憂鬱だ。
 帰省帰りの新幹線の中、ぼーっと前を見ながら、わたしはため息をついた。
 満席に近い車両の、デッキに一番近い席。窓の外を見るには隣の人が邪魔だし、目の前には一分もあれば読み終わってしまうような広告しかない。小次郎が騒いだ時のために、早めにそういう席を取っておいたのだ。いつもなら雑誌か文庫本でも読んで時間をつぶすのだけど、せっかく買っておいたそれらは今のところ開かれないままになっている。
 手に着かないのだ。家に帰るのが怖くて。正確に言えば、カイトに会うのが、だが。
 カイトは駅まで迎えにきてくれることになっているのだけど、その時の彼はどんな顔をしているだろう。いつもと変わらないだろうか。それとも変わっただろうか。変わったとしたら、どんな変化だろう。予想がつかない。
(嫌われたり疎まれたりしたら、さすがにへこむな……)
 ジョーさんにカイトには性教育をしておいた方がよい、という忠告を受け、わたしは消極的に賛成する形でカイトを先輩に預けたのだ。自分ではどうしても決断できなかったので、カイトの意志に任せた。といえば聞こえは良いが、実際のところは本当の目的を言わずにジョーさんのところへ行くかと聞いて、彼が行くといったので送り出したということだが。ただジョーさんの実家に遊びに行くだけだと思って出発して行ったカイトは現地に着いてから驚いただろう。
 と考えてわたしは遠い目になった。
(おどろ……くのかな。カイトのことだから、暇なジョーさんが新しい勉強を教えるという時間の潰し方をしようとしているだけだと思うかもしれない)
 なにしろ高くて十歳程度らしいからね、カイトの精神年齢は。
 でも以前、カイトはわたしにキスしたこともあるし、わたしがキスをするものだと思って目をつぶって待っていたことがあったよなぁ。でもあれも、わたしが時々小次郎にキスするのを見て羨ましがっただけのようにも見えるから、セクシャル的なものは何もないとも思えるし……。
 だが、性教育。しかつめらしいこの言葉をまともに取り上げようとするとひどく恥ずかしくて困惑するのだが、カイトも一応、性別の上では男なのだ。遅かれ早かれ知っておいた方がいいことだろうとは思う。けれど、あのカイトなのだからしなくても大丈夫……というよりもカイトは「男」にはならないのではという思いも交錯する。けれどカイトがどんな風に「成長」するのかわからない以上、どちらが正解かは判断がつかないことだ。
 だがもう一つ、懸念がある。
 本来カイトにはそういった教育は必要なかったとして、教育を施してしまったがために「目覚めて」しまう可能性だ。その場合はわたしたちマスターはまったく余計なことをしてしまったことになる。
 けれどもし、カイトがすでに、あるいはこの先目覚めたとして、それが元々そうなる予定だったのか、こっちが目覚めさせてしまったのかは、やっぱりわからないのだ。
(あー、気が重い)
 だがもう終わってしまったことだ。消極的だろうとなんだろうと、わたしはジョーさんなりの親切からでた申し出を受けたのだ。賽は投げられたしパンドラの箱の蓋は開いてしまった。もう、なるようになるしかないのである。
 しかし、
(カイトが男になっていたらやだなー)
 わたしは憂鬱さの根元を思い浮かべ、何度目かわからないため息をついた。
 今まで気楽な姉弟のような間柄でやっていたのに、また一から関係を築かないといけないのではないか? あんまりよそよそしい感じになるのも嫌だな。それに、これでわたしが本格的にカイトを意識しだしたら大笑いだ。そんなつもりなんて一切ないのに。でも、それは本当? 心のどこかで期待をしているところがないって断言できる?
(うっわ、もやもやする)
 もうこんなことを考えるのは嫌だ、とわたしはぎゅっと目をつぶった。駅に着くまで寝てやる。こんな風にぐだぐだ考えるのも、本人に会っていないからそうなるんだ。
 わたしはシートをもう少し傾け、さっきまで頭を占めていたものを排除しようとした。結局それは消えてはくれなくて、冴えた頭にぐるぐるぐるぐる、同じ思考が何度も浮かんでは消えたのだけど。

(こーなーいー!)
