カイトの目が本気だ。
 わたしは気圧されて我知らず息を飲む。
 でも、アンインストール? なんだってこんな話になってしまったんだろう。わたしたちはただ実体化したボーカロイドにできることとできないことを検証していただけだったはずなのに。なんでカイトがいなくなるかどうかという話になってしまったのだ。
 カイトの想いを受け止めきれないわたしが悪いのだろうか。しかし自分の気持ちに嘘をつけないのはわたしだって同じだ。……ジョーさんが言っていたのはこういうことなのだろうか。だとしたら、わたしはカイトのことを何もわかっていなかったということになる。そうと知ってしまったこともショックだ。
「アンインストールしてって、本気なんだね?」
 あの大嫌いだったはずの言葉を何度も口にした以上、本気でないということはないだろうが、確認のため、わたしは尋ねた。カイトは重々しく頷き、それを肯定する。
「それで本当に後悔しない? 怖くないの?」
 念を押すと、カイトは感情をかみ殺すように唇を強く引き結び、うなだれた。そして――。
「怖いに決まっているじゃないですか!」
 叫ぶと同時に顔をあげる。その青い目にはぶわっと涙が浮かんでいた。
「ちょっ……」
 あまりの勢いにわたしは思わずびくっとしてしまった。さっきまでのカイトの迫力からして、切々とか淡々と訴えられるのかと思っていたのだが、今のカイトは先ほどまでの落ち着きが嘘のように顔が崩れている。
「ヤですよ、アンインストールなんて、うぐっ。あんなこと、二度と経験したくな……ひぐっ。お、俺はずっとずうっとマスターと一緒にいたくて……うぐっ。お、俺、小次郎さんと同じくらいにはマスターに大事にはされていると思ったから、ああいえばマスターも諦めてくれると思ってぇ……ひくっ」
 ボタボタと大粒の涙を流しながら、しゃくりあげるカイトを見て、わたしの中ですうっと何かが引いていくのを感じた。
(あー、良かった。これいつものカイトだわ。さっきまであんまり淡々と話していたから、中身が急激に成長でもしたのかと思った)
 もちろん「アから始まる怖い言葉」としか表現できなかったアンインストールという語をパニックを起こすことなく口にすることができるようになったのは成長といえるのだろう。喜ばしいことではある。けれどまるで別人になってしまったかのような変化をしたわけではないとわかって安心したのも事実だ。……だって、急すぎると、さすがに心がついていけなくなるだろうし。
 カイトの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。ひっくひっくとしゃっくりは止まらない。ここまで号泣するカイトも久しぶりだ。本当ならマスターを脅迫するなんて、と言って怒る場面なのだろうけれど、気が抜けてしまってそんなことを言う気もなくなってしまった。わたしはつと立ち上がり、コップに水を汲んでカイトに渡した。
「はい。これでも飲んで落ち着いて」
「ふ……。う……、あい」
 目尻と鼻を赤くしながらカイトはコップを受け取る。ついでにゴミ箱とティッシュを彼のすぐ近くに持っていった。わたしの動きを目で追っていたカイトは、コップを口元に持ってゆき、傾ける。
「ふ……。うぐほっ!」
「あーもう、あんたはー」
 ごふごふとカイトはむせる。しゃっくりがしょっちゅう出ていることはわかっているだろうに。ちゃんと自分でタイミングを見極めてよ。
 飛んだ飛沫をティッシュで拭い、わたしは遠い目になる。さっきまでの黒カイトはどこにいっちゃったんだろう。あんなタチの悪いカイトは御免なのだけど、間抜けなカイトよりはちょっとだけマシなような気がする。しっかりしていそうという意味で。……いや、耐性がついている分、やっぱり間抜けな方がマシなのかな。少なくとも間抜けなカイトならマスターのことを脅したりしないもんね。
 十五分ほどそのまま見守っていると、むせたりしゃくりあげたりがだんだん収まってきて、ようやく話ができる状態になった。とはいえわたしの提案というのは、今日はもうこの話をやめようということだったのだけれど。
