「わかったって、何がですか?」
 話の繋がりが見えないのだろう。カイトは困惑していた。色の濃い青眉を寄せ、首は小さく傾げている。
「ああ、ごめん。唐突すぎたね」
 わたしは自嘲しながら頬をかいた。けれど突然に自分を襲った感情の波に耐えきれず、唇を噛み、俯く。
(あーもう、わたしって奴は!)
 わたしは内心で自分で自分をひっぱたく勢いで罵った。自分の器がこんなに小さいとは思わなかったというショックと、だけどこれが自分の本心なのだという自覚がせめぎあう。
「あの、マスター?」
 気遣うようにカイトがわたしの顔をのぞきこむ。いや、気遣っているのではなく、急に自分の世界に入ってしまったわたしについていけなくなっているだけだろう。
 わたしは顔を背けた。カイトの何でも聞きますよとでも言いたげな真っ直ぐな眼差しは、人の口を軽くする効果があるようなのだ。でも言いたくない。恥ずかしくて。自分がこだわっていた部分が、本当にこだわっていたところではなかったなんて。本当の理由は自己愛を守るためだったなんて――。
 俯いたままのわたしを、カイトは辛抱強くのぞき込んだままでいた。
「ちょっと待って。今考えをまとめているから」
 わたしは片手をちょっとだけ上げて、前髪の隙間からカイトをちらと見上げる。カイトはわたしが動いたからか、安堵の表情を浮かべて、小さな声ではいと返事をした。
 さて、どう話そう。
 待てと言えばカイトはずっと待っているだろうけど、こちらが精神的に受ける圧迫感もあるのでまた後日、というのはやめておこう。この話題を続けるのは、はっきり言ってきつい。自分の本心をさらけだすのはどういう状況であっても照れや恥ずかしさ、いたたまれなさがつきまとってしまうから。けれどいずれ話さないといけないのなら、勢いに乗っていけそうな今の方がまだ我慢できそうでもある。本当に、また今度ねなんてしようものなら、きっと二度とこの話題を口にすることはできなくなるだろう。それくらい、これから話すことは、本来なら口にしたくもないことなのだ。なんたって、自覚してしまった自分の本心はあまりにも傲慢で、それを打ち明けるなんて、最大の弱みを握らせるも同然だから。
 それに、とわたしは自己弁護をする。
 わたしは思い切りダメージを受けるけれど、カイトもきっとこれからする話を聞けば傷つくだろう。それがわかるだけに、なかなか口を開くことができなかった。言わないといけないのに。そうでないともう後にも先にも進めないということがわかっているのに。
 時計の長針が動く。角度で言えば六十度分は進んでしまったのに、わたしはまだ行動を起こせずにいた。荒れ狂っていた感情はすでに落ち着きを取り戻し、もう冷静に話ができそうではあるのに、冷静さを取り戻したせいで逆に身動きがとれなくなってしまったのだ。これでは話はまた後日でね、となにも変わりはしない。
 わたしはまた髪の隙間からカイトをちらっと見た。カイトはそれに反応してピクリとする。うん、もういいや。意地張ってないでカイトの助けを求めよう。黙っていることにさすがに疲れてきた……。
「カイト、あのね」
 うなだれたままわたしは口を開く。
「はい、なんですか、マスター」
 するとカイトは食いつきがちに答えてきた。さすがに待ての時間が長かったのだろう。
 わたしは次の言葉をいささか情けない気持ちで告げた。
「あの、ね……。ちょっとどう切り出したらいいのかわかんなくなっちゃって……。カイト、少し巻き戻してわたしが黙る前に言ったことをもう一度言ってくれない?」
「え? えーと……。はい」
 カイトは拍子抜けしたように目を見開いたけれど、何て言ったっけと口の中で呟き、姿勢を正して質問してくれた。 
「わかった、って言いましたよね。何がわかったんですか、マスター」
 柔らかな口調と少し緊張を含んだ目で、彼は言った。さあ、覚悟を決めろ、わたし!