 カイトのやつ、自分の方が一日早く帰るから、荷物持ちにホームまで迎えに行くって言っていたくせに。ちゃんと指定席の番号は事前に教えていたのに!
 自信のないテストが戻ってきた時並に心臓がばくばくしながらホームに降り立ったというのに、お盆の時と同様、十分待っても二十分待っても、あいつは姿を現さないのだ。
 いい加減寒くなったので、見切りをつけてスーツケースとバッグと小次郎の入っているキャリー、それとお土産入りの紙袋という大荷物を抱えて改札を出る。広い構内にはたくさんの人。帰省客でごったがえしている駅の中では、たとえ遅刻してきたカイトがいたとしても遭遇できるとは思えなかった。
(なんだろうなぁ。単に遅れただけなのかな、それともこれがカイトの答えなんだろうか)
 今回は帰る日を変えたわけではないから、どこかに出かけていて時間変更のメールが読めなかったということはないだろう。カイトも帰宅日を変えるとは言ってこないし。……でも、一応ジョーさんに確認した方がいいのかな。いや、ひとまず帰ってみて、カイトがいなかったら聞いてみよう。
 ちょっとだけ、カイトが携帯を持っていないことを悔やんだ。多少費用はかかるけどこういうときにスムーズに連絡がつかないとひどくもどかしく感じる。でも携帯を持っていても、もし返事をしたくないと思っているとしたら、メールも電話も無駄だろう。
 だけど万が一、カイトがただ忘れていただけである可能性を考慮して、駅に着いたことと、これからアパートに向かうということをメールする。
(とりあえず、帰るか)
 何が待っているのかドキドキものだったが、ひとまず荷物を抱え直し、タクシー乗り場へ向かった。この出費は痛いが、わたしはお盆の時に思い知ったのだ。大荷物を抱えたまま電車に乗り、さらに三十分歩くなんて二度としたくない、と。

「ただいまー」
 いつもの癖と、何も気にしていないよというそぶりを見せるために、わたしは帰宅を告げながら玄関を開けた。
 部屋は静まり返っている。昼過ぎのリビングは冬の横日でずいぶん明るかった。
 反射的に視線を下に向けると、そこにはカイトの普段使いの靴がある。……帰ってきているんだよね?
 PCに引きこもっているのだろうかと、この静けさに不穏なものを感じながらも、まずは小次郎を解放するのが先決と、キャリーの蓋をあけた。小次郎はせいせいした様子でぶるると体を振るわせると、だだっと駆け出す。その姿を視界の端に納めながら、わたしはスーツケースを中へ引っ張り込んだ。
(さーって、どうしようかな)
 リビングのローテーブルに紙袋を置き、床にはスーツケースを横たえる。中身の整理はひとまず後回しにして、まずはカイトをどうにかしよう。声かけるの、ちょっと怖いけど。
 わたしは大きく息を吸い込んだ。自分が緊張しているのがわかる。早鐘のように打つ胸を押さえるながら、わたしは唇を開いた。
「カイト、ただいまってば。返事くらいしなさいよ」
 一分ほど待ったが返事はない。電源が付く様子もなかった。その静けさぶりときたら、中で彼が拗ねているとか怒っているとかではなく、最初から中には誰もいないかのようだった。自分が眠りから覚め、すごくリアルな夢を見ていたのだと悟った時のようなその感覚。ぞくりと冷たいものが背筋を走った。
 指が電源ボタンに伸びる。急かされているような、追われているような切迫感が襲ってきたのだ。