 しかしカイトは頑固に頭を振る。
「今やめたとして、じゃあいつ次に話すんですか」
「いつって言われても……」
 話していて楽しい内容ではないことは確かだから、わたしの方からは再開しそうにないな。
「あのですね、マスターは本気にしていないかもしれませんけど、俺は本気なんです。怖いけど、本気なんです」
 すっかりシリアスの皮がはがれ落ちたのかと思っていたけれど、まだ続いていたようだ。なんて気が重い。あのままなし崩し的にさっきの流れはなかったことにしてしまいたかったのに。
「怖いのに、なんでそこまでするの。あんたにとっては分の悪い賭けじゃない」
 カイトはばつの悪い顔になり、肩を縮める。
「そんなに悪いですか? 俺は結構勝てる賭けだと思っていたんですけど……」
「どこからそんな自信が出てくるのよ……」
 カイトって意外と図々しい、と思いつつも、そういえば前からだったということを思い出した。
「だって、マスターは俺のことを少なくとも小次郎さんと同じくらいには好きだと思っているから……。マスターは小次郎さんを飼えないってことになっても、見捨てたりしないでしょう?」
 わたしは頭痛がする思いで額を押さえる。
「だからあんたのことも結局は見捨てないだろうと」
「はい」
 わたしは思い切りため息をついた。
「そりゃまあ、小次郎が飼えないとなってもどうにかして飼い続けられる方法を探すか、次の飼い主になってくれる人を捜すかするけどさぁ……。だからカイトのことも必要ないのにアンインストールしたりとか、したくないんだけどさぁ……」
「それは駄目ですよ、マスター」
 カイトが口を挟む。
「なんでよ」
「だって、マスターが俺をアンインストールしないのなら、俺、今晩からマスターのベッドに潜り込みますよ。それでもいいんですか?」
「は? 何言ってるの、あんた」
 泣きはらした顔でさらっと言うので、わたしは耳を疑った。
「だって確認実験をしないといけないじゃないですか。毎日眠れるかどうかは、まだわかりませんけど」
「そうだけど……。えー、この状況でまだ実験に拘るの?」
 複数の問題が絡まってわけわかんないことになっているのに暢気に実験なんてしたくないと、わたしはあからさまに不満の声をあげる。けれどカイトは引かなかった。
「だから、俺はもう一人の夜は嫌なんですってば。なのでこれからは夜は眠ることにします。毎日はできないとわかっても、できないとわかるまでは続けてみようと思います。でも寝る場所がないのでマスターのところを借ります」
「だーかーら、どうしてそういう結論になるの!」
 べしべしとわたしはテーブルを叩く。
 別に睡眠実験自体に反対する気はないが、なんでわたしのベッドを使うという結論になるんだ。
「だって、床は堅いし、ソファは狭いじゃないですか」
 至極当たり前そうな顔をしてカイトは言う。
「わたしのベッドだって、大人二人で使うには狭すぎるわ!」
「それは仕方がないですよね。俺、できるだけ端の方にいますから、我慢してください。狭いのは俺にとっても同じです」
「同じじゃないわよ、納得の度合いが違うじゃない」
「マスター、いい加減理解してくださいよ。このままじゃ話が進まないじゃないですか。アンインストールかベッドか、どっちかです。どっちかを選んでください」
「なんであんたが主導権握ってるのよ、マスターはわたしよ!」
 怒鳴りつけるとカイトは不服そうな目でわたしを見つめた。あーもう、腹が立つ。くそぅ、そんなにアンインストールしてほしいなら、望み通りそうしてやろうじゃないの。
 わたしは立ち上がると足音がしそうなほどの勢いでPCデスクに向かった。電源ボタンを押し、起動するのを腕組みをして待つ。ちらっと斜め後ろを見やると、カイトは神妙な顔をして正座していた。
 釈然としない、納得しない、イライラする。何よ、この不条理は。なんでこんなことになったの?