 気合いの呼吸をし、お腹に力を込める。ずっと固まっていた唇がそれでようやく動き出した。
「カイトはわたしのことが、好きだよね」
「はい」
 疑問系にすらしなかった質問に、カイトもきっぱりと答える。
「彼氏になりたいって思っている」
「そうです」
 次の問いも、いっそ清清しいほどあっさりと、彼は肯定した。
「でもその「彼氏になりたい」っていうのは、本当に恋人関係になっていなくても、わたしがそうだと認めさえすればいいって感じなんだよね。カイトを見ていると」
 カイトはこれには口ごもる。自分の気持ちを探るように、わたしから目をそらしてしばし黙る。
「そう、ですね。恋人同士に見られているのに、実際にはそうでないから、余計に本当にそうなりたいと思うようになったんだと思います」
 答える声には先ほどまでの力強さが減っていた。別に困らせたいとか意地悪したいと思っていたわけではないので、そんなカイトにすまなく思う。けれど次に言わなければいけないのは、もっと意地悪だ。
「おまけに、カイトが感じている好きはマスターだから好きなんであって、恋愛感情ではないんだよね。なんでカイトのためにわたしが我慢してつきあわないといけないのよ」
 わかっていたことなのに、カイトがへこんだ表情を浮かべるのを見て、わたしは心が痛んだ。ああもう、こんな話はやめたいのに。ひたすら明るくて優しくて、でもお馬鹿で傷を抱えている。そんなカイトとは一緒にいられる間だけ楽しくやれたらそれで良かったのに。なのに物事はそんな単純にはいかなくて、わたしはにっちもさっちもいかなくなってしまった。これはそのもつれた糸を解くために必要なこと。乗り越えないといけないことなのだ。
「けど、それもありなんだよね。別に相思相愛でなくてもつき合う人はつき合うんだし。つき合っている間に気持ちが変わることは十分にありえるんだし。変わらないとわかったらその時点で別れるかどうか決めればいいんだし」
 はっとカイトは息を飲む。それから身を乗り出すようにして自己主張を始めた。
「そうですよ。それに俺はまだマスターが望むようなしっかりした頼りになるような男にはまだなれていませんけど、でも最初の頃よりはしっかりしてきたと思います。ね? あ、でも、俺の方からはマスターと別れる気はぜんぜん起きないと思いますよ!」
 その必死さに、わたしは苦笑した。
「うん。最初の頃よりはね。それと、別れることは今は考えなくていいの。それ以前の問題だから」
 肯定するとカイトは頬を紅潮させ、嬉しそうに笑う。それ以前の問題という言葉は耳が受け付けなかったようだ。調子の良い耳だ。
 しかしその笑みに心臓がえぐられたような痛みが走る。この先を言うのは本当に気が重い。でも言わないと。わたしが自覚した自分の本心を。
「けど、カイトがいくらしっかりしようが頼りがいにあふれようが、そんなのは問題じゃないんだ。わかったっていうのは、そのことなのよ」
 笑みにあふれていた顔から喜びが消え、代わりに理解不能と書かれているようなものに変わる。
「あの、言っている意味がわかりません」
 わたしはカイトの言葉にかぶせるように続きを告げた。
「カイトは他を見ようとしないじゃない。さっき自分で言ったでしょう。自分は元々「狭い」んだって。別にそれでも問題がなければそれでも構わないよ。カイトじゃなくても、ボーカロイドでなくても、「狭い」人は世の中にはそれなりにいるでしょうし。でも、わたしは、少なくともそういう男に言い寄られたくないのよ。マスターだからって理由で一番に大切にされても嬉しくないのよ。ありがたいとは思ってもね」
 カイトが思わずというように片手をあげかけた。けれどわたしは無視して先を続ける。
「それに一番に好かれたいとは言われても、前提としてマスターだからって理由があるじゃない。結局、わたしがマスターでなければ、カイトはわたしには見向きもしなかったってことでしょう? マスターだから、多少乱暴だろうが性格きつかろうが、許容しているってことでしょう?」