 PCが立ち上がるのももどかしく、わたしはカイトと叫ぶ。返事はない。当たり前だ。まだちゃんと立ち上がっていないのだ。スピーカーは動かないのだから。でも、止まらない。
「カイト、ねえカイト。どうしちゃったの、一体?」
 少しして完全に立ち上がったので、わたしはボーカロイドエディターのショートカットキーをクリックした。
 グリーン系とモノトーンの、いつもの画面が開かれる。わたしはフォルダを開き、一番最初のファイルをクリックした。
 だが、それは開かなかった。
「うそ……」
 どんな反応が来るのか怖かった。
 でもそれが、これほどまでに徹底した拒絶だとは思わなかった。
 どれほどその場に立ち尽くしていただろう。わたしが我に返ったのは、寝室へ続くドアに小次郎が爪を立てる音によってだった。
「こじろー……」
 我ながら力のない声で愛犬の名を呼ぶと、小次郎はわたしの方を見上げながら、後足で立ち上がってドアを開けて欲しいという仕草をした。爪が当たるかしかしという音がやけに耳に響く。ぼうっとする頭でのろのろと歩き、ドアを開ける。自分の身体を動かしているのが自分ではないようだった。ふわふわして、現実感がない。
 喜び勇んで小次郎が隣の部屋に行く後ろを、ふらつく足でついていく。なんというか、ショックだ。カイトにとって性教育はそんなに受け入れがたいことだったのか。やっぱり過去のキスだのハグだののあれは、しょせん幼児がじゃれついてきているようなものだったのか。……それよりもジョーさんは一体何をどう教えたんだろう。最初は子供向けの本を使うとか言っていたけれど。
「……」
 ふらふらしていた足が止まった。
 同時に脱力感が襲ってくる。
「カイト……」
 いたのだ、奴は。わたしの寝室に。
 しかもベッドの端に頭だけ乗せてうつ伏せになるというへんてこな状態で。
「あんた、何してるのよ」
 さっきまでの衝撃が薄くなると同時に、だんだんムカムカしてきた。何かとんでもなくカイトを傷つけてしまったと思っていたのに、人のベッドで遊んでいたとは。わたしの悲しみとか後悔とかその他もろもろの感情を返せ。
「カイト!」
 ゆさゆさとカイトの肩を揺する。伏せた顔は腕で囲まれているので表情は見えない。場所が机ならうたたねでもしていると思える体勢だが、あいにくこれはベッドだ。なので、足は立膝のような正座のような中途半端な姿勢だ。そして小次郎がカイトのズボンの裾を噛んで引っ張っている。絵的にはちょっとしたカオスだ。
 わたしはまず小次郎を引き離し、リビングに戻るようお尻を押した。小次郎は不満げにしながらもすごすごと出ていく。
「ねぇ、なんなの? わたしのことを驚かせようとしているの? いい加減返事をしなさいよ」
 ゆっさゆっさとまた揺する。だけど相変わらず反応がなかった。
 不審に思ってカイトの片腕を無理矢理伸ばしてみる。伏せられた顔は掛け布団に埋もれがちであるが、ややこちらを向いていて、目が閉じられているのが見えた。
「……えっと」
 これはどういう状態なんだろう。いや、普通の人相手なら、寝ているんだと思うだけなのはわかる。ずいぶん妙な体勢だけど。でもカイトは眠らないのだ。
 思ってもみなかった事態に思考が停止する。これ、本当にどうしたらいいのだろうか。
「カイト、カイトー」
 とりあえず、肩ゆさぶりを続行してみる。それからぴたぴたと頬を軽く叩いた。しかしやはり反応はない。
 しばし悩み、顔に指を近づけてみる。うん、息はしている。ということは機能停止をしたわけではないだろう。
 ……本当にそうだろか?