 待つこと、しばし。PCが起動した。
 お気に入りの壁紙が表示されたモニターを、わたしは立ったまま見下ろす。
「マスター?」
 動かないわたしに、カイトは小さな声で呼びかける。わたしは返事をしなかった。
「自分でするのが気が進まないなら、操作自体は俺がやってもいいですけど……」
 わたしが身じろがないのは葛藤しているとでも思ったのか、しばらくしてカイトがそう提案する。
 葛藤をしているといえばしている。けれどそれはおそらくカイトが想定していることとは違っているのだ。
 わたしはくるりと振り返り、カイトに向かって告げる。
「アンインストはやめる」
「じゃあ」
 はっとしたように立ち上がりかけたカイトに、わたしは続けた。
「でもカイトは今晩からPCに戻るの。戻るのがいやならリビングにいてもいいわ。とにかくわたしのベッドは使わせない」
「そんな!」
 抗議の声をあげるカイトに、わたしは強い調子で言う。
「なにがそんな、なのよ。勝手に無理難題押しつけて置いて。ふざけないでよ、こんな大事なこと、簡単に結論を出せるわけがないじゃない」
「……マスター?」
 いぶかしげにカイトは眉をひそめる。
「こんな風にせっつかれての行動なんて、アンインストールしてもしなくても、後悔するわよ。だからこの話はしきり直し! また今度! あんたの意志はよーくわかったから、わたしはわたしでちゃんと考えて結論出してあげるわよ。でも今日は無理。もうやめ。この話はやめ!」
 一気にまくしたてると、カイトはポカンと小さく口を開けた。それから気を取り直したように表情を引き締める。
「どうしてもまた今度というならそれでもいいですけど、今度って、いつのことですか?」
 誤魔化されませんよ、とその青い目は訴えている。
「……一週間後?」
 とっさに浮かんだ日付を告げる。明日や明後日では早すぎるし、一ヶ月後ではカイトの忍耐が持ちそうにない。
「次の日曜日が終わるまで、ということでいいですか?」
 人差し指を立てながら、カイトは念を押す。
「うん」
 この挑戦、受けた。とでも言うように、わたしは力強く頷いたのだった。

♪・♪・♪

 昨日は散々な日曜日だった……。
 カイト問題で振り回され、結局早すぎるほど早く起きすぎたというのに昼寝もできないままバイトに行く羽目になってしまったわたしは、帰るころには疲労でふらふらになってしまったのだ。昨夜は普通に眠ったけれど、まだ変な風に疲れが残っている気がする。
 午前中の授業は終わり、昼休みに入った。しかし授業中も上の空だったし、こうして友人たちと昼食を取っていてもろくに味もわからない。いや、食べているもの自体はいつものカイトが作ったお弁当だったんだけど。
 午後の最初の授業は空きコマだったので、わたしは友人たちと別れ、図書室へ行った。ここには自由に使えるPCがある。わたしは使用手続きを取って、後ろから人に見られにくい端の席に座った。
(やっぱ、無理があるよねー……)
 適当に検索語句を入れて目に付くページを順にクリックする。しかし出てくる情報はすでに知ったものばかり。それでも諦め悪くわたしの手はマウスを動かし続けた。ただし頭の中にあるのは別のことだったけれど。
(結局、カイトを取るか取らないかってことでしかないのよねー)
 何がきっかけで問題が起きるかわからないものだ。最初は寝具問題からだけど、よくよく思い返せば、カイトは最初に出てきた日から、夜に一人になるのを嫌がっていたんだっけ。わたしもたいがい実体化ボーカロイドに関して無知だったけれど、そのつけが一気に吹き出したような感じだ。
(けど、何も生きるか死ぬかみたいな脅迫をしてくることはないと思うのよね。カイトは良くも悪くも極端なところがあるから、それが今回は悪い方に出たんだろうけど)
 それにしても一週間以内に結論を出さなければいけないとは、自分で決めたこととはいえ気が重い。いや、結論だけを言うのであれば、わたしの心は決まっているようだ。認めたくはないけれど。
(カイトがいなくなるのは、やっぱりイヤだなぁ……)
 それだけははっきりしている。いつまで続く生活なのかはわからないとはいえ、カイトが出てきて約一年半なのだ。わたしの感覚では、終わりになるのは早すぎるとしか思えない。
(でも、じゃあ、何年なら十分かってことになるんだけどね……)
 三年だろうか、五年だろうか。しかしはっきりした不満がなければ、十年経ったとしてもまだ短いとしか思わないような気がする。
 もちろん、ちゃんとした彼氏がほしいという希望は相変わらずあるが、そう思うのも日常のふとした時であって、四六時中考えているわけではない。わたしがカイトに惚れ込んでしまったのであれば、それはそれで障害は多いだろうけれど、どうにかして彼と一緒にいられるようにしようと努力しただろう。しかし現状のわたしといえば、そこまでカイトにいれこんでいるわけではなく、かといっていなくなってもいいと言い切れるほどどうでもよい存在ではないのだ。