 多少、というところに自己弁護が混じっているが、つまりはどれだけ欠点があろうと、カイトはマスターであるというだけでその人に好かれたいと懸命になるのだろうと言いたいのだ。
「そんなのわたしはごめんよ。それじゃあ、わたしじゃなくてもいいってことじゃないの。マスターって書かれている案山子と何が違うの? わたしは、他の女の人のことも知った上で、それでもわたしのことが一番好きだと言ってほしいの。でないと、なんというか、なんというか……」
 ぎゅ、とわたしは拳を握った。
「女としてのプライドが満たされない、のよ!」
 言い切るとわたしはぷいと顔を背け、カイトから離れたところにクッションを抱えて床に座った。勢い余って座るときにドスンと結構な音がしてしまう。階下の人、すみません。どうかリビングで眠っていませんように。
「えーと、あの……」
 カイトはわたしにどうにかして話しかけようとしているのだけれど、言葉がでてこないようだった。そしてわたしは恥ずかしくて気まずくて、体育座りに座った足と身体の間に挟んだクッションに顔を埋める。
「あの、それはつまり、他の女に人と一度もデートしたことがないような俺では駄目だということでしょうか」
 おずおずとカイトは尋ねる。
「別にデートしたことがあるかどうかはどうでもいいよ。でも普通なら学校とかバイト先とか、塾とか趣味の関係とかで人間関係ってのができるじゃない。それでその時にこういう人っていいなぁとか、逆にこういう人って嫌だなぁとか感じるものじゃない。そういうことを経験した上でつき合いたいとかつき合いたくないとか、そういう惚れた腫れたの行動を起こすものじゃない。カイトは学校には行っていないからどうしても人間関係は築きにくいけど、それでもやりようはあると思うのよ。なのにそれを自分自身のためにするつもりはない、みたいな発言をされたものだから……」
 わたしは大きくため息をついた。
「それでようやくわかったんだよね、わたしが本当にこだわっていた部分というのがどこにあるか。もちろん彼氏にするならしっかりした頼りがいがある人の方がいいよ。でもそういう人でなくても他に惹かれる部分があれば好きになるでしょうよ。だからカイトが頼りがいがあるかどうかは、この際あんまり関係なかったんだよね。むしろしっかりしていようがどうしようが、カイトの意識がまずマスターありきでいる限りは、やっぱり彼氏にする気にはなれなかったと思う」
 カイトは情けなさそうに眉を下げる。
 すっごいわがままを言っているなという自覚はある。惚れられた方が勝ちなのだという先輩の言葉ももちろん理解できる。別にカイトとは結婚できるわけでもないのだから、一生の問題として考えるものでもなし。気楽につき合ってみればいいというのはありだ。わかっている。理解はできる。どうしても許容できないのは、きっとわたしの頭が固すぎるからなのだろう。でも、カイトがわたしに向けてくる優しさも笑顔も、別にわたし個人に向けられたものではないのだ。マスターだからそうしてくれるのだ。彼が色々努力をしようとするのは、わたしだからではなく、マスターに好かれたいがためなのだ。今までのように家族みたいな付き合いであればそれでもいいだろう。実際わたしはこれまでの生活を悔いてはいない。でも恋人という特別な関係を築く相手がわたし本人ではなく、ただの肩書を見ているだけなんて現実は受け入れたくない。そんなの、空しすぎる。
「それじゃあ俺はどうすればいいんですか。マスターのサークルの先輩とデートしてきたらいいんですか? 知らない人相手なんて、俺、ちょっと怖いです。気が進みません」
「いや、その話はもう流れているから。それに、気が乗らないのにデートするなんて相手に失礼よ」 
 せめてどういう人かわからないけれど、紹介されたので会ってみよう、くらいの気にはならないものだろうか。気が進まないのに会ったところで、カイトのことだ、態度に出てしまうだろう。それをフォローできる程度の要領の良さがあればまだマシだけれど、それもないんだもんなぁ。
