アルバイトが終わった午後十一時過ぎ。電車の乗客は週末ということもあって酔客の割合が多い。そんなどことなく賑やかさのある車内で吊革につかまりながら、わたしは揺られていた。
 今日は一日中歩き回った。帰ったらゆっくりお風呂に入りたい。でも、その前にやっぱり話し合いになってしまうだろうか。荷物はトラブルがなければ間違いなく今日、届いているだろうし、差出人名と大きさを見れば中身は何かなんて推測がつくことだろう。カイトの方から話を振られたら、応じないでいることは難しい。……疲れているんだけどなー。でもしょうがないか。聞かれたら、そうと決めた理由とか今後のこととか、ちゃんと言わないと。
 と、いうことまで頭に浮かんだところで心臓がバクバクしだした。
(あー、やだやだ。柄じゃないのにー)
 こういうことで心を乱されるのに慣れていないので、余計に緊張しているようだ。口の中はカラカラ。身体も暑い。でもそれは暖房が効きすぎているからかもしれない。きっとそうだ。
(もうじき、駅に着く……)
 カイトはいつも通り、改札口の近くまで迎えに来ていることだろう。いくらなんでも、そこですぐに話し始めたりはしないと思うけれど……。
 また胸が締め付けられるような緊張に襲われて、わたしはバッグの持ち手を強く握った。この中には切り札が入っている。でも、それについてはカイトにはまだ言うつもりはない。

 迎えに来ていたカイトは、わたしを見つけると片手を上げた。ここにいるよという、いつもの合図。わたしはそれにはいはいと小さく頷いて答えるだけ。だけどカイトに近づくと、浮かべている笑顔がどことなく固いことに気づく。それを見ていられなくて、わたしはふいと視線をそらした。
 それからは並んで帰路につく。交わす言葉は少ない。いつもに比べて極端に少ないわけではないけれど、でも間違いなくわたしたちの間には張りつめた空気が流れていた。
「ただいまー」
 小次郎に対して帰宅の挨拶を告げる。小次郎はこの時間だといつも起きているとは限らないのだが、習慣になっているのだ。
 玄関に入ってすぐ目に入ったのは段ボールが二箱。一つは縦にも横にも大きいもので、もう一つはそれよりは小さい、けれど一抱えはあるほどのものだった。
「荷物はちゃんと届きましたよ。俺宛のものも一緒に」
「懸賞? 今度は何が来たの」
 鍵をかけながら言うカイトに振り返りもしないでわたしは聞いた。
「ハムとかソーセージの詰め合わせ三千円分です」
 あ、それは嬉しい。
「ハムって薄切りじゃなくて丸ごとのもあるの?」
 振り返って問うと、カイトははいと頷く。
「なら早めにハムステーキにして食べたい……。大きいハムって二人暮らしじゃまず買わないもんね」
 疲れているせいもあるかもしれないが、まかないを食べて特にお腹が減っているわけでもないのに、ハムと聞いた途端にお肉が食べたくなってきた。しかしこんな時間に食べるものでもないので、明日の夕飯か……。じゃない、明日もバイトだから明後日だ。
「月曜の夕飯はそれでヨロシク。あ、それからお茶入れてー。ミルクティー。甘さは控えめで」
 片手をひらりと上げると、カイトは一瞬目を見開き、次には真顔になってこくこくと頷いた。そんなカイトを放ってわたしはリビングに向かう。
 小次郎のケージをのぞくと、彼は隅の方で眠っていた。手を伸ばして毛並みをちょっとなでる。それからバッグを置きに寝室に入った。
(さーて、と)
 改まって話を始めるか、何気なく進めるか。どうせ考えたところでなるようにしかならないだろうけど、それでもできるだけ冷静にやりたいものだ。なんてことを考えながらクローゼットを開ける。バッグから今日買ったものを取り出し、普段は使わない旅行用のスーツケースの中に隠した。ここならさすがにカイトも勝手にいじらないだろう。
(これをカイトに見せるのは、わたしが本当に覚悟を決められた時、だな)