 原因がなんであれ、カイトが機能停止状態に陥ったのを見たことはこれまでない。なら、これがそうであってもおかしくはないのではないだろうか。
(ファイル、開かなかったし)
 つい先ほどのことが頭をよぎる。
(とにかく、このままだと状態がよくわからないから、体勢を変えよう)
 わたしは後ろからカイトの両脇に腕を差し入れ、上体を起こした。どうせ横にするなら固い床じゃなくてベッドに寝かせてやりたいが、生憎わたしの腕力ではカイトを引き上げるのは無理だった。
 長い足が邪魔になり、海老反り状態になったりしつつも、なんとかカイトを仰向けに寝かせられた。せめてもと頭の下には枕を入れる。エアコンはリビングにしかなく、日当たりがイマイチな寝室は肌寒い。ちょっと暖房を入れよう、とわたしは立ち上がる。スイッチを入れてから戻ると、カイトに毛布でもかけてあげた方がいいのだろうかと迷った。
 カイトは寒暖を感じない。いや、感じないわけではなくて、それによって筋肉が強ばるとか汗をかくというような影響を受けないのだ。
 わたしはカイトの全身に目を走らせた。長いまつげが閉じられて、かすかに呼吸で胸が上下している様は、本当に、ただ眠っているだけにしか見えない。だけどそんなはずはないのだ。
(人間でも眠っているようにしか見えないけど、実は異常事態が起きていた、とかあるからなぁ。カイトもそれなのかも)
 あまりにも平和そうな見た目なので次の行動をどうすればよいのかまるで頭に浮かばないのだが、それでもやっぱり、これはカイトにとっては異常なのだ。
(かといって、救急車を呼ぶわけにはいかないし……)
 実体化をしているカイトの内部構造がどうなっているのか、わたしは知らない。レントゲンやMRIにかけられたときに、変なものが写らないとも限らないし、赤い液体こそ体内を巡っているようだけれど、それが人間と同じ血液であるかどうかも定かではないのだ。うかつに病院につれていったら、モルモットにされかねない。
 となると、次にとれる手段は……。
(ジョーさんに連絡することくらいだな)
 他の案が本気で思いつかないのだが、カイトはここ十日間近くをジョーさんのところで過ごしたのだ。だからやはり先輩に聞くのに限る。
(あんまり過激なことを教えられてオーバーヒートでも起こしたのかな)
 オチがそれだったらそれはそれでイヤだな、と思いながらもわたしは先輩に電話をした。
「カイトが寝てるように見える?」
 あいさつももどかしく、手短に現状を説明すると、ジョーさんはいぶかしげな声でそう答えた。
「そうです。ジョーさん、カイトに何を教えたんですか?」
「おい、待てよ。原因が俺だってか?」
 反射的に返ってきたジョーさんの声に不機嫌さが混じる。
「他に思いつくものがないんですよ。わたしはしばらくカイトに会っていないんですから」
「俺のところにいた時にはいつものあいつだったぞ。帰ってからなんかあったんじゃないか?」
「何かって?」
「俺が知るかよ。……とにかく、すぐそっち行くから」
「あ、ジョーさん!」
 わたしの返事も待たずに切れた電話をため息混じりに仕舞い、わたしは再びカイトを見守った。それだけしかできないから。
(カイト……。大丈夫だよね……?)
 やれることが思いつかないので、ぺたりと床に座り込む。ふと、カイトの手が目に入った。掌が上を向いていて、軽く指が曲げられている。わたしはそこに手を伸ばした。形だけの手をつないだ格好だけど、その手のひらも指先も、温かかった。
 そのままずっと待っていると、ジョーさんが到着した。ドアチャイムがすると同時にわたしは立ち上がり、先輩を迎える。ジョーさんは一人だった。
「ローラは連れてこなかったんですか?」
「帰省中の話をする可能性があったからな」
 先輩はざっくりと答える。なるほど。
 彼はわたしの案内を待たずに中に入ると、大股で寝室に入った。
「寝てるだけにしか見えないな」
 一瞬遅れて中に入ると、ジョーさんは片手を顎にあてて呟いていた。それからすっと膝をつくと、カイトの鼻先に手をかざす。それから瞼を無理矢理こじあけた。現れた青い瞳は焦点を結んでおらず、ただ綺麗なだけのガラス玉のようだった。
「ジョーさん、何かわかりましたか?」
 先輩は難しい表情で首を振る。
「カイトはうちでは変わった様子はなかった。それは本当だ。まあ、最後の二日くらいはちょっとダルそうにしていたけどな。勉強続きで疲れたんだって、思っていたんだが」
「食事量が足りなかったのかな」
 エネルギー切れという可能性を思いつき、わたしは呟いた。しかしジョーさんは否定する。食事は自分と一緒に取っていたということだ。二日に一度はカイトにのみアイスもつけて。
「もしかしたら、ずっとパソコンから出ているのは負担になるのかもな」
「実体化中も電気エネルギーが必要ってことですか?」
 ジョーさんは首をかしげる。
「わかんねぇけど、他に思い当たる要素がないしな。しかしパソコンに戻せば復活するとして、どうやってこいつを戻せばいいんだ。ディスプレイに押しつければいいってものでもないだろう?」
 困惑したジョーさんはカイトの頬をぴたぴたと触れるように叩く。
「とりあえず、押しつけてみます?」
 二人がかりならカイトを運べるだろうし。けれど戻れたとしてもその後意識が回復しなくて、二度と出てくることはありませんでした、なんてことになるのも嫌だ。ああ、もう、原因さえわかれば!