 でも。
「わかっているのよ。カイトにそのあたりの機微を理解してほしいなんて、無茶もいいところだって。今あんたがこうして人の世界でやっていけているだけで十分なんだと思わないとって。それに……」
 わたしはふっと空を見上げる。
「あんたに本気になったら、別れる時が辛いじゃないの」
 今の同居人関係ですら、カイトがいなくなったら寂しくなるだろうなと思うだろうに、本格的にPCが壊れてカイトが二度と出現できなくなったりしたらそうとう落ち込むだろう。かといって、本気になっていようがなんだろうが、カイトの延命措置を取るのも、厳しい。なんたって、カイトは見かけ上の年は取らないのだ。わたしばかりが老けていくのも、それはそれでなんだか嫌だ。そしてわたしは人並みに社会に出て結婚はしたい。けれどカイトを抱えていては無理になるのは、先輩たちに言われるまでもなく想像がついていたことだ。
「俺はマスターが辛い思いをするにしても、俺のことを忘れないでいてくれるなら、その方がずっといいです」
 ぽつりとカイトが言う。元々静かな部屋だったが、その一言の後はさらに静けさを増したように思えた。
「ごめんなさい。でも、本心です。いつまでも一緒にいたいけれど、いつまでもなんてきっと無理だから、なら、せめて記憶の中だけにはずっとずっと残っていてほしいんです」
 小さい声で、肩を縮めながら、ゆっくりと彼は言った。
「あんたって、時々すごく利己的になるよね」
 自分を忘れてほしくないから、わたしがどれだけ傷ついてもいいと言うのか、このボーカロイドは。主人第一じゃなかったのか。
 けれど裏切られたという気分にはならず、このカイトならそう考えるのもありなのかもと思えた。なんだかんだ言って、人が良いだけの性格なんてしていないんだよね。
 カイトは悲しげにほほえむ。
「だからマスターは俺のことを本気で好きにならないのかもしれませんね。俺のこういうところを気づかないうちに気づいているとかで」
「そうかなぁ。そこまで勘が鋭いとは思えないけどね」
 カイトと二人、目を見交わす。同時にやるせない息がこぼれた。
 それからしばらくわたしたちは黙り込んだ。話し疲れ、張っていた気も緩み、どことなくだらけた雰囲気になる。けれど色々ぶちまけてしまった後なので、一定以上近づけないような、そんな感じだ。時計の針がチクチクと進む音が耳につく。小次郎は飽きて寝てしまい、カーテンの隙間からはかすかに光がこぼれてきた。朝が、近い。
 壁を隔てた向こうから、目覚ましのアラームが聞こえた。いつもより少し早くセットしていたそれを切り忘れていたことを思い出す。
「小次郎の散歩に行こうか。準備していて」
「はい」
 不思議なほど静かな気持ちでカイトにそう言うと、わたしは寝室に戻った。まだパジャマにカーディガンといった格好のわたしは、アラームを止めるついでに着替えをする。それから顔を洗い、コートを羽織って玄関に向かった。カイトは部屋着の上にフリースのパーカーと手袋といった出で立ちで小次郎と共にわたしのことを待っている。
 外へ出た。冬の早朝の風は肌がぴりぴりするほど冷たい。人気の少ない住宅街をわたしたちは無言で歩いた。
 公園では飼い主仲間と何人か会ったので、立ち止まって取り留めもない話をしたりもする。一時間ちょっとの散歩が終わって帰宅すると、カイトは朝食を作り始めた。
 いつも通り、二人そろって食べる。
 ろくに会話はないけれど、あれほど夜中にもめた割には部屋の空気はぎすぎすしていない、と思う。少なくともわたしに感じられる分には。
 簡単なコンソメスープとオムレツ、トマトとレタスのサラダにトーストという定番の朝食を食べ終わると、やはりカイトは黙々と片づけだした。
「マスター」
 食器を洗い終え、水の流れる音が途切れるのと入れ違いに、カイトは口を開いた。
「何、カイト」
 ぼけっとカイトを眺めていたわたしは、反射的に返事をした。タオルで手を拭ってから、カイトはリビングに来る。