(これって、発展性のない恋人といつまでもずるずる関係を続けているのと同じようなものなのかな……)
 誰も傷つけず、自分も辛い思いをせずに解決しようというのが無理なのかもしれない。どこかで決着をつけないといけないというのなら、カイトがくれたこのきっかけを利用するのもありだろう。けれど、嫌だ――。頭では理解しているのに、心がついていけない。わたしはまだ、今のままでいたい。
(……そういえば、わたしがマスターなんだから、カイトにそう命じればいいだけのような話のような気がする。それでも嫌なことにはしっかり拒絶反応を示すカイトだから、この命令が嫌なら引きこもってPCから出てこなくなるだろうけど。出てこなくなるだけであってアンインストールをしたのとはまた違うんだし、寂しくなったら出てきそうだし)
 これぞなし崩し的解決方法かもしれない。
 と、いうことまで考えて、わたしはがっくりとうなだれた。
(可愛くないなー、わたし。結局、何も譲る気がないんじゃない)
 カイトのことは大事だと思いつつ、けれど何かあればカイトに我慢を強いている。わたしがマスターだから。わたしの方が立場が上だから。
 対等でありたいと思っていることに嘘はないのに、少しでも距離を近づけようとするカイトをはねつけているのだ。これじゃあ何も進むわけがない。
 もちろん、カイトにはまだ目を離せない危なっかしい部分はある。マスターであるわたしには彼を守り、導き、周囲に迷惑をかけないよう監督する責任があるだろう。そういう意味ではわたしはカイトの上に立ち続けなくてはいけない。
 でも、じゃあ、いつになったらもう大丈夫だと言えるのだろう。緩やかだけれど確実に人間世界になじんできているカイトは、いつになったら一人前になれる? 結局わたしの主観でしか判断しないということにしたら、カイトはいつまで経ってもわたしの下から抜け出せない。彼がどれほど努力をしても、わたしが認めないのであれば、対等の関係になんて、なれるはずもないのだ。
 そしてその原因についても察しはついている。少し前にゆーさんにぽろっとこぼしたことがあった。
(自分から折れるのは負けた気がして悔しいってことなんだよね)
 本当に、なんて可愛くないプライドの高さだ。自分の存在を賭けてまでわたしにぶつかってきたカイトの方がよほど立派な気がしてくる。
 なら、この役にも立たないプライドをどうにかしてみるしかない。難しいけれど、いつまでも同じ不満を抱え続けるのも不毛だ。変化する時というものがあるとしたら、今なのだと思う。変わることは怖い。変わろうとした結果、どう変わるかわからないから不安に思うのだ。けれどカイトはその恐怖と戦った。わたしだって、戦わないと。
 己の世界に浸っていたわたしはようやく顔をあげた。PCのモニタに表示されている時刻は、後三十分ほどで今の授業時間が終わると告げている。
 ふとわたしは思い立ち、さっきまでとはぜんぜん別の語句で検索を始める。
 時間はあっと言う間に過ぎ去り、次の授業まであとわずかとなった。まだ調べたりなくて、さぼってしまおうかという思いもかすめたけれど、授業が終わってからまたこようと席を立つ。
 タイムリミットは金曜日。カイトがいるので家のPCではこれらの調べものはしたくない。なにせカイトは無線接続できるから、わたしが何を調べているのかが丸わかりになってしまう。
 そう考えて、ふと気づく。
(これもやっぱり、意地を張っているってことなのかなぁ。いやでも、今の時点で手の内を見せるというのはどうかと思うし……。素直になるというのは別にプライバシーを全部公開するということでもないだろうし……)
 役に立たないだけの高いプライドと戦う決意をしたものの、やっぱりそれに振り回されているような気がする。本当にわたしは変われるのだろうか? 若干の疑問を抱きつつ、わたしは図書室を後にした。

 そして土曜日。
 今日と明日は学校が休みなので、いつもよりカイトと過ごす時間が多くなる日だ。
 この一週間近くのカイトは、できる限りいつも通り振る舞おうと努力している様子がある。けれどそれは装った自然さでしかないので、どうしてもぎくしゃくした部分があった。もっとも、それはわたしも同じなのだけれど。
 小次郎の散歩に行ったあと、朝食を食べながら、ちらっとカイトを見やる。たまたまスープカップを持ち上げるために伏せ目になっていた彼はわたしの視線には気がつかなかったようだ。
(よし、言うぞ。普通っぽく言うぞ!)