 ジョーさんはがしがしと頭を掻き毟った。
「やっぱり俺にはこいつがどうしてこうなったのかわからないな。なあ、
「はい」
 そうだろうな。カイトとのつきあいがジョーさんより長いわたしもこんなことは初めてなんだもの。先輩がどうにかしてくれるなんて思うのは、都合のよすぎる願いなのだ。
 意気消沈するわたしに、ジョーさんはそんなに落ち込むなよと声をかける。それから一つ、咳をして、
「念のためだが、単なる接触不良かなんかの可能性を考慮して、こいつ、一発殴ってみてもいいか。それとももう試したか?」
 言われたことに驚いて、わたしは思わず叫んだ。
「ちょ、え!? 何言ってるんですか! 昭和の家電じゃあるまいし!」
 そうわたしが食ってかかるも、先輩はでもなあと思案するように首をかしげている。
「接触不良ってやっぱりあるぜ?」
「そりゃそうですけど!」
「壊れないように手加減はする。可能性があるならまず確かめてみようぜ」
「でも、カイトはロボットじゃないんですよ?」
 そうだ。カイトの内部はよくわからないが、少なくとも金属ではないと思う。叩いて直る可能性があるなら、それはPC本体の方だろう。でもそっちが壊れるのも困る。
 PCもカイトもわたしに属するものだから、やはり遠慮はあるのだろう。ジョーさんはどうしたものかと顔に表しながらわたしの次の行動を待っていた。
「……わたしがやります」
 他にどう言えというのだ。
 わたしは何でこんなことになったのか、とやるせない思いを抱えながらリビングに戻る。どうせ叩くなら先に本体だ。ところで電源はつけっぱなしでいいのだろうか。それとも落とすか? あ、もしやさっき立ち上げた時に何かのエラーがあったのかも。でもカイトは多分、その前からあの状態だったんだろうな。
 ぺし、ぺし。
 意を決して本体の脇を叩く。それでもあまり強い力を入れるのは気が引けるので、本体は揺れもしなかった。
 念のため、電源を落としてやってみた。それから再び電源を入れる。何かが起きた気配はまったくなかった。
 後ろでその様子を眺めていたジョーさんがエディターを起動させてみてくれと言ったので、素直に従った。そして今度は最初とは違うファイルを開いてみる。けれどやはり開かなかった。
「ちょっといいか」
 ジョーさんはわたしからマウスを奪うと、自分でもファイルを開いてみようと、また別なファイルをクリックする。だけど結果は同じだった。
「エラーメッセージもでないんだな」
「そうなんですよね」
 ファイルが開けません、というようなエラーメッセージもなく、ただクリックしても何の反応もないのだ。
 それからジョーさんはしばらく席を借りると言って黙々と作業しだした。基本中の基本、接続の確認をしてから常駐ソフトを調べてみるなど、動作に関わりそうなことを逐一チェックする。わたしはというと、何か手伝えるようなことがあるわけでもなく、しかしわたしが今まで知らなかったこともやりだしたので、後学のためにその内容をメモに走り書きしたりしていた。
 それが一通り終わるも、やはり原因は特定できず。ジョーさんは苛ただしげに頭を振って、当面の結論を下した。
「パーツに問題があるとしても今は確認できないから後回しにするとして、あとはやっぱりちょっとあいつを殴ってみるくらいしかできることはないな」
「せめて叩くって言ってくれませんか?」
 昔の家電だって殴って直したわけではないと思う。
 わたしはぱたんとメモ帳を閉じると、できるだけ冷静にジョーさんに訂正を求めた。
 まあまあ、とかなんとか言いながら、二人で寝室に戻る。と、先行していた先輩は喉の奥を鳴らしたような低い声で唸った。わたしもカイトの変化に気づいて目を見張る。
「横向きになってるな」
「そうですね」
 仰向けに寝かせていたカイトは、いつのまにかその体勢を変え、横向きになっている。抱き枕でもあったらちょうど抱えていそうな姿だった。固く結ばれていた唇も軽く開いている。