 食事をする時のようにラグを敷いている床の上に座ると、彼はローテーブルに肘をついた。
「マスター、俺、散歩の間もご飯食べている時もずっと考えていたんですけど……。俺のこと、アンインストールしませんか?」
 彼はごく自然な声で淡々と告げた。
「……何、言ってるの?」
 カイトの提案が唐突すぎて、理解するのにしばしかかった。問い返すわたしの口調が半信半疑になったのは、無理ないことだろう。
 カイトは困ったような笑みを浮かべた。
「マスターが言ったことを俺なりに考えてみました。でも結果は、俺にはマスターの望みを叶えるのは無理だろうってことです。やっぱり俺はなによりも、誰よりも、マスターの方を見てしまうんですよ」
「それはしょうがないよ」
 努力もせずに無理とか言うな、と他の人になら言えるだろうけれど、カイトはボーカロイドだからどうしてもマスター第一主義を越えるのは厳しいのだろう。
「それに、俺にはマスターの言うことが納得できないです。あ、マスターが恋もろくにしたことがない男性は好みじゃないことは理解しましたし、別にそのことを否定するつもりはないです」
 恋もろくにしたことがないって……。身も蓋もないが、まあそういうことか。
 わたしが頷くと、カイトは先を続ける。
「ただ、俺としてはやっぱり俺はマスターが好きだとしか思えないし、それを否定されるのは辛いです」
 ふうっと肩を落としながら、カイトはため息をついた。
「ボーカロイドの本能としてマスターが好きなのはどうしようもないです。けど、前にも言ったとは思いますけど、マスターなら誰でも好きになるとは限らないんですよ」
「確かにね。でも嫌いになるほどの相手って、なかなか出ないよね。単にわたしはカイトの許容範囲内に入っているだけって思っているけど」
 このカイトの性格からして嫌いになるほどのマスターといったら、わたしのような時々暴言や暴力を振るうマスターよりも無視をするマスターのような気がするな。かなり寂しがりやだし。
 カイトは不本意そうに唇をとがらせた。
「そうですけど、それだけではないんですよ。でもマスターは俺の好きって言葉を本気にしてくれない。言い過ぎるから本気にされないんだってジョーさんは言ったけれど、言わなければそれこそ伝わらないじゃないですか」
「その辺は加減が難しいところね」
 そうか、ジョーさんとはそういう、ふつうの恋愛相談みたいなことをしたことがあるのか。好きの意味はともかくとして、アドバイスとしては妥当だなと妙に感心してしまったわたしは、腕組みをして何度も頷く。
「それでですね、考えたのは、マスターの好みを俺が変えることはできないということです。なのに俺が相変わらずマスターを好きだというのは困るでしょう? だって、マスターが俺を受け入れられないのを変えられないように、俺だってマスターが好きだというのは変えられないんですから」
「……そりゃあ、そんな簡単に割り切れるものでもないし。自分でもどうしようもない部分だものね」
「このままだとマスターに本当に恋人ができるかもという状況になっても、できなくなる。だって、そんなことになったら、間違いなく俺は邪魔してしまうだろうから」
 その点についてはわたしも懸念していたのだけど、実際に本人の口から聞かされるとやはりいい気はしない。
 黙ってむくれるわたしに、カイトはすみませんと謝る。
「でもそんなことをしたらマスターに嫌われてしまう。マスターには嫌われたくない。でもそうせずにはいられない。俺はどんどんマスターの重荷になってしまう。……そんな風にはなりたくありません」
「そんな風になりたいと思う人はそもそもいないと思うけどね」
 なぐさめの言葉としては、そんなことはないよ、が妥当だろうとは思うけれど、今必要なのは口先だけの慰めではないだろう。カイトも苦笑しながらそうですね、と言った。それから澄んだ目を向けて、決意のこもった声で言う。