 ふっと息を吐き、クローゼットを閉じる。さあ、リビングに行こう。ミルクティーもできあがっている頃合いだ。
 リビングに戻ると、テーブルの上にはうっすらと湯気を上げているマグカップが置かれていた。ソファに座ってそれを取り上げ、一口。電車の中は暑かったけれど、外を歩いていた間に冷えてしまったので、温かいミルクティーが染みるほどおいしかった。
 カイトはテーブルを挟んだ向こう側に膝を折って座る。テーブルに対して身体が少し斜めになっているので、さほど改まった印象はなかった。
「あのぅ、マスター、荷物のことなんですけど」
 おずおずとカイトは切り出す。
「うん」
 カップに口をつけたままなので、声がくぐもってしまう。
「あれ、お布団ですよね。俺のだと思っていいんでしょうか」
 触ったら本当に固いのではないかと思うほど強ばった顔で彼は聞いた。
「うん」
 段ボールの大きい方は掛け布団と敷き布団のセットで、小さい方には枕やカバー類が入っているはず。
「マスターは、俺のことを手放す気はないと思っていいんですね?」
「そうだよ」
 答えた途端、カイトはふいっと顔を背けた。アンインストールが回避されたのだから、いつものように尻尾をぶんぶん振っているような幻影が見えそうなほど喜ぶのかと思ったのだが、そうでもないようだ。
「カイト?」
 呼びかけるも、カイトは答えない。ただ小さく肩が震えていた。それからほどなく、静かに鼻をすする音がする。喜びに震えていたのではなくて、泣いていたようだ。
 例によって例のごとく、ティッシュボックスとゴミ箱を持ってカイトの側に行く。はい、と箱を差し出すと、頬に涙の筋をつけたカイトは一枚引き抜き、瞬いた。透明な滴がするりと頬を伝い、シャツの胸に水の跡が散る。
 カイトはささっと顔をティッシュで拭うと、鼻をかんだ。
「よ、良かったー。荷物送ってきたの、布団屋さんだったから中身は布団だってわかったけど、もしかしたら俺用じゃなくて、マスターが自分のを新しくするために買ったのかと」
 安堵に満ちた泣き声でカイトは言う。
「なんで今そんな紛らわしいことをしないといけないのよ」
 そこまで意地悪くはないぞとわたしはむっとした。
「それくらい怒っているのかと。でも、月曜日はハムステーキってマスターが言ったから、俺はいてもいいんだって。でもきっと間違いないんだとは思っても、マスターの口からちゃんと聞かないうちは喜んじゃいけない、って……」
 感情が高ぶってきたのか、盛大にしゃくりあげながらカイトはぼろぼろと涙をこぼした。ティッシュを数枚引き抜き、音を立てて鼻をかむ。何度見ても格好悪い。でもよく考えてみればカイトが格好良いから――。
「好きな訳じゃないんだったな」
 我知らずこぼれた言葉に、カイトはぎょっとして顔を上げる。
「マ、マスター。マスタ、今……」
 一気に涙は引っ込んだようで、瞬時に青ざめた顔に焦りの色が浮かぶ。わたしは慌てて唇に手を当てた。
「あ、ごめん」
「す、好きな訳じゃないって。あ、いえ、それでもいいんです、俺は。でもそれだとマスターにとっては」
「あー、いやいや、そうじゃなくて」
 わたしは手を左右に振って否定する。焦りを通り越してショックの余りか身体をガタガタ震わせていたカイトは、凍り付いたような青い目でこちらを見つめた。
「カイトが号泣しているところなんて、今までにも何度も見てるから今更だけど、格好悪いなって。黙っていれば、というよりもそういう風に泣いたりしなければ誰もが認めるような美形なのにね。好みかどうかは別にしても」
 それからわたしはちょっと肩をすくめる。
「でもカイトって出てきた時にも号泣していたから今更だよね。別にカイトが格好良いからってだけで今まであんたと一緒にいたわけじゃないもん。格好良いから、好きなわけじゃないのよね」
 という思考回路があって最後の部分だけがうっかり口から漏れてしまったわけだ。