「やっぱり俺にはただ寝ているようにしか見えないんだが」
 はい、わたしにもそうとしか見えません。
「ちょっと叩いてみます」
 やるせなさそうに天を仰ぐジョーさんに、わたしは申し訳なさ半分、恥ずかしさ半分で言いおいて、カイトの頭のそばに座った。
「カーイートー」
 べしべしべしべし。
 一度目よりもはっきりと強い力で、わたしはカイトをひっぱたく。
「……〜〜」
 もごもごと唇だけが動き、瞼がひくりとした。
「お、続けてみろよ」
 ジョーさんが興味深げにのぞき込んだ。
「おーきーなーさーいー!」
 ゆっさゆっさと肩をつかんで揺さぶると、カイトはまた仰向けになった。今度は首ががくんとのけぞる。ついでに弾みで口がぱかんと開いた。
「カイト、カイト、カイトーー!」
 ぺんぺんぺんぺんぺん。
 肩を押さえながら片頬を連打すると、ようやくうっすらと目が開いた。しかし焦点が定まることなく、それはすぐに閉じられる。
「ちょっとー!」
「う、ぁー……」
 あくびとしか言いようがない声をあげるカイトに、いい加減起きろと叫ぶ。すると彼はおっくうそうな動作で腕をあげてごしごしと目元をさすった。再び開かれた目はぼんやりとしていたものの、今度は閉じられることはなかった。
「……ますたー?」
 かすれた声で、カイトは言う。
「どこ……いってたんれすか?」
「どこって、おじいちゃんちよ」
 答えるも、カイトの耳には入っていないようで、彼は気だるげに肘をつきつつ身を起こした。それから眠気に曇った目をしてこちらに腕を伸ばす。
「だれもいなくて、さびしかったですよぅ。ますたー、あんなとこに俺をおかないでください」
 カイトが倒れかかってきたのでとっさに支えると、緩く腕が巻き付けられた。そのままカイトはのしかかってくる。体重が一気にかけられて、崩した正座状態から仰向けになりそうだった。
「ジョーさん、ちょっとこれ外してください」
 背骨を傷める、ととっさに判断したわたしは先輩に助けを求めた。ジョーさんは後ろからカイトの両肩をつかみ、身体を起こさせる。
「おい、カイト! 寝ぼけてるのか、お前!?」
 ジョーさんはベッドの側面にカイトをもたれかけさせると、結構な音を立てて頬を叩いた。さすがに痛いのだろう、カイトは逃げようとするかのように目をつぶり、両腕で顔をかばう。
 ジョーさんは叩くのをやめると、カイトの腕も力を失ったようにぱたりと下りた。
「まぁすたー。いたい〜」
 それからさして間もおかず、カイトは両手で自分の顔をこすった。再び現れた顔はひどいもの。ぼんやりしたままの目のふちには涙がにじんでいた。頬も泣き出す直前のように赤くなっているが、これはわたしやジョーさんが叩いたせいだろう。
 カイトが今どんな状態か?
 ありえるというのなら、もうこれ以外には考えられない。「ねぼけている」だ。
 ジョーさんと二人、なんとはなしに目を見交わし、取り越し苦労だったなと安堵半分拍子抜け半分でいると、ようやくカイトの目に光が戻ってきた。
「あ、マスター!」
 わたしの存在に気がついた奴は、ぱあぁっとでもいう擬音が聞こえそうなほどの満面の笑みになった。
「お久しぶりです、マスター。……?」
 そこまで言って彼は首をかしげた。
「なんだか……顔が痛い?」
 それはそうだろう。わたしも後半はムキになってしまったし、それでなくてもジョーさんは大柄な男性だ、加減をしていたところでわたしの平手よりずっと痛いだろう。
 カイトの話を早く聞きたいのはやまやまだけど、その前に保冷剤でも持ってくるか。PCに戻ればきっと直るとは思うけれど、さすがに頬が結構な赤みを帯びてきてしまったのだ。他に方法がみつからなかったとはいえ、心が痛む。
(お詫びに高いアイスでもおごろうかな……)
 希望があればアイス以外のものでもいいけど。でもすべてはカイトの話を聞いてから、だ。





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