「だから、まだ嫌われていない今、アンインストールをしてもらった方がいいのかもしれないと思いました。そうすればマスターはずっと俺のことを覚えていてくれるでしょうから。マスターのことが好きで好きで好きで、でも受け入れることができなかった俺のことを」
「本気だったわけだ、あの台詞」
 夜中の話し合いを思いだし、わたしは身震いをする。そりゃ、今だろうが十年後だろうが、カイトをアンインストールする日がきたら、わたしはその後カイトのことを忘れられなくなるだろう。いや、それはPCが壊れて他に回復する手段もない状況で、否応なしに別れるはめになった時だってきっと同じだ。カイトはそれがわかっていて、こんな脅迫めいたことを言うのだ。なんてタチの悪い。
「そういうことを言えば、わたしが折れると思ってるの? そこまで言うならしょうがない、あんたを彼氏と認めるって?」
 棘のある言葉にもカイトは動じなかった。
「それなら話は簡単だったんでしょうけど、マスターはそんな甘い人じゃないでしょう? でもマスターのことを思って身を引こうとしているというだけではないのは確かです」
「って、どういうこと?」
「まず、マスターは恋人がほしいと思っているんですから、そのためにはまず一人になる必要があります。それに今は寝具問題がありますから……。俺は本当に、夜に一人残されるのが嫌なんですよ。だから俺がいなくなればこの問題は一気に解決されます」
「寝具問題とわたしの彼氏の問題は同等じゃないと思うんだけど」
「でも、解決しないといけないことなら、解決してしまった方がいいでしょう。でも、それだけではありません。俺がいなくなることで、マスターの気持ちが変わるかもしれない、俺はそれに賭けたいんです」
 頭に疑問符が浮かぶ。顔に出たのだろう、カイトは得々と述べた。
「お話の定番ネタであるじゃないですか。近くにいすぎて大切な存在だって気づかなかったっていうのが。失って初めて、相手のことが好きだって気づくやつですよ。俺とマスターだって近すぎる関係なんですから、その俺がいなくなったらマスターはやっぱり本当は俺がいた方がいいって思うかもしれない。ありえないとは言えないでしょ、マスター。そしたらまたインストールしてくれれば、俺はあなたの前に現れます」
 わたしは開いた口がふさがらない気がした。実際には口を開けてはいないけれど。
「あんたって……ポジティブなんだかネガティブなんだかわかんないね」
「感想はそれだけですか」
 ぶう、と彼は頬を膨らませた。わたしは呆れかえってもっともらしく言い返す。
「そんな、一昔前のマンガやドラマじゃあるまいし、そうそうあんたの目論見通りにはいかないわよ」
「それならそれでいいです。マスターが俺を再インストールする気になれなかったとしても、俺をアンインストールしたということを後悔しないとは思えませんし。それならそれで、俺はマスターの記憶の中で一生存在し続けられます」
 落ち着いた口調で、笑みすら浮かべてカイトは告げた。わたしはそんなカイトを呆然と見つめる。アンインストールという言葉をまともに言えずにパニックを起こしていたあのカイトはどこへいってしまったのだろう。トラウマを乗り越えてくれたのは喜ばしいことだけれど、まさかこんな方向に突っ走ってしまうとは。
「そんな風に言われると、とっととあんたのことをアンインストしてさっさと彼氏作って、あんたのことは綺麗さっぱり忘れたくなるわ」
 カイトの執着の強さに空恐ろしいものを感じ、わたしは茶化して答える。
 カイトはくすくすと笑った。
「できることなら、どうぞ。なんだかんだ言っても、アンインストールされてしまえば、俺にはマスターが何をしているかなんてわかりませんから。でもマスターが忘れても、俺はディスクの中であなたのことをずっと考えていますよ」
 言葉を失うわたしに、カイトは有無をいわせない様子で告げた。
「さあ、アンインストールしてください、マスター」





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