 通じたかな、とカイトの顔をのぞき込むと、彼は呆気にとられた様子で小さく口を開けていた。……通じていないのかな。
 わたしは補足を付け加えるべく話し続ける。
「VOCALOID KAITOは格好良いよね。パケ絵にしろファンアートにしろ。仕事は選べ的なイラストも結構あるけど、それでも基本的にKAITOは格好良いじゃない。それもあってわたしはKAITOのことを好きになった部分はあるよ。あ、これはあんたが出てくる前の話ね。でも、格好良いKAITOにだけ用があるなら、わたしはとっくにあんたのことをアンインストールしていたんじゃないかなと思うのよ。だってあんたって、手がかかりすぎるし。でもさ、そうじゃないんだよね。出会いの時点で格好良くないKAITOであったカイトのことを面倒に思いながらも一緒にやっていこうって思えたのは、なんだかんだ言っても、わたしもあんたが好きだからなのよね。まあつまり、これがわたしの結論ってところよ」
 やはりなるようにしかならなかったな、と思いながら今度は通じただろうかとカイトを見やる。彼はどう反応したらいいのか迷う風に視線を泳がせていた。
 それから、しばし。
「結局、マスターは俺のことが好きだから手放したくない、と」
「そうだって言ってるじゃない。……でも、問題は、やっぱりどれだけ考えてもカイトには男の人としてのトキメキは感じないってことなのよねー。仲のいい兄弟、というよりは弟なのよね」
 感じないものをいきなり感じるようにするなんて到底無理だろうし、つまりは結局、何も解決していないということなのだが。
「それでもいいです。今は。俺だってマスターのことは大好きだし、俺だけのマスターでいてほしいとは思ってますけど、それは捨てられたくないという思いからでている部分も大きいんです。だからトキメキというものは俺もまだちゃんとわかっていないみたいで」
 カイトはそれからはにかんだ笑みを浮かべる。
「でも、やっぱりそのうち俺はマスターのことを愛するようになると思うんです。そうとしか思えないんです。だからアンインストールをしないでくれてありがとうございます、マスター。俺にチャンスをくれて」
 直球の愛情表現にわたしは言葉を失った。相変わらずカイトは妙なところで妙な風に前向きだ。
「マスター、顔が赤いですよ。あっ、もしかして今俺のこと、意識しました!?」
 カイトは嬉しそうに破顔する。わたしは両手で顔を覆って、これ以上奴に見られないようにした。
「意識はしてないけど、そういうことをさらっと言えるってある意味才能だなって。わたしには無理だわ」
「マスターは意地っぱりなところが大いにありますからね」
 大いに、は余計だ。けど意地っ張りなのは確かなのでわたしは否定することはしなかった。
 わたしは腕を伸ばしてマグカップを取った。もう冷めかけていたそれを、気持ちを切り替えるために中身をを一気にあおる。少し息苦しくなったので、大きく息をした。それから、告げる。
「あのさ、カイト。わたしと付き合ってみる?」
 カイトは「はい?」とでも言いたげな顔で固まった。
「付き合うって言っても、すでに一緒に暮らして一年以上経っているわけだから今更感がすごいんだけどね。今とたいして変わらないような気もするんだけど、でももしかしたら気持ちが変わるかもしれないし……。少なくともこのままダラダラ一緒にいるよりは、わたしたちは付き合っているって意識を持っていた方が何らかの進展はするのかもしれないかなって」
 自分で考えたわけではなく、先輩や友人の入れ知恵ではあるけれど、このまま何もなかったように今まで通りの生活をするのも不毛だろうと、決意した。もちろんカイトが拒否したらそれまでだが、多分それはないと踏んでいる。……それにしてもこんな話を自分から振らなければいけないなんて、恥ずかしい。ああ、恥ずかしい。自分の顔が赤くなっているのがわかる。体感温度としてはほてっているというよりも燃えているかのようだ。