 わたしは腹の中で己を叱咤激励する。
 この二日を乗り切るべくわたしは四日間もの間、考えに考え抜いたのだ。平日は五日間ではないかと言うなかれ、一応四日目の木曜日で結論を出したのだ。かといって金曜日を気楽に過ごせたということはないのだが。
「カイトー、わたし、今日は買いたいものがあるから、ご飯食べたら準備出来次第出かけるね。留守番よろしく」
 カイトはえっという表情で顔を上げる。
「買い物ですか? なら俺も一緒に行きます」
 そういうと思った。しかしわたしはそんなことは顔には出さずにいつも通りを装って頭を振った。
「今日、通販で頼んだ荷物が届くんだ。できれば今日から使いたいものだし、カイトにはそれを受け取って置いてほしいんだよね」
「荷物ですか? でも当日中の再配達だってできるじゃないですか」
「それを頼める時間までに戻れればいいんだけどねー。どうなるかわからないし。あんまり見つからないようなら、ぎりぎりまで探してからバイト先に直行しようかと思ってるところなのよ」
「そんなに見つけにくそうなら、それも通販で探したらいいんじゃないですか。それとも通販だと送料とかで割高になりそうなものなんですか?」
「いや、別に高くはないというか、せいぜい定価あたりだけど、現物が見たいから」
「……そうですか。わかりました、お留守番しています」
 反論を次々と封じられたカイトは、諦めて承諾した。しゅんとしたその様子は耳と尻尾が垂れた犬のよう。わたしの決断次第では、明日で人間世界と別れることになるのだから、よけいに一緒に買い物に行きたかったのだろう。その気持ちに気がつかないわけはないのだから、わたしの胸も痛む。
 けれど、許してほしい。頑張って変わろうと思ったけれど、五日やそこらでは、人の性格はそうそう変わることなどできないのだ。
 食事が終わると腹ごなしもそこそこに、わたしは着替えてメイクをする。それからちょっと手を振ってじゃあ行ってきますと言い残してアパートを出た。
 それから目的のものがありそうな店を回り、探した。けれど目星をつけていた店はどこにも第一目的のものはなく、もっぱら第二目的のものしかなかった。時期的に厳しいとは思っていたけれど、専門店でもそれは変わらないらしい。第二目的のものは、第二とは言いつつも、どうしても第一の方が見つからなかった時に買おうと思っていたものだ。機能としては特に変わりはないようなのだが、なんというか気分的な問題で。気分の問題なのだからさっさと見つかった第二目的の方を買って帰ればいいだけのことなのだが、それでも第一目的を買った方が、なんというかわたしの誠意が余計に現れやすいような気がして仕方がないのだ。……多分、ただの自己満足なのだろうけれど。
 結局、候補の店を回っても、第一目的のものは中古品しか見つからなかったので、わたしは渋々第二目的のものを買い求めた。日を改めてまた探しに来ても良いのだけど、時間が経つと余計に見つけにくくなるものなので、第二目的のものすら買えなくなる前に確保できるものは確保してしまおう。通販というのももちろんありなのだけれど、どうも偽物も出回っているようなので、責任の所在をわかりやすくはっきりさせるためにもやはり実店舗の方がいい。
 時計を確認すると、もう三時過ぎ。荷物は確実に届いているだろう。明日する予定の話し合いを前倒しで今日にするつもりでいるけれど、これから帰ってからだとバイトに行かなければならない時間までの余裕が少ない。
 ……ということは、どっかで時間をつぶしてバイト先に直行だな。話は帰ってからだ。カイトに、やっぱり戻れそうにないって、メールしておこうっと。
 帰ってから話し合いをするなら、結局日付をまたいで日曜日までかかりそうだけど、ね。





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