惣菜でも外食でもやっていけるよ。でもやっていけるのと、こうあってほしい生活っていうものは必ずしも同じじゃないのよ」
 マスターはにこっと笑った。
「家事代行の人に頼んでいたとしたら、カイトにかかる費用よりももっとかかっているよ。わたしの方はバイト代が入ってもあんたにあげられるお小遣いはこれ以上あげられないけど……。何かあった時のためにちょっとずつでも貯金しておきたいし。でもカイトが頑張って節約したお金で切手とか葉書代を捻出して当てた懸賞があんたのお小遣いになるなら、いいことじゃないかって思うんだ」
「俺、別に自分で使うためにお金がほしいんじゃないんですけど」
 俺にかかった費用をマスターに返したいだけだから。あ、でもマスターの日とマスターの誕生日には毎年何かプレゼントをあげたい。でもそれも、今では生活費の余りを貯めればなんとかなりそうだな。
「じゃあ、それは一時金通帳に入れておくか。カイト、何かでお金が必要になったら、遠慮なく言ってね」
 一時金通帳というのは、貯蓄のために基本的にはお金を下ろさない通帳とは別に作った余剰金を一時的に預けておくための通帳だ。ある程度貯まったら貯蓄用通帳に移すか、場合によってはぱーっと遊ぶのに使ってもいいということにしている。もっともまだそんなに貯まっていないけどね。
「ありがとうございます。ところで全部で幾らくらいになるでしょうね」
 特に俺が使うことはないとは思いますが、という言葉を心の中で付け足して、俺はたずねる。
「さあねぇ。ちょっと予想つかないな」
「マスターは今何か欲しいものがあります?」
 その費用にしてしまおうと、ふいに思いついたのだがその答えは意外なものだった。
「欲しいって言うか、髪の色を変えてみたいなって思ってたんだ。どんな風になるかなって」
 髪の毛をくるくると指で巻きながら、彼女は笑う。
「派手な色にするつもりはないけど、カラーにするなら定期的にそこそこの額がかかるじゃない。コンタクトだってそうだしさ。だからちょっと躊躇していたんだよね。でもまあ、一度やってみて似合わないようだったらやめればいいかなって」
「髪って……。ど、どんな色ですか?」
「細かいところまでは考えていないよ。だってやるにしてももう少し先だと思っていたし」
「え、えー……」
「何? まさかお父さんが反対するから駄目ですとか言うの?」
 マスターは目を半分に細め、面倒くさそうな調子になる。
「いえ、そういうわけじゃなくて」
 お父さんの反応はこの場合はよくわからないからそれはない。でもなんだか嫌なんだ。お父さんがどうかじゃなくて、俺が。
 だってマスター、コンタクトにしたばかりなのに。コンタクトになって、メガネなしの時の目がぽわっとした感じじゃなくてきりっとするようになって、あ、マスターちょっと変わっちゃったなって思っていたんだ。でもまだ変わろうとしていたの? どうしてそんなに急いで変わろうとするの? 嫌だよ。だって俺、変われないのに。置いて行かれて距離ばかり開いてしまうのに。
 変わらないで。
 変わらないでください、マスター。せめて俺がいられる間だけでも。
 変わらないで。

 ……俺も変われたらいいのに。







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