「どうかな?」
 それでも返答を迫ると、カイトは両手をぐっと握った。それから身を乗り出してわたしの手を取る。
「良いに決まっているじゃないですか! でも本当にそれで良いんですか、マスターは。良いっ言ったらその時点からマスターと俺は恋人同士なるんですよ。良いんですか!?」
 喜びと期待にあふれたキラキラした目でカイトは見つめる。見開かれた青い瞳に吸い込まれるようにわたしは頷いた。
 ああ、決まってしまった。これで何かが変わるのだ。気楽で楽しかっただけの同居生活は終わって、一応今からは同棲になるのだ。この先、どう変わるのだろう。わたしがカイトに本気になるのか、それとも結局は上手くいかなくて、カイトを自らの手で消滅させることになるのか。
「嬉しいです、マスター。嬉しいっ。明日でこの世界ともお別れかもと思っていたのに、お布団を用意してくれただけじゃなくてマスターと恋人同士になれるなんて……!」
 カイトの頬は今度は喜びの涙で濡れる。片手はまだわたしの手を離さないまま、彼は袖で涙を拭う。
「ありがとうございます、恋がなんなのかまだ理解できていない俺なのに選んでくれて。でもマスターもしたことがない感じがするんですけど、そうだとしても俺は気にしませんから!」
「一言余計なのよ、カイトは。確かにまだ誰とも付きあったことはないけど! 片思いくらいはしたことあるわよ」
 カイトに捕まれている手を引き抜き、べしっと頭の横を平手で打つ。不意打ちだったのでよけることもできないまま、カイトはあいたっと叫んだ。
「ちょ、マスター。え? その人とはどうなったんですか!?」
 叩かれたところをさすりながらも、カイトは泡を食ったように身を乗り出す。顔が近いよ、カイト。
「どうもこうもないよ。告白もしなかったし」
 それに片思いといっても年齢一桁だった子供の頃の話だ。それに中学以降は二次元方向にはまって、それどころじゃなかったし。
 まったく威張れたことではないことに気づき軽く落ち込むも、カイトは安心したのか緩んだ笑顔を浮かべた。
「それなら、これから二人で初めてを色々経験していきましょう。ふふ、楽しみだなぁ〜。まずは何からやりましょうか」
 ほわわんとあらぬ方を見上げてカイトは両手を組む。
 ……色々な初めて、か。うん、その事もちょっと考えたんだけど、すでに同居しているわたしたちにとっては付き合い始めの初々しさは全く期待できない。わたしはカイトにすっぴんを見られても平気だし、互いの下着の種類も把握済みだ。だからまだやっていないということは案外少ないだろう。そしてその数少ないものの一つにあるのが、
(スキンシップ……だよねぇ)
 今まではマスターとのお約束その一があったけれど、今日この時を持って解除した方がいいのだろうか。それはさすがに急ぎすぎ? 何かしてほしいと期待しているように思われるだろうか。照れがあるのが一番の理由だけど、さすがに自分から何かしてほしいと言うのは抵抗がある。そうでなくとも相手は精神年齢十歳以下のカイトだ。ここは実年齢的に年長者であるわたしが段階を踏むように導かないと。……でもどうやって? わからない。わたしだってこっち方面は経験値が足りないんだもの。
 ぐるぐると悩んでいるうちにカイトは何か思いついたのか楽しげにわたしを呼んだ。
「マスター、マスター。まずはデートをしましょう」
「デート?」
「そうです。俺たち、一緒に暮らしているから出かけるのも帰るのも一緒ですけど、別々に家を出てどこかで待ち合わせするんですよ。そういうの、やったことがないでしょう」
「あ、あー……。そうだね」
 なるほど、デートか。さすがカイト、精神年齢が低いだけある。発想がまだまだ健全だ。確かに、何かするならそっちが先だろう。
「わざわざ別々に家を出るのも意味ないような気がするけど。そうだね、せっかくだしやってみようか」
 承諾すると、カイトは心底嬉しそうに顔を輝かせた。
「じゃあ、いつにしますか、明日でいいですか」
「早っ! 明日なら行き先次第だけど?」
「あー……。買い物で何かあります? でも買い物だったら今までにも一緒に行ってましたから、今更ですかね」
「今日行ってきたからわたしは特にはないよ」
「俺もです。じゃあどこかに遊びにいくとかですね。どこか行きたいところはありますか?」
 問われたので考えるも、いきなりは浮かばない。が、思いついた。
「カイトが選んで」
「え?」
「だから、行き先はカイトが決めてよ。それで、わたしのことをエスコートしてよ」
 そう言うと上気していたカイトの顔に徐々に冷や汗が浮かんでくる。
「お、俺が……ですか。えええっと、でも」
「別にハズしても文句言わないから。というか、それくらいしてよ、最初のデートじゃない」
 行き先もなにもかもわたし任せじゃ、今までと何が違うのか。そう言うとカイトは眉間にしわを寄せて考え込んだ。それから決然として顔を上げる。
「わかりました。色々調べて考えてみます。でもあのー……」
「何?」
「予算の上限だけはマスターが決めてください」
 あ、そうなるか。二人で買い物とかなら生活費から出すことになるけど、遊びに行くなら余剰金からだしね。
 わたしは通帳に入っている額を思い出し、予算をカイトに伝える。カイトはよし、などと言ってはりきってパソコンを動かし出した。けれどすぐにその作業は止まる。
「マスター、すっかり忘れていました。お布団出してもいいですか? 今日から使うつもりで俺に留守番させていたんですよね」
 にこにこと玄関を指さす。そういえばその存在をすっかり忘れていた。時間が時間だし、わたしはお風呂入ったらもう寝よう。
「いいよ。あ、開けるのは小さい方からにして。そっちに布団の下に敷く除湿シートが入っているはずだから」
「除湿シート、ですか」
「うん、フローリングに直接布団だとカビるって言うから。すのこも考えたんだけど、それだとドア開け閉めする時にどうしたって開けられなくなるからね」
 カイトは首を傾げる。
「マスターはどこにどういう風に俺の寝る場所を作るつもりでいるんですか?」
「どこって、ベッドのすぐ下というか隣というか……。シングルサイズの布団だとどうしても幅がねー。だからセミシングルなんだ。それだってぎりぎり敷けるかどうかってところみたいだけど」
「ぎっちぎちになるんですね」
 カイトは笑う。
「ぎっちぎちだろうねー。だから、わたしが夜中にトイレに行く時なんかは、うっかりカイトのことを踏むかもしれない。気をつけるけど。あと、ドアを開ける時はカイトの足下側の布団を押し退けることになるから、やっぱりカイトのことを起こしちゃうかも」
 その前に毎日睡眠が取れるようになるかということについてはまだはっきりしていないのだが、それはおいおい判明するだろう。
「そういうことでしたか。俺は構いませんよ。でもドアの開閉がしづらいのはマスターには不便でしょうね。やっぱりドア、外したらいいんじゃないですか?」
「その外したドアをどこに置いておくのかとか、外すのはいいけどちゃんと元通りにできるのかとかがクリアできるのなら、外しても良い。でも外した後も外したままはヤだな。カーテンでもなんでもいいから、リビングと区切りたい」
 でないと着替えの時に困る。これに関しては今まで通り、カイトはリビングに行ってもらって、わたしは寝室でするのだ。
「わかりました。じゃあドアの件は調べておきます。あとは何か注意点はありますか?」
「んー、特にないよ。ということで話し合いは終了ってことでいいよね。いいならわたしはお風呂に入る」
「はい、準備はできていますよ。どうぞごゆっくり、マスター」
 にこっと笑うと、早速とばかりにカイトは段ボールの方へすっ飛んで行った。

 そして一晩が経った。
 カイトは、結局眠れなかったらしい。
「退屈だったので、デートプランでも練ろうかなとも思ったんですけどー、パソコンなんてしたら返って眠れなくなるかなと思って我慢したんですよ」
 朝のお味噌汁を作りながらカイトはボヤく。今朝は和風の献立のようだ。
「その判断は正しいと思うよ」
 しかし眠れないのはどうしようもないからなぁ。
「マスター、よく眠れる方法とかないですかね」
「昼間に運動しまくる。お酒を飲む。羊の数を数える」
「お酒はダメです。運動、ならできるなぁ。公園行って走ってみようかな。あと、羊ってなんですか?」
 お玉で鍋をかき混ぜながら、カイトはこっちを向いた。
「羊が一匹、羊が二匹って、数を数えていくとだんだん眠くなるという嘘くさい話があってね」
「マスターはそれで眠くなったことがあるんですか?」
「ううん。そもそも羊の数を数えるなんて気休めにもならないって思ってるから。それくらいなら素数でも数えてみた方がマシじゃないかしらね」
「じゃあ、役に立たないじゃないですか」
 呆れたように言いながら、カイトは隣のコンロのフライパンの火を止めた。

 さらにその次の日の朝――。
「マスター、俺、羊の数を数えてみました」
「運動は効果なかったの?」
 テーブルに朝食を並べながらわたしたちは会話をする。お弁当はすでにできあがっていて、痛まないように冷まし中だった。
「なかったようです。で、羊を千まで数えたんですが、俺は特に羊が好きということはないので途中で飽きてしまって。羊がたくさんいてもアイス用のミルクを出してくれるわけでもないですからね」
「なら牛の数でも数えれば……?」
 なぜ羊の数を数えるところからアイスに思考が飛躍したのか……。羊だけ思い浮かべればいいのに、牧場ごと想像したのか?
 カイトは牛もありですね、と言ったあと。
「それで俺、昨夜は羊を数えるのをやめた後にマスターの数を数えたんですよね」
「は?」
 わたしの数? なんでまたそんなことを……。意味がわからない。
 カイトはにこにこしながら続けた。
「結局昨夜も眠れませんでしたけど、マスターが六千人にまで増えたんですよ。右を見ても左を見てもマスターだらけでテンションあがっちゃってー。それに、それだけマスターがいたら一人一人のマスターが一年に一曲しか歌を教えてくれないにしても、俺は途切れることなく歌を覚えられますね!」
 すごいなぁ、うふふ、とカイトは夢見る瞳で空を見上げる。
 六千人のわたし……。想像するだに、なんかイヤだ。
「六千人のわたしには六千人のカイトがついているんじゃないの?」
 バカバカしい会話だと思いつつもそう返すも、カイトは頭を振る。
「やだなぁ、マスターのカイトは俺一人ですよ。何人いても、マスターは俺だけのマスターです」
 ……朝からなんでこんな意味不明な会話をしないといけないのだろう。これが一応とはいえ、付き合って二日目の男女がする内容か?
 でもカイトだからなぁと諦め半分の気持ちでスクランブルエッグを食べていると、カイトは朝にふさわしい朗らかな声で思いついたと言った。
「マスター、デートのことですけど、牧場に行きませんか? それでソフトクリームとジンギスカンを食べるんです」
 ソフトクリームはともかくジンギスカンって、もしや眠れぬ腹いせに羊に八つ当たりを……?
 しかしどんなプランでも文句は言わないと言った以上、あえて突っ込むまい。
「うん、いいよ……」
 気力を振り絞ってそう言うと、カイトはどこの牧場にしましょうかねぇ、などと言いながらPCで検索をしだした。
 なんというか、朝からどっと疲れた。これで良かったんだろうか、わたし。 





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